が日本の葬儀に洋楽を持ち込むことになるのである。 さてキリスト教葬を違法とする状況も明治十六年に鹿鳴館を開設して、条約改正をめざして 欧化主義を一段と強めた明治政府が、十七年十月にようやく葬儀の自由を認めると、以降、キ リスト者は公然と牧師に葬儀を依頼してもよいことになった。 明冶十八年、初代海軍大臣になった西郷従道は息子従理の葬儀をキリスト教で行い、六十余 名の唱歌隊が讃美歌を歌ったと、本願寺系の『奇日新報』が報じている。 ( 竹内淳有「近代仏教 音楽の曙光ーー明治前期ーー」『同朋佛教』第十九号 ) 目黒村の西郷伯別邸で主教ニコライ師に よってロシア正教会の葬儀が行われたのは四月十一一日のことであった。 葬儀が大きく変わった点は洋楽が使われ出したことだった。明冶一一年に創建された東京招魂 社は明治八年十一月六日の大祭以降、祭主は陸軍卿と海軍卿とが交代で務め、軍楽隊が奏楽を 根行うことになった。死者を祭る音楽として洋楽が演奏されるようになったのである。 士東京招魂社が明治十一一年に別格官幣社に列格され靖国神社と改称されると、海軍軍楽隊は靖 富 白国神社参拝および招魂祭の時に使う音楽として「水漬く屍」を明治十四年頃作曲し、陸軍軍楽 禛隊は同じ目的の音楽として「国の鎮め」をやはり同じ頃作曲した。 靖国神社の招魂祭では戦死した魂は、生前には一度も聴くことがなかったであろうトランペ 十 ットやクラリネットなどの洋楽器が吹奏する洋楽で慰霊されたのである。
メーソンの末路と台湾の「蝶々」 メーソンは明治十五年の夏、再び日本に来るつもりで、一時、日本をあとにした。しかし、 伊沢たち文部省は、この機会をとらえてメーソンを再任しないことを通告した。 一方、明治一一十四年に文部省を辞めた伊沢は、明治一一十八年に台湾総督府民政局学務部長心 々得となって台湾の教育制度整備に力を注いでいた。 明冶一一十九年、メーソンの訃報に接した伊沢は、弔辞の中で、 「 ( 日本の規則・命令は ) かりに恩師たりし人に対してもこれを曲ぐべからざるはもちろん、余 えた」というのである。 女生徒たちが歌った「君が代ー「春のやよひ」「見わたせば」はいずれも当時の讃美歌によく 使われた曲であったことが、アメリカ側のこのような評価の根拠になったものであった。伊沢 が心血を注いだ日本語の歌詞は彼らには何の意味もなかったのである。 伊沢とその背後の文部省、メーソンとその背後のアメリカの宗教界、両者のまったく異なる 思惑の中で唱歌は完成し、「蝶々ーは、『小学唱歌集初編』第十七番に収録され、その後、『幼 稚園唱歌集』 ( 明治一一十年、音楽取調掛 ) 第一一番にも収録され、今日まで長く歌われることにな つ」 0
に関する者あるも耶蘇教に近き僻ありて、いまだ仏教に依らしむる唱歌のあらざるは、いゝこ も遺憾の至りなりとし、「教家はふるって児童に解しやすくして、なるだけ抹香の臭みのなリ ゆくゆく こいたしたきものな き唱歌集数十篇を制して、これをもって、往々は、小学校に用ゆるようこ り」と主張した。 ( 「近代仏教音楽の曙光」『同朋仏教』第十九号昭和六十年 ) そうした気運を受けて最初の仏教唱歌集が明治一一十一一年に出版された。それが最初に紹介し た『仏教唱歌集第一』であった。 文部省の唱歌集に遅れること七年、最初のキリスト教日本語讃美歌集に遅れること十五年に してようやくなった仏教の唱歌集であった。 仏教唱歌のその後 明治一一十三年の十一一月一日に信州上高井郡須坂町で催された「信州婦人教会開会式」では、 前日に練習した「法の御山」を高等女学校の生徒がオルガンに合わせて歌い、「最も聴衆を静 粛ならしめり」と賞賛された。 明治一一十四年 , ハ月には、築地善永寺で「女人教会十周年式」が催され、「君が代」「十周年」 「女人教会唱歌」「和讃」がオルガンとヴァイオリンに和して歌われ盛会であったと仏教の『婦 人教会雑誌』が仏教唱歌の発展を伝えている。この後も、少年会では、小学唱歌「春のやよ へき
