サム・フランシス 1959 ( 出光美術館 ) ホワイト・ライン
タピエスの、ながい間僧服と軍服の支配下にきびしい生活を営んできたスペインの心のよ うな謎めいた絵画。 べニヤ板の上を木目にさからって進む電気ドリルの痕跡が、あたかも乾燥地帯の古代遺 跡を現出するかのような斎藤義重の絵画。 それらは、軽々しく精神的 蔵なものを再現しようとしない 個だけ一層、複合的な精神の重 味を感じさせる。 話題をもう一度画面のサイ 第 ~ 品ズの巨大化の間題にもどすな ら、アクション・ペインティ 4 を〕義ングのいわば第二世代として 、を ( 斎登場したサム・フランシスに とっても、いわゆる色面派の
/ 大画面の彼方へ 私の親しい友人であるアメリカ人画家サム・フランシスは、ある日私と話しながら、次 のようにいった。私への問いかけの形をとってはいるが、実際には彼自身の思索のひとき れを私にぶつけて、こちらの反応をたしかめてみるといった程度のものだったろう。 「色彩は絶対のフォルムだといえないか ? 」 「絶対」のフォルムとは、絶対的なフォルムという意味ではない。絶対という不可知の ものが自己自身をあらわすそのフォルムが、すなわち色彩じゃないのか、という意味であ る。「フォルム ( 形式 ) 」と「色彩」とは、互いに範疇を異にする概念なので、フォルムを 画色彩によって、あるいは色彩をフォルムによって語ることは、ひとつの矛盾をおかすこと 象である。しかし、絶対という形容不可能なものを表現するには、矛盾命題をのべるほかな サム・フランシスのこの言葉は、第一義的に色彩で考えるこの画家の思考の奥にひそ 代 現む掲望をうかがわせるものとして、私には興味深か 0 た。画家はしばしば形而上学的な詩 人であり得る。わけても、白く地塗りした、まだ一筆もおろしてない大きなキャンバスを
これはばくにとっても新しい発見だった。 これらは「駒井哲郎の世界」と題するその時の文章の一部だが、私は駒井が初期の夢幻 的で抒情的な作品から、フランス留学を経て帰国した後の、抒情性などどこかへけし飛ん でしまったような、骨格探究の意志あらわな作品への転位のうちに、びとり駒井だけのも のではない切実な問題を見出すような気がしたのだった。つまり、私自身同じ問題をつき つけられているという自覚があった。 そのようにして、私は絵画作品を見るということが、結局のところ画家の全人的にかか えこんでいる「いかに生きるか」という問題、そしてそれに必然的に関わっている彼の世 界認識の独特な形式や性質を見ることと別物ではないということを、少しずつ体験的に了 解しはじめたように思う。 年長のサム・フランシスにせよ菅井汲にせよ、また加納光於、中西夏之、字佐美圭司と いったほば同世代ないし私よりかなり若い年代の画家にせよ、私がそのころから親しく知 ることになった画家たちは、それぞれきわめて個性的な自己自身の世界を守っていて、容 182
ような作品がいちじるしく増加したということである。 これは当然、画面というものを、いわば始まりも終わりもない無窮動のエネルギーの具 現したものと考える見方に人を導く。ヴォルスの小さな画面の中にも、ポロックやサム・ フランシスやリオペルのいわゆるオール・オーヴァーの画面ーーーすなわち、特定、単一の 焦点を否定し、あらゆる細部が平等な資格において多重焦点を形成するというべき画面 にも、人はそのような意味での共通の「自然画」を見ることができるだろう。「自然」 はここではもはや外界にあるものとだけ考えることを許さない。それは、「所産」として の自然のみならず、「能産」としての自然へと、私たちの目を導かずにはおかないだろう。 能産的自然 natura naturans は、自然界の根源的な「生成力」「形成力」であり、その力は、 画まさに「人間」のうちにも流れているのである。それゆえ、現代の絵画は、人間自身の生 象成力、形成力の自己証明であるような絵画をめざす画家たち、形の彼方のフォルムを追求 のする画家たちを、必然的に生むことになった。 現産出力それ自体としての、動的な自然の本質に迫ろうとする以上、いわゆる具象的な形 態をも包み込むような拡がりをもって、それらの絵画作品は、つねに「想像的」なので 101
の中で、抽象絵画は観る者を包みこむほどの巨大さによって、壁画の伝統をあざやかに復 活させたという一面があった。実際、多くの絵が、銀行、学校、各種企画その他の公共の 建物を飾ったのである。そこには、すでに第二次大戦以前にメキシコでリべラ、シケイロ ス、オロスコらを中心に勃興した、革命思想の裏づけをもつ大壁画運動や、また画家たち の生計援助のため一九三五年に創設され、多くの画家が参加した、軍関係その他の公共施 設を壁画で飾る「連邦美術計画」運動からのごく自然な発展的影響もあったはずである。 いずれにしてもこれは、きわめてアメリカ的な現象だったといっていいのである。 サム・フランシスと話していたときのことだ。「作品」すなわちペインティングと、「デ ッサン」すなわちドローイングの区別をどう考えるかと私がたずねたのに対して、彼は次 画のように答えた。 象 「第一には空間のつかみ方が全然ちがうということがあるね。しかし、何よりもまず、 抽 の意図がまったくちがう。というより、ドローイングはすなわち意図にほかならないの 現 に対し、ペインティングには意図がないのだ。ドローイングするときには、あらかじ め意図したことを実現するという意識がつねに目覚めている。だから、多かれ少なか
