教わると、郷里の城端へ帰って、大々的に作りはじめた。小麦の品種や栽培法にも注意し て、風味のいいものを作ったので、評判がよく、今日も盛大にやっているという。 事実、私の家でも毎年、君から頂戴しているが、材料の粉に独特の香気と風味があっ て、腰が強く、他の地方の有名品にくらべてもひけを取らぬ佳品である。 それにしても、高松ぞうめんのほうはどうなっているのだろうか ? 私はときどき七尾 へ帰省したときなど、人に聞いてみるが、高松ぞうめんという名前を知っている人さえい しいと思って、自分で作ることをやめ なくなった。砺波の人に教えてしまったから、もうゝ てしまったのか、どこかで一人か二人、細々とでも続けている人でもあるのか。知ってい る人があれば教えてほしいものである。 きづ もうひとっ気になるのは、木津の桃である。むかし七尾では、七月の何日かに郊外の妙 観院で四万六千日のお参りがあり、近在の人たちが群集するが、そのとき道路の両側に夜 店がならび、三日月形に切った西瓜や、焼いたトウモロコシを売っていたが、そのなかに まじって、木津桃を五つ六つと積み重ね、一山いくらで売っていた。 桃といっても、普通の桃とはすこし違っていた。水蜜桃や白桃はポッテリと大きくて、 いかにも桃太郎でも飛び出しそうにみえるが、木津桃は鶏卵くらいの大きさしかなく、そ れも押しつぶしたように扁平で、ひところ大流行したヨーヨーというおもちゃに似ていた。 172
したた、小説家になりたいと思っていた」 私はこんな切実な思いを、こんな率直な一言葉で聞いたのは、はじめてだった。井上さん は社長にでも、重役にでも、なろうと思えばなれた人である。私は永年のつきあいの間に、 この人は一国の宰相になれる人だと思ったことが何度かある。しかし、その道を選ばず、 敢えて小説家への道を選んだところに、井上さんの面目があるのではないだろうか。それ はちょうど、井上さんが四高のころ、学業を放擲して柔道に専念された姿を思い出させる ではないか。 男 せ 坂口安吾ー人騒がせな男 騒 人 吾 坂口安吾は自尊心の強い、高慢な人だったが、同時に、非常に傷つきやすい、繊細な神ロ 経の持ち主だった。 彼は中学三年のとき、落第した。これは不名誉なことである。県立新潟中学で、県下第 ほ、ってき
河内伝次郎の「姓は丹下、名は左膳」というセリフは、天下に流行したが、その原作を書 いたのは、この林不忘だった。 谷譲次という作家がいた。アメリカで放浪生活をして来たということで、その経験を生 かした作品も、評判がよかった。 この三人は、同時に文壇へ現れたが、世間では別々の人物だと思っていたところ、一人 の作家がその時によって、名前を使いわけているのだということがわかって、世間はアッ と驚いた。だんだんわかったところによると、この人は長谷川海太郎といって、たしかに アメリカで放浪生活をやって来たということであった。 しかし、自分の能力以上の仕事を引き受けて、無理をしたからか、文壇生活十数年のの ち、突然なくなった。戦後文壇で一時注目された長谷川四郎は、この人の弟である。 牧逸馬のなくなる前後に、一癖斎は彼の著書を読んでいた。なんという作品だったか、 思い出せないが、その中にアメリカの浮浪人とか、ゴロッキとか、犯罪人とかいうような 連中がよく使う「サノバガン」という言葉が出て来た。もとの綴りは Son ofa gun で、自 0 直訳すれば「大砲の息子」ということになるだろう。相手をうんと罵倒するときに使うら砲 大 しいが、なぜ「大砲の息子」が罵倒になるかについては、何の説明もなかった。ただ一癖 斎は、アメリカにはヘンな罵倒語があるのだなあ、と思っていた。
