肉体を制するの事は世俗の腕力に属し、精神を制するの事は寺院の権に帰し、俗権と教権と相対 つかさど しかのみならず 立する者の如し。加之、寺院の僧侶が俗事に関係して、市在民間の公務を司るは、羅馬の時代よ り行はる、習慣なれば、此の時に至るまでも其の権を失はず。後世の議院に僧侶の出席するも、 其の因縁は遠く上世に在りて存するものなり。 ( 寺院、権あり ) ( 文一六九頁、全一三四ー一三五頁 ) 右にいう「若し此の時代に此の教なからしめなば、欧羅巴の全州は一場の禽獣世界なる可し」 はギゾ 1 第二講のなかの「この時期にもしキリスト教会がなかったならば、全世界はたんなる プルートフォースえじき 源獣力の餌食に陥ったにちがいない」の一句とほとんど同じです ( もっともフランス語原文で マテリエル 的は「獣力」でなくて、「物的な力」ですが : : : ) 。ギゾ 1 は歴史家らしく、キリスト教会におけ 元 多る精神的引内面的要素と階層的 = 権威主義的要素とのからみ合い、その両義性に着目しながら こういうのですが、福沢の方は教義内容を「妄誕」としながらも、帝国末期のアナ 1 キー状態 のなかで「活気と熱意に充ちて」 ( ギゾー ) 布教に従事する聖職者団にたいして「其の胆略も亦大 一なりと云ふ可し」と率直な感嘆を吐露します。けれども右の段の核心はいうまでもなく、「肉体 を制する」俗権と「精神を制する」教権との分離という点にあります。これがどんなに強烈な 講 印象を福沢に与えたかは、右の数段あとのところーー紀元千百年から千二百年代にかけての中 第 世キリスト教全盛時代をのべるところ ( ここに先述した宗教本質論がでてきます ) につぎのよう
弁証法とは 松村一人 哲学・思想 レ」、つい、つ , ものか 宗教 松浪信三郎 中村雄二郎実存主義 哲学の現在 木田元ョ 1 ロツ。ハ歳時記植田重雄 加藤周一現象学 沢田允茂 日本人の死生観上・下 現代論理学入門 矢島翠訳 ソクラテス 田中美知太郎 仏教〔第二版〕渡辺照宏 人間ー過去・現在・未来マンフォ 1 ド 斎藤忍随 上・下 久野収訳プラトン 渡辺照宏 日本の仏教 イスラーム哲学の原像井筒俊彦デカルト 渡辺照宏 野田又夫死後の世界 ギリシア哲学と現代藤沢令夫ルソ 渡辺照宏 桑原武夫編お経の話 戦後思想を考える日高六郎ルネサ目 野間宏 よ 一スの思想家たち野田又夫親鸞 書生きる場の哲学花崎皋平 村上重良 0 朱子学と陽明学島田虔次国家神道 中村雄二郎 波知の旅への誘い 村上重良 ・ ( ッペン ( イム慰霊と招魂 山口昌男近代人の疎外 粟田賢三訳 イエスとその時代荒井献 個人主義の運命作田啓一 滝浦静雄 時間 塩カ 聖書入門 働くことの意味清水正徳 なだいなだ 権威と権力 浅野順一 ョブ記 文化人類学への招待山口昌男 丸山真男 日本の思想 ンーグフリート 松浪信三郎 死の思索 現代日本の思想久野収 = ダヤの民と宗教木一郎訳 中村雄二郎 術語集 イスラーム ( 回教 ) 蒲生礼一 世直しの倫理と論理 田実 「文明論之概略」を読む丸山真男上・下 ( 1986.1 )
末 非武装国民抵抗の思想宮田光雄法律 政治 マ 宮沢俊義 ウ憲法講話 クラウスニック 近代民主主義と ナチスの時代 福田歓一 その展望 内山敏訳日本の憲法〔第一一版〕長谷川正安 憲法問題 憲法読本上・下 国際政治を見る眼武者小路公秀法律 研究会編 ォルドリッジ 核先制攻撃症候群 月島武宜 後藤昌次郎日本人の法意識 服部学訳冤罪 上田誠吉 近代政治思想の誕生佐々木毅 日本の刑事裁判青木英五郎誤まった裁判 後藤昌次郎 高榎堯 現代の核兵器 比較の日本国憲法樋口陽一経済 坂本義和なかの 軍縮の政治学 渡辺洋三近代経済学の再検討宇沢弘文 新・核戦略批判豊田利幸法とは何か 書中東情勢を見る眼瀬木耿太郎家庭の法律〔第一一版〕川島武宜イギリスと日本森嶋通夫一 渡辺・清水編続イギリスと日本森嶋通夫一 新データ戦後政治史石川真澄現代日本法入門 野弘久・・ミルと現代杉原四郎 