数え歌という言葉は早くも『古今和歌集』に出てくるが、「一つとや、二つとや」といった 数え歌特有の形式を持「たも「とも古いものは室町時代の作と推定される『御伽草子』の「和 泉式部」に見られると、日本歌謡の研究家浅野建一一はいう。 ( 『日本歌謡・藝能の周辺』昭和五 十八年 ) 江戸時代の延宝三 ( 一六七五 ) 年の若衆歌舞伎の「かぞえおどり」が、今日残っている数え 歌の祖形と見られ、巷で数え歌が最初に流行したのは、安永 ( 一七七一一年 5 八一年 ) の頃であ 「た。さらに天保 ( 一八三〇年 5 ) から幕末にかけて騒がしい世情の中で、数え歌が大流行し た。そうした事情を中村紀久一一の興味深い論文「数え歌にみる庶民のレジスタンス」『月刊社 会教育』 ( 昭和四十四年一月 ) によって見ていく。 幕末の数え歌 その時代、数え歌は瓦版流行歌としてお上の政治を皮肉るものであった。 物価高が進行した弘化初 ( 一八四四 ) 年頃流行したのが「天保銭一つとせぶし」であ「た。 一つとせ 人の欲しがるとう百も
四「数え歌」 明治十年代の後半になると、文部省は学校の教員や生徒の間に「民権数え歌」が流行ること に神経を尖らせはじめる。教科書の研究で知られている中村紀久一一によると、明治十七年、文 部省大書記官辻新次は、文部卿よりの命令だとして、宮城県知事宛に、学校での「民権数え 歌」を取り締まるよう通達した。 その一方で文部省は、目賀田種太郎の発案した学校唱歌「数え歌ーを、元津和野藩士で明治 ふくばよししす 政府の官職を歴任した福羽美静が徳育教育の線に沿って改作した、次のようなものを児童に歌 わせた。これは伊沢修一一の言う「改良はいわゆる毒をもって毒を救うの策」ではなかったか、 と中村は考えている。 一つとせ 人は心が第一よ第一よ みがいておさめて世をわたれ 世をわたれ ( 中略 ) 十とせ ところは日の本日の光日の光 6
四「数え歌」 というものであった。 讃美歌「さくはなに」の作者は、この和歌を意識した、かなり教養の高い人物であったと思 われる。 「教化数え歌」と「民権数え歌」 明冶になると士族の数え歌からは徳育教育のための「教化数え歌」が、庶民の数え歌からは 「民権数え歌」が新たに生まれた。士族の数え歌からは明冶六、七年頃には「勧学ひとっとや 節」が流行した。 一つとや 人と生まれて学ばねば学ばねば ひとの人たる甲斐ぞなきおこたるな 文部省の唱歌は士族の意識を濃く反映している。唱歌の開発に携わった田中不一一麻呂、神田 孝平、目賀田種太郎、伊沢修一一たちはすべてかっての士族であったから、これは当然なことで
四「数え歌」 一つとや 他の国よりわが国のわが国の みかどはせかいにたぐいなし たぐいなし 学校の唱歌は今日まで巷の流行歌と絶えず勝ち目のない競争にさらされてきたが、その最初 の競争が、この「士族の数え歌」を使った「教化数え歌」対「庶民の数え歌」を使った「民権 数え歌」であった。 「数の歌」 外海の信者たちか歌い継いだ庶民の数え歌による聖歌、彼らが「ド・ロさまの歌ーと呼ぶ歌 それでも教育者は明治一一十年代に東京府が編集した『小学読本巻三』で「士族の数え歌」を 教化に用いた。 「第一一十四課、お糸さん、このかぞへうたは、太そうためになりますから、うたうてごらんな
あった。 明治十年頃、アメリカでは文部省の役人目賀田種太郎が、アメリカ人教師の助けを借りて、 「数え歌」を使って学校唱歌を作ろうとしていた。 目賀田はペリーが来航した嘉永六 ( 一八五一一 l) 年に江戸本所太平町に旗本の子として生まれ ている。彼は「音楽のごときも雅俗の差ありて、その雅なるものは清く、その俗なるものは濁 れり」と考えていた。彼が唱歌に採用した数え歌は俗の「庶民の数え歌」ではなく、雅の「士 族の数え歌」であった。 ちょうど同じ頃、自由民権家であり憲法草案で有名な植木枝盛は、「民権数え歌」を作り出 して、流行らせた。 一つとせ 人のうえには人はなき 権利にかわりがないからは この人じゃもの 植木が選んでいるのは「庶民の数え歌」である。
