イギリスの『グロープ音楽事典』を参考に「むすんでひらいて」のルーツを詳しく考証し たのが、海老沢敏の著書『むすんでひらいて考』 ( 昭和六十一年 ) だが、それによると、べー トーヴェンとも親しく、ロンドンを中、いに活躍したピアノの名人ヨハン・バブティスト・クラ マーは一八一二年に自作のビアノ曲を出版した。そのタイトルが「ルソーの夢」。 ・ルソーのことで、彼には音楽家 このルソーとは、フランスの啓蒙思想家ジャン日ジャック として活動していた時期があって、代表作は一七五一一年に作曲された一幕物のオペラ『村の占 師』。その第八場にある舞曲「。ハントミム」をもとに作曲したのが「ルソーの夢」で、その旋 律は現在の「むすんでひらいて」とほぼ同じである。 さて、このクラマーの「ルソーの夢」は英米では讃美歌に広く使用されたが、同時に「キン ダーガーデン」で重要な働きを担ったと海老沢はいう。その「キンダーガーデン」とは何だっ たのか。 キンダーガーデンはドイツ語のキンデルガルテンで、直訳すると「子どもの園」。キンダー ガーデンの思想は日本に伝えられて「幼稚園」と訳された。キンダーガーデンは学校というよ り、まったく新しい幼児教育法ないしは幼児教育思想を指す言葉で、この教育法を考えたのは、 「すべての子どもを神の愛を認識するものとして描いた」といわれたドイツのフー ヒ・フレーベルという人物であり、一八四〇年に彼がはじめて作ったキンデルガルテンは、一
「むすんでひらいて」 司法卿田中不一一麻呂であった。 この日の午後、講堂で小学生の唱歌が実演された。お雇外国人の通訳として同行していた岡 倉覚三、後に美術界で活躍する天心は、「ちょうちょーに続いて二番目に披露された唱歌につ いて英文の報告書で、「 Rousseau ・ s Dream ( ルソーの夢 ) ーと記している。 この曲が後の「むすんでひらいて」であり、この直後『小学唱歌集初編』 ( 明治十五年 ) に第十一一一番「見わたせば」として収録された。 見わたせば、 あをやなぎ、花桜こきまぜて、 みやこには、みちもせに 春の錦をぞ さほひめの おりなして、ふるあめにそめにける という詞を付けられた「見わたせば」の原曲のタイトルは、天、いの記すように「ルソーの夢」 であるが、このルソーとは誰か ?
ある日、海軍がたまたま軍歌「戦闘歌ーを奏楽すると、天皇は、 「この歌はいっから軍楽に用いたか」 と興味を示されたという。 見わたせば、 寄せ来る、敵の軍艦 おもしろや : 「戦闘歌」とは、小学唱歌「見わたせば」の替歌であった。 ご質問は、本歌「見わたせば」が天皇の耳にまで届いていたことを物語っている。 この「戦闘歌」は、小学校では唱歌遊戯としても用いられた。一隊の児童を円形にして、 「見わ : : : 」で右手を額上に上げ、つま先立ちになる : : : という形で。 さらに日露戦争にかろうじて勝利してから数年経った明治四十一一年になると、東京女子高等 師範学校と名前を変えていた「皇后さまの女学校」の附属幼稚園の遊戯の中に、ついに「結ん で開いて」が登場してくる。 唱歌「見わたせば」として出発した「ルソーの夢」は、軍歌「戦闘歌」、唱歌遊戯「戦闘歌」
告別式の誕生と洋楽 『明冶文化史十三風俗編』 ( 昭和一一十九年 ) によると、「死者と格別の縁故のないものまでが 進んで葬儀に加わる風は、明治以降とくに顕著となった。あたかも告別式が葬式の代名詞のご とく考えられるようになったのは、大きな変化であった」。 最初に告別式を行ったのは、東洋のルソーと呼ばれた中江兆民の葬儀であったといわれてい る。中江は信仰を持たなかったので「神、仏、耶の儀式にかかわらず、ただちに火葬場に送り、 荼毘にふせーと遺言した。それではあんまりだというわけで、青山墓地会葬場で告別式をする ことになった。明冶三十四年十一一月十五日の『報知新聞』は、「一代の奇人の最後を飾るには 奇葬式を見るなるべしーと報じた。 以後、告別式は、遺族による葬儀のあと、一般会葬者の焼香を受け付けるという形になって 根 一般化するとともに、葬儀と混同されるようになっていった。 の 士中江兆民の告別式よりおよそ十年後に逗子開成中学校校庭で行われた「追弔大法会」は、弔 富 き辞と焼香による式次第からみて、また何よりも四千人を越える参会者からみて、これはあきら 「かに告別式であった。 一日本人の葬儀は、読経のほかはたまに鉦や太鼓が参加する場合があるくらいで、たいてい音 楽味に乏しいものであるが、告別式の形式が定着するにしたがって、音楽を演奏したり歌がう
八四八年のドイツ三月革命の反動の時期には法律によって閉鎖されたこともあった。 イギリスでキンダーガーデンにはじめて取り組んだのは、三月革命の失敗によって一八五一 年にフランクフルトからロンドンへ亡命したカトリックの神父ロンゲと妻のベルタであった。 夫妻が著したのが『英語キンダーガーデン実用案内書』 ( 一八五五年 ) であった。 それに「ルソーの夢」が「楽しい眺め」というタイトルで幼児体操歌として採用されたので ある。イギリスの人たちにこの曲が大変親しまれていたからであろう。 キンダーガーデンの教育法が当時の人々の理解を越えていたことの一つは、幼児の体操を奨 励したことであった。現在ではごく当たり前のことだが、音楽に合わせて体を動かす「音楽的 体操的運動ーがそれである。これを日本では「唱歌遊戯」あるいは単に「お遊戯ーと訳した。 て その「音楽的体操的運動」の導入を積極的に推し進め、この日、皇后につきしたがっていた ひのが司法卿田中不一一麻呂であった。 で不一一麻呂は、維新前は「洋物を売るとはけしからん」と洋物商紅葉屋に切り込んだほどの攘 す 夷志士であった。維新後は開明派に転じ、教育を重視していた木戸孝允に同志と見込まれ、官 む 界で出世する糸口を得た。尾張藩出身で大臣になった者は一一人だけで、その第一号が、明治一一 十四年に司法大臣になった田中不一一麻呂であった。負け組の中で一人だけ出世するこの男に対