ら に筆 、敬 大飲 れ人予し き な ド 靂誓り イ ツ 猶な 、問 つ飯 0 ) れ出 寄数 辞 書 を 。ぞ れ考 私か 抜 き 出 だ識 し て 食な の洗 シ 、少 を ぞ解 を気 年オ 繰 、な 、せ り た級 な い生私酒 カゞ ら の藪 っ同 。者蕎そる た時 が代 い級 見客 あ家 。ず の雨称間 で校 。を 酒 機 の な か た 人 と ゆ つ く り 夜 を 過 し 気 も し て い た 友 人 は 書 棚 か た む家人 へ ム帰持 ば タ の 支 . 度 が で き て しゝ る ず だ が 同 と い い な が ら ま り 緒 に が の っ て い る 金 わ せ て も す し た り い は は市飲 内 の 両 親 の に 住 ん い も う 人 の 友 人 と 人 で を話年 し い る と き だ っ た か ら を も う と う と に た の 年 に な っ て し ) て 来 は て大私 学 へ 進 子 よ う と い う ろ だ っ た が 同 の 友 人 の な下等 っ宿学 と 似 た よ う 答 を は し年場 あ と で し た と あ る そ の ろ 私 は 咼 の 都 な ら は 勿 な論 な ど も 婢 も お はと がた る ぬ霹な 〇 月 見 芋 と う よ ろ ん 随 集 な ど の て 机 の 上 に の 緑 る あ 積 に ば そ・ ぐ す は ち 持 ら な ろ ひ を 書 の 代 や ロロ 英 畏 さ れ い 車 に し た る ひも の 客 解 せ ず しゝ か に し て ふ き 深紫ず を カゝ く は しゝ か る も の あ た り 芋 り 客 し ) か に し て 、製 し た る ぞ 玉ょ だ 、亦な し り な 参 が新川 る た り 守 を り 通 帳 れ ど も ま と は の 麦ばな に て た る な り 客 り 猶 々 解 せ 方 吸 い せ ら て 次 の よ う な 文 章 見 出 す と 鬼 の 首 で も 取 っ た か よ た よ う で あ る は ま 田 が文練 学 に ぎ な か ん受文 で験人 勉 強 と し と も な か つ た に の ち た の で ス ン セ れ さ と 学 な の そ ど れ け 207 金時とおでん
に勇ましく戦ったかを教えるためだが、ついでに相手の敗戦国民にむかって、自分たちの 武威を誇示して、復仇を断念させる効果も考えていた。 しかし、人間の心理は、親や兄弟を殺された恨みを、簡単に忘れ去るようにはできてい ない。記憶を掻き立て掻き立てて、いっか恨みを晴らそうと誓うのが常である。日本の歴 史でみても、源平の争い、南北朝、戦国、すべて憎悪と復讐の歴史である。 たった一人の主人の乱心が、四十七人の蜂起を招き、何百年たっても美談として語り継 がれる。復讐しなければ、臆病者と言われる。日本はそういう国である。 太平洋戦争で、日本はアジアの各国へ軍隊を出した。あれは侵略だったと言う人があり、 自衛の戦争だったと言う人がある。一癖斎も永年、ほとんど前者に近い考え方をして来た が、反対の人の意見にも首肯すべき点が多く、決しかねている。ただ、戦後急ごしらえの 民主主義とやらで、何が何でも戦前の日本はまちがっていたのに、アメリカが痛い目にあ というような考え方には賛成できないだけである。 わせて、正気にもどしてくれた 原爆反対の方法も、これまでのようでいいかどうか。集会、デモ、アピール : : : 歌をうよ たい、気分を盛り上げて、効果があったとしているらしい。何人集まったかを発表し、多忘 ま ければ喜んでいる。 うしろに二つの政党があって、それぞれ党勢拡張に利用しているのだという批判も公然
よっこ。 そのころには、私は誰から聞くともなく、この人が私と同じ四高の出身だということを 知っていた。しかも、いろいろ聞いてみると、私の一年上だという。すると、高等学校は 三年だから、二年間いっしょにいたことになる。しかし、私には、こういう人がいたとい う記憶が全くない。むかしの高等学校は小人数で、全校生徒八百人くらいしかいないから、 ほとんど毎日、どこかで顔を合わせているはずだが、私には井上靖という上級生の記憶は 全くない。 ところが、そのころ四高では井上さんは柔道部の花形選手で、誰知らぬ者のない存在だ ったそうだから、私が知らなかったということは、大変奇妙に聞こえるらしい。同期の連 中の集まりなんかで 「井上靖っての知ってるか」 と言うと、たいてい 「ああ、あの柔道の強い男だろう」 と言って、私の知らないことを不思議がったものだ。後年井上さんは、人にむかって私 のことを 「この人は四高のころ、あの有名な井上靖を知らなかったんですからね」 2 ろ 0
