岩の大移動、透明な陥し穴、 リリカルな色彩の歌を感じとり得るような画面。そこでは観 る者自身、絵の中にまきこまれ、一本の線、多色の色彩の交響に共鳴し、律動することを 誘われているのである。何ひとっ特定の対象や現象を再現せず、しかもあらゆる細部にお いて、その絵以外の何ものでもない絵。 そのためにこの種の絵は必然的に大画面を指向し、そのためにまた、この種の絵は、観 る私たちの中に、包みこまれるような不思議に触覚的な感覚をよびさます。 これを画家自身の信条にもう一度戻していえば、 「私は観る人に何も要求しない。 一つの絵を『提出する』だけだ。観る人はこの絵の 自由にして必要な解釈者なのだ。観る人のここでの姿勢は、世界における彼の全般的 な態度に『依存』し、かっ『呼応』する。絵は単に画家を丸ごとまきこんでしまうだ けでなく、観る者をもまきこむ。しかも最大限に激しくまきこんでしまう。」 ポロックがいってもおかしくない言葉である。しかしこれは、彼とは随分作風の違うフ ランスの抽象画家、ビエール・スーラージ = がある時語った言葉なのである。
/ はじめに 絵を見ることが好きな人はたくさんいる。というよりも、すべての人は絵を見ることが 好きだ、といった方が一層正しいだろう。その絵は決して、美術館にかかっている名画と か画集に掲載されている現代や古代の絵に限らない。むしろ、それらの絵は地上にありと あらゆる絵の総量からすれば、何十万分の一、何百万分の一にすぎない。 崩れ落ちた壁の残骸の上にさえ、私たちは子供や大人が釘や棒切れで引っ掻いた絵や文 字の痕跡を見出す。ひと夏、地上のあらゆる海岸の湿った砂浜で描かれては消えていく絵 は、いったいどれほどの数にのばるだろうか。ポンペイ最後の日に、市民たちが突如襲い かかってきた猛烈な噴火後の熱砂と砂礫に刻一刻うもれてゆき、一日もたたないあいだに すべての人の生活が、その時そのままの状態で地下に没してしまったとき、彼らの家の壁 にかかっていたモザイク画や、男性の秘所をかたどって作ったユーモラスな形態の蠍燭た てや、飾りのついた寝台やは、そのまま遺跡としてかたまってしまったが、今日、発掘さ
ルとい。た大型サイズの絵を描く作家は、今日の抽象絵画の世界では少しも珍しくなくな 0 た。それはとりわけ、アメリカでアクシン・ペインティングが全盛をきわめた一九五 〇年代以降の現象であって、ヨーロッヾ ノの抽象絵画との、全体としての違いのびとつはそ こにあるといっても、 いだろう。 元来、十九世紀前半のロマン派絵画までのヨーロツ。 ( 絵画にあ。ては、画家に対する壁 画制作の要求が多か 0 たこともあ 0 て、サイズの巨大な絵は決して珍しくなか 0 たのだ。 絵画が新興プルジ = アの愛好するところとなり、絵も商品としての性格を強めるとともに、 その主題も歴史画や神話から市民生活情景や戸外の自然、室内静物などに転じた結果、画 面はごく自然な成りゆきで小さくな「てい 0 た。肖像画という主題をと 0 てみても、王家 の人々や貴族の一家の不動でおごそかな肖像のかわりに、プルジアたちの生活の中での ある瞬間の姿態さえもり 0 ばに肖像画になりうることを、印象派以後の絵は証明した。こ こでも画面は小さなものになることがむしろ自然の流れだった。 アメリカのアクション・ペインティングの絵がしばしば巨大なサイズに描かれるのは、 そういう意味からすると、かなり特殊にアメリカ的な現象だ「たといえる。アメリカ社会
