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検索対象: 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で
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1. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

であった。 新暦の新しい正月歌として親しまれた「一月一日」を作曲した上真行は、「雅楽家というよ り、むしろ老漢学者ふうの感じのする方でした」といわれている。 書家、詩人でもあった真行の上家は、現在同志社大学がある近くの、京都市上京区相国寺塔 之壇にあった。真行はここで嘉永四 ( 一八五一 ) 年に生まれた。真行が京都御所にはじめて奉 仕したのは万延二 ( 一八六一 ) 年二月十一日であったという。維新後、伊勢から海路東京に出 たのは明治七年の暮れのことであった。 明治一一十一一年に東京音楽学校教授となり、大正六年には宮内省から楽長に任ぜられ、大正十 年に退官した。笛を得意とし、昭憲皇太后から親しく「上の笛」と呼ばれていた真行が亡くな ったのは昭和十一一年二月一一十八日であった。 音楽を国家が管理するという時代の任によく耐えた生涯であったといえよう。 日 国家によって管理される歌 月「祝祭日唱歌」の作成にあたっては、明治一一十四年に文部省によって発令された「祝日大祭日 歌詞及楽譜審査委員会」による公募の形がとられた。これは国民の歌を管理するために作る歌 九 を国家機関が公募するという方式の最初の例であった。

2. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

【写真】 東京女子師範学校附属幼稚園園児とメーソン ( 『日本幼稚園史』昭和九年 ) ソウルの西大門外の独立門 ( 月刊『韓国文化』第十六巻第三号より ) 三岡丈夫 ( 塩崎智『アメリカ〈知日派〉の起源』平成十三年 ) 出陣学徒壮行会の分列行進 ( 毎日新聞社 ) 『箏曲集』本文 『箏曲集』表紙 1 『 COLLECTION OF JAPANESE KOTO MUSIC 』 『小学国語読本巻一』 ( ノーベル書房復刻版より ) 関信三 ( 日本保育学会編『写真集幼児保育百年の歩み』昭和五十六年より ) インディアナ・アズベリー大学 ( 東奥義塾所蔵 ) 「 The Morning Light is Breaking 」 「法の御山」 ( 『婦人教会雑誌』明治一一十一年十一一月 ) 「一月一日」 ( 『祝日大祭日歌詞並楽譜』明治一一十六年 ) 「 AMERICA 」 ( 『讃美歌拜楽譜』覆刻版、新教出版社、平成一一一年 ) 「たちしょんべん」 「主われを愛す」 ( 『讃美歌拜楽譜』覆刻版、新教出版社、平成一一一年 ) 133 155 183 119 ー 96

3. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

図版・楽譜・写真の出典および所蔵一覧 ( ) 内は出典および所蔵先、刊行年など 【図版】 遊戯「蝶々」の図入り解説 ( 大村芳樹『音楽之枝折』巻下明治一一十年 ) 世の中こまりもの一ットセぶし ( 『瓦板の流行歌』大正十五年 ) 森有礼を暗殺した西野文太郎の画像 ( 山口県立博物館所蔵 ) 儀式唱歌を歌う明治の小学生 ( 『小学唱歌三』明治一一十五年 ) 米国留学中の新島襄のノート ( 同志社社史資料室所蔵 ) 【楽譜】 ピアノの三回鳴らし「立礼」 ( 大村芳樹『音楽之枝折』続編明治一一十一一年 ) 「礼式の譜」 ( 『実際活用ヲ主トシタル唱歌教授細目』中巻大正十五年頃 ) 「 ( 愛 ) 国歌ー 「ド・ロさまの歌」 ( ・ヘンゼラー採譜 ) 昭和の「海ゆかば」 ( 昭和十一一年十一月に無料で頒布された ) 第二の「君が代」の原曲「 GLORIOUS APOLLO 」 (NOVELLO'S STANDARD GLEE BOOK. Vol. 1 ) ヘルマン・ゴチェフスキ提供 「 HAPPY LAND 」 ( 『讃美歌拜楽譜』覆刻版、新教出版社、平成一一一年 ) 135

4. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

六「君が代」 であった。 彼は、森有礼暗殺のあった年から数えて三年前の明治十九年の天長節に、京都府尋常師範学 校で歌われた「君が代」の記録中に、歌詞が記載されていることを発見した。その歌詞がまぎ れもなく第一一の「君が代」のそれであった。同じようにして、彼は第一一の「君が代ーが実際に 日本各地の学校で歌われた事実を記録の中に発見し、明治前半期に歌われた「君が代」は第一一 のもの、と結論したのであった。 第一の「君が代」が登場する唱歌集には、早い例では明治一一十年に出版された『唱歌をしへ 草』があるが、広く普及するようになったのは、東京音楽学校によって明治一一十一一年十一一月に 編纂・発行された『中等唱歌集』に掲載されたのがきっかけであり、それまでは、宮中の秘曲 のようなものであったといってよい 明治一一十年代まで、小学生らが歌っていた「君が代」は第一一の「君が代ーだったのである。 明治一一十一一年の天長節の日、天皇は確かに二つの「君が代」を聴いたのである。 第ニの「君が代」のルーツ さてそこで、このどこか讃美歌臭い第二の「君が代」のルーツはどこにあったのだろうか。 キリスト教宣教師とも親しく、森人脈にもつながる中心人物の一人で、明治十一一年に音楽取

5. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

数え歌という言葉は早くも『古今和歌集』に出てくるが、「一つとや、二つとや」といった 数え歌特有の形式を持「たも「とも古いものは室町時代の作と推定される『御伽草子』の「和 泉式部」に見られると、日本歌謡の研究家浅野建一一はいう。 ( 『日本歌謡・藝能の周辺』昭和五 十八年 ) 江戸時代の延宝三 ( 一六七五 ) 年の若衆歌舞伎の「かぞえおどり」が、今日残っている数え 歌の祖形と見られ、巷で数え歌が最初に流行したのは、安永 ( 一七七一一年 5 八一年 ) の頃であ 「た。さらに天保 ( 一八三〇年 5 ) から幕末にかけて騒がしい世情の中で、数え歌が大流行し た。そうした事情を中村紀久一一の興味深い論文「数え歌にみる庶民のレジスタンス」『月刊社 会教育』 ( 昭和四十四年一月 ) によって見ていく。 幕末の数え歌 その時代、数え歌は瓦版流行歌としてお上の政治を皮肉るものであった。 物価高が進行した弘化初 ( 一八四四 ) 年頃流行したのが「天保銭一つとせぶし」であ「た。 一つとせ 人の欲しがるとう百も

6. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

する尾張の人々の視線は当然冷たかった。 「田中さんは余程亜米利加かぶれのした人で、何でも米国のやうに自由にしなければいけな い」 ( 『教育五十年史』大正十一年 ) という陰口を気にすることもなく、田中不一一麻呂は、米国 でキンダーガーデンの「実况を視察して、すこぶる有益なるを認め」、幼稚園の「開設を断行」 した。 ( 『開国五十年史』明治四十年 ) リズムに合わせて 冒頭で述べたこの日、皇后は幼稚園でお遊戯もご覧になった。 おさなごのその 幼稚園の普及に力を入れた文部省が明治九年から十一年にかけて翻訳刊行した『幼稚園』の 原著は前述したロンゲ夫妻の『英語キンダーガーデン実用案内書』であるが、原著のタイトル には教育目的の一つとして、「ギムナスティック・エキソサイズ」、つまり体操が掲げられてい る。 この日のプログラムには「運動」という言葉が使われている。園児が実演した「君が恵」 「白金」「我行末」といった唱歌遊戯は、まさに「運動ーとして理解されていたのである。指導 はざま したのは、当時農務省の役人であった松野燗と結婚したドイツ人クララ・ツィーテルマンであ った。主任保母に任命されたクララは、ベルリンの保母養成機関でフレーベルの幼児教育法を -0

7. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

この時点で吹奏楽で演奏する行進曲として完成されていたことは確かである。 この後、明治四十三年六月に最初の楽譜が出版され、七月には当時一般大衆が洋楽を聴ける 少ない機会の一つであった日比谷公園音楽堂での演奏会で、はじめて「軍艦行進曲」が取りあ げられた。こうして「軍艦行進曲は日本人がもっとも好む行進曲の一つとなり、戦時中は儀 式に音楽会にラジオにと、あらゆる機会に演奏された。 つまり、戦時中には二つの「海ゆかば」があり、明治の「海ゆかば」は海軍軍人に歌われ、 海軍軍楽隊が「軍艦行進曲ーの中間部で演奏し、これに対してもつばら斉唱されたのが昭和の 「海ゆかば」であった。 厚生音楽で頂点に達した行進曲 行進曲が日本の近代社会にはなくてはならないものになると、流行歌の一角を行進曲が占め るようになり、「東京節 ( 「ジョージア・マーチ」の調べ ) ー ( 大正八年 ) 、「日の出行進曲」 ( 大正 十一年 ) 、「東京行進曲」 ( 昭和四年 ) 、「道頓堀行進曲ー ( 昭和四年 ) 、「日の丸行進曲ー ( 昭和十三 年 ) と続く。 こうした日本の行進曲プームが頂点に達したのが、今日ではまったく振り返られることのな い厚生音楽運動であった。

8. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

もとのダンス曲が持っていた大衆性を受け継いだこの曲は、一八三五年にアメリカ南部で出 版された讃美歌集に「ガーデン讃美歌ーとして収録されるなど、多くの讃美歌集に用いられ、 広く愛唱されることとなった。 「独身婦人多く出よ」と主張した三角錫子の生涯は、早くに父と母を亡くし、一家の柱として 祖母と四人の弟を養わなければならない苦労の連続でもあった。「狐に穴あり、空飛ぶ鳥は巣 あり、されど我には枕する所なしといえるキリストの嘆きに比べては、何でもないとはいえ、 其の時には身も世もない悲しみであった」と自伝で語っている。 明治五年に金沢で生まれた錫子は、十七歳で東京女子高等師範学校数学科に入学、明治一一十 五年三月に卒業すると、内地より俸給の多い、北海道札幌区女子尋常高等小学校に就職した。 明治三十年まで札幌にとどまり、その後、三十一一年から三十三年まで再び札幌で教師として働 錫子が教会に惹かれたのは札幌時代のようで、ある教会の日曜礼拝に出かけてみると、信者 たちがオルガンに合わせて歌っていたのが讃美歌「家路」であった。 地上においては悩み、苦しんでも 天国の家路につく時 ー 76

9. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

日本の神は真の神ではないように心得て居るから、私達も随分議論した。貴様は君主の命令は どうする、ゴットの命令といえば、君主の命令にもそむくかと詰ったこともあった位で、薩州 のものでも、森の心事には置慨していた」 と語ったことを三浦は『観樹将軍縦横談』 ( 大正十三年 ) に印象深く書き残している。 国歌としての「君が代 こうして見ると、第一の「君が代」と第一一の「君が代ーの背後に、それぞれ元田らの儒教派 の人脈とそれに鋭く対立した森らの開明派の人脈が見え隠れしている。 天皇を象徴する歌の一一重化という異常事態が法律で解決されたのは、明治一一十六年の文部省 告示第三号による「祝日大祭日唱歌」の規定であった。これによって「君が代」は第一のもの に統一されることになった。しかし、明治一一十八年春、兵庫県尋常師範学校附属小学校を卒業 した田辺尚雄のような人たちは、第一一の「君が代」が「深く心に刻みつけられている」のであ る。第一の「君が代」が国民全体に定着するには、文部省の告示からさらに一一十年、三十年の 代 歳月を要したことであろう。 ところで三浦梧楼は日清戦争勝利後の明治一一十八年に「朝鮮特派公使」になるや、閔妃を宮 殿で虐殺し、日韓併合への道を準備した。 ー 03

10. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

大正天皇即位式が行われる数カ月前の大正四年八月に「真白き富士の根のレコードが出さ れたことが、『日本レコード文化史』 ( 倉田喜弘、一九七九年 ) に載っている。 インバネスを着て、それを。ハッとはねて、やおらヴァイオリンをとり出し、「真白き富士の 根、緑の江の島 : : : ーと演歌師が歌い出し、音楽社から楽譜が売り出されたのが年のことで あったという 大正三年の「カチ = ーシャの唄」や大正四年の「真白き富士の根」を境に、洋楽調流行歌が 急増し、この傾向はそれ以降変わることがなかった。 江戸から続く長い伝統の邦楽調に変わって、これ以降主流になる洋楽調流行歌の開祖となっ た「真白き富士の根」は、女学生を中心に長く愛唱されていった。 ポート遭難と名歌誕生 この歌は、もともとは神奈川県逗子開成中学生徒十一一人の若い命を奪ったボート転覆事故の 慰霊祭で歌われた鎮魂歌であった。 海難事故が起こった明治四十三 ( 一九一〇 ) 年一月二十三日は日曜日で、天気がよく、逗子 の浜から富士山がよく見えた。朝の九時半ごろ、逗子開成中学の生徒十一一人が短艇に乗り込み 江ノ島に向かった。彼らの詳しい航路は分からないが、七里ケ浜の行合川冲にかかった午後一 166