や油絵のデリケートな肌の追求よりも、絵具をはじめさまざまな自然界の物質をいじくる 手の、官能的で生き生きした痕跡が、そのまま画面に定着されてマチェールになることを、 彼は欲するのである。したが「て彼の画面は、童画や精神病者の絵に一見近づく。実際、 彼は児童や精神病者の〈生の芸術〉 A 「 ( b 「 u ( に強い関心をもち、その収集につとめ、それに 正当な表現としての地位を与えるべく尽力した。 「真の芸術はいつも思いがけないところにある。だれも芸術と考えもせず言いもしな い場所に。芸術は見つかり、名前をよばれて挨拶されるのを嫌い、すぐに逃げだして しまう。芸術はおしのびが大好きなのだ。人が彼を見つけ、指さすやいなや、彼は逃 げ去「て、あとには背中に《 A 「 ( 》という大きなポスターをつけ、月桂冠を頭に戴いた デクノボーを残す。」 こういうューモアある語り方でもわかるように、 この反文明的、反芸術的な画家は、実 際には哲学、言語学、文学、音楽に深い造詣をもっすぐれた思索家である。それだけにま た、「私は絵画がもはや絵画でなくなるぎりぎりの境界にあることを望む」という彼の言 葉にひそむヨーロツ。 ( の爛熟、その絶望感の強さについて考えてみる必要があるだろう。
の中で、抽象絵画は観る者を包みこむほどの巨大さによって、壁画の伝統をあざやかに復 活させたという一面があった。実際、多くの絵が、銀行、学校、各種企画その他の公共の 建物を飾ったのである。そこには、すでに第二次大戦以前にメキシコでリべラ、シケイロ ス、オロスコらを中心に勃興した、革命思想の裏づけをもつ大壁画運動や、また画家たち の生計援助のため一九三五年に創設され、多くの画家が参加した、軍関係その他の公共施 設を壁画で飾る「連邦美術計画」運動からのごく自然な発展的影響もあったはずである。 いずれにしてもこれは、きわめてアメリカ的な現象だったといっていいのである。 サム・フランシスと話していたときのことだ。「作品」すなわちペインティングと、「デ ッサン」すなわちドローイングの区別をどう考えるかと私がたずねたのに対して、彼は次 画のように答えた。 象 「第一には空間のつかみ方が全然ちがうということがあるね。しかし、何よりもまず、 抽 の意図がまったくちがう。というより、ドローイングはすなわち意図にほかならないの 現 に対し、ペインティングには意図がないのだ。ドローイングするときには、あらかじ め意図したことを実現するという意識がつねに目覚めている。だから、多かれ少なか
たアメリカ絵画の、突然の自己発見だった。シュルレアリスムは、絵を描く方法ではなく、 生きる方法をこれらのアメリカの後輩に啓示したのである。 「偉大な瞬間は、描く、ただ〈描く〉ことを決意した時やってきた。キャンバスの上の身 振りは、解放、すなわち政治的・美学的・道徳的価値からの解放の身振りとなった。」「。ハ イオニアと移民の子孫であるアメリカ人にとっては、『芸術』と『社会』の転覆は損失と は感じられなかった。逆に『芸術』の終末は、芸術家としての彼自身に対する楽観の始ま 1 ルが海に乗りだ りだった。アメリカの前衛画家は、メルヴィルの〔『白鯨』の〕イシメ ーグは したように、キャンバスの白いひろがりに乗りだした。」とハロルド・ローゼン・ もい ( 『新しきものの伝統』一九六〇 ) 、またトーマス・ヘスは、アメリカの新しい絵画が 「画家の精神と絵具の肉体とが見分けのつかなくなる極限の地点にたっている」といった ペインティング」とよ ( 『抽象絵画ーー背景とアメリカ的様相』一九五一 ) 。「アクション・ ばれる絵画が、こうして生まれてきたのである。 およそ一九四三年から四八年までの数年間が、この爆発的開花の時期である。ここで新 しい絵画の有力なうしろ楯となったのは、一時マックス・エルンストと結婚したこともあ
