聖教の論も、儒説も仏説も、攘夷のテロリズムさえも、むしろ「楯の反面」としてのプラス面 を見て組み合わせれば、「用法如何」によっては「最後最上の大目的」のために活かせるのだ、 という議論が展開されます。現下の最後最上の大目的は自国の独立です。ですから「最後最 上」といっても、それはここでの「議論の本位」に制約され、けっして窮極目的ではありませ ん。これは結局はビスマルクのいう「可能性の技術」 (KunstdesMögIichen) としての政治的思 考の常識をのべたものです。「物の軽重」とか「事の緩急」とかが最後まで強調されるのもその ためです。 むろんこの個所にも当時の士族の出処進退について「一身と、議論と、其の出処栄枯を共に ~ する者あり」といったような痛烈な批判的警句も出てきますが、全般的にいえば鋭い舌鋒は背 かレレヴァンス 形後に退いています。「此の術は果して此の目的に関係あるもの歟 ( 関連性の問題 ) 、若し関係あ 国らば何れの路よりして之れに達す可きもの歟 ( 迂路か近路かの問題 ) 、或は直に達す可き歟、或 民あいだ は間に又別の術を置き此の術を経て後に達するもの歟 ( 直接的方法か間接的方法かの問題 ) 、或 いすれ か 権は二の術あらば孰か重くして先なる可き歟、孰か軽くして後なる可き歟 ( 方法の優先順位の問 題 ) 」 ( 文二六四頁、全二一二頁 ) というようなことは具体的実践に際してはきわめて困難な思考で 講 すけれども、いずれも政治的に成熟した思考の常識ですから、抽象的命題としてみれば平凡で 第 あって鬼面人をおどろかすようなところはどこにもありません。それどころか、文の結びの か か か か 295
さて、つぎは人民同権をとなえる日本知識人の、ネーション同権問題にたいする不感症をと りあげる段になります。 華士族と云ひ平民と云ふも、等しく日本国内の人民なり。然るも其の間に権力の不平均あれば、 尚且っこれを害なりとして、平等の地位に置かんことを勉めり。然るに今、利害を別にし、人情 を異にし、言語風俗、面色骨格に至るまでも相同じからざる、此の万里外の外国人に対して、権 そもそ うれ 力の不平均を患へざるは、抑も亦、何の由縁なるや。咄々怪事と云ふ可し。 ( 文二四六ー二四七頁、全一九七頁 ) しわゆる民権論と国権論とはほとんど 明治十年以後、自由民権運動がもり上った段階では、、 不可分の関係で論じられるようになります。しかし、その場合でも、日本の国権を伸長するに は、民権、とくに国会への参政権を確立しなければならないという議論はあっても、人民平等 の理念と国家平等論との。ハラレルな思想的関係は必ずしも明確に意識されていませんでした。 いわんや福沢がこの『概略』を書いた明治七、八年のころは「咄々怪事と云ふ可し」と福沢が慨 嘆するほど、国家平等の問題を普遍的理念として論ずる知識人の世論がまだ少なかったのです。 ちょうど板垣らの民撰議院設立建白をめぐって、囂々たる議論が起ったころに当ります。 なぜこういう事態が生ずるのか。福沢はもっとも顕著な理由として二か条を掲げます。第一 なお とっとっかいじ 262
はちょっとちがった面から光を当てております。が、要するに大義名分的尊王論で、「御一新」 にわか の人心を説明しようとすると、「百千年の間、忘却したる大義名分を俄に思出した」という奇妙 な帰結に陥る、と例によって嘲弄的調子で一蹴します。もちろん福沢は君主制の否定論者では なく、維新革命によって天下の政権が幕府から王室に帰した以上、日本国民が王室を尊奉する のは当然かっ必要と考えております。ただこの。ハラグラフでのべているように、それはあくま 策で「君主」が将軍や藩主から天皇にかわ。た、という「政治上の関係」に限定すべきであ「て、 対それ以上に天皇と人民との間の「交情」を急造しようとしてはいけない、そういう無理を人民 々に強いると、その結果は「偽君子」っまり偽善者を生むだけだ、というのが福沢の議論です。 と明治七、八年頃には皇室にたいする人民の情緒的な帰依がいかに存在しなかったか、という 空 真ことを状況認識として福沢がこのようにのべていることは、それが同時代人の証言であるだけ 精に興味があります。福沢は明治十年代に至「て、政府と自由民権運動との抗争の激化するなか 後で、『時事新報』に「帝室論」 ( 明治十五年 ) を連載し、またのちに「尊王論」 ( 明治二十一年 ) を書き 新ました。そこでの福沢の皇室論と『概略』における尊王論批判との関係は、福沢研究者にとっ ての大きな論争点の一つです。 講 『概略』の注釈という本書の性格上、この問題に深く立ち入ることはできませんが、ただ一 第 点だけ、ここで触れておきます。それは、今読んでいる個所で、福沢が「皇学者流」にたいし 223
