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検索対象: 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で
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1. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

九「一月一日」 神嘗祭、天長節、新嘗祭を年中祝日と定めたのである。 キリスト教暦に接ぎ木したようなこうした人工的祝日に人々はなじめず、「五節句盆などと いう大切なる祝日を廃し、天長節、紀一兀節などというわけもわからぬ日を祝うことでござる」 と反発した。 宮廷音楽団の構造改革 新たな祝祭日の創設は、後に祝祭日唱歌「一月一日」を作曲することになる上真行ら宮中の 音楽家たちに活躍の場を提供することになった。 宮中三大節宴会とは、新年宴会、天長節宴会、紀元節宴会の三つであったが、上たち楽人は、 新年宴会では万歳楽のような舞楽を上演し、天長節宴会では欧州楽、つまり今日のいい方では 西洋音楽を演奏し、紀元節宴会では久米舞を舞うことになっていた。 宮中音楽団の再編は、改暦より早く、明治三年にそれまでの宮中年中行事が廃止された時か らはじまった。この年、宮内省に雅楽局が設置され、それまで京都、大阪、奈良に分散してい た楽人たちが東京に集められた。これを彼らは東上と呼んだ。 上真行の家系を見ると、生没年がわかっている最初の祖先、光高 ( 九五九 5 一〇四八 ) は高 9 麗から来た滋井因叶から数えて九代目にあたるという。上たち楽人の家系はみな今日まで続い

2. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

四「数え歌」 近蔵の一生は神父を助ける「伝道士 ( 師 ) 」の職に忠実な一生であった。それにしばりつけ られたともいえる。その近蔵が作った数え歌はカトリックの聖歌にはならなか「た。「七代」 もの長き間、外界との接触を断ってきたため、近蔵の両親たちが守ってきた礼拝は、ローマ・ カトリックのものとは、あまりにも違ったものになり果てていた 新しい信者を獲得し、教勢を拡大するために、フランスから来た神父たちは、十六、七世紀 なまり のポルトガル訛のあるキリシタン用語、ゼウス、クルスなどを棄てる决心をしなければならな ゝっ」 0 それといっしょに外海の人々が歌「てきた「ド・ロさまの歌」も正式な聖歌からは棄てられ たのである。 ド・ロ神父は、大正三年十一月七日に亡くなった。 遺言で遺体は船で出津に運ばれた。海岸で出迎えた人々は皆泣いオ 彼らは、一一百五十年の弾圧下にくじけず七代にわた「て信仰を守り通した人々の子孫であ「 大正十四年、「従来わが公教会の日曜学校で使用する適当な子供用の聖歌集というものがな か「た」からと、『公教日曜学校唱歌集』という子どものための聖歌集がはじめて出版された。

3. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

、 , 彼こよると、「キリスト教の正しさかなかなか受け入れられない も有効な手段だと見てした。 , ( 時、歌で表現するなら人々の心がすぐに反応することを海外で働く宣教師は学んだ」 ( 『ニュー インクランド・コンセルヾトウリー 一八八三年度要覧』 ) という。 後年、彼は、 「音楽がキリスト教への戸口を開き、大きな道を凖備することが真実であることはある偉大で 有力な人々の証すところであって、彼らの学校体系の全体には、政府の命令で導入された我々 の音楽制度の影響が浸透している」 と述べたが、彼が証拠としてあげた「ある偉大で有力な人々」とは日本人のことであった。 唱歌の試作にあたってメーソンは日本人に実地に指導してみることにした。実験台になった のは、目賀田と伊沢のほかは、東京府知事由利公正の長男で明治五年にボストンに留学し、帰 国後、音楽取調掛に通訳として勤めた三岡丈夫、作曲家團伊玖磨の祖父で一一一井財閥の指導者と して活躍した團琢磨、あとは名前が判明しないボストン留学生三名であった。 メーソンと團琢磨の関係について團伊玖磨は、「ボストンにやってきた伊沢を介してメーソ ンと知り合い、メーソン来日の後には、祖父は東京のメーソンの家で毎週土曜日の夜、彼の指 導で歌うことを楽しんでいた」と話している。 こうした授業のある日のことである。メーソンは伊沢にある楽譜を見せて、「これは日本の

4. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

顔のみが浮かぶ故郷である。そして、この心象風景が一番相応しいのは、明治維新に発する日 本人の大移動で異郷に果てた人々の心魂が帰るべき場所としての故郷ではなかったか。 今日の日本人も、戦後の復興、高度成長、バブル崩壊と、めまぐるしく変化する社会にあっ て、人の心も風景もすっかり変わり果てて、幼き日々をすごしたあの故郷はもうどこにもない ことにある時ふと気づき、空虚感に襲われることがある。 「故郷」の六四調という、これ以上に短くできないぎりぎりの詩形は、この空虚さとどこか通 底している。 戦後、軍国主義の重石がとれ、「墳墓の土地」といった呪縛から解放されたことを祝すかの ように復活した「故郷」は、かっては志なかばに散った多くの日本人への安らぎの歌として、 今日では、酷使され疲れ果てた人々の心に静かに語りかけてくれる歌として、これからも日本 人の心を癒やしてくれるにちがいない。

5. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

たれにかふません墳墓の土地を ああわが先祖の墳墓の土地を 普通、中央集権国家は明治四年の廃藩置県で形が整えられたとされるが、それに中身を注入 したのは、海外にも及んだ全国規模の日本人の大配置転換であった。 こうして新しい日本が出来上がると、国の指導者たちは外敵から守るべきものとして「墳墓 の土地ーを強く意識させようと努めたのである。 先祖代々の生まれ育った土地を離れた多くの人々が、外敵から守るべき「先祖の墳墓の土 地」を高唱するというのも少し皮肉でもあるが、これとは別に人々の心にしみたのは「父母の 故郷」を歌った唱歌である。 これは『明治唱歌第一集』 ( 明治一一十一年 ) に掲載された「皇国の守りーの三番の歌詞の一 節である。同じ唱歌集の第四集 ( 明治一一十一一年 ) には「墳墓の土地ーと題された唱歌も登場す る。

6. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

十「故郷」 はるけき彼・万に 心運ぶ 漂泊する心魂の「故郷」 成功者に比べて語られることのあまりに少ない失敗者。志を果たして、いつの日にか帰らん と思いつつ、失意のうちに異郷に果てた人々。ついに祖国に帰れなかった人々の無念の心魂は どこへ帰ろうとするのか。海外渡航に失敗し処刑された吉田松陰は「留めおかまし大和魂ーと 辞世に歌った。戊辰戦争で異郷に散った若者たち、また海外で自殺し、病に倒れた留学生たち の、い魂は、どこに帰ろうとするのか。 明治十一年のことである。本州北の果て津軽弘 をア前を出発し、二月にサンフランシスコに着いたも ナのの、そこで路銀を使い果たした若者がいた。菊 池群之助といった彼は厳冬の大陸を徒歩で歩み、 ン同じ東奥義塾で机をならべアズベリー大学にいた 先発隊四人が待つ、インディアナ州グリーンキャ

7. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

九「一月一日ー 「やはり徳川の正月がいい」 という庶民を尻目に突然の改暦。 「耶蘇の正月で、毛唐の国になった」 と怪しむ人々をなだめる歌 = ーミ物 0 に 儀式唱歌を歌う明治の小学生

8. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

、よっこ 0 「蛍の光」の曲の原詩を書いた 'N ーンズが、スコットランドの古い詩と曲に胸を熱くしたのに はこうした背景があった。 バーンズの愛国心に火を灯したスコットランドの古いカントリー ・ダンスが、一一百年の時を 経て、宣教と戦争を介して、日本の「蛍の光」、韓国の「愛国歌」、そして中国の「惜春帰」に 変化し、近代化に呻吟する東アジアの国々の興亡のなかで、人々の愛国の心をたぎらせたのは 故無きことではなかったのである。

9. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

五「海ゆかばー 海を行くならば水に浸く屍、山を行くならば草の生える屍。 オイチニ・オイチニの貴種流離譚 六「君が代ー 尊皇攘夷と文明開化。その矛盾を強行突破し、 国民国家建設を急いだ維新政府のきしみが「二つの君が代ーを生んだ ! 七「さくらさくら」 本当に日本の古謡なのか ? それを確証すべき資料は見つからない。 伝統の喪失を覆い隠す擬似民謡アロハ・オ工との意外な近親関係 八「法の御山」 「今様」をめぐる仏教とキリスト教の応酬。 そこに深く関与する耶蘇教密偵となった一僧侶の運命 九「一月一日ー 「やはり徳川の正月がいい」という庶民を尻目に突然の改暦。 「耶蘇の正月で、毛唐の国になった」と怪しむ人々をなだめる歌

10. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

たわれるようになってい キリスト教葬儀の影響 ところで、この「真白き富士の根」のゆったりした旋律は讃美歌と関係が深い。 「真白き富士の根」とほぼ同じ旋律は、—・インガルスが編纂して一八〇五年に出版された、 ーモニー」に讃美歌「家路 (When We Arrive アメリカ最初の白人霊歌集「クリスチャン・ハ at Home) 」として収録されている。 白人霊歌 ( ホワイト・スピリチュアル ) というのは、イギリスの無味乾燥な詩編歌を拒否し た新大陸のプロテスタントの人々が歌った民謡風な讃美歌のことをいう。 インガルスと彼の白人霊歌集について研究したアメリカの・・クロッコの博士論文によ ー・ドーソン」で、さら れば、「家路」の本歌は、十八世紀半ば頃のイギリスの舞曲「ナンシ にこれにも舞曲「たちしょんべん」という原曲があった。 「ガーデン作曲」とされてきたが、最近、「インガルス作曲」という説が唱えられるようにな った。しかし、本歌と比べてみたとき、ヴァイオリンとドラムがはやし立てる、滑るような軽 快なステップの舞曲をインガルスが讃美歌として採集したといったあたりが妥当なところでは '—6 、ゝ 0