たらしめるものがありました。 福沢に的を定めたという点については、このイラン女子学生の志望はやや特別のケースとい われるでしよう。けれども今日、第三世界の指導的知識層が、近代日本のあけばのとしての明 治維新に熱いまなざしを注いでいるのは御承知のとおりです。 日本はわずか一世紀あまりの間に、今日の第三世界に実質的に近い国際的地位から、統一国 家の形成の試錬をくぐりぬけ、ついには軍事的な帝国主義的膨張を実践するまでの長い道のり を一気に駆けぬけました。そうして現代においては前講にも一端をのべましたように、熱核兵 器の問題だけでなく、南北問題が象徴するような貧富国家の対立の地球化、さらに金融・貿易 組織から多国籍企業の輩出にいたるまでの世界経済の構造変化、いわんや社会的文化的レヴェ ルにおいてさまざまの形でもはや国家を媒介とせずに、世界中の人びとが直接かっ多層的に接 触する傾向が急激に増大したことは、主権国家を主要単位とする世界秩序原理の決定的な破綻 の様相を物語っております。私たち日本人は、西欧が数百年を要した経験を何段とびかの離れ 業で、とびこしました。その意味ではすくなくも国家レヴェルにおいて日本は「一身にして数 生を経」たともいえます。けれども、サ、、 トの開催国であることを誇る今日の日本も、他面 では依然として「国際人の養成」といった意味不明の言葉が通用するほど、精神的鎖国から抜 330
体系の黄昏を告げる鐘でもあったのです。第一に、もっとも誰の目にも顕著な事実として、世 界秩序における新たな覇者として登場した二大強国ーーー米国とソ連ーーはたんに地域的に、狭 義の「西欧」の外に位置しただけでなく、ともに巨大な「連邦」として、これまで西欧諸国家 に妥当したような国家平等原理になじまないような、いわばそれ自体一つの新しい秩序単位 世界のなかの世界ーーーをなしております。しかも、第二にそのうちの一つ、ツア ト・ロシアの呼びおこした「プロレタリア革命」は、一世紀ちょっと前のフランス革命に輪を かけたような普遍主義的な「マルクス主義」のイデオロギーを通じて世界に伝播し、主権国家 内部の階級対立にとどまらず、西欧的国家体系の外周をなして来た植民地の反帝革命 ( 国際的 階級闘争 ! ) の火種となりました。歴史の皮肉はそれにとどまりません。ウイルソンの提唱し た「民族自決主義」の世界的普及は結果としては、い まや百数十国におよぶ世界秩序の構成単 位へのワン・ワールドの原子的分裂をもたらしたのです。かっての西欧的国家体系は各主権国 家への分裂にもかかわらず、共通の古典、共通の世界宗教、共通の法源 ( ローマ法やゲルマン 法 ) といった靭帯への暗黙の了解によって結ばれていました ( ですから今日の・ 0 はまったく 新しい共同体ではなくて、いわばシャルマーニ大帝時代への「復帰」の意味をも帯びている わけです ) 。ところが、十九世紀末から顕著になったワン・ワールドへの動向というのは、テク ノロジーの発達といった一応価値中立的な要因を別とするならば、実はこの西欧的国家体系の 298
諸原則をグロ 1 。ハルに延長したものにすぎないのです。共通の見えない歴史的文化的靭帯を基 しまや異質的な宗教、異質的な世界観、異質的な生 礎とした西欧的国家体系の「地球化」は、、 活様式をその内部にかかえこんだ「世界秩序」に変貌したのです。ワン・ワールドの形成の楯 の反面が、なんら暗黙の共通了解のない原子化された国家もしくは国家群相互間の地域的武力 衝突の激化であり、このワン・ワ 1 ルドの警察的機能を実質的に執行しているのは、、相も変ら ず主権国家を組織の構成単位としている国際連盟や国際連合ではなくて、米ソーーそれ自体主 権国家の一員にすぎない の超大国であり、実質上は彼等を主導とする「国際的制裁」に秩 序維持が依存しているところに、現代世界の「構造」的矛盾が象徴されていることはいまさら ~ 喋々の要はないでしよう。 