岩苦悶するアフリカ篠田豊納税者の権利 食糧と農業を考える大島清 香港 岡田晃現代日本社会と 渡辺洋三 民主主義 ロワンⅡロビンソン 石川博友 穀物メジャー 核の冬 小林直樹 高榎堯訳憲法第九条 経済学とは何だろうか佐和隆光 国際連合 明石康嫌煙権を考える伊佐山芳郎 日本の巨大企業中村孝俊 *AO 条約と日本中山和久転機に立っ 渡辺徳二 佐伯康治 兼子仁石油化学工業 地方自治法 情報ネットワ 1 ク社会今井賢一 政治 岡義達家族という関係金城清子 挑戦する中小企業中村秀一郎 近代の政治思想福田歓一 0 経済データの読み方鈴木正俊 日本の地方自治辻清明
岩波新書新版の発足に際して 岩波新書の創刊は、一九三八年十一月であ 0 た。その前年、すでに日中戦争が開始され、日本軍部は中国大陸に侵攻し、国内もまた 国粋主義による言論統制が日ましに厳しさを加えていた。新書創刊の志は、もとより、この時流に抗し、偽りなき現実認識、冷静な科 学精神を普及し、世界的視野に立つ自主的判断の資を国民に提供することにあった。発刊の辞は、「今茲に現代人の現代的教養を目的 として岩波新書を刊行する」とその意を述べている。一九四四年、苛烈な戦時下にあって、岩波新書は刊行点数九八点をもって中絶の やむなきにいたり、越えて四六年、三点を発行したのを最後に赤版新書は終結した。 一九四五年八月、戦争は終った。日本の民衆が、敗戦による厳しい現実を見据え、新たな民主主義社会を築き上げてゆくためには、 自主的精神の確立こそ一層欠く・ヘからざる要件であった。出版という営みを通じて学術と社会に尽すことを念願とした創業者の遺志を 継承し、戦時下の岩波新書創刊の趣意を改めて戦後社会に発展させることを意図して、一九四九年四月、岩波新書は、装を新たにして 再発足した。「現代人の現代的教養」という辞は、この青版新書において、以前にもまして積極的な意味を賦与された。幸いに博く読 者に迎えられ、本年四月、ついに青版新書は刊行総点数一千点を数えるに至った。創刊以来四十年の歳月を通じて、多数の執筆者が協 力を吝しまれず、広汎な層に及ぶ読者の支持を得た結果である。 戦後はすでに終焉を見た。一九七〇年代も半ばを経過し、われわれを囲繞する現実社会は混迷を深め、内外にかって見ない激しい変 動が相ついでいる。科学・技術の発展は、文明の意味を根本的に問い直すことを要請し、近代を形成してきた諸要の概念は新たな検討 を迫られ、世界的規模を以て、時代転換の胎動は各方面に顕在化している。しかも、今日にみる価値観は、余りに多層的であり、多元 的であるが故に、人類が長い歴史を通じて追究してきた共通の目標をすら見失わせようとしている。 この機において、岩波新書は、創刊以来の基本的方針を堅持しつつ、ここに、再び装いを改めて、新たな出発をはかる。二十世紀の 残された年月に生き、さらに次の世紀への展望をきりひらく努力を惜しまぬ真摯な人々に伍して、現代に生きる文字通りの新書として、一 その機能を自らに課することを念願しつつ、この新たな歩みは始まる。 赤版・青版の時代を通じて、この叢書を貫いてきたものは、批判的精神の持続であり、人間性に第一義をおく視座の設定であった。 いま、新版の発足に当り、今日の状況下にあってわれわれはその自覚を深め、人間の基本的権利の仲張、社会的平等と正義の実現、平 和的社会の建設、国際的視野に立っ豊かな文化創造等、現代の人間が直面する諸課題に関わり、広く時代の要請に応えることを期する。 読者諸賢の御支持を願ってやまない。 ( 一九七七年五月 )
