伊沢本人が、「今日全国に歌われる蝶々の歌の詞はこの時に出来た」 ( 『楽石自伝教界周遊前 記』明治四十五年 ) といっているように、この「胡蝶」の歌詞がそのまま後の唱歌「蝶々」の 歌詞になったのである。 愛国歌に改作されたわらべ歌「蝶々」 曲については伊沢が、わらべ歌をそのまま採用した、といっていることからも、「胡蝶」の 曲がどのような種類のものであったか、想像することはできる。 「蝶々」はもともとわらべ歌として全国的に歌われていたらしく、北原白秋編『日本伝承童謡 集成』第一一巻 ( 一九四九年 ) には山形、群馬、東京から鹿児島に至るまでの多くの歌詞が採集 されている。 愛知では、その歌詞は「蝶蝶とまれ、菜の葉に止れ、菜の葉が枯れたら木の葉に止れーであ った。徳島では「蝶、蝶、かんこ、なのなへとまれ、いやなら、手んてへとまれーと歌われて 々伊沢から、愛知のわらべ歌を採集するようにと命じられた、師範学校教員であった国学者の 野村秋足は、「蝶々の童話を採り、その下半部、すなわち『菜の葉にあいたら』の下を代えて △「日ある如きものーとしたとい , つから、 7
「蝶々」 子どもの好みに合いそうな曲であるから、何か日本語で適当な歌 ( 詞 ) を付けてみたらよかろ う」といった。そこで伊沢が、「蝶々の歌 ( 詞 ) を付けて見たところが、偶然にも誠に能く適 合し、メーソン氏も大いに喜はれた」という。 ( 前出『楽石自伝教界周遊前記』 ) 留学前に愛知師範学校で試みた遊戯「胡蝶ーの歌詞をメーソンが示した楽譜に当てはめてみ たところ偶然にもうまくいったというのである。 その楽譜は、メーソンかドイツの唱歌集から採ったものであるが、今日でも、ドイツでは 「小さなハンス」という歌詞で多く歌われている。 今日「蝶々」の原曲について、たいていの本がスペイン民謡だとしているのは、「楽譜は西 班国より伝来して諸邦に行われたるものなるべし」という伊沢の説明以外には、楽譜にしろ伝 聞にしろ、「蝶々」を西班牙国民謡、つまりスペイン民謡とする根拠はいっさい存在しないの である。 メーソンが示した楽譜にたまたま日本の詞があてはまっ たという、考えてみれば実にあっけよいほどの唱歌の誕生 であったが、江戸時代からつづいてきたわらべ歌「蝶々」 生夫 誕丈が、西洋の旋律による「蝶々」に変わった瞬間でもあった 歌岡 唱三のである。
この件で中学幹事を辞し、謹真中であった伊沢の元に『ゼ・チャイルド』という一冊の本が 届けられた。贈ったのは南校時代の教師で元宣教師のフルべッキであった。 フルべッキは、明治四年の暮れから一年半かけて欧米を巡視した岩倉具視遣欧使節団を計画 するほどの、政府に対して影響力の大きかった人物である。 人生、災い転じて福となすである。この、アメリカでも一般に認知されるのは一八七六年に フィラデルフィア万国博覧会の婦人館にそのモデルが展示されて以降であるという、フレーベ ルの幼稚園の解説書であった『ゼ・チャイルド』が伊沢の人生を切り開いた。 伊沢は明治七年三月に、「まったく教育事業も好まぬというわけでもない」として、エ部省 技師から再び文部省に出仕し、第二大学区愛知師範学校長として赴任しこ。 オここで・仮は、 『ゼ・チャイルド』にヒントを得て、「自己流にしてともかくもフレーベル式の幼稚園に類似し た仕事を創めた」 ( 前出『むすんでひらいて考』 ) のである。 つまり伊沢は、はじめて遊戯なるものを試みた日本人となった。 彼によると、「本邦固有の童謡を折衷して、一一、三の小謡を制し」 ( 『愛知師範学校年報』明治 八年 ) たのであった。それは、「椿や椿、椿の花が開いた」という歌詞の「椿」、古事記の一節 にもとづく「矢を取ろ矢を取ろ、大矢を取ろよ」という歌詞の「鼠」、そして「蝶々蝶々、菜 の葉に止まれ」の「胡蝶ーであった。
唱歌「蝶々」は、私たちの記憶の中で幼児が無心で歌い戯れる姿と結びついている歌である。 歌詞は、明るく伸びやかで、親しみやすいメロディとよく合っていて、まるで昔から日本の歌 であったかのような錯覚を覚える。 蝶々、蝶々、菜の葉に止まれ 菜の葉に厭いたら、桜に止まれ 桜の花の、栄ゆる御世に 止まれよ遊べ、遊べよ止まれ 戦後の音楽教科書で、「栄ゆる御世に」が「花から花ヘーと変えられたため、蝶々がまるで 桜の花を飛び交うようなイメージが強調されることになり、これに違和感を覚える、という人 もいる。 しかし、肝、いなことは、歌詞から「栄ゆる御世に」の一句が消えたことで、そこに込められ ていたもともとの意味とともに、それにまつわる日米間の文化摩擦の歴史も消されることにな ったことである。
