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検索対象: 「文明論之概略」を読む 下
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1. 「文明論之概略」を読む 下

代償でした。 権力の偏重 この章では、日本文明についての、あるいは文明一般についての福沢の基本的な命題がいく つも出てまいります。もちろん、それは福沢が全部自分の頭から案出したものとはいえません。 いろいろなところから示唆を受けているのですが、やはり何といってもいちばん基礎にあるの はギゾーの自由観であり、それについで個別的にはバックルに依拠しております。ギゾーが基 礎になっていることは、冒頭の段が「前章に云へる如く」云々ではじまっているのがなにより の証拠です。 それにつづいて、福沢は金属の化合を比喩に出して、西洋文明と日本文明とを対比していま すが、そこはむしろ後で読んだ方が理解しやすく、誤解のおそれも少ないと思いますので、「之 れを事物の偏重と名づく」の句の次の一般命題からまず読んでいきます。 もろもろ そもそ 抑も文明の自由は、他の自由を費して買ふ可きものに非ず。諸よの権義を許し、諸要の利益を得 せしめ、諸の意見を容れ、諸よの力を逞しふせしめ、彼我平均の間に存するのみ。或は自由は 不自由の際に生ずと云ふも可なり。 たくま

2. 「文明論之概略」を読む 下

ごとに新しく注釈する必要のある個所はほとんどありません。ですから以下は、論旨の脈絡に 主眼をおいて構成を明らかにするにとどめます。 総括は大きく前半と後半の部分から成っています。前半は「国の独立は目的なり、国民の文 明は此の目的に達するの術なり」という目的と手段の関係を論じています ( 文二五九頁一行ー二 六三頁一行、全二〇七頁一一行ー二一〇頁一四行 ) 。後半の部分は、その目的達成のために複数的 な「術」を組み合わせてゆく思考法の問題で、もっとも広い意味において成熟した政治的思考 とは何か、が典型的にのべられております ( 末尾まで ) 。 このことを頭において、さらに、すでに分析のすんでいる段落をとばしながら読めば とえば文庫版二六〇頁 ( 全二〇八頁 ) の「或人云く」の一段をとばしてその前行の「心身共に穎 敏ならんことを欲するのみ」から、文二六一頁 ( 全二〇九頁 ) の「故に又前説に返りて : : : 」云々 の段を読み進み、文二六二頁三行目 ( 全二一〇頁二行目 ) の「唯文明とのみ云ふときは : ・ 一段をまたとばして、二六三頁 ( 全二一〇頁 ) の「斯の如く」云々 ( これが第二の総括です ) から 終りまで読んでゆけばーー議論の筋道はつかめるでしよう。 文二五八頁一三行ー二六〇頁八行全二〇七頁七行ー二〇八頁一三行 文二六一頁一〇行ー二六二頁三行全二〇九頁一二行ー二一〇頁二行 びん 朗読 290

3. 「文明論之概略」を読む 下

また内容的にも間ちがいなく理解できるはずです。精神の発達といっても一人の精神でなく、 「天下衆人の精神発達」だといい、 また「或は之れを衆心発達論と云ふも可なり」というよう な口吻からして、すでに第四章以下を読んでいる私たちは、ああ、ここはバックルから示唆を 。、ヾックルこあるわ 受けているな、という見当がつくでしよう。むろんこれとそ「くりの文句カノ ヒューマン・マインド ま けではありません。バックルが「人間精神の運動法則の発見」が文明史の狙いだ、と、 マインド た「形而上学者は一つの精神を研究し、歴史家は多くの精神を研究する」というような場合の 「多くの精神」が福沢のいう「衆心」に当るわけです。段末に「此の紛擾雑駁の際に就て条理 、ヾックルが の紊れざるものを求めんとする」云々とあるのも discovering regul arity in the midst of confus 一 on ご ( 手沢本五頁 ) というのに表現が酷似しております。 ただ、「天下衆人の精神発達」とか「衆心発達」とかいっても、それはたとえば後の時代に「民 族精神」などが語られる場合とちがって、「衆心」というものがそれ自身、実体として存在する と考えられているのではありません。「天下衆人の精神発達を一体に集めて、其の一体の発達 を論ずるもの」と述べているように、「一体に集め」る作業はあくまで文明史家自らの責任にお ノミナリスティック いて行う操作とされており、そこに福沢の名目論的な立場がはっきりと打ち出されておりま す。これも既に読んだ個所で、一国の智徳とは国中に大小さまざまに分賦している智徳の全量 を指すもの、と定義している ( 本書中巻一三頁参照 ) のと同じことを裏側から述べているわけで みだ 304

