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検索対象: 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で
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1. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

大正天皇即位式が行われる数カ月前の大正四年八月に「真白き富士の根のレコードが出さ れたことが、『日本レコード文化史』 ( 倉田喜弘、一九七九年 ) に載っている。 インバネスを着て、それを。ハッとはねて、やおらヴァイオリンをとり出し、「真白き富士の 根、緑の江の島 : : : ーと演歌師が歌い出し、音楽社から楽譜が売り出されたのが年のことで あったという 大正三年の「カチ = ーシャの唄」や大正四年の「真白き富士の根」を境に、洋楽調流行歌が 急増し、この傾向はそれ以降変わることがなかった。 江戸から続く長い伝統の邦楽調に変わって、これ以降主流になる洋楽調流行歌の開祖となっ た「真白き富士の根」は、女学生を中心に長く愛唱されていった。 ポート遭難と名歌誕生 この歌は、もともとは神奈川県逗子開成中学生徒十一一人の若い命を奪ったボート転覆事故の 慰霊祭で歌われた鎮魂歌であった。 海難事故が起こった明治四十三 ( 一九一〇 ) 年一月二十三日は日曜日で、天気がよく、逗子 の浜から富士山がよく見えた。朝の九時半ごろ、逗子開成中学の生徒十一一人が短艇に乗り込み 江ノ島に向かった。彼らの詳しい航路は分からないが、七里ケ浜の行合川冲にかかった午後一 166

2. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

尋常小学唱歌「故郷」とその復活 兎追ひしかの山、 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて、 忘れがたき故郷。 一九九八年に催された長野冬季オリンピックの閉会式で歌われたこともまだ人々の記に新 しい「故郷」は、今、「さくらさくら」と並んで日本を象徴する歌の一つになっている。 唱歌はいつの頃からか、日本人の心の故郷、と呼ばれるようになった。それをもっとも象徴 する唱歌「故郷」は、大正三年に出版された『尋常小学唱歌 ( 六 ) 』にはじめて掲載された。 『尋常小学唱歌』は各学年に一冊ずつ、明治四十四年から大正三年にかけて出版されたが、こ の教科書には、「故郷」のほかに「日の丸の旗」「紅葉」「茶摘」「汽車」「村祭」「春の小川」 「鯉のぼり」「海」「朧月夜」と、いわゆる文部省唱歌の名作が数多く載った。 それから四半世紀たった昭和十六年、戦時色が強まるなか、小学校は国民学校となり、その ために新たな音楽教科書が作られたが、この「故郷は削除された。つまり戦争が終わるまで

3. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

この時点で吹奏楽で演奏する行進曲として完成されていたことは確かである。 この後、明治四十三年六月に最初の楽譜が出版され、七月には当時一般大衆が洋楽を聴ける 少ない機会の一つであった日比谷公園音楽堂での演奏会で、はじめて「軍艦行進曲」が取りあ げられた。こうして「軍艦行進曲は日本人がもっとも好む行進曲の一つとなり、戦時中は儀 式に音楽会にラジオにと、あらゆる機会に演奏された。 つまり、戦時中には二つの「海ゆかば」があり、明治の「海ゆかば」は海軍軍人に歌われ、 海軍軍楽隊が「軍艦行進曲ーの中間部で演奏し、これに対してもつばら斉唱されたのが昭和の 「海ゆかば」であった。 厚生音楽で頂点に達した行進曲 行進曲が日本の近代社会にはなくてはならないものになると、流行歌の一角を行進曲が占め るようになり、「東京節 ( 「ジョージア・マーチ」の調べ ) ー ( 大正八年 ) 、「日の出行進曲」 ( 大正 十一年 ) 、「東京行進曲」 ( 昭和四年 ) 、「道頓堀行進曲ー ( 昭和四年 ) 、「日の丸行進曲ー ( 昭和十三 年 ) と続く。 こうした日本の行進曲プームが頂点に達したのが、今日ではまったく振り返られることのな い厚生音楽運動であった。

4. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

の旋律は、大正時代までには、讃美歌と唱歌とを通じて、日本人の歌の記憶の中に、しつかり 根を下ろしていたものと考えられるのである。 さらに童謡「シャボン玉」も、讃美歌「主われを愛すーも、ともに詩形が七七調であること でも共通している。 七七調というのは日本民謡にもあった調子であるが、この場合、七音の四句は讃美歌からき たものだと考えられる。 讃美歌は明治一一年ころから横浜、神戸、長崎といった居留地で歌われはじめ、明治五年に最 初の日本語讃美歌「主われを愛す」と「よき土地あります」が作られ、明治七年には七種類の 日本語讃美歌集が編まれている。 讃美歌の出現によって日本の詩歌は絶大なる影響をこうむった。少し時代が下るが、詩人で 英文学者の日夏耿之介は名著『明治大正詩史』 ( 昭和四年 ) の中で、 「 ( 讃美歌は ) 信者たると非信者たるとを問わず、感情の肉声的表白のはけ口に苦しんでいた 青年子女に等しく愛誦されたことは夥しいものであった」 と述べ、また、 「詩形の問題がどのくらい真摯に、悩ましげに、はては絶望的に考えられたか、今日では想像 ができかねる程のことであった」

5. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

四「数え歌」 近蔵の一生は神父を助ける「伝道士 ( 師 ) 」の職に忠実な一生であった。それにしばりつけ られたともいえる。その近蔵が作った数え歌はカトリックの聖歌にはならなか「た。「七代」 もの長き間、外界との接触を断ってきたため、近蔵の両親たちが守ってきた礼拝は、ローマ・ カトリックのものとは、あまりにも違ったものになり果てていた 新しい信者を獲得し、教勢を拡大するために、フランスから来た神父たちは、十六、七世紀 なまり のポルトガル訛のあるキリシタン用語、ゼウス、クルスなどを棄てる决心をしなければならな ゝっ」 0 それといっしょに外海の人々が歌「てきた「ド・ロさまの歌」も正式な聖歌からは棄てられ たのである。 ド・ロ神父は、大正三年十一月七日に亡くなった。 遺言で遺体は船で出津に運ばれた。海岸で出迎えた人々は皆泣いオ 彼らは、一一百五十年の弾圧下にくじけず七代にわた「て信仰を守り通した人々の子孫であ「 大正十四年、「従来わが公教会の日曜学校で使用する適当な子供用の聖歌集というものがな か「た」からと、『公教日曜学校唱歌集』という子どものための聖歌集がはじめて出版された。

6. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

であった。 新暦の新しい正月歌として親しまれた「一月一日」を作曲した上真行は、「雅楽家というよ り、むしろ老漢学者ふうの感じのする方でした」といわれている。 書家、詩人でもあった真行の上家は、現在同志社大学がある近くの、京都市上京区相国寺塔 之壇にあった。真行はここで嘉永四 ( 一八五一 ) 年に生まれた。真行が京都御所にはじめて奉 仕したのは万延二 ( 一八六一 ) 年二月十一日であったという。維新後、伊勢から海路東京に出 たのは明治七年の暮れのことであった。 明治一一十一一年に東京音楽学校教授となり、大正六年には宮内省から楽長に任ぜられ、大正十 年に退官した。笛を得意とし、昭憲皇太后から親しく「上の笛」と呼ばれていた真行が亡くな ったのは昭和十一一年二月一一十八日であった。 音楽を国家が管理するという時代の任によく耐えた生涯であったといえよう。 日 国家によって管理される歌 月「祝祭日唱歌」の作成にあたっては、明治一一十四年に文部省によって発令された「祝日大祭日 歌詞及楽譜審査委員会」による公募の形がとられた。これは国民の歌を管理するために作る歌 九 を国家機関が公募するという方式の最初の例であった。

7. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

図版・楽譜・写真の出典および所蔵一覧 ( ) 内は出典および所蔵先、刊行年など 【図版】 遊戯「蝶々」の図入り解説 ( 大村芳樹『音楽之枝折』巻下明治一一十年 ) 世の中こまりもの一ットセぶし ( 『瓦板の流行歌』大正十五年 ) 森有礼を暗殺した西野文太郎の画像 ( 山口県立博物館所蔵 ) 儀式唱歌を歌う明治の小学生 ( 『小学唱歌三』明治一一十五年 ) 米国留学中の新島襄のノート ( 同志社社史資料室所蔵 ) 【楽譜】 ピアノの三回鳴らし「立礼」 ( 大村芳樹『音楽之枝折』続編明治一一十一一年 ) 「礼式の譜」 ( 『実際活用ヲ主トシタル唱歌教授細目』中巻大正十五年頃 ) 「 ( 愛 ) 国歌ー 「ド・ロさまの歌」 ( ・ヘンゼラー採譜 ) 昭和の「海ゆかば」 ( 昭和十一一年十一月に無料で頒布された ) 第二の「君が代」の原曲「 GLORIOUS APOLLO 」 (NOVELLO'S STANDARD GLEE BOOK. Vol. 1 ) ヘルマン・ゴチェフスキ提供 「 HAPPY LAND 」 ( 『讃美歌拜楽譜』覆刻版、新教出版社、平成一一一年 ) 135

8. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

と指摘している。 詩人たちが讃美歌に触発されて、八六調とか六四調とかの新しい詩形の実験を盛んに行った のが明治であった。 ト員」によって流行作詞家として世に認め 野口雨情は、大正十年に楽譜が出版された「船頭 / ロ られたが、まだ中学生だった明治三十一年、キリスト教者内村鑑三が、神田美土代町の基督教 青年会館で開いていた月曜講演会に出席し、キリスト教的世界観に共感したといわれている。 その若い日の雨情は、「東の海の小さき島に、よき使命者は生まれたり」と、讃美歌のような 詩を書いている。 いこ童噐「シャボン玉」の七七調は、近世初期の七七調の民謡というより、 こうした雨情が書オ言 讃美歌「主われを愛すーの七七調の系譜を引くものだったと見られる。 明冶に、「運動」、「虹」という、讃美歌「主われを愛す」に連なる七七調の唱歌の底流があ 玉り、その流れの中から大正童謡運動の隆盛によって湧き出た七七調の童謡が「シャポン玉」で ボ あったとすれば、童謡「シャポン玉」と讃美歌「主われを愛すーの類似は他人の空似などでは けっしてなく、「シャボン玉ーは「主われを愛す」の生まれ変わりであるといわざるを得ない。 十

9. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

朝鮮総督府が大正三年に出版した『新編唱歌集』に「君が代」がはじめて掲載された。天皇 を象徴する歌の二重化という混乱を経て、「君が代」が名実ともにナショナル・アンセム、つ まり国歌となったのはこの時ではなかったろうか。 現在の「君が代」の旋律が定着を見るには、およそ半世紀にもわたる試行錯誤の歳月を要し たというのが、「君が代」を通して見えてくるこの国のかたちであったのである。 ー 04

10. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

はじめに 歌人たちだったところに唱歌のすごみがある。つまり唱歌集は近代日本の半ば隠された勅撰和 歌集であったと言っていい。 アジア太平洋海域でミッションが活発に活動した時代を背景に、さまざまな有名無名の人物 を巻き込みながら、日本の唱歌が明治・大正・昭和の時代と深く切り結びながら織りなした歴 史のすそ模様を、日本人なら誰もが口ずさんだことのある十一一の唱歌を取り上げて、春をつか さほひめ みじかあ さどる女神、佐保姫のごとく織りなして十一一の短編みにしてみたのが本書である。