そしてこの国歌を、「日本国にこれから広まる歌曲の根幹となすように」したのである。こ れは明らかに当時影響が誰の目にもはっきりしてきた讃美歌への対抗宣一言である。 注目したいのは、ここでいう「国歌」とは「ナショナル・アンセムーとしての国歌ではなく、 くにのうた 西洋詩歌に対する国歌という意味である。つまり、和歌のことである。 ゝロこするのか、ここに対立の根がある。 「日本国にこれから広まる」唱歌を讃美歌にするの力不歌ー すでに「一月一日」の項でも触れたように、明冶十三年に文部省が唱歌の制作をはじめると、 それに対抗して高崎正風らは東京府の国風唱歌作成計画を推進し、明治十五年には音楽取調掛 に国歌制作要求を突きつけた。 日夏耿之介によれば、高崎正風ら御歌所の宮廷詩人たちは「ことごとく旧態を墨守して、新 様を創造する力も官覚もなき人々であった」が、こうした一連の行動をつうじて、唱歌の詩作 の領域で主導権を確立していった。 まより とよかい つばら 高崎正風と同門の税所敦子は多くの唱歌を書いており、黒川真頼、小出粲、本居豊頴、中村 あきか 秋香、阪正臣、佐佐木信綱、武島又次郎 ( 羽衣 ) 、加藤義清といったおびただしく唱歌を書い た歌人たちはいずれも御歌所に連なる歌人であった。 武島又次郎の名作唱歌が「美しき天然」 ( 明治三十八年 ) である。 188
唱歌の権威をはねのけることで生まれた新しい子どもの歌であった。 大正十一一年、詩人北原白秋は、「 ( 唱歌は ) ほとんど全廃すべきである。一に美なく生命なく 童心なきーと唱歌界に隠然たる権威を温存していた御歌所に結集した歌人たちか書いた唱歌に 反旗をひるがえしたのである。 こ中山晋平、弘田龍太郎、本居長世といった新進の 白秋、西条八十、三木露風らが書いた詩 ( 作曲家が次々に曲を付けると、ラジオやレコードといったマスメディアにものって、童謡は子 どもたちに絶大な人気を博した。それによって子どもの歌の世界で決定的に変わったのは、伝 統的な和歌が完全に過去のものになったことである。 花岡山の誓約 御歌所の歌人が書いた唱歌が全盛を極めていた時代に、「運動」、「虹」、そして「シャボン 玉」という、讃美歌「主われを愛す」に連なる一筋の七七の調べがあった。その讃美歌「主わ れを愛す」が歌われたもっとも印象的な場面が、明治九年に現在の熊本市で発生した集団入信 事件である。 花岡山は遠くに熊本城を望み、市内が一望できる小高い丘であるが、一月一一十九日、晴れ渡 っているものの寒風吹きすさぶ朝、熊本洋学校生徒四十人が頂きでキリスト教入信の誓いをた ー 90
いたのが高崎正風であった。 薩摩藩士高崎は勤王の志士として活躍した経歴の持ち主で、歌人として天皇に仕えるのは本 意ではなかったかもしれない。平明な古今集の調べを重んじた香川景樹を祖とする桂園派歌人 でもあった彼は御歌所の初代所長に任用され、亡くなる明治四十五年までその職にあった。 彼が書いた有名な唱歌が「紀元節」である。 雲にそびゆる高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん大御世を 仰ぐ今日こそたのしけれ 玉保守派からの攻撃は唱歌の誕生とともに明治十一年の末に宮中を舞台に始まった。唱歌は文 部省音楽取調掛より先に東京女子師範学校附属幼稚園で制作が始まった。その唱歌の歌詞が、 シ 外国の指導書からの直訳ばかりで、キリスト教的内容を反映していたことをとらえて、「雑体」 一一と批判し、「御国体をはじめ聖上の御稜威および御維新の成蹟」を讃美する国歌を御歌所の前 身である宮中文学御用掛の近藤芳樹を中心に選定するよう迫った。 おおみよ
