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検索対象: 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で
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1. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

四「数え歌」 明治十年代の後半になると、文部省は学校の教員や生徒の間に「民権数え歌」が流行ること に神経を尖らせはじめる。教科書の研究で知られている中村紀久一一によると、明治十七年、文 部省大書記官辻新次は、文部卿よりの命令だとして、宮城県知事宛に、学校での「民権数え 歌」を取り締まるよう通達した。 その一方で文部省は、目賀田種太郎の発案した学校唱歌「数え歌ーを、元津和野藩士で明治 ふくばよししす 政府の官職を歴任した福羽美静が徳育教育の線に沿って改作した、次のようなものを児童に歌 わせた。これは伊沢修一一の言う「改良はいわゆる毒をもって毒を救うの策」ではなかったか、 と中村は考えている。 一つとせ 人は心が第一よ第一よ みがいておさめて世をわたれ 世をわたれ ( 中略 ) 十とせ ところは日の本日の光日の光 6

2. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

そのことがアメリカン・ボード幹部をいかに興奮させたか。幹部の一人が、「われわれの歴 リリングな場面の一つだった」と語った日本宛の書簡の日付は、明冶九年 史の中でもっともス 十一月二日。 不二麻呂はアメリカン・ボードの全面的支援を得て、日本ではじめる体操の指導者としてリ ーランドという若いお雇い教師を獲得した。ポードが彼を推薦した理由の一つは、「耶蘇教風 の高志ある人」ということであった。 ボードの幹部は、日本にいる宣教師に宛て、不二麻呂が、ミッションの意向に沿った形で、 文部省内で窃かに人員の配置転換を行っている、とその興奮ぶりが伝わってくるような手紙を 出している。 ながざね 一方、明治天皇の側近元田永孚は、宮中に勢力のあった佐々木高行に宛てた明治十一年八月 て 九日付けの手紙で、「文部大輔転任の事等教学辺に付、巨細の御沙汰奉伺候」と、天皇が文部 ひ大輔、すなわち田中不一一麻呂を左遷するつもりであることを漏らし、「誠に深きお考えにて感 で服した」と述べている。 す いくら明治天皇に厚く信頼されたとはいえ、儒者一兀田永孚が日本の教育の進路に決定的に関 む 与できたというのは、維新史の不思議な一面であるが、田中が文部省から左遷された以降の文 部省の動きは元田の思い描く方向にカープを描き始める。 ひそ

3. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

日本の子どもたちが「栄ゆる御世に」と歌いながら輪を作って遊戯することは、「童幼の心 にも自ら国恩の深きーを覚らせるよう輪の中心に天皇を意識させることであったのかもしれな いが、神がキリストなのか天皇なのか、この教育界を揺るがした問題が浮上するのは、まだ少 し先のことであった。 唱歌「蝶々」誕生 愛知師範学校での遊戯の実験の報告書が高く評価されて、当時の文部省にあってもっとも有 能な官吏として伊沢はアメリカに留学派遣されることになった。 懸案であった二教科、体育と音楽の実現に向けて動き出した文部省にあって、文部大輔 ( 次 官 ) 田中不一一麻呂からアメリカで調査研究をするように指令されたのが留学生監督官の目賀田 種太郎で、その下で活躍することになったのが留学生伊沢であった。 目賀田種太郎はボストンにあった格式のある音楽学校、ニューイングランド音楽院の院長 ・トウルジェーの支援と、音楽院教員の・・メーソンの助力によって、将来、日本の学 々校で使われる唱歌を試作することにした。 トウルジェーは明治五年に森有礼代理公使に会ってから、日本の音楽教育に興味を持つよう になっていた。彼は熱心な宗教家で、讃美歌は、異教徒をキリスト教に改宗させるのにもっと

4. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

園児の一人「小松宮の御姫様などは、あまりに立派なお召し物を着てこられるので、なるべ く粗末なものを召されるようにと特にご注意申し上げたこともあった」 ( 前出『日本幼稚園史』 ) というから、遊戯などとてもできる服装ではなかったのであろう。幼稚園というめずらしい施 設に最初に子どもをあずけたのは、この日、皇后と一緒に遊戯を参観した「三條様、岩倉様、 徳川様」など華族たちであったから、園児たちはお付女中に伴われて馬車や人力車で通ってき じゅうどう た。西郷隆盛の弟で、後の海軍元帥西郷従道の子息、従理などは、ロバに乗って登園したとい 華族の幼い子どもたちは、お遊戯によって、スキップ、ジャンプ、ステップといったかなり 難しく感ずる運動を習得しなければならなかったであろう。 古い身体動作を棄てさせるため唱歌遊戯というキリスト教的教育実験を日本に持ち込んだ田 中不一一麻呂は、皇后の授業参観につきしたがった時は司法卿であ「たが、これより先、明治十 三年に文部卿 ( 大臣 ) になることなく文部省を追われている。 明治九年十月五日、アメリカでもっとも由緒ある宣教師海外派遣団体アメリカン・ボードの ートフォードで開かれていた。その大会の壇上に田中不一一麻 その年の大会かコネチカット州ハ 呂が登場したのである。 じゅ - つり

5. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

「蝶々」 うまくすればそれを改良できるでしよう」といっている。 ( 『音楽取調掛時代所蔵目録三』昭和 四十六年 ) メーソンは自分の来日がキリスト教宣教と結びつけられることに神経質になっていた。彼は 文部省のお雇いとして来日するためには、唱歌教育はキリスト教宣教運動のためにするのでは ない、と主張する必要を感じていたのである。 メーソンの気配りが効を奏したのか、明治十一一一年にメーソンははれて文部省お雇い教師とし て来日することができた。が、来日早々、伊沢とは衝突している。そのあたりを伊沢によると、 メーソンは唱歌を原語、つまり英語で歌わせるような指導を行ったのである。「歌詞はあくま でも日本語で」という指導方針が伊沢にはどうしても讓れない一線だった。 「唱歌を英語で歌うなんてことは、ミッションスクール以外では考えられない」 ( 前出『伊沢 修一一選集』 ) と伊沢は濆厩した。 「メーソンはいったい何を考えているのだ」といいたかったに違いない。伊沢が一番苦慮して いたのが、ミッションスクールで歌われる讃美歌と文部省の唱歌との違いを出すことだった。 さらに唱歌について伊沢の考えは、「学校の教育というものは、すべて忠君愛国の大主義を 中、いとして、他の教科はことごとくそれより出ることにならなければならぬ。それゆえにこの 目的に資するところの唱歌と体操、この二つは必要でござります」ということに尽きた。

6. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

六「君が代」 ここで、意外なところから援軍が現れた。ベルリンのフンボルト大学にいる若き音楽学者へ ルマン・ゴチェフスキである。 「ウェ ーバーは間違いで、伊沢がいっているウェップか正解です」 といって、ファックスで楽譜を送ってくれた。見ると、確かに第二の「君が代」と同一曲で、 メーソンの讃美歌の原曲に間違いなかった。ただ 正確な名前はウェップではなく、サミュエ ル・ウェッペであった。 一八七八年にイギリスでグリークラブが設立された時、サミュエル・ウェッペは「グロー丿 アス・アポロ」を作詞作曲した。この合唱曲はクラブが開催される時はいつも最初に歌われた という。グリークラブ・ソングが第二の「君が代」の原曲であった。 一方、第一の「君が代」の由来であるが、明治十三年に、アメリカのクリスチャンとの関係 を深めた田中不一一麻呂文部大輔が文部省から追放されたあたりに関係する。 この時期、明治天皇の側近で、教育勅語の起草で有名な元田永孚らによる教育理念の儒教化 の動きが目立つようになってきた。そのような時に海軍省が宮内省に働きかけて、宮廷音楽 家・伶人の長であった林広守撰譜の現在の「君が代」、つまり第一の「君が代」が制定され、 明治十三年十一月三日の天長節に宮中で初演された。 「英国古代の大家ウエプ氏の作れるもの」という伊沢の説明はどう関係するのか。

7. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

メーソンの末路と台湾の「蝶々」 メーソンは明治十五年の夏、再び日本に来るつもりで、一時、日本をあとにした。しかし、 伊沢たち文部省は、この機会をとらえてメーソンを再任しないことを通告した。 一方、明治一一十四年に文部省を辞めた伊沢は、明治一一十八年に台湾総督府民政局学務部長心 々得となって台湾の教育制度整備に力を注いでいた。 明冶一一十九年、メーソンの訃報に接した伊沢は、弔辞の中で、 「 ( 日本の規則・命令は ) かりに恩師たりし人に対してもこれを曲ぐべからざるはもちろん、余 えた」というのである。 女生徒たちが歌った「君が代ー「春のやよひ」「見わたせば」はいずれも当時の讃美歌によく 使われた曲であったことが、アメリカ側のこのような評価の根拠になったものであった。伊沢 が心血を注いだ日本語の歌詞は彼らには何の意味もなかったのである。 伊沢とその背後の文部省、メーソンとその背後のアメリカの宗教界、両者のまったく異なる 思惑の中で唱歌は完成し、「蝶々ーは、『小学唱歌集初編』第十七番に収録され、その後、『幼 稚園唱歌集』 ( 明治一一十年、音楽取調掛 ) 第一一番にも収録され、今日まで長く歌われることにな つ」 0

8. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

「蝶々」 「蝶々」を生み出した伊沢修ニ 「蝶々」の誕生に深く関わった人物がいる。明治教育界の傑物で、体育と音楽を日本に持ち込 たかとお んだ人物として特に有名な伊沢修一一である。嘉永四 ( 一八五一 ) 年、信濃国 ( 長野県 ) 高遠に 一一十俵一一人扶持の貧士の子として生まれた彼は、明治八年に文部省からアメリカに派遣され、 すめらみ 帰国すると、東京師範学校長補 ( 副校長 ) 、体操伝習所主幹、音楽取調掛長を歴任した。「皇御 国」や祝日大祭日唱歌「紀元節」を作曲した伊沢は「蝶々」と浅からぬ因縁があり、「蝶々 によって出世した人物であるといっていい。 後に文部省編輯局長にまで出世する伊沢が官界に登場した時代は、日本の近代教育の建設期 であった。明治五年に全児童の学校教育を宣言した「学制」が発布されたものの、明治六年の 時点では小学校に通う女子は十五・一ヾ ーセントにすぎず、課題は山積していた。とりわけ、 これまでに類似のものを持たなかった体育と音楽の二教科をどう実現するかは、きわめて困難 な事業と見られていた。 明治六年三月、東京の第一番中学 ( 旧大学南校 ) で生徒が九段坂で雪投げをして邏から罰 げんち 金を科せられるという事件が発生した。警察署長にねじこみ、「罰金を返却する」という言質 をとった伊沢中学幹事に対し、司法次官、江藤新平は「文部省になめられてなるものか」とば かりに伊沢に罰金を科した。

9. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

「むすんでひらいて」 育令ヲ更ニ改正スへキ以前ニ於テ現在施行スへキ件」 ) と注文を付けた。 たてき 三浦梧楼らと武断派を形成していた谷干城も元田の反キリスト教主義教育 の狼煙に呼応し、兵隊訓練導入に荷担した。谷はもと土佐藩士で、西南戦争 では熊本鎮台司令長官として活躍した人物であるが、明治十四年に、藩主山 よ 内家の私塾の流れをくむ海南中学校を任されると、さっそく兵隊訓練、つま 』り兵式体操を導入し、明治十七年に学習院長になった時もそうした。 小学校、中学校、師範学校のすべてで兵式体操を行うようになったのは明 之 楽冶十九年のことであるが、時の文部大臣森有礼にこれを進言したのが谷干城 であったと伝えられている。いずれにせよ森は部下の伊沢修一一の強い制止を し 振り切「て兵式体操を導入した。 蛔陸軍軍人の谷が主張した「軍人養成主義を強調し、体操科中に兵式教練を の加え、陸軍礼法を用いて学校礼式となす」 ( 『子爵谷干城伝』昭和十年 ) は ノ 田中を文部省から追放して後、遊戯・体操を健康目的から軍事目的へと変更 する基本綱領となってい たとえば、明冶十四年に皇后が見た授業では、小学生は唱歌の演奏に先立 ち、お雇い教師が弾く「ピアノの三回鳴らし」に合わせてお辞儀をした。こ 立禮 / 譜 又 のろし ごろう ありのり

10. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

讃美歌として復活を見たのであるが、今様の七五調あるいは八五調四段の起承転結の形式は、 文部省が推進した唱歌の基本形式にもなった。 なかでもキリスト教徒も仏教徒もともに期待して見守った唱歌が、『小学唱歌集初編』第十 五番「春のやよひ」である。 春のやよひのあけぼのに 四方の山べを見わたせば 花盛りかもしら雲の かからぬ峰こそなかりけれ 歌詞は、もともと越天楽の曲で歌われていたもので、『愚管抄』 ( 承久一一年 ) の著者である慈 円の家集『拾玉集』巻五 ( 貞和一一年 ) に収められた「今様」から採られていて、旋律は、破邪 山僧が密告した最初の日本語讃美歌「ハッピーランド」と同じものであった。 の キリスト教の讃美歌の旋律と鎌倉時代の今様とが合体した唱歌「春のやよひ」について、キ 法 リスト教『七一雑報新聞』は、『小学唱歌集』の出版以前に、文部省か信者のよく歌う讃美歌 に合わせて「はるのやよいのあけぼのに」という古き文句を歌わせる準備をしている、と内部 129