もめったにしない。むしろ張ってないキャンバスを、固い壁や床の上に鋲でとめてお く方が好きだ。私は固い表面の抵抗を必要とする。床の上では私はずっと楽な気持に なれる。絵にずっと近づき、一層その一部分になったような気持になる。というのも、 こうすればそのまわりを歩きまわり、四方から仕事することができ、文字通り絵の中 にいることができるからだ。ここには西部のインディアンの砂絵の方法に通じるもの がある。 ・私は自分の絵の中にいるとき、自分が何をしているのか知らない。ある 種の〈近づきになる〉時期をすごしてからはじめて、自分がどんな状態にいたかを知る。 私は変更したり、イメージを破壊したりするのを少しも恐れない。 というのも、絵は それ自身の生命をもっているからだ。 : こ ( 「ポシビリティーズ 1 」一九四七ー四 私はポロックが床の上や壁の上にじかにキャンバスを置いて描く方法をとったことの意 味について考える。 ( 西洋近代画家にとってはイーゼルはなるほど重要なものだったにち がいないのだが、たとえば日本の画家たちにとっては、床の上に紙をじかに拡げて描く方 法は、何ら珍しくはなかったはずである。 )
す大きな背後の力が、王侯貴族、大地主とい 0 た中世・近世的保護者の手から、近代の新 興プルジアジーの手に移「てのちのことではなかろうか。レオナルドやラファェロの時 トロンに 代はいわずもがな、たとえばゴヤでもいい、彼らの絵が号いくらという計算で。 ( 買われたというようなことは、あり得ないことだった。 なぜかといえば、これらの画家の。 ハトロンたちは、彼らの絵を買ったのではなくて、 わば身柄一切を買い切。ていたからである。そのような状態にあ「ては、彼らの絵は一た ん。 ( トロンの手に渡れば、考えられる限りの将来、そのままその。 ( トロンの手元におかれ ると信じられていたはずである。絵画は、ヾ ノトロンたちの住んでいた城館同様に移転のき かないもの、つまり備え付けの家具調度品だ 0 たのだ。そんなものを、号いくらというよ うなみみ「ちい買い方で買い上げるわけがない。絵が号いくらで売買されるようになった のは、画家が恒常的。 ( トロンを失い、相対的にいえば、独立してから後のことであり、 トロンについていえば、フランス大革命以後に登場する、多かれ少なかれ移り気で、虚飾 屋で、鑑識眼においても伝統にもとづく自信を持たないプルジアジーが、お大名たちを 歴史の背景に追いやってから後のことであろう。 ・ハトロン 126
いわば様式としての抽象の中の一群について与えられた符牒があり、幾何学抽象とか構成 抽象とかよばれる別の抽象様式と区別されて用いられる。今から私がふれようとする作品 のかなりの部分は、そういう呼び名でよばれることが多いものである。これもまた、歴史 的な事実であって、大きな不都合が生じないかぎり、こういう呼び名にもそれなりの有効 な分類的美徳もあるとしなければならない。しかし、そういう 分類はいずれにせよ便宜的 なものとしての制約を負っていることも事実である。 抽象という、人間精神の根源的な能力は、一方では現実世界を見る眼を顕微鏡的にし、 他方では望遠鏡的にする。描くという最も単純で普遍的な行為が、画家自身によって微分 され、積分される。それは当然、空間と彼自身とのかかわり方を変えるだろう。人間と自 然との接触は、一方では地、水、火、風、空の元素的世界へ画家を導き、他方では都市の あらゆる塵埃、疾病、運動、歓楽、密集と孤独の世界へ彼を駆りたてるだろう。私たちは 一枚の絵を見る時、絵の中にこのような諸要素をじかにそのまま見ることはできなくても、 絵がこれらのものの中に包まれ、また絵の中にそれらを包みこんでいることを考えておく 必要がある。