形 この世界秩序の構造的変化は福沢の予想をはるかにこえたものでした。いや、福沢だけでな の 国くて十九世紀の思想家でこうした巨大な変貌を予見したものは、国家主義者はもとより、平和 国主義者、国際主義者、社会主義者にいたるまで、誰一人としていなかった、といってもいいす 権ぎではないでしよう。国家主権の絶対性への批判、いな進んで「世界国家」の提唱もくりかえ し行われました。それは福沢のいう「結構人の議論」だけでなくて、人間性への深い洞察をふ 講 くんだ宗教家や哲学者によっても強調されてきました。けれども、果して然らば西欧的国家体 系の地球大への拡大にかわって、どういう 具体的な世界秩序の構想があったか、主権国家にか 299
の断言でした。 私はいたずらに揚足取りをしているのではありません。ただ、領域団体としての主権国家と いうものは依然として私たちが観念的に考えるよりはるかに重たい存在として現在私たちの頭 上にのしかかっている、ということを申したかったのです。早い話が私どもが海外旅行に出る 際には旅券やヴィザの取得の面倒な手続きに悩まされます。けれどもかりに私たちが「無国籍 者」として海外に出たら、世界中でどういう取扱いを受けるでしようか。現代の日本にも国家 の存在をひたすら呪詛するラジカルな論客に事欠きません。しかし、そういう人々が、かって 「地球上自由生」と名乗って国籍の離脱を敢えて申し出た自由民権運動家 ( 栗原寛亮・宮地茂 ~ 平 ) の行動の後を継いだという話はどうもあまりきかないようです。 形福沢が『概略』の結びで悲願とした主権的国民国家の形成というテーマの「古臭さ」をいも 国その歴史的制約を口で語ることは容易ですが、さてしからば主権国家を構成単位とする世界秩 国序の代案は何か、という点になると、かっての帝国主義諸国家も、またその足跡を口をきわめ 、こ、いわんやその実行に、成功していない 権て弾劾する国家群も、いずれもそうした代案の提示。 のが実状です。今日核戦争による人類共減の可能性は、すくなくも頭の中では世界の万人によ 講 「て理解される現代の危機です。けれどもどんなに顕著で巨大であろうと、それは「西欧的国 第 家体系」を基礎とした現在の世界秩序の危機の表層に位置します。この危機の地殻をほりさげ 301
す。そこでギゾーの叙述は十六世紀にいたって一種の歴史的逆説に当面せざるをえません。と いうのは、前述のように宗教改革はこの霊界における専制権力の打倒運動として現われ、精神 世界に限定されてはいても「自由探究」への途をきりひらくのですが、歴史的には同時期に俗 界における「純粋君主政」の確立が進行するからです。この逆説的な発展が英仏両革命のあり 方の重大な相異をもたらします。福沢においては単純に時間的順序のズレの問題に帰せられ、 またギゾ 1 自身も究極的には自由探究の原理と純粋君主政の原理との一大衝突という意味で二 つの革命は同じ意味をになうのですが、十七世紀イギリス革命においては、聖俗両世界におけ る自由獲得の企図が同時的に進行した、という意味では、ギゾーによればイギリスはヨーロ " ハ史における「例外」を構成するのです。 このイギリスの例外性のなかにギゾ 1 は長短両様の特徴を見ます。この特徴は必ずしも宗教 改革の場合にかぎらないのですが、要するにイギリス史を見ると、俗的秩序と霊的秩序、貴族 政・君主政・民主政、また地方分権制度と中央集権制度といった異った原理が併行して発展し、 「どんな旧い要素も完全に絶滅せず、どんな新しい要素も全勝をおさめず、特殊な原理が一つ として独占的支配に到達しませんでした」 ( 最終講の冒頭 ) 。これにたいしョ 1 ロツ。ハ大陸では トウール 各々の異質的な原理や要素が、時間的な継起において発展し、いわば自分の出番を待って出現 した、というのです。してみると、ギゾーがさきに、ヨーロツ。ハ文明の特徴としたところの、
