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検索対象: 「文明論之概略」を読む 下
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1. 「文明論之概略」を読む 下

ごとに新しく注釈する必要のある個所はほとんどありません。ですから以下は、論旨の脈絡に 主眼をおいて構成を明らかにするにとどめます。 総括は大きく前半と後半の部分から成っています。前半は「国の独立は目的なり、国民の文 明は此の目的に達するの術なり」という目的と手段の関係を論じています ( 文二五九頁一行ー二 六三頁一行、全二〇七頁一一行ー二一〇頁一四行 ) 。後半の部分は、その目的達成のために複数的 な「術」を組み合わせてゆく思考法の問題で、もっとも広い意味において成熟した政治的思考 とは何か、が典型的にのべられております ( 末尾まで ) 。 このことを頭において、さらに、すでに分析のすんでいる段落をとばしながら読めば とえば文庫版二六〇頁 ( 全二〇八頁 ) の「或人云く」の一段をとばしてその前行の「心身共に穎 敏ならんことを欲するのみ」から、文二六一頁 ( 全二〇九頁 ) の「故に又前説に返りて : : : 」云々 の段を読み進み、文二六二頁三行目 ( 全二一〇頁二行目 ) の「唯文明とのみ云ふときは : ・ 一段をまたとばして、二六三頁 ( 全二一〇頁 ) の「斯の如く」云々 ( これが第二の総括です ) から 終りまで読んでゆけばーー議論の筋道はつかめるでしよう。 文二五八頁一三行ー二六〇頁八行全二〇七頁七行ー二〇八頁一三行 文二六一頁一〇行ー二六二頁三行全二〇九頁一二行ー二一〇頁二行 びん 朗読 290

2. 「文明論之概略」を読む 下

朗読文二二三頁四行ー一三七頁六行全一七丸頁七行ー一八二頁一三行 理財の要 以下、「経済の第二則に」云々から、この章の終りまでが、第二則の議論と経済論全体の結論 になります。さらにその冒頭から、「却て物の生を害するが如し」 ( 文一三四頁三行、全一八〇頁三 行 ) までが一段落で、この終段の総論に当ります。 、ランセスに 理財の要は、活湲敢為の働きと、節倹勉強の力との間のチェックス・アンド・ ある、と福沢はのべます ( 「勉強」というのは仕事をすることです。むろん学問の勉強も「勉強」 の一種ですが : : •) 。要するに財の蓄積と財の活用と双方が補完関係になければならないとい うのです。そうしてこの点でも「智力」と「習慣」と二つの要因を強調していることに注意し て下さい 活湲敢為の働きというのは、さきには徳川の身分制の中で敢為の精神がほとんどなくなった と述べていましたが、相対的に見れば農工商よりは、まだしも士族の方にある。しかし、士族 はもつばら消費するばかりの種族だから、経済の領域にあらわれると消費の側面にばかり活 敢為が発揮されることになる。そうすると、どうしても消費乱用に傾きやすい。経済的に見る 196

3. 「文明論之概略」を読む 下

す。このさまざまの説をこの際、便宜的な名称で個条書きにしておきましよう。原文の順序に 従わない、と私が言ったのはまさにこの部分ですから、さきに列記しておいた方が便宜上よい と思います。それはつぎのようになります。 尊王論的国体論 儒教の聖人の道 ④キリスト教立国論 ④万国公法論または天地の公道論 攘夷論、およびその新版としての軍事的ナショナリズム論 鎖国復活論 尊王国体論批判 朗読文二三三頁一二行ー二三六頁三行全一八七頁一行ー一八八頁一七行 こうして「識者」の対応として第一に登場するのが、の尊王論的国体論です。右の段にす ぐっづく個所です。王政復古がイデオロギ 1 的には「神武創業の古に復る」という建て前でお 218