六「君が代」 であった。 彼は、森有礼暗殺のあった年から数えて三年前の明治十九年の天長節に、京都府尋常師範学 校で歌われた「君が代」の記録中に、歌詞が記載されていることを発見した。その歌詞がまぎ れもなく第一一の「君が代」のそれであった。同じようにして、彼は第一一の「君が代ーが実際に 日本各地の学校で歌われた事実を記録の中に発見し、明治前半期に歌われた「君が代」は第一一 のもの、と結論したのであった。 第一の「君が代」が登場する唱歌集には、早い例では明治一一十年に出版された『唱歌をしへ 草』があるが、広く普及するようになったのは、東京音楽学校によって明治一一十一一年十一一月に 編纂・発行された『中等唱歌集』に掲載されたのがきっかけであり、それまでは、宮中の秘曲 のようなものであったといってよい 明治一一十年代まで、小学生らが歌っていた「君が代」は第一一の「君が代ーだったのである。 明治一一十一一年の天長節の日、天皇は確かに二つの「君が代」を聴いたのである。 第ニの「君が代」のルーツ さてそこで、このどこか讃美歌臭い第二の「君が代」のルーツはどこにあったのだろうか。 キリスト教宣教師とも親しく、森人脈にもつながる中心人物の一人で、明治十一一年に音楽取
時半ごろ、突風に煽られて短艇は転覆し、十一一名は冷たい冬の海中に放り出された。 午後一一時頃、一人の生徒がシャッとズボン下のまま、両脇にオールを抱えて漂流していると ころを、たまたま通りかかった小坪の角船に救助されたが、間もなく息を引取った。 遭難が知れると、捜索が開始されたが、この日は何の発見もなかった。盟二十四日の二隻の 駆逐艦による捜索もむなしく終わった。「逗子開成学園百年史編纂委員会レポート」 ( 平成十一一 年一月二十三日 ) によれば、「一一十五日の午後になって行合川の沖約二キロの海底に徳田勝 治が弟の武三を両腕にしつかりと抱き、末弟は兄の胸に向かい、兄の首に纏わりついて海底に 横たわっているのが引き上げられ、続いてその近くで二人の遺体が発見された」とある。 残る全員の遺体が発見され収容されたのは、一一十七日。上は一一十三歳から下は十四歳までの 生徒であった。 ついちょうえ 根逗子・久木の妙光寺で追弔会が行われた一一月六日の日曜日、校庭で追弔大法会が行われた。 士東京・芝の増上寺貫主以下、東京各寺の住職高僧数十名の他、近隣の僧も加えて数は百名を優 に超えた。四千人を越える列席者の中で眼を引いたのは、揃いの黒紋付き袴姿の鎌倉女学校の 禛生徒であ「た。 一校庭中央のやや奥まった場所に設えられた祭壇に置かれてあったのは、遺骨ではなく、海軍 によって引き上げられたボートであった。 167
御一新の矛盾 この時から由々しき事態が生じた。宮中と海軍省では第一の「君が代」、音楽取調掛と学校 では第一一の「君が代」と、天皇を象徴する歌の一一重化が現出したのである。 元田にとって音楽取調掛はかなり目障りな存在だったらしく、 「音楽生徒募集の議を停止し、伶人拜世上の音楽家等数名を招徴し、本邦固有の楽を合わせ学 校所用音楽の取調べをなさしむべし」 ( 大隈文書「新定教育令ヲ更ニ改正スへキ以前ニ於テ現在 施行スへキ件」 ) と、西洋音楽を排し、「本邦固有の楽」を学校で教えるべき、と横槍を入れている。 明治十九年一月の『東京日日新聞』は、 「一方が廃止と噂された音楽取調所と皇典講究所は、両者の合併維持が決定した」 と報じている。皇典講究所は、明治十五年に設立された神道の研究教育機関で、この機関が明 治一一十三年に設立したのが国学院、現在の国学院大学である。 明治一一十年に皇典講究所の第一回卒業式で「君が代」が歌われた。音楽科を担当したのは東 としやす 儀俊慰ら宮廷音楽家であったので、第一の「君が代ーが歌われたとみて間違いない。 皇典講究所との合併という形の廃止の憂き目にあっていた音楽取調所 ( 明冶十八年十一一月に
日本の神は真の神ではないように心得て居るから、私達も随分議論した。貴様は君主の命令は どうする、ゴットの命令といえば、君主の命令にもそむくかと詰ったこともあった位で、薩州 のものでも、森の心事には置慨していた」 と語ったことを三浦は『観樹将軍縦横談』 ( 大正十三年 ) に印象深く書き残している。 国歌としての「君が代 こうして見ると、第一の「君が代」と第一一の「君が代ーの背後に、それぞれ元田らの儒教派 の人脈とそれに鋭く対立した森らの開明派の人脈が見え隠れしている。 天皇を象徴する歌の一一重化という異常事態が法律で解決されたのは、明治一一十六年の文部省 告示第三号による「祝日大祭日唱歌」の規定であった。これによって「君が代」は第一のもの に統一されることになった。しかし、明治一一十八年春、兵庫県尋常師範学校附属小学校を卒業 した田辺尚雄のような人たちは、第一一の「君が代」が「深く心に刻みつけられている」のであ る。第一の「君が代」が国民全体に定着するには、文部省の告示からさらに一一十年、三十年の 代 歳月を要したことであろう。 ところで三浦梧楼は日清戦争勝利後の明治一一十八年に「朝鮮特派公使」になるや、閔妃を宮 殿で虐殺し、日韓併合への道を準備した。 ー 03