「蝶々」 「蝶々」を生み出した伊沢修ニ 「蝶々」の誕生に深く関わった人物がいる。明治教育界の傑物で、体育と音楽を日本に持ち込 たかとお んだ人物として特に有名な伊沢修一一である。嘉永四 ( 一八五一 ) 年、信濃国 ( 長野県 ) 高遠に 一一十俵一一人扶持の貧士の子として生まれた彼は、明治八年に文部省からアメリカに派遣され、 すめらみ 帰国すると、東京師範学校長補 ( 副校長 ) 、体操伝習所主幹、音楽取調掛長を歴任した。「皇御 国」や祝日大祭日唱歌「紀元節」を作曲した伊沢は「蝶々」と浅からぬ因縁があり、「蝶々 によって出世した人物であるといっていい。 後に文部省編輯局長にまで出世する伊沢が官界に登場した時代は、日本の近代教育の建設期 であった。明治五年に全児童の学校教育を宣言した「学制」が発布されたものの、明治六年の 時点では小学校に通う女子は十五・一ヾ ーセントにすぎず、課題は山積していた。とりわけ、 これまでに類似のものを持たなかった体育と音楽の二教科をどう実現するかは、きわめて困難 な事業と見られていた。 明治六年三月、東京の第一番中学 ( 旧大学南校 ) で生徒が九段坂で雪投げをして邏から罰 げんち 金を科せられるという事件が発生した。警察署長にねじこみ、「罰金を返却する」という言質 をとった伊沢中学幹事に対し、司法次官、江藤新平は「文部省になめられてなるものか」とば かりに伊沢に罰金を科した。
の性質としてその強行を務めたるは、君の感情を害せしこと疑なし」 と率直に述べ、最後に、「君が日出国にはじめられたる真実の音楽」である「蝶々」を、今で は台湾の子どもたちが喜んで歌う、と付け加えたのであった。 かって伊沢が唱歌を東京女子師範学校附属幼稚園に及ぼそうとした時、眠気を催す、とか、 経文のようだという酷評ばかりであったが、メーソンが幼稚園で「蝶々ーをヴァイオリンで弾 くと、たちまち園児たちが喜んで飛びついてきた。 メーソンが亡くなったと知った時、伊沢の脳裏にはかってのこの光景がよぎったのではなか ろ , つか
メーソンの末路と台湾の「蝶々」 メーソンは明治十五年の夏、再び日本に来るつもりで、一時、日本をあとにした。しかし、 伊沢たち文部省は、この機会をとらえてメーソンを再任しないことを通告した。 一方、明治一一十四年に文部省を辞めた伊沢は、明治一一十八年に台湾総督府民政局学務部長心 々得となって台湾の教育制度整備に力を注いでいた。 明冶一一十九年、メーソンの訃報に接した伊沢は、弔辞の中で、 「 ( 日本の規則・命令は ) かりに恩師たりし人に対してもこれを曲ぐべからざるはもちろん、余 えた」というのである。 女生徒たちが歌った「君が代ー「春のやよひ」「見わたせば」はいずれも当時の讃美歌によく 使われた曲であったことが、アメリカ側のこのような評価の根拠になったものであった。伊沢 が心血を注いだ日本語の歌詞は彼らには何の意味もなかったのである。 伊沢とその背後の文部省、メーソンとその背後のアメリカの宗教界、両者のまったく異なる 思惑の中で唱歌は完成し、「蝶々ーは、『小学唱歌集初編』第十七番に収録され、その後、『幼 稚園唱歌集』 ( 明治一一十年、音楽取調掛 ) 第一一番にも収録され、今日まで長く歌われることにな つ」 0
讃美歌との違いに苦しんだ伊沢修ニ しかし唱歌「蝶々ー誕生の瞬間こそ、伊沢とメーソンとの確執のはじまりであった。 キリスト教音楽を普及させることで日本社会を改良でき、唱歌の普及はキリスト教の布教の 効果的な手段であると信じていたメーソンと、西洋音楽のよいところを取って、日本音楽を改 良できると信じ、和洋折衷による新しい日本音楽創出の可能性に日本音楽の未来を託した伊沢、 この両者の食い違いはこの後一一人の間の確執となってことあるごとに表面化することになる。 唱歌「蝶々」のよいでき映えに自信を深めたメーソンは、来日することを強く希望し、留学 生監督官、目賀田種太郎に積極的に働きかけた。一方、伊沢は、「伊沢氏がこの問題について 慎重になるのはよく分かりますーというメーソンの一一 = ロ葉からも分かるように、メーソンの来日 の実現に積極的に手を貸そうとはしなかった。それは、一介の留学生の身で、唱歌教育という、 キリスト教宣教運動と誤解されそうな未知のものに手を出して、出世に響くことに真重だった せいであったろう。 文部省の招聘を働きかけるよう懇願した目賀田種太郎への手紙で、メーソンは、「日本人が 私たちの音楽が例外なく宣教事業と結びついていると考えていることはよく分かります。でも、 私たちの音楽は社会でも、家庭でも、日本の習慣とうまくやっていけるのではないでしようか。
三「蝶々」 音楽がキリスト教への戸口を開き 大きな道を準備する。 唱歌誕生に秘められた日米の文化摩擦 ( 小學唱歌 ・ 1 ュッみ一 あを ) 、、。 ~ ~ まをけのてル、 璞々 ( うぐ第・「バは・の・いえ ( ゞゃー・第 六・ = にー第← 3 ト : しト
「唱歌」という奇跡十ニの物語 キリスト教に基づく近代教育は圧倒的な力でアジア太平洋 地域を席捲した。各地の歌謡も讃美歌を歌うことで近代化、 西洋化された。それは逆にいえば、長い伝統をもつ、それ ぞれの地域の歌舞、詩歌が根絶やしにされるということで もあった。その中で唯一、美歌を換骨奪胎して生まれた : 。「むすんでひら ″ミラクル〃が、日本の「唱歌」だった・ いて」「蛍の光」「蝶々」「さくらさくら」など、十二の愛唱歌に 秘められた歴史のミステリー