為シタルモノト看做ス」という規定は、その事実上の実効性如何をこえて、戦争観念の革命的 な変化を告げる宣言でした。なぜならこの規定は、戦争が主権国家の紛争当事国の問題であ「圏 て、他の国家は「中立国」としての権利・義務をもつだけであるという 、長い間通用して来た ワン・ワールド 考え方からは理解できず、むしろ、侵略戦争の遂行は「一つの世界」の法秩序を侵害する行為 だ、とみる考え方に立っているからです。第二次大戦における「戦争犯罪人」という新しい法 概念、とくに捕虜虐待や非戦闘員殺傷の罪をこえて一国の最高戦争指導者を国際的戦争犯罪人 として裁く観念の登場はまさに戦争観のこうした劃期的な変化を前提にしてはじめて理解でき ます。それはたんに戦争にたいする抽象的道義観に基づくのではなくて、テクノロジ 1 の地球 的発達による主権国家の相互依存性が著しく増大したためです。一方におけるこうした国際規 範の発展と、他方における現実の権力政治あるいは「国際軍事法廷」なるものの実態との間の 矛盾は、かえって十九世紀的な世界秩序の構造変化が不可逆的であり、しかもワン・ワールド の秩序が実定法秩序としては未だ甚だしく不備なのはもちろん、思想的構想としても未成熟で あるという過渡的様相から生まれた矛盾にほかなりません。この問題は本講の最後にあらため て触れるつもりですが、要するに現代の、とくに国際戦争が不断に核戦争化の危険を包する にいたった今日のイメージを、十九世紀に投影することは著しく非歴史的なのです。戦争は独 ュニヴァーサル・ライト 立国の権義 ( 権理通義の略で、普遍的権利の意です ) を伸ばす術だ、という福沢の断言はむしろ
ずいぶん思いきった留保の仕方です。しかし、いまはその瑣々たる一箇条にこそ賭けなければ いけないのだ、というわけです。この両方の面をおさえないと、福沢を理解することはついに とい、つの 不可能です。自国の独立など文明論全般のなかでは「瑣々たる一箇条」にすぎない、 が福沢の大命題です。しかし同時に、日本の独立がいまは緊迫した課題なのだ、ということも また大命題です。その両者の緊張関係のなかにこの書を置いてはじめてそれが生きてくるので 応 前に読んだところにちょっと戻ってみましよう。 の 々第一章の終りころに「今の時に当りて、前に進まん歟、後に退かん歟、進みて文明を逐はん 歟、退きて野蛮に返らん歟、唯、進退の二字あるのみ。世人若し進まんと欲するの意あらば、 空 真余輩の議論も亦見る可きものあらん」とありました。これがここで自分の定めた議論の本位な それも一つの考えだろう、しか しいというのなら進まないでいし 精のだ、文明に進まなくても、 後しもし進もうという意思があれば、自分の議論にも見るべきものがあるだろうというわけです。 新本書の所論に最初からきちんと留保をつけています。 また、第二章の初めの方で、「西洋諸国を文明と云ふと雖ども、正しく今の世界に在りてこの 講 名を下す可きのみ」といっていました。細かくみていけば西洋にも不満足な面はいつばいある。 第 西洋諸国は、世界無上の禍というべき戦争を事としているではないか。強盜殺人もあり、党与 205
ち、上皇の宣旨を読むことができたのは武蔵国の藤田三郎一人だけであ「たという例が出てき ますが、これは『吾妻鏡』に出ている話です。 数十百年の騒乱の間、学問はもつばら僧侶によって維持されてきた、その点では儒教は仏教 にはるかに及ばない。ただし、これは日本だけの現象とはいえない。福沢はおそらくギゾ 1 に よって、ヨーロ ツ。ハにおいても、世間に学問が開けていくのは千六百年代以降のことだといっ ております。一六〇〇年代といえば、日本では江戸時代以降になります。 江戸時代になって、幕府はいわゆる文治政策をとりますから、学問がさかんになってくる。 