的疲労をいやす坐り心地のいいひじかけ椅子のようなものでありうる芸術である。」 しかし、マチスのこの言葉から、かれの作品が単に甘美な情緒をかもしだすことを目的 として描かれていたかのように理解するなら、それはま「たく誤っている。なぜなら、マ チスは、他のあらゆる真に近代的な芸術家たちと同様、絵画においては、対象の正確な再 現という意味での「正確さ」は、け 0 して「真理」ではないということを、は「きり認識 し、主張していたからである。 かれの絵は、色彩の純化という 、印象派以後の近代絵画の基本命題のひとつを革命的に おしすすめるところから出発した。その結果生まれた絵は、一見鮮やかな原色が乱舞する かにみえるいわゆるフォーヴィスム ( 野獣派 ) の絵画であって、それは神話的・宗教的主題 の絵、プルジ ' ア風俗の絵、また克明な社会描写をも含めた写実絵画を見なれてきた観衆 にとっては、「坐り心地のいいひじかけ椅子」どころではなかったのである。 マチスらが「野獣派」と嘲られたように、 近代絵画がそれ自身の発展の筋道にしたがっ て、色彩や形態の純粋化の方向を追求し、そこに高度な「均衡」や「澄明」を発見しよう とするとき、観衆はほかならぬそれらの中に、「混乱」や「無秩序」や「野蛮」を見出すと
発当時起こった、トルコ人 によるアルメニア人への迫 害をのがれ、一家は故郷を 一捨てた。十六歳のゴーキー ヨ一は、妹と二人で、すでに渡 ジニ米していた父のあとを追っ ン鰤て移民船に乗った。 ゴーキーの絵を眺めてい フム コイると、彼のこういう出身が ンおのずと思い浮かぶ。これ ポゲ は決して都会人の描いた絵 ではない。自然への郷愁をさそう甘美な情緒、古風で素朴な土の雰囲気。どこからか悲哀 をおびた民謡の調べが聞こえてきそうな地方色、風土性。彼がいかにピカソやミロの影響 を受けていようと、そこにはまぎれもない故郷の牧歌的自然の記憶がある。ゴーキーの絵
「私は自分の絵の中にいるとき、自分が何をしているのか知らない。ある種の〈近づ きになる〉時期をすごしてからはじめて、私は自分がどんな状態にいたかを知る。私 は変更したり、イメージを破壊したりすることを恐れない。 というのも、絵はそれ自 身の生命を持っているからだ。私はそれを思う存分のばしてやろうとする。結果が失 敗に終るのは、私が絵と接触を失った場合だけだ。そうでない場合は、純粋な ( 1 モ ニ 1 、楽々としたギヴ・アンド・テ 1 クが生れ、絵はうまくゆく。」 だが、この沸騰的な時期にひとつの悲劇が起った。多くのアクション・ペインティング とは異なり、自然の神話的で胎生的な世界を、その変形の瞬間の不安定な状態において捉 えたかのような、異様に神秘的で繊細な作品を描きつづけてきたアーシル・ゴーキーが自 殺したのである。彼の晩年は、運命的な踏んだり蹴。たりの連続だ。た。一九四六年一月、 ア ト丿工が火事になり、二十七点の作品が消失した。その数週間後、癌の手術を受ける。 苦痛と迫「てくる死の予感に耐えながら、その年の夏を妻の故郷ヴァージニアですごし、 憑かれたように数百枚のデッサンを描いた。四七年の名作「苦悩」「婚約」などがここか ら生まれたのだが、翌四八年六月、今度は自動車事故で首の骨を折ってしまった。そのた 150
ヌやピカソを買うのではなくなったのである。 ということは、社会と芸術家との関係が、自分の欲する主題を欲するような形で描くよ うに要求する注文主と、その要求に忠実に応える者、という明確な絆によってつながれる ものではなくなったということである。近代社会が教権の圧力や要求にさからい、おのれ 自身を独立させてきたのと全く同じ理屈によって、芸術家は。ハトロンから、さらには社会 から、おのれ自身を独立させてきたわけである。これが、「キュビスム時代のピカソを一 点買う」という現代的な表現の成立する現実的背景だった。 2 「号いくら」の思想の意味 以上に見てきたこととの関連において、もう一度絵を買う話題に戻ってみる。 多少とも美術に関心がある人なら、絵が「一号いくら」という単位で売買されることが あることを知っている。もっとも、この単位に基づく売買は、今日ではあまり意味のある ものとも思われない場合も多いから、実際にはそれほど決定的なものではない。しかし、 同一作者の場合、絵のサイズの大小が価格の高低と比例しているのは、例外的な場合を除