ギリシア - みる会図書館


検索対象: 抽象絵画への招待
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1. 抽象絵画への招待

グノーシスというギリシア語は、霊知と訳されるが、神秘的直観によって超感覚的な神と 融合することが可能だとするギリシア末期の神秘宗教からきたこの観念は、たしかに現代 においても存在理由をもっているといってい もちろん、一人一人の画家の思 想は、それぞれの独自性をも 0 て、 深いところで互いに激しく対立す 黒るのは当然である。たとえば生の 一神秘についてしばしば語る岡本太 / ウ郎は、そのような神秘主義への没 ン レ鰤入を拒む。彼の唱えた「対極主 オ術 美義」の主張は、「合理」と「非合 世理」の矛盾する両極を深刻に引き マ ' 離し、引き離すことによって両極 間に生じる反発の緊迫感を、逆に

2. 抽象絵画への招待

岩波新書から 折々のうた正・続・第三・第四大岡信著黄Ⅷ 詩への架橋大岡信著黄 名画を見る眼正・続高階秀爾著 ギリシアの美術澤柳大五郎著 丁・マンフォード著 芸術と技 生田勉・山下泉訳 1

3. 抽象絵画への招待

2 形の彼方のフォルムへ 造形美術において「フォルム」の問題は根本的である。もちろん、あらゆる物質は形を もっている。どんなにはかない生命しかもたないものでも たとえば今私がすっている 煙草の煙でさえもーー形をもっている。ただそれは、揺れ動き、たちまち消減してしまう 形であるだけだ。しかし、美術において最重要の問題となる「フォルム」は、どうやら私 たちが日常ふれているこれらの「形」と、そのまま同じであるわけではなさそうである。 イギリスの美術史家サー・ケネス・クラークの『ザ・ヌード 』 ( 高階・佐々木訳、美術出 版社 ) という本は、フォルムの問題を考える上でも有益な示唆に富んだ本である。クラー クは、「裸体像」 nude と「はだか」 naked という二つの言葉の区別をすることからこの本 画 象をはじめている。「裸体像」は単に「はだか」の人間を写実的にかたどったものではなく、 抽 の「紀元前五世紀にギリシア人が発明した芸術形式」なのだという。はだかという「主題」 現一般、このどこにでも見出せる自然を、いかにして「理想的形態」に高めるか、その発展 の歴史が、すなわち「裸体像」の歴史だというのである。だから、ヌード ( 裸体像 ) の研究

4. 抽象絵画への招待

は決して二十世紀がはじめて発見した思想ではなかったが、十九世紀の一握りの先覚者が そのことに戦慄し、警告した事実が、二十世紀の二つの大戦争をはじめとする文明の蛮行、 愚行の数々を通して、世間一般の常識にまでなったということである。 すなわち二十世紀の人間観は、ギリシア以来、ルネッサンス以来の輝かしい理想と秩序 の相のもとにではなく、それらが崩壊したのちの、人間と彼をとりまく自然の混沌たる相 剋の相のもとに再建されねばならない時代を迎えた。第二次大戦後の美術が、混沌をたえ ず内に含んだ「不定形」の「フォルム」に、おのれ自身の根拠を見出そうとするにいたっ たのは、歴史の必然の展開であり、そこに画家たちの誠実も賭けられていたのである。彼 は、形の彼方のフォルムへ、冒険者としておもむかねばならないのだ。 3 「描く」行為の根本にかえる 『試練・悪魔祓い』 ( 一九四五 ) その他の詩集、『みじめな奇蹟』 ( 一九五六 ) に始まる麻薬 メスカリン服用実験の言葉とデッサンによる記録集などによって、詩と造形言語いずれの 領域でも、ある種の極限的な探究をくわだて、前人未踏の仕事の数々をのこした詩人・画

5. 抽象絵画への招待

像画の地位の相対的没落ということは、実際二十世紀美術の一大特徴であって、この事実 に疑いをはさむことはできそうもない。 一つには、十九世紀における写真の発明がもたら した衝撃ということがあろう。また、印象派以後の美術が、「画面」という平面の上で完 結する色彩と形態の秩序ある小字宙を追求してきたことが、必然的に絵画の制作を、画面 構造それ自体を目的とするきわめて方法的な探究に変えたため、さしも強力な主題であり 続けてきた人間像も、その方法的探究の素材の一つとして分解せざるを得なくなったとい 、つこともある。 色彩においてフォーヴィスムが、形態においてキュビスム ( 立体派 ) が、この動向を決定 的なものにし、抽象絵画がそれを完成したということができる。 け・れども、 いうまでもなく、二十世紀の人間観そのもののうちに生じた大変化こそ、こ 画 象ういう変化全体の背後にあるものだろう。そのことについてあらためて美学者や歴史家や の芸術家の証言をここに呼びだす必要もなかろう。人間というものは、かってギリシア人が 現もろもろの理想を託し得ると考えたような、そんな理想的存在ではなか「た、という事実 が、はっきりと広く承認され、二十世紀のペシミズムの根源を形づくったのである。それ