4. 「文明論之概略」を読む 下

りません。そういう誤解のないよう、福沢は、実質的にはいままで読んできたところで、すで にいたるところに伏線をはっております。 上巻の序でのべたことのおさらいになってしまいますが、何より第一章「議論の本位を定る 事」との照応関係において、つまり議論の本位を定めるという前提があって、その前提のもと に、「自国の独立を論ず」が結尾になっているということが大事なのです。議論の本位を定める ことの一つの大きな意味は、前述のように議論を限定することです。何ごとも絶対命題として いっているのではない。ですから、この最後の章では、「本書第一一章に云へる如く」というよう に、くりかえしこれに先行する章を参照しています。冒頭の。ハラグラフに、 そもそ およ 抑も文明の物たるや、極めて広大にして、凡そ人類の精神の達する所は悉皆其の区域にあらざる はなし。外国に対して自国の独立を謀るが如きは、固より文明論の中にて瑣々たる一箇条に過 ぎざれども、本書第二章に云へる如く、文明の進歩には段々の度あるものなれば、其の進歩の度 に従て相当の処置なかる可からず。 ( 文一三九頁、全一八三頁 ) とあるのがそれです。 自分の国の独立などということは「瑣々たる一箇条」にすぎないとは、当時の状況としては しつかい 204

5. 「文明論之概略」を読む 下

丸山真男 1914 年大阪に生まれる 1937 年東京大学法学部卒業 専攻ー政治学 , 日本政治思想史 著書ー「日本政治思想史研究」 ( 東京大学出版会 ) 「現代政治の思想と行動」 ( 未来社 ) 「日本の思想」 ( 岩波新書 ) 「戦中と戦後の間」 ( みすず書房 ) 「後衛の位置から」 ( 未来社 ) 「文明論之概略」を読む下 ( 全 3 冊 ) 1986 年 11 月 20 日第 1 刷発行◎ 岩波新書 ( 黄版 ) 327 定価 530 円 著者 発行者 丸 緑 まる 山 川 やま 真 まさ 男 お 〒 101 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 発行所岩波書店 電話 03 ー 265 ー 4111 振替東京 6 ー 26240 印刷・精興社製本・田中製本 落丁本・乱丁本はお取替いたします Printed in J apan 0 卩 0 ー

6. 「文明論之概略」を読む 下

ち、上皇の宣旨を読むことができたのは武蔵国の藤田三郎一人だけであ「たという例が出てき ますが、これは『吾妻鏡』に出ている話です。 数十百年の騒乱の間、学問はもつばら僧侶によって維持されてきた、その点では儒教は仏教 にはるかに及ばない。ただし、これは日本だけの現象とはいえない。福沢はおそらくギゾ 1 に よって、ヨーロ ツ。ハにおいても、世間に学問が開けていくのは千六百年代以降のことだといっ ております。一六〇〇年代といえば、日本では江戸時代以降になります。 江戸時代になって、幕府はいわゆる文治政策をとりますから、学問がさかんになってくる。 のみならず、仏教や神道の その点ではヨーロ ツ。ハに比しても日本もそんなに遅れてはいない。 教義やあるいは民間信仰にある迷信 ( 虚誕妄説 ) を排した点に、福沢は儒学の「合理主義」の役 割をむしろ評価します。にもかかわらず、西洋とは学問のあり方が出発点からちがった。その 両者の相違とは何か。ここに問題があるというのです。 乱世の後、学問の起るに当りて、此の学問なるもの、西洋諸国にては人民一般の間に起り、我 が日本にては政府の内に起りたるの一事なり。西洋諸国の学問は学者の事業にて、其の行はる、、 あたか いわゆる や官私の別なく、唯学者の世界に在り。我が国の学問は所謂治者の世界の学問にして、恰も政府 の一部分たるに過ぎず。 136

