る老人のようで、私などには、そこに漂う一種の不自然さがおかしみを誘いました。けれども、 この何げない言葉遣いのうちに、古典ーー先生の場合には専攻からいって主として西洋政治哲 と直接かっ不断に対決してきた精神の軌跡が躍如としています。 学の古典ですが 孔子もアリストテレスも、ルッテルもカントも、先生にとっては「昔々あるときに」生きて いたえらい人というよりは、偉人は偉人でも隣りに住んでいて、垣根の向うから声をかけてく れる日常生活のつき合い相手なのです。南原先生の政治学史の講義は、こういう向う三軒両隣 りの偉人たちと先生とが交す会話から成り立っていました。ですからオ 1 ヴァーな言い方をす れば、プラトンとアリストテレスとが、あるいはロックとべンサムとがかりに歴史的順序を逆 にしてあらわれてきても、先生にとっては、会話の順番がちがってくるだけで、それぞれの政 治哲学と先生の政治哲学との直接の対話という、先生の学問の本質的な特徴は変らないわけで す。 私のように青年時代からいわば「歴史主義的」思考の毒に骨の髄まで冒された者にとっては、 っ先生の態度にはどうしてもなじめないものがありました。けれども、政治思想史の方 法論としては、そこにどんなに批判の余地があろうとも、これこそまさに古典を読み、古典か ら学ぶ上でのもっとも基本的な態度であり、しかも現代日本ではますます稀少価値になってゆ く心構えだと思います。こういう心構えで福沢を読んでみようというわけです。孔子やプラト
第 6 講文明と政治体制 「名を争ふて実を害する」というのが、まさに惑溺という思考様式の一つであるわけです。 この惑溺が日本の深い 惑溺にとらわれると、どうい、つことになるか。一に申しましたように、 病理だと彼は見ました。古習の惑溺を一掃しなければ文明に入れない。 したがって、「惑溺」のさまざまな思考様式の打破 個人の独立と日本の独立とが達成されない。 ロ 。ハの啓蒙精神と共通 ということが、彼の根本の使命感になってくる。その意味では、ヨ してきます。つまり、個々のイデオロギー内容の問題よりむしろ、思考様式の変革が百科全書 家たちの使命感でした。ヴォルテールなどでも、政治思想だけをみたら必ずしも急進的ではな ものの考え方を変えていくということが、啓蒙精神の啓蒙精神たる所以であるわけです。 そこで福沢は、すすんで日本で現実に行なわれている最も強い惑溺の思考様式を問題にして いきます。それは同時に儒教的政治思想の「イデオロギー暴露」としてあらわれます。 朗読文五七頁九行ー六〇頁六行全四三頁一〇行ー四五頁一五行 君臣の倫の批判 非常に重要なセンテンスなので、本来は一まとめにすべきですが、便宜上これをさらに区分 けして読んでいきます。 243
( 『経済録』 ) 。同じ言葉を用いて維新期に西周が儒教批判をしていますが、西周は徂徠学に学ん この言葉をあてたのだと思います。もちろん、徂徠学 だので、 physics と ethics との区別に、 は近代ヨーロ ツ。ハの自然科学の知識を背景にしていたのではありません。たた、朱子学の天理 の先天的実在性の主張に反対して、「名」というものは人間がつけたものだから、「物」とは一 致したり、しなかったりする、という、ちょっと実証主義に近い考え方を提示したので、それ が、いわば期せずして明治の啓蒙思想家によって使われたわけです。 君主制の変革可能性 「君臣の論も猶斯の如し」のあとにつづく個所は ( もし君臣関係が先天的に存在するもので あるなら、世界中人間のいるところ必ず君臣があるはずだが、現実を見てみれば決してそうで 制はないではないかという議論です。五倫の中でも他の四つ、父子・夫婦・兄弟 ( 長幼 ) ・朋友は 治世界中どこにでもある。けれども君臣だけはそうではない。現に君主のいない共和国がある。 孟子は「天に二日なし地に二王なし」と言ったけれども、現実に無王の国がいくらでもあるで 明 文 。しかも儒者が理想とする古の唐虞三代 , ーー堯・舜及び夏・殷・周三代ーーにおよぶ 講 聖人による君主政治よりもずっと立派な政治をやっている国があるではないか。 第 こう言うとき、福沢の念頭には、おそらくアメリカ合衆国があったのでしよう。「仮に孔孟を 249