4. 「文明論之概略」を読む 下

起する」文明とはどういう文明か、という点について念を押す必要があるわけです。これが前 一まず保留すると私が言「て説明をとばした「思想浅き人は : : 」以下の。ハラグラフに当 ります。 思想浅き人は、輓近世の有様の、旧に異なるを見て、之れを文明と名づけ、我が文明は外国交際 たまもの の賜なれば、其の交際愈よ盛んなれば世の文明も共に進歩す可しとて、之れを喜ぶ者なきに非ざ れども、其の文明と名づくるものは、唯外形の体裁のみ。 ( 中略 ) 仮令ひ或は其の文明をして頗る 高尚のものならしむるも、全国人民の間に 一片の独立心あらざれば、文明も我が国の用を為さず、 之れを日本の文明と名づく可からざるなり。地理学にては土地山川を以て国と名づくれども、 余輩の論ずる所にては、土地と人民とを併せて之れを国と名づけ、其の国の独立と云ひ、其の国 の文明と云ふは、其の人民相集りて自から其の国を保護し、自から其の権義と面目とを全ふする ものを指して名を下だすことなり。若し然らずして、国の独立文明は唯土地に附して人に関せざ るものとせば、今の亜米利加の文明を見て「インヂャン」のために祝す可きの理なり。或は又、 朗読 文二五三頁一六行ー二五四頁一一行全二〇三頁八行ー二〇四頁一行 文二六二頁三行ー一一六三頁一行全二一〇頁二行ー二一〇頁一四行 ただ ただ 286

5. 「文明論之概略」を読む 下

心を維持せんとするものなれば、迚も今の世の有様に適す可からず。若し其の説をして行はれし ますます めなば、人民は唯政府あるを知りて民あるを知らず、官あるを知りて私あるを知らず、却て益よ 卑屈に陥りて、遂に一般の品行を高尚にするの場合には至る可からず。此の事に就ては、本書第 七章及び第九章に所論あれば、今爰に贅せず。 ( 文二四〇頁、全一九二頁 ) 最後の言葉にあるように、儒教的モラリズムと仁政主義の批判は、すでにこれまでの各章で 委曲を尽して論じたところですから、もうここではくだくだしくいう必要はないわけです。右 の「礼楽征伐」も「情実と法律と相半ばして」云々の意味もすでに本書中巻で説明しました。 要するに、儒教思想には「上から」の発想しかなく、「ネーション」の構成主体としての人民が 不在であり、人民独自の自主的な精神活動の領域を認めないから落第だ、ということになりま す。 朗読文二三六頁四行ー二四〇頁三行全一八九頁一行ー一九二頁四行 キリスト教立国論と国家実存理由の問題 さて、つぎには④のキリスト教立国論をとり上げます。 ただ レーゾン・デタ とて 226

6. 「文明論之概略」を読む 下

は、維新後の国民の精神的真空状態を埋めるのにどうしたらよいか、という問題にたいする一 連の「識者」の説であると同時に、ヨリ狭い意味では福沢が現下の最大最緊要のイッシュとす る「外国交際」にたいする対応の仕方でもある、という二重の形で紹介されているのです。 朗読文二五七頁五行ー二五八頁一二行全二〇六頁三行ー二〇七頁六行 まず、外国人にたいするテロを含む攘夷論です ( 文二五七頁七行目 ) 。攘夷論は、歴史過程にお とし いては、御存知のように多くの場合、尊王攘夷論ーー略して尊攘の説といわれました ~ て展開されたのですが、尊王の大義名分論については⑧でさきに取扱っているので、ここでは 形「外国交際」にたいする直接的な対応としての暗殺を含む攘夷論だけがとりあげられています。 国幕末には、有名な生麦事件など外国人殺傷が頻発し、そのたびごとに幕府は賠償金をとられ、 国そのためにリンカーン大統領暗殺の第一報が幕閣に届いたときも、老中が「ああまた賠償金か」 権と歎いたという、本当かフィクションかわからぬような話まで伝わっていますが、維新で開国 が国是となってのちも、幕末時代よりは鎮静したとはいえ、余燼がくすぶっていました。福沢 講 はここでは直接の文脈としては、前述した活地の智の作用の強調との関連で、テロをふく 第 について「之れに心を留るも、之れを担 む攘夷論を、現在の「荷物」ーーっまり外国交際ーー 277

