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検索対象: 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で
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1. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

「蝶々」 子どもの好みに合いそうな曲であるから、何か日本語で適当な歌 ( 詞 ) を付けてみたらよかろ う」といった。そこで伊沢が、「蝶々の歌 ( 詞 ) を付けて見たところが、偶然にも誠に能く適 合し、メーソン氏も大いに喜はれた」という。 ( 前出『楽石自伝教界周遊前記』 ) 留学前に愛知師範学校で試みた遊戯「胡蝶ーの歌詞をメーソンが示した楽譜に当てはめてみ たところ偶然にもうまくいったというのである。 その楽譜は、メーソンかドイツの唱歌集から採ったものであるが、今日でも、ドイツでは 「小さなハンス」という歌詞で多く歌われている。 今日「蝶々」の原曲について、たいていの本がスペイン民謡だとしているのは、「楽譜は西 班国より伝来して諸邦に行われたるものなるべし」という伊沢の説明以外には、楽譜にしろ伝 聞にしろ、「蝶々」を西班牙国民謡、つまりスペイン民謡とする根拠はいっさい存在しないの である。 メーソンが示した楽譜にたまたま日本の詞があてはまっ たという、考えてみれば実にあっけよいほどの唱歌の誕生 であったが、江戸時代からつづいてきたわらべ歌「蝶々」 生夫 誕丈が、西洋の旋律による「蝶々」に変わった瞬間でもあった 歌岡 唱三のである。

2. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

伊沢本人が、「今日全国に歌われる蝶々の歌の詞はこの時に出来た」 ( 『楽石自伝教界周遊前 記』明治四十五年 ) といっているように、この「胡蝶」の歌詞がそのまま後の唱歌「蝶々」の 歌詞になったのである。 愛国歌に改作されたわらべ歌「蝶々」 曲については伊沢が、わらべ歌をそのまま採用した、といっていることからも、「胡蝶」の 曲がどのような種類のものであったか、想像することはできる。 「蝶々」はもともとわらべ歌として全国的に歌われていたらしく、北原白秋編『日本伝承童謡 集成』第一一巻 ( 一九四九年 ) には山形、群馬、東京から鹿児島に至るまでの多くの歌詞が採集 されている。 愛知では、その歌詞は「蝶蝶とまれ、菜の葉に止れ、菜の葉が枯れたら木の葉に止れーであ った。徳島では「蝶、蝶、かんこ、なのなへとまれ、いやなら、手んてへとまれーと歌われて 々伊沢から、愛知のわらべ歌を採集するようにと命じられた、師範学校教員であった国学者の 野村秋足は、「蝶々の童話を採り、その下半部、すなわち『菜の葉にあいたら』の下を代えて △「日ある如きものーとしたとい , つから、 7

3. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

敵を破ったをぢさんが、 今日は無言で帰られた。 癒しの歌として 唱歌「故郷」の三番までの歌詞全体で表現される故郷は地図上のある特定の故郷ではなく、 心の風景としての故郷であり、あおき山があり、清き水の流れるどこか遠い場所である。 こころざしをはたして、 いつの日にか帰らん、 山はあをき故郷。 水は清き故郷。 「故郷」の歌詞で唯一地理が歌われているのは、兎を追った山、小鮒が釣れる川を歌った一番 郷の歌詞の最初の二行だけであるが、これとても兎も小鮒も山河の枕一一 = 〕葉のようなものだと考え ればひどく抽象的である。 十 しかし一人ひとりの日本人にとって日本とは、つまるところ、山と川があって父母と友達の

4. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

一つとせ 人と生まれたゼズスは 我らのためにと生まれたり このありがたや 二つとせ 冬の寒さもいとわずに 馬屋のうちにうまれたり このありがたや 三つとせ 三国の帝王は来て拝む 三国の土産を捧げおく このありがたや イエスの誕生物語を歌ったこの歌詞のほかにも次のような歌詞もある。 ド・ロさまの歌

5. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

十一「真白き富士の根」 生徒らが途中から泣き出して満足に歌えなかったのを、オルガンを弾いていた三角は、「も う少ししつかり歌いなさい」と注意したという。 彼女は、開成中学校の男子生徒を弟のようにかわいがり、家に「何かしらに憧憬し、何かし らを求める人たちが集まった」といい、 「偉くなって下さい、清くあって下さいと、祈ってさ しあげた方の数も少なくなかった」 ( 三角錫子『婦人生活の創造』大正十年 ) という。 三角錫子は最後の遺体が帰ってきた日の夜、六番までの歌詞を一気に書き上げた。明治一一十 三年に出版された名唱歌集『明治唱歌第五集』にある唱歌「夢の外ーを手本にしたもので、 「七里ケ浜の哀歌」と題したこの歌は、後に、「哀悼の歌」「真白き富士の根」「真白き富士の 嶺」として愛唱される歌の誕生であった。 抹香臭い読経のあとに聞く女生徒の清楚な歌声は参列者の涙をさそったという。しかし盛大 な仏式の法会の最後とはいえ、オルガンに合わせて讃美歌まが いの合唱を歌い、いかにも清教徒的清純さで法会が締めくくら 子れた。これはいったいどういうことか。 角 葬儀の伝統の崩壊 井上章一によれば、明治九年一月八日付『東京曙新聞』が、

6. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

六「君が代」 であった。 彼は、森有礼暗殺のあった年から数えて三年前の明治十九年の天長節に、京都府尋常師範学 校で歌われた「君が代」の記録中に、歌詞が記載されていることを発見した。その歌詞がまぎ れもなく第一一の「君が代」のそれであった。同じようにして、彼は第一一の「君が代ーが実際に 日本各地の学校で歌われた事実を記録の中に発見し、明治前半期に歌われた「君が代」は第一一 のもの、と結論したのであった。 第一の「君が代」が登場する唱歌集には、早い例では明治一一十年に出版された『唱歌をしへ 草』があるが、広く普及するようになったのは、東京音楽学校によって明治一一十一一年十一一月に 編纂・発行された『中等唱歌集』に掲載されたのがきっかけであり、それまでは、宮中の秘曲 のようなものであったといってよい 明治一一十年代まで、小学生らが歌っていた「君が代」は第一一の「君が代ーだったのである。 明治一一十一一年の天長節の日、天皇は確かに二つの「君が代」を聴いたのである。 第ニの「君が代」のルーツ さてそこで、このどこか讃美歌臭い第二の「君が代」のルーツはどこにあったのだろうか。 キリスト教宣教師とも親しく、森人脈にもつながる中心人物の一人で、明治十一一年に音楽取

7. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

「蛍の光」 書よむ月日、重ねっゝ、 いっしか年も、すぎの戸を、 明けてぞ、けさは別れゆく。 とまるもゆくも、かぎりとて、 かたみにおもふ千萬の 心のはしを、一言に さきくとばかり、歌ふなり。 半世紀以上ものあいだ、 乙女らの涙をさそってきた「蛍の光」ではあるが、通常歌われる二 番までの歌詞以外に、実は三番と四番の歌詞がもともとあった。 つくし 筑紫のきはみ、陸の奥。 うみやま遠くへだっとも、 その真心はヘだてなく、 ひとつにつくせ、国のため。 ふみ ちょろづ みち

8. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

中央教育行政機関である学部が設置された。日本で文部省が設置されたのは明治四 ( 一八七 一 ) 年で、近代教育制度である学制が発布されたのが明治五 ( 一八七一 l) 年であったことと比 べると、中国の近代教育制度確立がいかに遅かったかが分かる。中国の学校では独自の唱歌を 発達させる代わりに、日本から唱歌を輸入し、中国語で歌わせた。 明治一一十七 ( 一八九四 ) 年に科挙を廃止した韓国は近代教育制度を整備しはじめたのもっか の間、明治三十九 ( 一九〇六 ) 年から教育権は日本に掌握され、学校では日本の唱歌が教えら れた。明治十八 ( 一八八五 ) 年に活動を開始した韓国ミッションの影響から、讃美歌の旋律に 愛国的な韓国語の歌詞を付けた愛国歌が私立学校などで歌われはじめてはいたが、それが韓国 独自の唱歌として成長する前に日本の唱歌にいわば吸収されてしまったのである。 讃美歌に抗しうる歌を作るとき、日本人の昔からの智慧が働いた。それは肉を切らせて骨を 切る、作戦であった。つまり、肉 ( 旋律 ) は讃美歌のものを採用したが、骨 ( 歌詞 ) は守った のである。そうすることで讃美歌の全面進出を防いだのである。 唱歌について、比較文学研究の泰斗、芳賀徹氏は次のように言う。 「歌詞にはた「ぶりと万葉以来の列島の自然、人事にかかわる詩的映像を盛り込んだ。唱歌が しいわば貯水池となって、それまでの日本の詩歌の水脈をゆたかに受け入れ、それをより平明な 一 = ロ葉でオルガンの伴奏にのせて少年少女に伝えたのであるー ( 『詩歌の森へ』平成十四年 )

9. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

唱歌「蝶々」は、私たちの記憶の中で幼児が無心で歌い戯れる姿と結びついている歌である。 歌詞は、明るく伸びやかで、親しみやすいメロディとよく合っていて、まるで昔から日本の歌 であったかのような錯覚を覚える。 蝶々、蝶々、菜の葉に止まれ 菜の葉に厭いたら、桜に止まれ 桜の花の、栄ゆる御世に 止まれよ遊べ、遊べよ止まれ 戦後の音楽教科書で、「栄ゆる御世に」が「花から花ヘーと変えられたため、蝶々がまるで 桜の花を飛び交うようなイメージが強調されることになり、これに違和感を覚える、という人 もいる。 しかし、肝、いなことは、歌詞から「栄ゆる御世に」の一句が消えたことで、そこに込められ ていたもともとの意味とともに、それにまつわる日米間の文化摩擦の歴史も消されることにな ったことである。

10. 「唱歌」という奇跡十二の物語 : 讃美歌と近代化の間で

1J74 ー一 1 ー当ーー一一重」クラガサイタ」で始まる『小学国語読本巻 一』、通称『桜』が発行された昭和八年に遅れる こと八年のことであった。 『箏曲集』刊行から数えて五十三年後にして、日 本国の象徴としての桜が国語と音楽で揃うことに なった。この時、歌詞も最初に紹介した平易なも のに改良された。 となると「さくらさくら」は明冶から昭和のは じめまではどの程度歌われた歌だったのだろうか。 少なくとも、学校で盛んに歌われた歌だとは考え 学校で歌われなかった半世紀の間、「さくさ さくら」は日本人の間にどのようにして根を下ろ したのであろうか。 これに関して思い出されるのは、宮城道雄が関 東大震災が起こった大正十一一年に作曲した「桜変 サイタ サイク サクラ サイグ 「小学国語読本巻ー』