デルにとるのが適当です。逆にいえば、足利末期は門閥や家柄などがいちばんものをいわなく なった時代であり、それだけ個人の独立の気象がためされやすい時代ということになります。 この点、さきに「出世デモクラシー」の問題性の典型的な例として秀吉を出してきたことと関 ハの場合と情況が異 連があるわけです。むろん異民族の侵入という意味では根本的にヨ 1 ロノ 1 マの貴族対古ゲルマン「蛮族」の関係は、ここ なりますが、それを承知のうえでいえば、ロ では京都の公家あるいは大社寺勢力対戦国武士団の関係にあたりますし、後者の無教養という 点も似ております。こうしてつぎのような福沢の診断が生まれます。 ゲルマン 此の事勢の中に在りては、日本の武人にも自から独立自主の気象を生じ、或は彼の日耳曼の野民 が自主自由の元素を遺したるが如く、 我が国民の気風も一変す可きに思はるれども、事実にて は決して然らず。 ( 中略 ) 此の時代の武人、快活不羈なるが如くなれども、此の快活不羈の気象は、 一身の慷慨より発したるものに非ず、自から認めて一個の男児と思ひ、身外無物、一己の自由を しから 楽しむの心に非ず、必ず外物に誘はれて発生したるもの歟、否ざれば外物に藉て発生を助けたる ものなり。何を外物と云ふ。先祖のためなり、家名のためなり、君のためなり、父のためなり、 およ いくさ 己が身分のためなり。凡そ此の時の師に名とする所は、必ず是れ等の諸件に依らざるものなし。 ( 文二〇四頁、全一六四頁 ) ふき 150
そじよう つまりそれらがどういう社会的 = 政治的役 俎上にあげるのではなくて、いわば「外から」 割を果しているかとか、どういう階級的あるいは党派的利害関係を隠蔽したり、美化している か、という観点に重きを置く批判様式です。現実には政治闘争の過程で「敵」の思想の隠され た動機や役割を暴露するときに用いられるのですが、カール・マンハイムなどはこの批判様式 を一つの社会学的な方法論として確立しようとしました。それはともかく、私がこの第九章の 福沢の批判をそういう名で呼ぶのは、日本の宗教なら宗教について、その教義内容およびその 理念の内在的な歴史的発展などには目もくれないで、それが日本文明において占める社会的地 し 位とか政治的役割とかを白日下に曝しているからです。 国しかも第二にここで福沢は「権力の偏重」という彼独得の用語によ「て、あらゆる社会的、 、、てつけっ て 文化的領域に潜んでいる人間関係の「構造」的特質を横断的に剔抉しているのです。したがっ あ 府てこの点でも、福沢の批判は、思想史もふくめておよそ日本文明の足跡を歴史的にたどろうと する目から見たならば、あまりにスウィービングであることを免がれないでしよう。しかしそ 本 んなことは福沢にいわせれば百も承知なのです ( むろん福沢が挙げる個々の歴史的事例の不正 日 確さは別の問題です ) 。第十四講のはじめにも申しましたが、むしろここでは福沢は意識的に 講 6 非歴史的にふるまっているのです。この章で歴史的変動の考察や教義の内在的理解が不足して 第 いることは、そこに示されたおどろくべく斬新な社会学的な分析が払わなければならなかった さら
これも見逃されやすい大事な個所です。 らゆうげん 小民を思へば気の毒なれども、武人の党与にては、上、大将より、下、足軽中間に至るまで、 上下一般の利益と云はざるを得ず。啻に利益を謀るのみに非ず、其の上下の関係、よく整斉して、 。、ロし。即ち其の条理とは党与の内にて、上下の間に人々卑屈の醜態 頗る条理の美なるものあるカ の ありと雖ども、党与一体の栄光を以て、強ひて自から之れを己が栄光と為し、却て独一個の地位 そ 現 をば棄て、、其の醜体を忘れ、別に一種の条理を作りて之れに慣れたるものなり。此の習慣の中 発 の に養はれて、終に以て第二の性を成し、何等の物に触る、も之れを動かす可からず。威武も屈す 重 偏 ること能はず、貧賤も奪ふこと能はず、儼然たる武家の気風を窺ひ見る可し。其の一局の事に就 ざいせき の カ き一場の働きに就て之れを察すれば、真に羨む可く、又慕ふ可きもの多し。在昔、三河の武士が、 権 徳川家に附属したる有様なども、此の一例なり。 る ( 文二〇六ー二〇七頁、全一六六頁 ) お 領前に出てきた言葉でいえば、どうして誇り高い武士が「児戯に等しき名分」などに疑いを抱 かないのか、どうして抑圧の委譲にすぎない上下関係に甘んじてきたのか。もし、これを上級 講 権力者にたいする「卑屈の醜態」として道徳的に糾弾するだけなら、それは外在的批判に終り 第 ます。それだけにとどまらず、武士団が「党与」を結んでいることが、第一に彼らの利益にも すこぶ ただ かみ うかが どくいっこ 159