まえがき 生涯をかけた福沢を、いかに重要とはいえ明治八年の著書でもって「代表」させるわけにはい かない。したがって私のこの書はけっして「福沢諭吉研究」ではなく、「福沢諭吉の思想」とさ もし福沢の思想の歴史的展開を論ずるならば、事を私の専門とする えも厳密には言いがたい。 政治思想の領域にかぎっても、いわゆる国権論や皇室論、さらにアジア認識の問題にわたって、 福沢が果してこの『概略』の地点から「転向」したかどうか、つまり彼の思想の生涯にわたる 連続性と非連続性の問題、を避けて通ることはできない。けれどもそれは本書とは別個の課題 であり、すでに福沢研究に踏みこんでいる私としても、そうした問題については、既稿と一緒 と思っている。本書はあくまで『文明論之概略』という にしてあらためて一本にまとめたい、 に即した思想的注釈にほかならな 近代日本の古典ーー私はこれを古典と信じて疑わないが い。ただ、どんなに福沢にきびしい評価を下す人も、この明治八年の著が福沢の最高傑作の一 つであり、福沢の精神的気力と思索力がもっとも充実した時期の産物であることは認めている。 私個人について語るのを許して戴ければ、これほど戦前から何回とかぞえきれないほど繰り返 し愛読し、近代日本の政治と社会を考察するうえでの精神的な糧となったような、日本人によ る著作はほかになかった。 かって服部之総が「主体的に云ってみて福沢惚れによって福沢の真実にはとうてい到達でき ない」と喝破したことがある。 ( 「福沢諭吉」昭和二十八年、「改造」五月号、のち著作集第六巻に収 111
義もキリスト教も回教もそうです。そこで何がそのドグマの正統な解釈であるかということが オーソドキシーの問題です。ただ、キリスト教の場合でいえば、正統と異端という問題は、キ リスト教の教義をめぐって、いずれが本当のキリスト教であるかの争いですから、必ずしも政 治とは関係はありません。オーソドキシ 1 の立場から、それと背反した教えを「異端」とする。 これがヘテロドキシーあるいはヘレジーです。本当の教えに対して、その「外」 ( へテロ ) にあ る教えです。 もちろん、キリスト教の場合でも、教会と政治権力とがからみ合ってきますから、結局は政 治思想の問題にもなってくるのですが、儒学とちがうところは、儒学のドクトリンは、内容そ のものが治国平天下という政治思想だということです。ですから何が本当の古代聖人の教えで あるか、何が唐虞三代の道であるか、ということは、何が政治の本筋であるかという問題と内 面的な連関があることになります。儒学の言葉でいえば、聖人の道が失なわれれば天下が乱れ るのです。だから必ずしも政治を中心課題としないキリスト教史において、たとえばプロテス タントとカトリックとがどちらがオーソドックスであるかとい、つ問題とはど、つしてもちがって きます。もちろんキリスト教でも結局は政治と関係してきますが、本来的には、人間の究極的 な救済の問題です。「わが王国はこの世のものにあらず」とイエスがいうのはそれを示してい ます。ところが儒学の治国平天下は、本来政治哲学の問題なのです。そうすると、そこでは、 176
九山真男 1914 年大阪に生まれる 1937 年東京大学法学部卒業 専攻ー政治学 , 日本政治思想史 著書ー「日本政治思想史研究」 ( 東京大学出版会 ) 「現代政治の思想と行動」 ( 未来社 ) 「日本の思想」 ( 岩波新書 ) 「戦中と戦後の間」 ( みすず書房 ) 「後衛の位置から」 ( 未来社 ) 、 3 物市立朝 6 ー 4 9 0 「文明論之概略」を読む上 ( 全 3 冊 ) 1986 年 1 月 20 日第 1 刷発行◎ 1986 年 2 月 5 日第 2 刷発行 著者 発行者 丸 緑 岩波新書 ( 黄版 ) 325 定価 530 円 山真男 川 お 〒 101 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 発行所登岩波書店 電話 03 ー 265 ー 4111 振替東京 6 ー 26240 印刷・精興社製本・田中製本 落丁本・乱丁本はお取替いたします Printed ⅲ Japan
或は事実に妨げなくば、之れを改めざるも可なり。 ( 中略 ) 随て之れを試み、随て之れを改め、千 百の試験を経て、其の際に多少の進歩を為す可きものなれば、人の思想は一方に偏す可からず。 ( 文六四頁、全四八ー四九頁 ) 以下がこの章全体の結論になります。文明が土台であって、政治は文明の関数にすぎないの だ、ということです。政治は人間活動の中の一カ条にすぎないとは、福沢の根本の議論です。 儒教主義を彼が最も攻撃するのは、最後は必らず政治ーーーっまり治国平天下に行きついてしま うからです。全てが結局、自分が政治権力を得るか、あるいは仁君にしし 政治をしてもらうか どちらかに問題が集中してしまう。そういう政治主義ともいうべき惑溺と彼は生涯闘おうとし だから、右の本文の最後に出てくる「人の思想は一方に偏す可からず」は、前にも申しまし たように、決して左右の両極を排すという意味ではない。単一の説を絶対化してはいけな、、 楯の裏側を同時に見なくてはいけな、、 という戒めとの関連で言うわけです。この文にすぐっ しやくしやくぜん づいて「綽々然として余裕あらんことを要するなり」というのがそれです。精神的に余裕が あるとは、ウェ ー的に言えば、距離をもって見るということです。対象から距離をもっ . て、 余裕をもって見ることによって、対象のカゲの面も見えてくる。そうでないと、対象にぞっこ んいかれてしまうか、あるいは、全然ソッポを向いてしまうか、どちらかに、つまり、どちら 270
