近代知識人とは何か。これは話があまり大きくなるので詳しくは立ち入りません。たた結論 的にだけ申します。要するに、伝統社会というか、いわゆる近代以前の知識人というものには、 どの世界でも古代からある意味で共通の要素があるのです。だいたいにおいて知識人といえば、 神官・僧侶とか、日本でいえば律令制などの制度的な大学の博士とか、そういうものです。た だ、江戸時代の儒者とか戯作者などの知識人はちょっとちがっていて、その点、江戸時代は奇 妙に近代社会的なところがあるのですが、これは話がややこしくなるから今は省きます。中世 ヨーロツ。ハでも古代エジプト帝国でも、どこもだいたい同じ特徴があると思います。神官・僧 侶、大学の博士、中国の読書人、それらは身分的Ⅱ制度的インテリであって、彼らは何を任務 にしているかというと、その社会におけるオーソドックスな世界観の独占的な解釈者であり、 また配給者であったのです。 識もちろんここで世界観解釈というのは、哲学あるいは宗教体系の教義解釈という意味よりず のっと広く、われわれの住んでいるまわりの世界にたいして意味を賦与する仕事です。人間はま カオス 末「たく無意味な混沌の世界には生きられません。私たちは自分では意識しなくても、自分につ いて、自分の環境について、世の中について、なんらかの意味づけあるいは秩序づけを不断に 講 しながら生きているのです。「この世の中は無意義だ」というのも、そういう意味づけの一つで 第 す。この意味づけの根幹となる概念枠組なり座標軸を与えるのが、伝統社会における知識人の
あるいは明治初期の思想家とかいって概括してしまうわけにはいゝ 力ないのです。 いまは主に思想史や文学史の分野で出てくる名前を挙げたのですが、政治家や実業家などの 分野でも、明治の元勲といわれる人は圧倒的に天保生まれが多い。西郷だけがちょっと年長で 文政十年生まれですが、大久保、木戸をはじめ、山県有朋、大隈重信、伊藤博文、井上馨、松 方正義、黒田清隆などもみな天保生まれです。福沢は、これら「天保の老人」世代に属してい る、そのことを、福沢を読むに当って心に留めておくとよいと思います。 近代の知識人 ついでですので、自由民権のイデオロ 1 グも含めて幕末維新期の知識人を理解する上で、で きれば、こういうことはあらかじめ念頭に置いておいたらいいのではないかと思うことを一言 申し述べておきます。 いま一応世代で分けてみましたが、帝国憲法発布、教育勅語になるとまた状況がちがってき ますので、ここではいわゆる純粋な維新後派は一応別にして、志士の世代と自由民権世代とを 幕末維新期の知識人と規定しておきます。この時代の知識人とその活動を理解するには、まず 近代知識人とは何かという一般的な側面と、それから特殊日本の幕末維新期の知識人とは何か という側面、その両方の重なり合いとしてみていかなければならぬことになります。
第二講何のために論ずるのか ーー第一章「議論の本位を定る事」 思想史の方法について 私は以前、南原繁先生の古稀祝賀論文集『西欧思想史における西洋と日本』下 ( 東京大学出版 会、一九六一年 ) に「近代日本における思想史的方法の形成」という論文を書きました。そのは じめに、近代日本の思想史の方法論の歴史的展開をだいたい五つぐらいの段階に分けてみまし 第一段階が文明論的文明史、文明史としての思想史です。 る ず第二段階が同時代的思想史。この段階は明治二十年頃からはじまります。先に申しましたよ うに明治二十年頃というのは、幕末維新期に生まれ、あの大変動を直接経験しない世代が成年 め に達したときで、近代日本の自己意識の開始という意味で一つの転機なのです。ですから、 の 何 わば維新後派によ「て書かれた同時代史の叙述は維新からはじまっています。それは民友社の 講 系統が多い。竹越与三郎の『新日本史』がそのいい例です。これは未完の書物ですが、非常に 第 よくできた本で、古典といっていいものです。徳富蘇峰の『吉田松陰』の初版もこのカテゴリ
役割です。天地創成の神話からはじまって「十戒」とか「五倫五常」というような基本倫理の カテコリー をその社会に住む人間に教えるのが、制度的知識人の任務なのです。 そうしますと、近代知識人の誕生というのは、まず、身分的制度的な錨付けから解放される こと、それから、オ 1 ソドックスな世界解釈の配給者という役目から解放されることが前提と なります。そういう二重の意味で「自由な」知識人がここに誕生する。このことは、どこの国 の歴史を見ても、だいたいそう言えると思うのです。多様な世界解釈が、ちょうど商品が市場 で競いあうように、思想の自由市場で競いあう時代がくる。これが近代の誕生であり、ヨーロ ツ。ハでいえばルネッサンス 「デカメロン」の時代です。近代の知識人というのは、何らか の仕方で思想の自由市場での競争に関与している。商品の自由と同じく、思想の自由市場も、 どこまで本当に「自由」かという問題は残りますが、すくなくもそこでは、知識人の思想や言 論が何らかの権力や制度によって特別に保護されている関係がなくなります。ですから、逆に 言うと、マルクス・レーニン主義が体制のオーソドックスな世界観になった社会主義国におい ては、知識人の位置と役割は、ある意味で、古代エジプトの僧侶やヨーロツ。ハ中世の司祭・神 学者のそれに近くなっている面があります。 維新の日本でもやはりこれと似たことが起ります。身分的には幕府や藩の絆から解放される ということです。明治の初期に活躍した知識人、たとえば明六社に結集した人びとは、皮肉な