な感覚的影像を刺激しよびさましながら、大きな画面の上で、行為する。彼は主観的には、 滴る絵具の一点一画そのものと化し、いわば進行形現在の緊張にみちた意識と化して「行 為」するのである。ローゼン。 ハーグは、キャンバス上には、「絵」ではなく、「事件」の網 の目が形づくられるのだ、と考えた。「描く」という行為は、このとき、「生きる」ことと 別のことではないと信じられていたといってい それは、戦後絵画の最もロマンティッ クに昂揚した時代を代表する考え方だといえた。 しかし、そこにはまた、昂揚にともなう熱狂的自己過信と、その反動としての自信喪失 という激しい動揺が生まれずにはおかなかった。また、い「たん動かない画面に定着して しまった絵画素材が、その後もひきつづいて「行為」の軌跡を描き、「事件」の証言であ 画りつづけうるかどうかという、造形行為とその結果をめぐる本質的な疑問は大きく残った イヴェント 象のである。「壁にかけられるのは絵であって、事件ではない」 ( 小説家メアリ・ の 1 ) という、端的な批判が出てくるのもそのためだった。 代 現アクシ尸ン・ペインティングや、そのヨーロ、 。ハでの同時代的所産であるアンフォルメ ル絵画は、造形創造に本来つきまとっているこの問題を、その否定的側面をも含めて、
化は、一人の画家の中に当然生じる思想的な足どりの深化発展を反映したものであろう。 彼はそれ以前から 0 ・ (..5 ・ユングの思想に深い関心をもち、ユングの著作を読むだけでな 多くの人にインタビューする形式でユング思想を明らかにする映画の製作にも着手し はじめていた。絵画もまた、明らかに画家の世界観の表現なのである。 一方、「色面派」とよばれ、茫漠と広がる瞑想的な画面で知られるロスコが一九四〇年 代半ばごろ描いていた絵には、プリミティヴな神話的形態、創世神話風にひしめく雲の気 配があった。事実彼は、インディアンの原始芸術の影響を受けているといわれる。 な拡大する表面 けれども、 いうまでもなく画家はその思想を語るのにいわゆる文字言語を用いない。用 画 象いるとしてもそれは造形作品そのものの、一種の注釈としてであろう。アメリカの戦後抽 抽 の象画家たちのうち、理論家としての著作も多く、その関心が哲学、文学、精神分析学など 現 マザーウエルは、あるとき から政治にまで、多面的なひろがりを示しているロ・、 「最もすぐれた絵画においては、作家は黙考しているのである」といった。
鑑識眼に自信のもてない人間にとって、また、もともと金銭という計量的なものの価値 を高めることによって新たに歴史の第一線に登場してきた階級にとって、絵画の価値を 「号」計算のサイズに見合った金銭的数量に換算することは、大いにわが意を得たもので あっただろうし、安心できる合理的解決法の発見でもあったにちがいない。おまけに、 の移り気な。ハトロンは、絵画というものを、かっての鷹揚なお大名たちとは違い、しよっ ちゅう手離したり新しく買人れたりする癖を持っていた。これはひとつには、彼らの住居 が田舎の城館ではなく、たえず膨張し、変化を続ける都市というものの中にあったためも あろう。彼らは活動家であり、移動し移転することを少しもいとわなかった。そして絵も、 そうした主人たちに合わせるように、壁画から小型のタブローに移ってきた。絵は備えっ けの調度品ではなく、手軽にの手からの手に売却され得る商品になった。そうなれば 代ますます、普遍的、合理的にみえる値段のつけ方が重宝がられるのは当然であろう。画家 とは身柄一切を引受けてくれる。ハトロンを失い、代りに画商を通じての商行為を営むことに 芸 よって、相対的な独立を獲得するようになる。アルチザン ( 職人 ) としての画家ではなく、 アルチスト ( 芸術家 ) としての画家が出現する。 127