6. 抽象絵画への招待

は「理想的形態の研究」にほかならない。 この区別は、美術における「フォルム」と、私たちが日常触れるあらゆるものがそなえ ている「形」との区別に類推できる性質のものではないかと思う。 ギリシア人は人間の肉体の表現を通して、彼らのいだく根本的な理想を目に見えるもの にしようとした。「神的」なものは彼らにと「ては「数」の世界と密着していたから、人 体の理想的形態とは、幾何学的原理にもとづく構造でなければならず、そこから、秩序と 調和の理想的形態であるアポロン像が男性裸体像の典型として生まれた。また欲望の昇華 の結晶として、ヴィーナス像のはてしない洗練が生まれた。それらと並行して、キリスト 教的裸体像が、その禁欲的原理の介在のためかえってなまなましいダイナミズムを発揮し つったちあらわれた。こうして、ケネス・クラークの本では、「カ」、「悲劇性」、「陶酔」 と、つ 、裸体像の最もめざましい理想的諸性質が丹念に跡づけられ、近代以後の「自己目 的としての裸体像」にいたる。 私はここで、二十世紀が裸体像を含めて一般に人間像を描いた絵画の衰退の時代である という、すでに多くの人が指摘している事柄について思いを及ばさずにはいられない。肖

7. 抽象絵画への招待

画家トマス・べントンに師事したが、リべラ、オロス 0 、シケイロスらメキシコ画家の壁 画に強い感銘を受け、ついで「ゲルニカ」のピカソ、シルレアリストのミロ、 エルンストらに影響された。マッソンやエルンストの自動描法の方法は、「自由」の造形 的表現という点でとりわけ彼に強い刻印を残したように思われる。しかし、さらに注目す べきことは、一九四〇年代初期の彼の作品にしばしばあらわれる、インディアンのトーテ ムから影響された一種兇暴に原始的なイメージであり、また情欲や残忍性を強く暗示する、 ギリシア・ローマ神話から得たイメージであって、それらプリミティヴなイメージが、シ = ルレアリスムやビカソの影響と混合して、土俗的生命力にみちた不思議な画面を形づく 「ている。ゴーキーの場合同様、ここにもおそらく集団的な無意識記憶のイメージ化とい う問題がある。 ポロックは実際、ユングの深層心理学や、ダーシ ー・トンプスンの『生成と形態につい て』のような本から、彼なりの仕方で多くの示唆を受けているといわれる。 「孤立したアメリカ絵画という考えは、ちょうど、純粋にアメリカ的な数学とか物理学 を作るという考えがばかげているように、ばかげている」と、すでに一九四四年に彼はい

8. 抽象絵画への招待

ないだろう。 一般に、宗教的、精神的要素を強くも「た美術は、例外なしに単なる写実の限界を乗り こえて、肉眼に映る形態以上のものを表現しようとする。写実主義がギリシアあるいはル ネッサンスに代表される人間中心主義思想のあらわれであるのに対し、人間を超えた世界 を表現しようとする思想は、象徴主義、表現主義、抽象主義、超現実主義、抽象表現主義 等々の、単なる肉眼的視覚の領土を超えたところに最も重要な表現目的を想定する多様な 美術思潮とな。て、二十世紀美術の歴史を形づく「ている。 つまり、それらは、造形的表現であると同時に、画家の世界観の表現でもあるのであ。 て、現代美術を見る上で、このことは忘れてはならない重要な点である。美術の歴史は、 その意味では、単に自然界や人間世界を忠実に映す作業の歴史ではなく、眼に見える世界 について、視覚によ「て、また視覚を越えた全体的な知覚、さらには知性の不可欠な参加 によって問われた、永続的な問いの歴史であるといってよい セザンヌが「自然を円筒、球、円錐によ「て取扱う」とい 0 たことが、ピカソやプラッ キュビスム クらの立体派を予言したことは有名だが、この言葉が二十世紀美術に対しても「た象徴的

9. 抽象絵画への招待

としてきたスコラ哲学に代って、近代科学の合理精神を根底にもっ世界観が形づくられた。 主体と客体の関係が、文字通りコペルニクス的転回をとげた。宗教的、神秘的な聖なる序 列に代って、人間の「主観」が、世界の体系的構成を基礎づけるものとして、世界観の中 心に位置するにいたった。この主観は「自我」としてとらえられた。この転回が自由通商 主義、市民文化の発展という歴史の新展開にともなって生じたものであることはいうまで もない。近代のヒュ ーマニズムの基底がここに形づくられた。 戦前から戦後にかけて先駆的な美学者としてすぐれた仕事を残しながら、惜しくも早逝 した中井正一は、このような近代的世界観の転回にともなう芸術観の変革について、「現 代における美の諸性格」で次のように書いたことがある。 「芸術観の新旧両様性をここに大きくわけるとするならば、ギリシャにおいては芸術 とは技術 ( Technö) でありまた模倣 ( M 一 mésis ) であった。それに対して近代の芸術観は 技術の概念に対しては天才の概念を、模倣の概念に対しては創造の概念を、さらに真 と善との概念のほかにその上に君臨する美の概念をもってしたのである。 ( 中略 ) かか る芸術観の先駆者としては私たちはまずカントをニイチェをオスカー ・ワイルドをシ