7. 「文明論之概略」を読む 下

朗読文一八一頁一行ー一八四頁二行全一四五頁一行ー一四七頁一二行 し 本章における福沢の視角 国福沢についてはいろいろな評価がありますが、ほとんどあらゆる研究者が、福沢に対して批 り判的な人でも、福沢の特色なり独特の見識なりが最もよくあらわれているとして認めているの 府 が、この第九章「日本文明の由来」です。私は、福沢のオリジナリティが発揮されているとこ 政 ろは、ヾックルやギゾ 1 を意識的に使「ているところにも発揮されており、むしろモデルがは 本 「きりしているだけに見過されやすい個所に潜在している独創性が面白いし、また注目すべき だ、と個人的意見としては思「ています。が、ともかくこの第九章はテーマから言「ても、下 講 敷がないことが明瞭なので、誰にでもその着想の卓抜さやレトリックの面白さが分ることも確 第 かです。もちろんそういう観点でいえば、つぎにくる最終章「自国の独立を論ず」も、ま「た 第十六講「日本には政府ありて国民なし」 第九章「日本文明の由来」一 ネーション

8. 「文明論之概略」を読む 下

モラルと行動様式への影響 朗読文二四四頁一六行ー二四六頁一〇行全一九六頁二行ー一九七頁八行 さて次の段以下が、前述の第二の問題、すなわち外国交際が日本人民の「品行」に及ばす衝 撃であり、この問題の方に貿易問題よりもはるかに多くの紙数が割かれております。それだけ 福沢は精神的な変動に重大な意味を附与しているわけです。経済問題もこのあとあちこちに触 れられていますが、それも結局は、不平等条約が外国にたいする同権を失する結果、「我が国民 はしておりません。ただ、外債による国際的な搾取の対象に日本がなることを漠然とながらお それていることは明らかです。 なお附言すれば、この段の最後に「西洋人の利を争はざる可からざる一の明らかなる源因を 示したるのみ」とある点は、西洋人が利を争うのは各国の経済的背景があるからであって、個 人としての西洋人が本性上、欲張りのエゴイストだからというわけではない、と説明すること によって、経済についてのモラリズム的な見方を斥ける含みもあるのではないか、と思われま す。 256

9. 「文明論之概略」を読む 下

朗読文一三九頁一行ー一一三三頁一一行全一八三頁一行ー一八六頁一七行 策 応 対 の 々第十章の位置づけ 福沢が、この「自国の独立を論ず」の章をなぜ結章にしたかをまず問わねばなりません。な 空 ますと、同時にそのことが、福沢についてのーーー必ずしも誤解とはいえ 真ぜそれが大事かといい 精ないにしても、ーーすくなくも解釈を多岐亡羊にさせる大きな原因とな 0 ている。つまり、いち 後ばん最後にもってきたのだから、自国の独立がこの書物の根本的なテーマであって、すべては 新そこに収斂するのだというふうに考えられやすい。そうでなければ、まったく逆に、この章は 先行する章から何か浮き上っているように解釈されます。そのどちらでもない、と私は思いま 講 す。そこでまず、前の考え方について私の考えをのべます。たしかにこのテ 1 マは結章たるに 第 値するのですが、しかし、ここにほかの章の叙述が収斂し、すべてがここに流れこむのではあ 第十九講維新直後の精神的真空と諸々の対応策 第十章「自国の独立を論ず」一 203

10. 「文明論之概略」を読む 下

の そ 朗読文一九五頁四行ー一九七頁一四行全一五六頁一二行ー一五八頁一四行 現 発 の 動宗教、権なし の最初は日本の宗教です。最初に宗教をも「てきたのは、やはりよく考えていると思います。 権力の偏重が日本をどのように特徴づけるか、それを宗教の歴史的地位がいちばんシンポリッ けクにあらわしているからです。宗教というのは人間の内面的良心に関係する領域なのに、そこ に権力の偏重があらわれているというのは非常にドラスティックな例といえます。そうした、 領宗教の例を最初にも「てくる構想は、この章に先立つ「西洋文明の由来」なしには出てこない のではないか。中巻で申しましたように ( 一九八頁以下 ) 、福沢はどちらかといえば宗教オンチ 講 でした。宗教を社会的役割から功利的に見る傾向がつよい。ですから内村鑑三以下近代日本の 第 クリスチャンは一般に福沢の思想にたいして非常にきびしいのです。福沢の宗教ことにキリス 第十七講諸領域における「権力の偏重」の発現その一 ーー・第九章「日本文明の由来」一一 119