ヤは、伝統社会との関係においては、程度の差こそあれ、どうしても革命的であるわけですか ら、私は、ウェップのように、革命的インテリゲンチャの中に < 型と型を分け、その相互移 行関係を見るほうが面白いのではないかと思います。 そういう任務を負っていますから、近代知識人の課題に必然的につきまとうディレンマがあ ります。近代知識人という職業というか、任務につきまとうディレンマとは、一つは、真理の 普遍性に対する信仰です。これは言いかえれば、世界市民的な側面ということになります。先 に申しましたように、身分社会から解放されて、思想の自由市場で多様な世界解釈を競うわけ 普遍的 ですから、どうしたって、ユニヴァーザリズム、普遍主義の側面を持たざるをえない。 ットメントが一つの側面です。 な「世界解釈」の提供者ですから、真理の普遍性に対するコミ しかし、他方、これも先に申しましたように目的意識的近代化の役割を課せられているわけ 識ですから、知識人に寄せられる期待なり役割なりは、どうしても特殊な集団に限定される。た のとえば、日本をどういう国にするか、日本という国の独立をいかに計るかというふうに限定さ 維 れざるを得ない。 これは、さっきの真理の普遍性とは逆に、。ハティキラリズム ( 特殊集団主 末 義 ) へのコミットメントです。世界とか人類の問題よりも、まず日本を優先することになりま 講 す。ここに当然ディレンマがあるのです。そうして、目的意識的近代化とは必ず計画的な近代 第 とする 化ですから、同時に選択的な近代化になります。何もかも一度にやることはできない。
これが、いわゆるナショナリズムとインターナショナリズムの問題とな「てあらわれてくるわ けです。 日本近代のディレンマ そういうディレンマは、近代知識人の職業本来のディレンマであるだけでなくて、同時にそ れは、知識人が解決しようとしている課題それ自身に内在しているディレンマでもあるといえ ると思います。これも日本に限りません。中国であれ朝鮮であれ、あるいはずっとのちの時代 までもってくれば、ヴ = トナムであれ、アフリカ諸国であれ、いまの第三世界の当面する解決 すべき課題自ディレンマが内在していると私は思います。 民族のアイデンティティ、同一性の問題です。これはよく言われる たとえば、その一は、 識テーマに言いかえれば、伝統と欧化、あるいは伝統と近代化の問題になります。日本がい「た いどこまで「欧化」してしかも相変らず日本でありうるのか、という問題です。これは実は今 新 一般的には、過去を変え、あるいは変って行きながら、しかも同 の日本でも解決していない。 末 一性を保っていくこと、これが、国民あるいは民族のアイデンティティの問題であり、そこに いディレンマがあるのです。近代日本の国体論というのも実は単にせまい意味の政治的イデオロ 第 ギーだけではなくて、日本のアイデンティティの問題がそこに含まれているから厄介なのです。
と、何を先にし、何を後にするかという優先順位の設定という問題が出てくる。これがあとで 見ま亠ョよ、つに、 この『文明論之概略』を貫通する一つの大きなテーマになっています。 この問題は、維新のときだけではなく、その後も日本の近代史にずっとっきまとってきま す。「富国強兵」というのもそうでしよう。 一口に富国強兵がゴールだった、と、 しいますが、 その場合でも富国が先なのか強兵が先なのか、まず富国にしてしかるのち強兵にしようとする のか、又はその逆なのか、あるいは両方ともいい加減にしておいて別の目標を設定するのか。 目的意識的近代化とは、このように目的と手段との両面で選択的な近代化になるわけです。 わゆる自然成長的近代化の場合はそうではない。結果としてある面が優越したということはあ るけれども、それをはじめから目的意識的に優先して選択するという場合とはちがうのです。 明治天皇の御製「よきをとりあしきをすてて外つ国に劣らぬ国になすよしもがな」は、ある意 味では実に簡潔にこの課題を表現していますね。今の第三世界の指導者はみなこの「御製」で やっています。 「よきをとりあしきをすてて」というのは指導者にと「ての基準であり、特定民族にとって の基準です。決してユニヴァーサルに「よい」とか「わるい」という基準ではない。政治家の 場合はそれでいいのです。しかし、知識人としては、思想の自由市場での多様性のなかで真理 性を競うという普遍主義的な側面がともないますから、どうしてもこの二つが矛盾してくる。