7. 「文明論之概略」を読む 下

ますが、ここで手沢本にもう一つ「人民開化セサレハ国事ニ関ル可ラス」という書き入れをし ているのは注意する必要があります。というのは、ギゾーがこの個所で言っているのは、いわ ゆる絶対主義の時代には、イギリスのような比較的自由な国民 ( ネーション ) でさえ、課税とか 国内問題にはロをさしはさみ得たけれども、こと外交問題については全く関与できなかった、 景国際関係にまで人民が干渉できるようになるには人民の知性と政治的習慣がまだ不足していた、 命という趣旨でした。それを読んだ折に福沢は、必ずしも外交に限定しないで、一般的な国政の 大問題として右の書き入れをしているのです。 仏 英 と 宗教改革の役割 長 成 こうしてテ 1 マは宗教改革へと移ります。ギゾーではほぼ第十一講の終りから第十二講全体 の ス にかけての部分です。 ク はばか あたか なお 寺院は既に久しく特権を恣にして憚る所なく、其の形状恰も旧悪政府の尚存して倒れざるも の、如く ( 中略 ) 、顧みて世上を見れば、人智日に進みて、又昔日の粗忽軽信のみに非ず。字を知 講 ろうだん るのことは独り僧侶の壟断に屈せず、俗人と雖ども亦、書を読む者あり。既に書を読み理を求む 第 るの法を知れば、事物に就て疑なきを得ず。然るに此の疑の一字は正に寺院の禁句にて、其の勢 ほしいまま

8. 「文明論之概略」を読む 下

というのも、言葉は嘲弄的ですが非常に鋭い批判です。隠逸とか隠遁とかカッコ、 しもことを一一 = ロ っている先生もあるが、その心理の奧には「怨望」があり、「煩悶」があるというのです。「怨 望」については前に紹介しました ( 上巻一〇四頁以下 ) 。本当に独立と自立精神にもとづく在野 でなく、すねて隠遁しているので、その裏には首尾よく「地位」についた学者への羨望がひそ のんでいる、というわけです。これは余談になりますが、どうも日本の自称異端にはここにいう 現隠君子 , ー・・つまり、「怨望」を内に秘めたすね者異端ーーが多いように思われます。 の ともかく、こうして福沢の伝統的学問としての儒学と漢学者にたいするイデオロギー的批判 偏は最高潮に達してつぎの結びとなります。 の カ 権 政府の専制、これを教ふる者は誰ぞや。仮令ひ政府本来の性質に専制の元素あるも、其の元素の る 発生を助けて之れを潤色するものは、漢儒者流の学問に非ずや。古来、日本の儒者にて、最も才 お 力を有して最もよく事を為したる人物と称する者は、最も専制に巧みにして、最もよく政府に用 域 領 ひられたる者なり。此の一段に至りては、漢儒は師にして、政府は門人と云ふも可なり。憐む可 諸 し、今の日本の人民、誰か人の子孫に非ざらん。今の世に在りて専制を行ひ、又其の専制に窘め 講 らるゝものは、独り之れを今人の罪に帰す可からず、遠く其の祖先に受けたる遺伝毒の然らしむ 第 るものと云はざるを得ず。而して此の病毒の勢ひを助けたる者は誰ぞや、漢儒先生も亦、預りて たと くるし 141

9. 「文明論之概略」を読む 下

朗読文一七一頁一一行ー一七四頁八行全一三六頁一六行ー一三九頁四行 キリスト教の興起と隆盛 こうして私たちはようやく、先にとばした一段もふくめて、キリスト教の興起と教会の強大 化の意義にふれる順序になりました。 まず「封建割拠」にすぐっづく文章を読んでみましよう。 右の如く封建の貴族独り権を専らにするに似たれども、決して此の独権を以て欧羅巴全洲の形勢 ろうらく を支配するに非ず。宗教は既に野蛮の人心を籠絡して其の信仰を取り、紀元千百年より二百年代 に至りては最も強盛を極めり。蓋し其の権を得たる由縁を尋ぬれば、亦決して偶然に非ず。抑も かがや 人類生々の有様を見るに、世体の沿革に従ひて或は一時の栄光を耀かす可し、力あれば以て百万 の敵を殲す可し、才あれば以て天下の富を保つ可し、人間万事、才力に由りて意の如くなる可き に似たりと雖ども、独り死生幽冥の理に至りては一の解す可からざるものあり。此の幽冥の理に しゅうごう 逢ふときは、「チャーレマン」の英武と雖ども、秦皇の猛威と雖ども、秋毫の力を用ふるに由な ちょうろたん 、悽然として胆を落し、富貴浮雲、人生朝露の歎を為さゞるを得ず。人心の最も弱き部分は正 つく きわ もつば また そもそ

10. 「文明論之概略」を読む 下

丸山真男著 「文明論之概略」を読む リサイクル資料 、 ( 再活用図書 ) 除籍済 岩波新書