であった。 新暦の新しい正月歌として親しまれた「一月一日」を作曲した上真行は、「雅楽家というよ り、むしろ老漢学者ふうの感じのする方でした」といわれている。 書家、詩人でもあった真行の上家は、現在同志社大学がある近くの、京都市上京区相国寺塔 之壇にあった。真行はここで嘉永四 ( 一八五一 ) 年に生まれた。真行が京都御所にはじめて奉 仕したのは万延二 ( 一八六一 ) 年二月十一日であったという。維新後、伊勢から海路東京に出 たのは明治七年の暮れのことであった。 明治一一十一一年に東京音楽学校教授となり、大正六年には宮内省から楽長に任ぜられ、大正十 年に退官した。笛を得意とし、昭憲皇太后から親しく「上の笛」と呼ばれていた真行が亡くな ったのは昭和十一一年二月一一十八日であった。 音楽を国家が管理するという時代の任によく耐えた生涯であったといえよう。 日 国家によって管理される歌 月「祝祭日唱歌」の作成にあたっては、明治一一十四年に文部省によって発令された「祝日大祭日 歌詞及楽譜審査委員会」による公募の形がとられた。これは国民の歌を管理するために作る歌 九 を国家機関が公募するという方式の最初の例であった。
「洋笛」とはフルートだったのか、クラリネットだったのか、天皇が「洋笛」を聴かれた時、 本州のはずれ長州藩の山口で三歳と数カ月の幼児であった人物が、後年、明治天皇に抱いた熱 い思い故にある事件を起こすことになる。 「明治一一十一一年一一月十一日死于東京府麹町区永田丁壱丁目一一十三歳五カ月」 消えかかったいくつかの文字を推測すると、山口市神福寺にある彼の墓碑銘はそう読めた。 明治一一十一一年一一月十一日、前日の夜半から降り出した雪が東京を白く染めた紀元節のこの朝、 「東京府麹町区、水田丁壱丁目」の文部大臣官邸で暗殺事件が突発した。 腹部に出刃包丁を差し込まれた後、森有礼文部大臣は盟日死亡するまで一度も意識がはっき りすることがなかった。森有礼、享年四十一一。 ある時は熱烈なクリスチャンと見られ、ある時は反動的国家主義者と見られるという、はよ はだ振幅のある彼の生涯は暗殺でいきなり断ち切られた。 一一十三歳五カ月で大臣の護衛にその場で惨殺された暗殺者の名前は西野文太郎。戦前は壮士 風の人物がよく参拝に来たという彼の墓前には今は絶えて人影もない。そこから西の方角へし 代 カばらく歩くと、山口県立博物館に着く。そこに、文太郎の遺品およそ , ハ十点が大切に保管され 「霊刀」。暗殺に使用された凶器が、手書きのそまつな目録に、そう記されてあった。この遺
ト・ディレクターの坂元勇仁さんと、青森の酸ケ湯温泉に入りながら企画したのが、さきの 『原典による近代唱歌集成』 ( 平成十一一年刊 ) でした。平成十一年には『日韓唱歌の源流』 ( 音 楽之友社 ) を書かせてもらいました。この本を気に入ってくださった東北放送ラジオ局長 ( 当 時 ) の木村成忠さんがラジオドキュメンタリー番組「秘められた十字架 5 唱歌一一一〇年の謎」 を制作してくださり、平成十一一年五月一一十九日に放送した番組は「圧倒的な多数で本賞に選ば れた。聴きやすいおもしろさが評価された」と、自分では票を入れなかったらしい選考委員長 常盤新平氏の評言のとおり、第一一十七回放送文化基金賞ラジオ番組部門で賞をいただきました。 同じく『日韓唱歌の源流』を気に入って下さったのが、当時、韓国日本大使館文化院にいら した中根猛さんで、おかげで、韓国国立芸術総合大学の閔庚燦教授と一緒に、平成十一一年には 韓国 ( ソウル、釜山、済州島 ) で講演「韓日唱歌の源流」を、中根さんがミュンヘン総領事と して赴任されたので、平成十四年にはドイツ ( デュッセルドルフ、ベルリン、ミュンヘン ) で 講演「日韓近代歌謡とドイツ歌曲」をさせていただいたのでした。 現在日本を代表する合唱人のお一人、栗山文昭さんはわざわざ弘前まで飛んで来られて、合 唱団のための舞台作品「清し替歌の学校」の台本を注文してくださったのです。初演は、平成 と十三年四月三十日「すみだトリフォニーホール」の大ホールで行われ、女優の竹下景子さんと 9 共演させていただいた。そのすぐ後には鹿児島でオペラ歌手池田直樹さんの独唱会のプログラ