丸山真男 1914 年大阪に生まれる 1937 年東京大学法学部卒業 専攻ー政治学 , 日本政治思想史 著書ー「日本政治思想史研究」 ( 東京大学出版会 ) 「現代政治の思想と行動」 ( 未来社 ) 「日本の思想」 ( 岩波新書 ) 「戦中と戦後の間」 ( みすず書房 ) 「後衛の位置から」 ( 未来社 ) 「文明論之概略」を読む下 ( 全 3 冊 ) 1986 年 11 月 20 日第 1 刷発行◎ 岩波新書 ( 黄版 ) 327 定価 530 円 著者 発行者 丸 緑 まる 山 川 やま 真 まさ 男 お 〒 101 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 発行所岩波書店 電話 03 ー 265 ー 4111 振替東京 6 ー 26240 印刷・精興社製本・田中製本 落丁本・乱丁本はお取替いたします Printed in J apan 0 卩 0 ー
あとがき とえば、この書の中に出て来る外国語一一 = ロ葉にすべて日本語訳をつけてくれ、という注文があった。私 自身、上巻の「まえがき」で「カタカナ一言葉が氾濫」する今日の思想論文にいちゃもんをつけている 手前、右の注文には論理的に反駁するすべがない。けれどももしこれに沿うことを真面目に考えると すれば、時には ( ルビ書きをふくむ ) 一語にたいし数行の説明が必要となり、そうでなくてさえ専門研 究者には自明なことをだらだらと冗長に解説しているのではないか、という思いにたびたび駆られな がらゲラを直している私には、どの辺で折り合いをつけたらよいのか見当がっかなくなる。「万人の 気に入るようにするのは誰の気にも入らないことになる」 (Topleaseeveryb0dyistopleasenob0dY) という、中学で覚えた英語の諺がしきりに頭に浮んだ。結局、「新書」で福沢の注解をすること自体が そもそも身のほど知らずの試みだったのかもしれない。 なお、中・下巻の校訂については、上巻であげた植手教授とともに、北大の松沢弘陽教授、関西大 の掛川トミ子教授が私の健康への配慮から、多忙の間に惜しまぬ助力を与えて下さった。あらためて 解釈についての責任がすべて私にあることはいうまでもない。 深甚の謝意を表したい。 一九八六年初秋 丸山真男 335
あとがき あ - 」がき一 ようやく、下巻の刊行まで漕ぎ着けた。著者としては出来如何にかかわらず、責をはたしただけで ホッとしているが、おそらく編集担当者・出版社は最後までハラハラしながら完結を待っていただけ に、あるいは著者以上に安堵していると思われる。下巻の刊行が予定より大幅におくれたのは、著者 が中巻の出るころに入院し、退院後も療養を余儀なくされたためである。けれどもそれとともに、著 者がゲラの校閲と補完に一層慎重にな「た、という事情もつけ加えておかねばならない。 率直に言って私はこういう形で福沢の主著の注釈を出すことについて、後智恵で考えれば安易だっ たことを告白しなければならない。簡単なことからいえば、もともとの読書会でのお喋りの際の一寸 した言い間違いが最後まで残る結果になった。これは出発点がテープ起しではなくて、ゼロから原稿 用紙に書き下すことからはじめれば避けられた筈のミスであった。さらに恐ろしいと感じたのは、完 全に私の思いこみから来た間違いである。例をあげよう。上巻で、昭和になって祭政一致を綱領に掲 げた内閣の名を平沼内閣としたが、これはむろん林内閣の誤りである。二、三の知友からの礼状でこ ッと気がついた。これは、もし戦後派の歴史家が書いたならばけっして れを指摘されて私自身すぐハ 冒さなかったであろう種類の誤謬である。なぜなら彼は必ずやこれを年表でたしかめるだろうから 。なまじ時は私の青年時代のことであった。しかもそのころ林銑十郎内閣につづいて、第一次近
たらしめるものがありました。 福沢に的を定めたという点については、このイラン女子学生の志望はやや特別のケースとい われるでしよう。けれども今日、第三世界の指導的知識層が、近代日本のあけばのとしての明 治維新に熱いまなざしを注いでいるのは御承知のとおりです。 日本はわずか一世紀あまりの間に、今日の第三世界に実質的に近い国際的地位から、統一国 家の形成の試錬をくぐりぬけ、ついには軍事的な帝国主義的膨張を実践するまでの長い道のり を一気に駆けぬけました。