りません。そういう誤解のないよう、福沢は、実質的にはいままで読んできたところで、すで にいたるところに伏線をはっております。 上巻の序でのべたことのおさらいになってしまいますが、何より第一章「議論の本位を定る 事」との照応関係において、つまり議論の本位を定めるという前提があって、その前提のもと に、「自国の独立を論ず」が結尾になっているということが大事なのです。議論の本位を定める ことの一つの大きな意味は、前述のように議論を限定することです。何ごとも絶対命題として いっているのではない。ですから、この最後の章では、「本書第一一章に云へる如く」というよう に、くりかえしこれに先行する章を参照しています。冒頭の。ハラグラフに、 そもそ およ 抑も文明の物たるや、極めて広大にして、凡そ人類の精神の達する所は悉皆其の区域にあらざる はなし。外国に対して自国の独立を謀るが如きは、固より文明論の中にて瑣々たる一箇条に過 ぎざれども、本書第二章に云へる如く、文明の進歩には段々の度あるものなれば、其の進歩の度 に従て相当の処置なかる可からず。 ( 文一三九頁、全一八三頁 ) とあるのがそれです。 自分の国の独立などということは「瑣々たる一箇条」にすぎないとは、当時の状況としては しつかい 204
の そ 朗読文一九五頁四行ー一九七頁一四行全一五六頁一二行ー一五八頁一四行 現 発 の 動宗教、権なし の最初は日本の宗教です。最初に宗教をも「てきたのは、やはりよく考えていると思います。 権力の偏重が日本をどのように特徴づけるか、それを宗教の歴史的地位がいちばんシンポリッ けクにあらわしているからです。宗教というのは人間の内面的良心に関係する領域なのに、そこ に権力の偏重があらわれているというのは非常にドラスティックな例といえます。そうした、 領宗教の例を最初にも「てくる構想は、この章に先立つ「西洋文明の由来」なしには出てこない のではないか。中巻で申しましたように ( 一九八頁以下 ) 、福沢はどちらかといえば宗教オンチ 講 でした。宗教を社会的役割から功利的に見る傾向がつよい。ですから内村鑑三以下近代日本の 第 クリスチャンは一般に福沢の思想にたいして非常にきびしいのです。福沢の宗教ことにキリス 第十七講諸領域における「権力の偏重」の発現その一 ーー・第九章「日本文明の由来」一一 119
際の恐るべき害悪への面を心配しろ、心配しろと声を大にして叫んでも、西洋人の世界支配の 現実について無知である以上、心配のしようがない、 という意味です。「西欧的国家体系」は歴 史的には内部における主権国家の平等な国際関係と、その外部の世界の植民地化との両面的過 程で進行したわけですから、以下において福沢は、欧米列強の世界におけるヘゲモニーの由来 を、ごく具体的個別的に挙げてゆくのです。 西欧列強の世界的覇権 へ 朗読文二五二頁一一行ー二五三頁一一行全二〇二頁七行ー二〇三頁四行 成 形 の アメリカ : 」以下の節は、文脈からいえば前にのべたイギ 国右のテキストにつづく「今の亜米利加は : 国リスの印度支配の段落をここにもってきて、そのあとにつづけてもよい文章です。さきにのべ 権た、福沢の。ハセティックな直情が爆発している典型的な例ですので、長きをいとわずこの際は 原文をほばそのまま掲げます。 講 第 今の亜米利加は元と誰の国なるや。其の国の主人たる「インヂャン」は、白人のために逐はれて、 269
ですから、権力をほしいままにするのは、その人間に内在する特性ではなくて、行動の一定の ハターンなのだということをここで述べているのです。だれしもが、そういう関係におかれた ら、そのように行動してしまう。そういう行動様式の。ハタ 1 ンとして問題を明らかにしようと している。 たしかに政府というところは、権力をほしいままにしやすい「場」だといえる。しかし、政 府で権力をほしいままにする人物が、村に居たら村で、市に居たら市で、やはりそういう行動 をするだろう。封建時代は原則として地位・身分が世襲なので、いかにもそういう行動様式が 身分の属性のようにみえるけれども、なかには「賤民」を政府の要路に登用した例がある ( 側用 人などのことをいうのでしようか ) 。ではその場合には、これまでの当局者と行動様式がちが うか、というと、何のことはない。下に向かって権力をほしいままにする点は同じだ。だから ひとり政府の役人だけが威張っていると見たら皮相な観察で、実際は「我が国民一般に免かる 可からざるの流行病」なのだ。そう前提しないで、政府が擅権の源だという前提から出発する と、全国の人民はただ政府在官の間のみ、この流行病に感染して、任官の前と、退官の後とは 無病という結論になる。これはオカシイじゃないか。もちろん、 そもそ おのず 抑も権を恣にするは有権者の通弊なれば、既に政府に在りて権を有すれば、其の権のために自か