四「数え歌」 の招待』平成三年 ) 一つとや ひとよあければ賑やかで賑やかで かざりたてたる松飾り松飾り 水戸斉昭や遣米使節団などが歌「た最後が五音で終わる数え歌は、当時は主として士族が歌 った数え歌であったと考えられる。 これに対して、最後が七音で終わる数え歌は、庶民が主として歌「た数え歌だ「たのではな いか。たとえば一揆で歌われる数え歌がこれである。 文政一兀 ( 一八一八 ) 年十一一月に奈良県吉野郡龍門村の一揆を伝えている「手まり歌」は、次 のように歌われる。 ( 大村博一、安藤勘吾「大和の龍門騒動」『歴史評論』四十一号、昭和二十八 一つとや 龍門騒動は大騒動
人の国よりわが国をわが国を 治めん事こそ初めなる初めなる 数え歌のニつの系譜 これらの数え歌はもともと子どもたちが路傍で手まりをついて歌う時の遊び歌であったもの であるが、その詩形を注意してみると、二つの系譜が認められる。 一つは、一ットセといった頭句を除くと、七五七五七で最後が七音で終わるものである。 ほかの一つは、水戸斉昭の手まり歌のように、七五五七五五で、つまり七五の下の五音を繰 り返す七五 ( 五 ) を二度連ね、最後が五音で終わるものである。 詩形が異なるので、二つの数え歌は異なる旋律で歌われていたと考えられるのであるが、歌 訪しか伝わっていないので、それぞれの正確な旋律は不明である。 七音で終わる数え歌の旋律は、民謡に残る数え歌「弥三郎節」「銚子大漁節」が同じ詩形な ので、おそらくこれと同じようなものだったと想像される。 五音で終わるものは、幸いなことに実は楽譜が残っている。 万延一兀 ( 一八六〇 ) 年、条約批准のため渡米した使節団が米国で披露したという数え歌が採 譜されて当時のイギリスの雑誌 = AII the Year Round ・・に掲載された。 ( 柘植元一『世界音楽へ
きの 四「数え歌」蠡 カトリックとプロテスタント の布教をめぐる 主導権争い 自由民権運動も加わる その抗争にまきこまれた 「数え歌」の類末 0 0 0 1863 年ごろ流行した「数え歌」
そこには「ド・ロさまの歌」ではなく、「数の歌ーという歌が収められた。 一つとや 一つの天主を拝むのは 人の人たる道なるぞ 二つとや 二つの世こそ霊と肉 肉を離れて霊につけ 形式張って、生気のないように感じられるこの歌詞につけられた旋律は、かっての外海の 「庶民の数え歌」とは違っていた。カトリックが日本の貧しい庶民の宗教であるだけにとどま らなかったことを象徴するかのように、 ここでは文部省の「教化数え歌」が採用したのと同じ、 「士族の数え歌」の旋律が使われたのであった。
カトリックとプロテスタントの数え歌 日本が開国されるとキリスト教の布教が開始された。カトリ ックとプロテスタントの布教の 仕方には大まかにいって次のような違いがあった。プロテスタントは主として政府や上流階級 に働きかけたのに対して、カトリックは主として貧しい庶民を布教の対象にした。 布教のこうした違いは、両派の聖歌・讃美歌に使われた数え歌の違いにもはっきりと示され 一八六八 ( 慶応四 ) 年六月七日長崎に、フランスはノルマンディーから後にド・ロさまと慕 われるようになる神父、マルコ・マリ・ド・ロかやってきた。 にしそのぎ 外海とは、五島列島と向かい合っている西彼杵半島の西岸地方をいう。山が急傾斜して海に 落ち、道も悪く、陸の孤島であったこの地方には出津、黒崎などたくさんの隠れキリシタン集 一一十まで作った手まり唄 , った 4 , っ , かしオ 「庶民の数え歌」と「士族の数え歌」という、一一つの系譜はそのまま維新後に引き継がれるこ ル」こ、よっこ 0 そとめ 6