一八四八年の共和政治とは、二月革命のあとの共和制です。それは非常に苛酷であって、オ 1 ストリーⅡ ハンガリー帝国のフランツ皇帝の政治よりもその苛酷さが甚しい。オースト丿 ハンガリ 1 帝国は政治形態からいえば立君独裁たけれども、フランスの共和政より実際の政治 の働きはずっと寛大だったというのです。『西洋事情』の外篇巻之二に、より詳しく出ています。 ついでに申しますと、やはり『西洋事情』の初篇のさきの個所につづく部分では、アメリカ 合衆国について「純粋の共和政治にて、事実人民の名代人なる者相会して国政を議し、毫も私 なきは亜米利加合衆国を以て最とす」と述べています。この段階では福沢はまだアメリカのデ しいましたのは、その後、といっても数年 モクラシーを非常に理想化していました。「まだ」と、 ののちですが、この『概略』を書くころ以後は、ミルやトクヴィルを読んで、もっと距離を置 いた目でアメリカ民主政治を見るようになります。 制 さて、この節にもどって、こういうわけだから、君主政治だとか共和政治だとか、その体裁 体 治だけを見ていいとかわるいとかはいえない。「唯一方に偏せざるを緊要とするのみ」。この「一 方に偏」すという表現をここの文脈をはずしてこれだけをとれば、、ゝ し力にも左の両極に偏し 明 文 ないで中道をとれ、といったような意味に解されやすい。この種の古典を読むときの一つの心 6 がまえとして一般に言えることですが、ある命題は必らず全体の文脈の中で理解されなければ 第 も・ ( 十 / も この命題など、とくにいい例だと思います。「一方に偏」するとは、ここでは一 = ロうま ただ みようだいにん ′」う 241
あるいは明治初期の思想家とかいって概括してしまうわけにはいゝ 力ないのです。 いまは主に思想史や文学史の分野で出てくる名前を挙げたのですが、政治家や実業家などの 分野でも、明治の元勲といわれる人は圧倒的に天保生まれが多い。西郷だけがちょっと年長で 文政十年生まれですが、大久保、木戸をはじめ、山県有朋、大隈重信、伊藤博文、井上馨、松 方正義、黒田清隆などもみな天保生まれです。福沢は、これら「天保の老人」世代に属してい る、そのことを、福沢を読むに当って心に留めておくとよいと思います。 近代の知識人 ついでですので、自由民権のイデオロ 1 グも含めて幕末維新期の知識人を理解する上で、で きれば、こういうことはあらかじめ念頭に置いておいたらいいのではないかと思うことを一言 申し述べておきます。 いま一応世代で分けてみましたが、帝国憲法発布、教育勅語になるとまた状況がちがってき ますので、ここではいわゆる純粋な維新後派は一応別にして、志士の世代と自由民権世代とを 幕末維新期の知識人と規定しておきます。この時代の知識人とその活動を理解するには、まず 近代知識人とは何かという一般的な側面と、それから特殊日本の幕末維新期の知識人とは何か という側面、その両方の重なり合いとしてみていかなければならぬことになります。
虚妄を攻撃し、強者の権利の謳歌者にな「てゆくのです。だから、進化の理論まで進歩思想に 入れてよいかどうかは、それだけ孤立してとり出すと疑問になります。イデオロギー的にはア ンビヴァレンスーー両義性をもっているわけですね。中江兆民などを読むと、それがよく分り ます。 兆民の『三酔人経綸問答』に出てくる「進化神」という考え方は、進化神の方向がいいのだ という価値判断の意味が含まれるのかどうか、もう一つ分らないところがある。戦争で国が減 びていくのも進化の神様の作用で説明できてしまう。純粋に生物学的過程としてみるなら、む ろん価値判断の余地はないわけです。だが、「進歩」には、もともと完成思想と結びついている もいという価値判断が当然含まれる。進化論には、その両義性があるところが非常に面 かカら 何 白いところでもあります。 歩ところで、福沢は歴史の無限のかなたに「文明の極地」という完成状態を予想しているので、 のやはり啓蒙の進歩の思想を受容していますが、ただ、同時に進化論的考え方もあります。福沢 洋がスペンサ 1 を読んだのは、『概略』を脱稿した直後と思われますが、すでに『概略』のなか 西 に、対立とか闘争、そういうものを歴史的進歩の一つの契機とみています。競争や闘争を通じ 講 て人間とは向上していくものだという考え方が入っている。「多事争論」によ「て文明が進歩 第 していくという命題にも、それが混入しているわけです。武家政治を肯定して、王室と幕府と 101