ある日、海軍がたまたま軍歌「戦闘歌ーを奏楽すると、天皇は、 「この歌はいっから軍楽に用いたか」 と興味を示されたという。 見わたせば、 寄せ来る、敵の軍艦 おもしろや : 「戦闘歌」とは、小学唱歌「見わたせば」の替歌であった。 ご質問は、本歌「見わたせば」が天皇の耳にまで届いていたことを物語っている。 この「戦闘歌」は、小学校では唱歌遊戯としても用いられた。一隊の児童を円形にして、 「見わ : : : 」で右手を額上に上げ、つま先立ちになる : : : という形で。 さらに日露戦争にかろうじて勝利してから数年経った明治四十一一年になると、東京女子高等 師範学校と名前を変えていた「皇后さまの女学校」の附属幼稚園の遊戯の中に、ついに「結ん で開いて」が登場してくる。 唱歌「見わたせば」として出発した「ルソーの夢」は、軍歌「戦闘歌」、唱歌遊戯「戦闘歌」
童謡誕生の謎 こうして「シャポン玉」については、讃美歌から始まって、唱歌を経て童謡に至る一筋の道 をたどることができるが、そもそも「シャボン玉ーのような童謡が誕生したことにも、詩人が 悩んだ詩形の問題と同じように、讃美歌によって惹起された日本詩歌の伝統の危機が深く関わ っている。 一般の読者にとって、日本の詩歌の伝統は讃美歌に出会って存廃の危機に直面したといった ら誇張にしか聞こえないであろう。 日本近代史のこういう面は死角のようになっていて見えにくくなっているからである。 ハワイなどでは日本よりずっと早く一八一一三年に最初の讃美歌集が出版され、それ以来讃美 歌の影響は甚大で、伝統の詩歌は讃美歌に置き換えられていった。 同じ危機に直面した日本で、日本の詩歌の伝統を保守したのが宮中の御歌所であった。その 由来についていうと、明治四年に宮内省に歌道御用掛が置かれ、明治九年にそれを廃止して文 学御用掛が置かれたが、明治十九年になって御歌掛に改められ、さらに明治一一十一年に御歌所 が置かれたのである。 詩歌をめぐって保守と革新が直に衝突したのは、実は唱歌の領域であったことは、意外に知 られていない。唱歌をはさんで、伝統と革新との激しい闘争が繰り広げられ、保守派の中心に ー 86
歌謡曲や演歌がほとんど伝統の七五調で書かれるのに対して、尋常小学唱歌の歌詞の詩形は 実に多様である。八六調の「朧月夜」、七七調の「茶摘」「日の丸の旗」「春の小川」、六五調の 「冬景色」といった具合である。もっとも短い詩形が五五調の「春が来た」と六四調の「故郷」 である。 この多彩な詩形は直接には『尋常小学読本巻一 5 巻十一一』からきたものであるが、間接には 讃美歌の詩形の影響を認めることができる。 「さっちゃん」などの現在の子どもの歌の作詞を数多く手がけている阪田寛夫によれば、唱歌 とは自然鑽仰の歌で、その流れは、「明冶四十年から大正のはじめまでの間に、日本人の手に なる讃美歌風の唱歌と結びついて、その最後の、しかし一番美しい光を放ちます」 ( 『童謡の天 体』一九九六年 ) ということになるが、最後の一番美しい光を放った讃美歌風唱歌といわれて いるのが『尋常小学唱歌』の名作の数々であり、その極めつけが「故郷」である。 新島襄の音楽修業 郷唱歌に残る讃美歌の影響をは「きり示すものが詩形である。「故郷」と同じ三拍子で同じ六 四調の讃美歌で、日本人にはやくから好まれていた讃美歌の曲に「アメリカ」がある。 「故郷」の特徴あるゆったりとした三拍子六四調のリズムは「アメリカ」のそれを受け継いオ
につながる歌人たちが独占していたが、大正に入ると童謡連動という民間側からの反撃で「シ ャポン玉」のような童謡が生まれ、人気を得ると、これ以降、子どもの歌の歌詞から和歌が消 えてしまった。 『尋常小学唱歌』が作られたのは、流行歌と童謡に対する官側からの反撃としての意味も持ち、 その結果「故郷」などの唱歌が生まれるのである。こうした日本における歌の管理をめぐる官 民の争いをよそに、流行歌「真白き富士の根」、童謡「シャポン玉」、尋常小学唱歌「故郷」の いずれにも讃美歌の影響が及んでいて、影響の深刻さがうかがえる。 太平洋戦争が激してくると、国家は演奏禁止によって讃美歌に代表される英米音楽文化を日 本から閉め出すと同時に、新しい健全な国民歌を大量に制作し、新聞、出版、放送を通じて、 広く流布させた。 国民歌を効果的に作り出す政策が、「一月一日」のような「祝祭日唱歌」の制作で成功した 国家機関による歌詞と曲の公募方式であった。「海ゆかば」はこうして作られた国民歌であっ 戦後、これらの歌はすべて破棄されたが、今日、日本人の歌を管理しているのは誰であろう か、それとも誰も管理していないのであろうか。いずれにしても、現在、国家が目に見える形 で直接管理している歌は「君が代」一曲のみである。 148