そうして現代においては前講にも一端をのべましたように、熱核兵 器の問題だけでなく、南北問題が象徴するような貧富国家の対立の地球化、さらに金融・貿易 組織から多国籍企業の輩出にいたるまでの世界経済の構造変化、いわんや社会的文化的レヴェ ルにおいてさまざまの形でもはや国家を媒介とせずに、世界中の人びとが直接かっ多層的に接 触する傾向が急激に増大したことは、主権国家を主要単位とする世界秩序原理の決定的な破綻 の様相を物語っております。私たち日本人は、西欧が数百年を要した経験を何段とびかの離れ 業で、とびこしました。その意味ではすくなくも国家レヴェルにおいて日本は「一身にして数 生を経」たともいえます。けれども、サ、、 トの開催国であることを誇る今日の日本も、他面 では依然として「国際人の養成」といった意味不明の言葉が通用するほど、精神的鎖国から抜 330
生ときいたとき当然に男子と思いこんでいた私は意表をつかれる思いでした。招じ入れてイラ ンから日本の文部省留学生試験に応募したいきさつなどを一通りきいた私は彼女にたずねまし たーーせつかく難関を突破して留学生になったからには、法学・政治学の基礎的な勉強になる 課目が少くないはずなのに、どうして福沢をテキストにする演習などに参加するのか、と ( なお 法学部ではゼミは自由参加であって正式の単位になりません ) 。彼女の答えは大要つぎのよう なものでした 私の祖国イランは古代には世界に冠たる帝国であり、また輝かしい文化を誇 っていたのに、近代になって植民地の境産に沈淪し、いまようやくそこからはい上ろうとして いる。日本は西欧の帝国主義的侵略の餌食とならず、十九世紀に独立国家の建設に成功した東 「アジア唯一の国家であった。私はその起動力となった明治維新を知りたいので、維新の指導的 位思想家としての福沢について学びたい、 の 書私は、近代日本をモデルにするなら、たんに成功物語としてだけでなく反面教師としても学 んでほしい、といったありきたりの意見をのべたように記憶しておりますが、黒い瞳を向けて 緒何か思いつめたような真剣な表情で語る彼女と対面しながら、私の脳裏を瞬時に掠めたのは 突飛な連想といわれるかもしれませんが ーー自由民権時代を代表する政治小説『佳人之奇 び遇』 ( 東海散士著 ) に登場する女性志士の面影でした。ついでに一一 = ロえば、この外国人女子学生の淀 みのないテキスト朗読と し、ヾックルの書物にまであたった報告とは、日本人の参加学生を瞠若 どうじゃくっ 0
新』の小著さえ ( 福沢は「少々不快と偽り、閑を設け」たと告白しているように、仮病をつか ってようやく成ったものでした ( 明治十二年八月十五日、猪飼宛及び同年八月二十八日、奥平宛書簡 参照 ) 。つまり、 いまや福沢は ( 翻訳をふくめて ) 第一義的に著述家であることをやめて、学校経 営者兼日刊新聞ジャーナリストという二役を兼ねる人物に変貌したのです。これはむろん福沢 がもはや思想家でなくなったとか、その変貌が明治十年代以後の福沢の論著の思想的価値をそ れまでより低くした、という意味ではありません。ただ彼の著作活動において、私がさきにの べた意味においての時事論が圧倒的比重を占めるに至ったことの一つの説明にはなるでしよう。 こうして福沢が「緒言」のなかではのべていた「余も亦、年未だ老したるに非ず、他日必ず此 の大挙 ( 「文明の全大論と称す可き」述作を指す ) あらんことを待ち、今より更に勉強して其の一臂 の助たらんことを楽しむのみ」という抱負はついに見果てぬ夢に終りました。 かって『文明論之概略』をテキストにして学部演習を行う掲示を出したおり、ある日事務室 から、イランの外国人留学生が演習参加志望の件でこれから伺うからよろしく、という電話が 研究室にかかってきました。間もなく私の部屋をノックする音がきこえたので、「どうぞ」とい って扉の方に顔を向けると、黒ずくめのワンビ 1 スに身をつつんだ若い女性が立っているでは ありませんか。東大法学部には日本人でさえ女子学生はきわめて少数だったので、外国人留学 328