サム・フランシスとともに日本に帰国し、熱気にみちたこの運動の一端を伝えた。それが いわば導火線となって、志水の以後の注目すべき活動も始まったのだった。フォ 1 トリエ 夫妻だけでなく、文芸・美術批評家としてフランス文壇の大御所的な存在だったジャン・ ポーランや、のちにノーベル賞を受けることになるイタリア詩人ジ = ゼッペ・ウンガレッ ティなども同時にやってきたこの時のフォ 1 トリ 工展は、日本の戦後美術史における画期 的な事件となったほどのもので、この展覧会によってアンフォルメル絵画なるものへの熱 狂的傾倒が若い画家たちの間に生じたのだった。 私は志水楠男に協力を依頼されて、この時彼が作った、当時としては破天荒に豪華なカ タログのために、アンドレ・マルロ 1 およびポ 1 ランのフォ 1 トリ 工論、エリュアールの フォートリエについての詩およびフォ 1 トリエ自身のエッセーを訳した。それだけでなく、 フォートリ 工の作品についてのエッセーを美術雑誌に書くこともしたのだった。そういう ことが少しも風変りではないのが当時の環境だったと、少なくとも私は思っている。詩人 で美術批評に手を染める人々も少なくなかったのである。 駒井哲郎が私に文章を書くように言ってきたのは、そういう 一種の沸騰期のさなかの出 178
第二世代として登場したモ ) ルイスにとっても、「絵にまきこま れる」という不思議に昂揚した全感 個 覚的体験が、絵画制作の重要な原点 になっていることはたしかであろう。 一「作品は人を疑惑の状態におとしい れねばならない」とサム・フランシ フ レ スはかっ . て書いた。この「疑惑の状 ア 態」は、肉体的な五官の問題である ス レと同時に、形而上的な問題であって、 マザーウエルがいった「黙考」の状 態とも相通じるものであろう。こうして彼らの大画面は、生成、流動、消滅する元素的か っ宇宙的な実在との交感をわれわれに伝えようとするものになる。 ルイスの下塗りしないキャンバスに出現する「アレフ」 ( へプライ語で全一なるもの ) の 0
前にした抽象画家は、じつにさまざまな思念を反芻するはずである。 「私には、白はすべての色彩をあらわしているから、直接性を失い、時間の外に位置し ているのに対して、たとえば青や赤は、瞬間としか見えない」と、あるときサム・フラン シスは、つこ 0 彼を。 ( リで有名にしたのは〈白〉の連作である。灰色の = = アンスをも「た白が、雲のよ うにふくれあがり、流れ、波うち、くずれて大画面を埋めている。その白は、生成と死滅 の源泉そのもののイメージであるかのように画面を埋めている。そういうところから出発 した彼の画面に、やがて青、赤、黄、オレンジ、黒などの豊饒な色彩があらわれ出るが、 その画面の背景には、今引いたような言葉にみられる画家の形而上学があるのである。 批評家 ( ロルド・ローゼンバーグが名づけ、以来その呼び名が一般化している「アクシ ン・ペインティング」とよばれるアメリカ戦後絵画の一群にあ「ては、キャンバスはい わばあの白鯨を追うイシ = メールの前に拡が 0 ていた大洋のようなものに変貌する。画家 はその中で、大都会の騒音にみちた迷路、生物の胎生的な世界、おびただしい星座の移動、 季節の実りと枯渇、 ( イウ = ーの疾走、大洋の光る潮、芳香その他、多彩に存在する豊か
るべギー・グッゲン ( イムだ「た。彼女は一九四二年、フレデリック・キースラ 1 の設計 による曲面体の壁をもった斬新奇抜な画廊「今世紀の芸術」を開き、ヨ 1 ロッ 。ハの主とし てシ = ルレアリスム系の作家を次々に紹介すると同時に、ポロック、マザーウ = ル、ヾノ ョ 1 ン、ロスコ、ゴッ トリープらを続々と送り出した。彼女のあとを追「て、べティ・。、 ソンズ、サミュエル・クーツ、チャ 1 ルズ・イーガン、 シドニ ・ジャニスなどの画商 が、スティル、デ・クーニング、スタモス、フランツ・クラインらを紹介する。 一方ローゼンバ 1 グ、グリンヾ ーグのような批評家が強力な援護射撃を行ない、新しい 絵画の理論的土台固めをした。画家たちの集まるクラブでは、絵画上の議論だけでなく、 ジョン・ケイジの音楽やモダン・ ジャズ、バルトーク、ウ = ーベルンなどの作品の演奏が 行なわれたり、人形芝居やデザインの講義が行なわれたりした。グリニッジ・ヴィレッジ 代一帯が、活気に満ちた新しいポヘミアになった感があった。 し J マザ 1 ウエルとローゼンヾ ーグによって一九四七年に創刊された雑誌の表題は、「ポシ 術 ビリティ 1 ズ」 ( もろもろの可能性 ) という意欲的なものであり、その創刊号のアンケート で、ポロックは有名な言葉を記した。 149