四「数え歌」 というものであった。 讃美歌「さくはなに」の作者は、この和歌を意識した、かなり教養の高い人物であったと思 われる。 「教化数え歌」と「民権数え歌」 明冶になると士族の数え歌からは徳育教育のための「教化数え歌」が、庶民の数え歌からは 「民権数え歌」が新たに生まれた。士族の数え歌からは明冶六、七年頃には「勧学ひとっとや 節」が流行した。 一つとや 人と生まれて学ばねば学ばねば ひとの人たる甲斐ぞなきおこたるな 文部省の唱歌は士族の意識を濃く反映している。唱歌の開発に携わった田中不一一麻呂、神田 孝平、目賀田種太郎、伊沢修一一たちはすべてかっての士族であったから、これは当然なことで
「故郷」は学校で教えられることはなかった。 「故郷」は戦後、軍国主義と見られた「日本海海戦」「靖国神社」「広瀬中佐ー「水師営の会見」 などの尋常小学唱歌がすべて教科書から削除されるさなか復活をとげた。昭和一一十一一年に文部 省が編纂した音楽教科書『六年生の音楽』に「ふるさとーとして再録されたのである。さらに、 昭和一一十一一年の学習指導要領 ( 試案 ) から数えて第三次の改訂になる昭和三十三年の学習指導 要領ではじめて「共通教材」と呼ばれる必修歌唱教材が指定され、「かたつむり」、「春の小川」、 「こいのぼり」、「われは海の子」などとともに、第六学年のそれの一つとして「故郷ーが指定 された。「かたつむり」などほかの復活した尋常小学唱歌が改訂の度に削除されたり、また復 活したりする中にあって、「故郷」だけは平成十四年の学習指導要領に至るまでずっと「共通 教材に指定され続けた。 その結果、「故郷」は、今日、母から子へ、姉から妹へと歌い継がれる数少ない歌の一つに なっている。 郷 最後の一番美しい光を放った讃美歌風唱歌 故 「故郷」が最初に掲載された『尋常小学唱歌』は全百一一十曲すべてが新曲であったという点で 十 画期的であったが、作曲したのは , ハ人の作曲家で、合議によって作曲したという点でも異例で
明治維新によって政府は、キリスト教礼拝音楽を中心とする外来音楽の流入という事態を受 けて、国民の歌を自ら管理するようになっていった。 文部省は「蝶々ーなどの唱歌という国民に与える新しい歌を作り出し、国民教育によって浸 透させた。その際、キリスト教の浸透による影響を避けることはできず、唱歌の旋律に讃美歌 のものを使用して「むすんでひらいて」「蛍の光」を作り出した。 その一方では「さくらさくら」といった擬古曲を作成したり、「数え歌」を利用したりして、 国粋音楽文化を保持するという課題にも応えようとしたのである。 キリスト教に対抗した浄土真宗では古謡「越天楽今様」を復刻して仏教唱歌を歌うようにな 国家の管理の結果生じた国民の新しい音楽趣味は、明治の後半になると「真白き富士の根」 のような、江戸から続く俗謡系とは違った、新しい流行歌を生み出した。 流行歌という国家で管理できない新しい歌が出現すると、当時の新聞が「流行小唄の洪水に 門を閉じる小学校、認可以外の歌を教えないよう文部省が『歌の検察官』」 ( 『東京日日新聞』昭 和四年八月一一十八日夕刊 ) と伝えたように、対抗措置として学校教育現場では流行歌を歌うこ とを禁止した。 国家によって管理された「健全なる唱歌」という官製の子どもの歌の作詞は、宮中の御歌所 っ一」 0 146