たがってそこから卓抜な応用能力が生まれます。 キソーは、霊界の 近代ヨーロツ。ハ文明の多様性とその諸要素の闘争状態の由来については、・・ 権力と現世の権力、神政政治、君主政治、貴族政治、共和政治などの共存と対立抗争、あるい は自由、富、権勢など諸価値の対立抗争など、いろいろ挙げています。しかし、当面この。ハラ グラフに関連していえば、教会に代表される霊的な権力と国家の俗的な権力という二元的対立 が大事です。福沢はこれを古代王朝にたいする中世武家政治の台頭に読みかえたのです。 、ギソーよ、、 します。「遂に教会は、社会にとって重大な意味をもっ企てを開始しました 私がいうのは、俗権と霊権との分離ということです。この分離こそ良心の自由のただ一つの本 ッ 0 、、、、 ノカこれがためにあれほど長いあい : 良心の自由の原理は、ヨーロ 生当の源泉であります。 邯だにわたって闘い、そのためあれほど苦しんだものであり、また、それが一般に支配すること 論あのように遅く、その勝利は多くの場合に聖職者の意に反したものでありましたが、どんなに 事逆説的にみえようとも、この良心の自由の原理が、まさに俗権と霊権との分離という名におい てョロツ。ハの幼年期に作用したのです」 ( 第二講 ) と。 由 ・目 ここで大事なことは、俗界の権力と霊界の権力とが分離したことにより、形而下の権力は、 講 という根本原理が形成され 聖なるもの、あるいは信仰や真理に対して権力も勢力ももたない、 第 たことです。それは、そもそも教会が、国家に対して独立していなかったならばできなかった。 151
幕末維新の かならぬ福沢も、のちの章で展開される明治維新論で明らかになりますように、 「革命」 ( と彼は呼んでいますが ) を、門閥専制にたいする人民の智力の向上に基づく「戦争」 ととらえております。だからこそ、この革命過程の説明においては、「単一の説」への集中度の 甚だしい幕末攘夷論にさえも、一定の歴史的役割と意義とを認めているのです。右の二つの 「自由」観がどう関係するのか、というのは福沢の場合にかぎらず、きわめて厄介な議論にな りますので、ここでは立ち入りません。たた、近代的自由にはその二つの要素がともに内在し とい、つことだけ附一言しておきま ていて、簡単に一方だけを切りすてるというわけに行かない、 す。ただ、今読んでいる「多事争論」の議論の文脈のなかでは、福沢は明らかに「諸自由」の 方の意味を強調していることは、お分りになると思います。 ところで、「多事争論」の命題につづけて、 ま ふさ 秦皇一度び此の多事争論の源を塞ぎ、其の後は天下復た合して永く独裁の一政治に帰し、政府の 家は屡よ交代すと雖ども、人間交際の趣は改むることなく、至尊の位と至強の力とを一に合して 世間を支配し、其の仕組に最も便利なるがために、独り孔孟の教のみを世に伝へたることなり。 ( 文三四頁、全二四ー二五頁 ) とあります。ここで注目すべきは政府のレヴェルと「人間交際」のレヴェルとが区別されてい しばしば 148
あって、時代的な古さは少なくも第一義的な意味を持ちません。これは「古典経済学」とか、 「古典音楽」とか、それぞれの領域で、古典が帰属する時代がちがうのを見てもお分りでしょ う。その意味では、江戸時代によく使われた「経典」とか「典範」というコトヾ ノの方が、「古」 典というより、クラシックの含意をョリ正しく伝えています。ただ、一定の時間の風雪をくぐ らなければ、規準や範型も確立しないので、その限りでは、時代的な古さということも通常ク ラシックに随伴する要素といえます。すくなくも生れたてのホャホヤの新刊や新作が、その瞬 間にクラシックになるとい、つことはありません。 してみると、「古典離れ」の背景には二つの要素の複合が推察されます。第一は、客観的な規 準とか確立された形式というものが手応えのある実在感を喪失した、という問題です。第二に は、新刊・新品・新型をたえず追いかけないと気が済まず、そうしないと「時代遅れ」になる かという不安感です。こういう精神態度が、二つながら戦後日本において増幅されたのは確かで 学すが、果してそれほど最近の現象でしようか。「今時の若い者」に限られた傾向でしようか。私 は必ずしもそうでなく、これには長い歴史的・文化的背景があるように思えるのです。 ら 典そういう日本文化論をここで述べたててもキリがありません。ただ簡単に私の独断をいえば、 古 第一の点については、そもそも文化に規準とか形式性を賦与したのは、古代では中国であり、 序 近代では西欧だったという事情が挙げられます。学問にとっても芸術の上でも、範型という意