のみならず、仏教や神道の その点ではヨーロ ツ。ハに比しても日本もそんなに遅れてはいない。 教義やあるいは民間信仰にある迷信 ( 虚誕妄説 ) を排した点に、福沢は儒学の「合理主義」の役 割をむしろ評価します。にもかかわらず、西洋とは学問のあり方が出発点からちがった。その 両者の相違とは何か。ここに問題があるというのです。 乱世の後、学問の起るに当りて、此の学問なるもの、西洋諸国にては人民一般の間に起り、我 が日本にては政府の内に起りたるの一事なり。西洋諸国の学問は学者の事業にて、其の行はる、、 あたか いわゆる や官私の別なく、唯学者の世界に在り。我が国の学問は所謂治者の世界の学問にして、恰も政府 の一部分たるに過ぎず。 136
みず 抱かしめたることもある可し。唯、自から之れを知らざるのみ。世上に此の類の事は甚だ多し。 何れにも、其の局に当らざれば、其の事の真の情実は知る可からざるものなり。 ( 文二四八ー二四九頁、全一九九頁 ) というこの段の結びが導き出されることになります。「権力の偏重」が日本社会の構造として 「三角四面の結晶物」をなしている、という第九章の認識のうえに立って、自分自身も意識し ないで百姓町人にたいして不平憤懣をいだかせる行動をとったかもしれない、 という醒めた目 かたき がここにあります。ですから「封建門閥は親の敵」という実感を下士出身の福沢が持っていて ルサンチマン も、もつばら被害者面をして上に向って怨念をぶつける態度とは対照的に、自己抑制・が実によ く効いているのです。 国際的な抑圧は国内的なそれと。ハラレルであるだけでなく、異質的なカルチアの問題が入 ってくるだけに、ヨリ悪質でヨリおそろしい。そのことは士族民権論者たちも、今後に世界社 会において「法的規制の外にある華士族」に比すべき西洋列強と直接ひんばんに接触し、立ち 向かうようになれば、「権力不平均」ということが、国内であろうと国際間であろうと、 厭悪すべきかを、たんに抽象的観念論としてではなく、身に沁みて覚るだろう、というわけで す。これは現在 Z 第二位の経済大国として東南アジアその他第三世界の地域の原地住民に たいしてふるまっている日本の在外公館や商社の人々にそのまま進呈したい言葉です。福沢は 266
( 文二四二頁、全一九三ー一九四頁 ) —l という一節に注目しておきましよう。「人力を用ふるの多少」というのは、たんに労働人口の多 少という意味ではありません。そのあとに加工品製造国は「無形無限の人力を用ひ」、原料生産 国は「有形有限の産物を用ひ」というのと対応しています。人力には智が内包されているから、 無限の可能性をもち、本来有限の天然産物にたよるのと対照的な意味を帯びることになるので す。これは「智力」の作用を詳説した第六章などに関連する議論となります。 も経済論ですが、ここでは外資導入が問題にされています。福沢は西洋諸国の対外投資を 人口の急激な増加の対策の一つとしてとらえています。大体、工業化進展期の普遍的特色の一 ~ つは人口の爆発的増加です。現在では第三世界がまさにその段階にありますが、十九世紀ヨー 形ッヾゞゝ ノカカってそうであり、また明治以後の日本がやはりそうでした。福沢はヨーロ、 。ハの経 の 国済学者の説として ( とくに誰かは特定できません ) 、この爆発的な人口増加を処理する方法三つ 国をあげ、その三番目に対外投資を置きます。一般論は本文について見ていただきたいのですが、 的 権日本については「方今、日本にても既に若干の外債あり、其の利害得失を察せざる可からず」 といって、つぎの問題を提出しております。それは文明の進歩とともに、生活程度が上昇し、 講 文明国が生計の費用を「下流の未開国」に求めるようになり、未開国が外資を導入して利息を 第 払う結果「世界の貧は悉く下流に帰す」ることになる、というのです。それ以上の詳しい説明 ひん 255