この隊にも、そんな兵隊が二人や三人はいた。 一癖斎は兵隊としては、けっして優秀なほうではなかったが、しよっちゅう槍玉に挙げ られる二、三人の中にも入れられず、まずまず無難な軍隊生活を送った。 冷静な目で見ると、いじめられる兵隊にも問題があった。それぞれに、これでは憎まれ てもしようがないなあ、と思わせるようなクセを持っていた。 たとえば、理屈つばい性質で、上の者に何か言われたとき、自分の行動が正しい理由を 説明しようとする男。この男は大学出で、コミュニストだった。 あるいは、相手の目をまっすぐに見ようとせず、腹の中では自分の損得ばかり考えてい る男。 たとえば、なにかというと「おれは江戸っ子だい」と胸を張って言う男。これは、ほと んど田舎生まれの男ばかりで成っている一癖斎の隊では、それだけで、一同の反感をそそ るに十分だった。 たくさんの兵隊の中で、この二、三人が特別に槍玉に挙げられるのを、ほかの連中が気 の毒がっていたことは事実だが、だからといって、かばってやろうというわけでもなかっ た。第一、うつかりシャシャリ出ると、お前も反抗する気か、とニラまれるのが落ちだし、 一方、いじめられる兵隊には、自分では気がついていないかも知れないが、人の反感や敵
またあるとき、上海で一、二といわれる日本料理店へ、バケッ一杯のガソリンをまいて 火をつけ、丸焼けにしてしまった青年がいた。彼は辻参謀の影響を受けた者だったといわ れている。 こういう挿話をかさねてゆくと、辻政信という人について、勇猛果敢、そして冷徹無比 の日本軍人という伝説が出来あがる。私の伝記『辻政信』の取材に当たって、話してくれ た人たちも、辻という " モ 1 レツ。軍人の伝説をさらに強調するような傾きがあったかも 知れない。「子どもと女を先にするように」というやさしい配慮を示す人だったという話 いくらかやわらかくなっていたかも知れ をしてくれる人がもうすこしいたら、私の筆も、 195 辻参謀の別の一面
になったりする。落語はそこがおもしろいのだが、教養のある人の書くものが、それでは 困る。一癖斎は外国人の書いたものというので、ついアラ探しのような気分になって、ど こかおかしいところがないかと、目クジラ立てて読んでみたが、なかなかどうして、敵も さる者、つけ入るスキを与えない。 たとえば、花子が獣医のところへゆくのをいやがって、爪でひっかいたりするので、一 人ではむずかしいと、友人に手伝いをたのむ。そして筆者は書く。 「 : : : 加勢は多いにこしたことはない」 ちゃんと加勢という言葉を使っているのである。今どきの大学生あたりで、こういうと き加勢という言葉が浮かんでくるのは、何人いるか ? 一癖斎はサイデンステッカー氏とは、ずいぶん古いっきあいだが、こんなおもしろい文 章を書く男だったのかと、目をこする思いをした。
間に挟まれているだけだったが、笹の匂いがプンプンして、なかなかわるくないと思った。 東京では、一度いかにも田舎っぺえらしい恥をかいたことがある。私が泊めてもらった 九段の伯母の家の近所に、なんとかいう数学の先生が住んでいたが、その家のお嬢さんが、 私の従兄の医学生と仲よくしていて、ときどき遊びに来た。数学の参考書など書いていて、 ちょっと有名な人のお嬢さんだったが、お名前がどうも思い出せない。そのお嬢さんも気 さくな人で、もしかしたら私の従兄と淡い恋仲くらいだったかも知れないが、私はまだ子 供だったから、判別ができなかった。 あるとき、この三人で、ジェスチュア遊戯をやろうということになった。三人ではすく なすぎる。もう一人くらいいたかも知れないが、何しろ数十年前のことで、はっきり覚え てはいない。いずれにしろ、従兄がジェスチュアをし、私が当てる番だったが、従兄のす ることが、私にはわからない。両手で何か四角なものを囲んでみせたり、湯気のようなも のを立ててみせたりする。風呂に入っているのかと思ったら、そうでもないらしいし、何 か食ってみせるから、湯豆腐かと思ったら、それも違うらしい。結局、私は当てられなく , て、降参したが、最後に種あかしを聞いたら、 「おでんだよ」 と言われた。私は 211 金時とおでん