オランダに生まれ、若いときピカソの影響を強く受けた画家らしく ( 彼はシルレアリス ムの影響をほとんどまったく受けつけなか 0 た ) 、こういう態度においてもビカソと相通 じるものを多分にもっていた。 一方、たとえば白髪一雄は、床にキャンバスを拡げ、その上に絵具を盛り、キャンバス 上方に張った綱で身を支えながら、はだしの足で縦横無尽に絵具を踏みつけつつ絵を描く 方法を発明したが、この場合には、描く行為はむしろ全身の筋肉と神経が参加して生み出 す恍惚たる瞬間のめくるめく連鎖となり、日本の武道と舞踏の合体を思わせるものとさえ なったのである。 静的な書法 「静的」とも 、、、「動的」という。しかしこの分類は一応の形態的分類にすぎないのは いうまでもない。 「絵画は、何よりもまず詩的経験なのだ。それは暗喩であって、説明によって解明され るようなものではない。絵の上では、人がそれに賦与するさまざまの意味が形づくられ、
てできた無数の点の、痛みのようなものがいつまでも保たれていて、ばくらに一種の 郷愁、苦痛への郷愁をよびさます。それは他のどんな造形手段にもほとんど見られな 、銅版画に固有の性質で、銅版画家が宿命的に寡黙であり、また宿命的に強靭な意 志の持主であることも、これと無関係ではないように思われる。刻まれ、腐蝕される 銅版の痛み。削りつくされ、鋭い細い線にまで凝縮された画家の夢の痛み。それらの 痛みが、銅版画を見るばくらの中へ、奥深く沈んでゆき、やがて寸美な後味のように 醗酵する。 ばくらは銅版のなめらかな面に彫り刻まれた形態のむこう側に、画家の思考の量塊 を感じとる。それがぼくらに伝えてくるのは、今日の絵画がほとんど意識的に切り捨 てようとしているあの深さの感覚である。これらの、わずか二十センチ四方程度の画 面が、どんなに奥行きの深い夢の海を内蔵していることか。版画にと「ては、装飾性 はほとんど避けることのできない宿命のひとつだろうが、駒井哲郎の作品は、この宿 命に抵抗し、深さの垂直軸を視覚の中心にたてることによって、独自の芸術的創造と 180
なくとも画家の原則的信念の表明として は、すべてのすぐれた画家によって支持 術されるだろう。画家はそれぞれの沈黙の 、 ( 、〔穩 ~ 、・ ~ , 原圧力に耐えつつ、絵画という表面を耕す。 スティルの、焔とも、峡谷の鋭い裂け目 とも、走る稲妻ともみえる形態に激しく 」、一《 ( 0 」割食一 ) まれてる巨大な色面も、そ 0 一 い男例である。 ロ あるいはまた山口長男の、一見無表情 山 でありながら、。ハネルに絵具が強固に食 い入って、あらゆる細部で悠然と呼吸し ているようにみえる豊かな色面。 ラテックス ( 乳樹脂 ) 、合成樹脂、大理石粉、砂、セメントなどで厚い地をつくり、乏し い色彩、冷えびえとした引。掻き記号によ。て、重たい沈黙にとざされた画面を構成する
術と、詩、絵画、彫刻のような「再現」芸術とのあいだの境界をとりはずそうとして、絵 画と音楽とを同一次元のものとしてとらえ、理論的に一体化しようとした。一九一〇年に 描かれた彼の最初の抽象絵画は、明らかに、音楽的秩序を絵画の構造の基礎にすえようと したものだった。抽象絵画という観念を美術の世界で明瞭に確立する上で、決定的な役割 りをはたした彼の美術論『芸術における精神的なものについて』 ( 一九一一 ) をひもとく人 は、彼がその中で形態や色彩について語るとき、リズムや音響にかかわりある音楽用語に きわめて重要な役割りを与えて語っていることに、深い印象を受けるだろう。それは、抽 これまた音楽と詩の用語なのだがーーー本質につい 象絵画におけるリリック ( 抒情的 ) な ての、明確な意志に支えられた力強い主張であった。 この考えは、絵画というものが視覚以外の五官の諸要素を複雑なかたちで構成している ものである、という認識ー こまで発展するはずのものだった。そして事実、今では絵画につ いて音楽用語で語るというようなことはまったく普通の手順になってしまっている。しか しこれは、ほんとうは深く考えるに値する変化なのである。それだけではなく、五官を越 え、物象のイメージを越えた「精神の流体」 ( イヴ・クラインの用語 ) さえも、造形芸術に