井上 - みる会図書館


検索対象: ニッポン人を叱る : 一癖斎直言
14件見つかりました。

1. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

周囲の景色を見る余裕がなかったし、井上さんは井上さんで、柔道に専念して、学業をさ え捨てていたのではなかったか ? いわんや越路吹雪をや。 もう一つ面白いのは、窪川さんも井上靖さんが四高出身だということを知らなかったら しいことである。知っていたら、はじめて井上さんのことを教えるとき、私に 「この人もわれわれと同窓ですがね」 と言わないはずはないのである。窪川さんは井上さんや私より数年先輩だから、柔道選 手としての井上さんを知らなくてもおかしくない。ただ、窪川さんが、井上さんが四高だ ということを全く知らずに、私に推奨したことを、面白く思うのである。 しかし、せつかくの窪川さんの推奨だったが、私は「文芸」に井上さんの原稿をもらっ たことはない。 もらいたいと思ったころは、井上さんはもうあちこちから注文があって、 びよう 眇たる文芸雑誌に書く余裕がないほど忙しい人になっていた。 井上さんが芥川賞を取ったとき、お祝いの会があった。今のように、何百人も集まる盛 大なものでなくて、せいぜい二、三十人のささやかな会だった。その時、来会者の祝辞の あとで、井上さんが立って挨拶された、その言葉を、私はいつまでも忘れない。 「私は永い間会社に勤めていたが、いつも小説を書こうと思いつめていた。会社員として どんなに出世しようとーーー重役になっても、社長になっても、すこしも嬉しいとは思わな 2 ろ 2

2. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

よっこ。 そのころには、私は誰から聞くともなく、この人が私と同じ四高の出身だということを 知っていた。しかも、いろいろ聞いてみると、私の一年上だという。すると、高等学校は 三年だから、二年間いっしょにいたことになる。しかし、私には、こういう人がいたとい う記憶が全くない。むかしの高等学校は小人数で、全校生徒八百人くらいしかいないから、 ほとんど毎日、どこかで顔を合わせているはずだが、私には井上靖という上級生の記憶は 全くない。 ところが、そのころ四高では井上さんは柔道部の花形選手で、誰知らぬ者のない存在だ ったそうだから、私が知らなかったということは、大変奇妙に聞こえるらしい。同期の連 中の集まりなんかで 「井上靖っての知ってるか」 と言うと、たいてい 「ああ、あの柔道の強い男だろう」 と言って、私の知らないことを不思議がったものだ。後年井上さんは、人にむかって私 のことを 「この人は四高のころ、あの有名な井上靖を知らなかったんですからね」 2 ろ 0

3. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

と笑うのである。私はよほどの変物だったらしい。私に言わせれば、私はただ、柔道に 限らず、どんなスポーツにも、まったく興味がなかっただけなのだが。 しつか、何人かで しかし、井上さんだって、あまり私のことを笑えないかも知れない。ゝ 話しているとき、越路吹雪の話になった。吹雪が死んで間もないころのことである。皆で コーちゃん、コ 1 ちゃんと言っていると、井上さんが 「こーちゃんって、誰ですか ? 」 と一一 = ロった。 「越路吹雪のことです」 「それは、どんな人ですか ? 」 「有名な歌手ですが、ご存じないですか ? 」 「知りませんね」 「これはひどい」 みんな笑ってしまった。これは、私が学生時代に井上靖を知らなかったというより、も っとひどい話である。 しかし、私はそれでいいのだと思う。人はすべての事を知ることはできない。何かを得 るためには、何かを捨てねばならない。あのころの私は、自分の小さな世界に没頭して、 2 ろ 1 四高時代の井上靖さん

4. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

したた、小説家になりたいと思っていた」 私はこんな切実な思いを、こんな率直な一言葉で聞いたのは、はじめてだった。井上さん は社長にでも、重役にでも、なろうと思えばなれた人である。私は永年のつきあいの間に、 この人は一国の宰相になれる人だと思ったことが何度かある。しかし、その道を選ばず、 敢えて小説家への道を選んだところに、井上さんの面目があるのではないだろうか。それ はちょうど、井上さんが四高のころ、学業を放擲して柔道に専念された姿を思い出させる ではないか。 男 せ 坂口安吾ー人騒がせな男 騒 人 吾 坂口安吾は自尊心の強い、高慢な人だったが、同時に、非常に傷つきやすい、繊細な神ロ 経の持ち主だった。 彼は中学三年のとき、落第した。これは不名誉なことである。県立新潟中学で、県下第 ほ、ってき

5. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

この問答、いまの読者には、なんのことか、わからないかも知れない。説明すれば、こ うい一つことになる。 井上光貞氏の祖父は井上馨といって、維新の元勲で、侯爵である。光貞氏も、あのまま 日本が負けなければ、侯爵になっているはずだった。そういう家柄の人が、なぜ左翼にコ ンプレックスを抱いたかというと、いまに日本に革命政権ができたら、まっさきに死刑に なるのは、自分たちではないかと、おびえていたのである。 それはなにも、戦後の共産主義運動の話ではなかった。昭和初年の非合法の革命運動の ときから、プロレタリアの闘士たちは、しばしば保守反動をおびやかすのに「ギロチン」 という言葉を使った。 それがこわくて、金持ちや名家の子弟の中には、進んで革命運動に参加した者もすくな 冖に くなかった。新劇の俳優や作者の中にちょいちょい名門の出の人を見かけたのは、なにも前 ゴーリキーやチェーホフに対する尊敬からばかりではなかった。ギロチンへ登らされる前 行 ン に、「僕は革命の同志だ」と叫んだほうがいし チ ロ ギ ) という判断によった人もあったであろう。

6. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

共産主義批判の陣頭に立って戦った林氏の、なまなましい経験を語ったもので、随所に学 界の内幕話が語られており、一癖斎のように林氏と同世代で、同じような思想的遍歴を経 験した者にとっては懐旧の情に堪えない文章であった。 こういうのを読んでいると、歴史というものは、語られたり、文章に書かれたりした瞬 間から、臨場感を失って、コトバだけが空転してゆくものだという感慨を禁ずることがで きない。 この対談記事の終わりのほうに、安田講堂事件のときの教授陣の動向について、林氏の 言っていることがおもしろい。林氏によると、あのときの東大文学部では堀米庸三、井上 光貞、それに福武直氏が三大ハト派で、学生の言い分を聞いてやらねばならぬと主張して いたという。西洋史では林氏一人がタカ派で、大体学生たちの要求が無茶だと』 = ロっていた 」い一つ 井上光貞氏がハト派だったという点について、伊藤隆氏は 「何かちょっと左翼コンプレックスがあるんですね」 と言い、林氏は、 「大体戦前は侯爵だったから」 と注釈を加えている。

7. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

あ一とがき : めでたいというけれど 大国になる法 辻参謀の別の一面 : 黒本稼堂のこと : だだっちゃ豆 金時とおでん : 下宿の飯 ・ 0 安寿と厨子王 漱石山房金沢支部記 四高時代の井上靖さん 坂口安吾ーー人騒がせな男 冴えた目の男・篠原梵 : 蛇笏に学ぶもの : 本造りの技術と感覚 : 8 7 ・ 0 245

8. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

らっしやったのではないかと思うが、それと前後して、先生はマスコミから引退して『西 郷隆盛』の書きおろしに専念すると決意された。しかし、先生はその完成を見ないで、七 十七歳で急逝された。 すれも生前、東京・世田谷区に住んだ人たち 上に挙げた井上、梅崎、海音寺三氏は、い、 ってみたら、 である。昨春、世田谷に新しく文学館ができ、開館のセレモニーがあった。い 私より老齢の人はいなかった。まだ何人かいるはずだが、健康の関係かなにかで、出席で きなかったのであろう。 大国になる法 法 る な 私は明治四十五年生まれである。明治の最後の年で、私の生まれた四か月後に明治天皇 大 がなくなられ、大正と改元になった。 だから私は、生まれたのは明治だが、育ったのは大正の空気の中で、明治のことはよく

9. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

コーヒ 1 を飲みながら、窪川さんは 「今月の『文学界』の『猟銃』という小説を読みましたか」 と一一 = ロった。 「いえ、まだです。作者は誰ですか ? 」 ゝですよ。ちょっと出ないくらいの才能ですね」 「井上靖という新人ですが、いし 「それは : 文芸雑誌の編集者の端くれである私としては、聞き流すことのできない言葉である。 「どんな人ですか ? 」 ・ : 作品は、芥川龍之介と谷崎潤一郎とを合わせたようなものです。 「さあ、知らないが : これは大物ですね」 ん このあたり、私の記憶はちょっと曖昧で、窪川さんは、芥川と谷崎を「合わせたようさ ) 。どちらにしろ、上 な」と言われたか、「中間のような」と言われたか、よくおばえていなし 新人を賞める言葉としては、最大級の讃辞である。私は、これは是非読まなければ、と思代 時 高 四 その晩か、あくる日か、私は「猟銃」を読み、文句なしに感服した。 まもなく、この人は「闘牛」を書いて、芥川賞を取った。もう誰知らぬ者のない作家に

10. ニッポン人を叱る : 一癖斎直言

四高時代の井上靖さん 昭和二十四年の秋ごろだったと思う。ある日の午後、窪川鶴次郎氏が、私の勤め先の河 出書房へ立ち寄られた。そのころ私は雑誌「文芸」の編集者だった。 窪川さんは私にとって、旧制四高の先輩で、十年来のおっきあいだった。そのころ私は 「文芸」に評論など書いていただいて、会うと文壇の話など聞くのが楽しみだった。 夕方になって、退社時間が来たので、私は窪川さんといっしょに河出書房を出た。私は 世田谷へ帰り、窪川さんは池袋の方へ帰られるので、新宿までいっしょに中央線に乗った。 新宿で乗り換えるとき、窪川さんは 「ちょっとコーヒーを飲みませんか」 と言って、西口のマーケットの中の喫茶店へつれていってくれた。西口は今では立派な ビルが立ちならんでいるが、そのころは粗末なバラックばかりだった。 228