ら、ありがたいご時世になったものである。 英会話の学校も繁昌しているそうだ。日本は地球の上では一番端っこにあって、都の風 がなかなか吹いて来ないから、こちらから出かけていって、新しい知識を吸収しなければ ならないと、どんどん外国旅行に出かける。 むこうからも、どんどん日本へやってくるらしい。「週刊読書人」の「泡一言録」という 欄によると、九州のある警察では、犯罪や社会の国際化に対応するために、警察官の語学 研修をしているという話である。筑摩書房の雑誌「ちくま」に林望氏が書いていた記 事の紹介だが、警察はこれについて、月に二回外国人教師を招き、大きな成果をあげてい ると、自賛しているという。 しかし、林望氏や「泡言録」の筆者は、この研修に対して大いに疑問を持っているらしな で 林氏は言う。 の 「もし本当に月二回程度の研修で、自在に外国語が操れるようになるとしたら、それは明よ 単 らかに奇跡である。その方法を諸国の外国語学校は直ちに学ばねばならぬ」 簡 「泡言録」の筆者も、中学、高校、大学とほとんど毎週数時間ずつ英語を学び、大学では そ フランス語も学んだが、ほとんど身についていないと白状している。彼はこの文のはじめ ま日本じゅうで に「恥をさ・らすようだが」とことわっているが、まったく恥ではない。い
最近どこかの調査によると、 いまの日本では、子供をいわゆる有名大学へ入れようとす ると、家庭教師を頼んだり、受験塾へかよわせたりしなければならず、それには一人当た り年間百万円以上が必要だということであった。 そんなばかなことがあるかと、一癖斎は言いたい。国家は子供たちの教育のために中学 までを義務制とし、十分の予算を組んで、施設も整備している。教員の人数も十分にあるる さ はずである。 敬 テレビを見ていると、ドキュメントとか、紀行とか、探訪とかいって、地方の農村風景尊 な が映し出される。樹木の鬱蒼と茂った丘の中腹に、コンクリ 1 トのりつばな三階建て、四 階建ての校舎が、太陽に白く輝いている。明治時代に日本へ視察に来た中国人が、どんな なぜ尊敬されるか ? と一一 = ロった。
これに真っ先に反対したのは、司法省の役人だった。若手の判事や検事が立って、われ われの生活を圧迫するのか、と、まるで労働運動か左翼のような活動をはじめたので、一 癖斎はびつくりした。 こんな時は、司法官なんてものは、はじめからじっとにらんでいて、最後に乗り出すも のだろうと思っていたのに、なにをうろたえているのか、と言いたかったのである。 結局、若槻内閣は減俸を強行し、おかげで一癖斎も十円すくなくされたわけだが、独り 者の下宿生活には、それで十分だった。 いままた、世の中はだんだんそのころと似て来たようである。いや、似るどころか、比 較にならないほど、むずかしくなっているのではないか。むかしは日本じゅうに大学と名 のつくものは数えるほどしかなく、就職難といっても、知れたものだった。いま大学はむ かしの中学校より多くなっている。 報道によると、村山内閣は平成七年度の国家公務員に関する人事院勧告を完全実施する ことを決定したという。一割減俸という決断は、自治労出身とかいう首相に、下せないも俸 のとみえる。 割
それでも宗教家か , むかしの日本人は、国に天変地異があれば、天下の政道が悪いからだと言った。現代は家 宗 科学が進歩して、自然現象と社会現象は別々だということになっているが、去年のようにも 不思議なことが続発すると、むかしの人の言ったことも、考え直してみる必要があるのでれ そ はないかという気がしてくる。 その前哨はおととしの夏だった。信州松本で毒ガスが流れ、人が何人も死んだという事 いま小林秀雄の年譜を見ると、大学卒業の翌年「様々なる意匠」で雑誌「改造」の懸賞 評論に入選し、その翌年「アシルと亀の子」を「文芸春秋」に連載している。舞台が「改 造」と「文芸春秋」だから、まさに華々しい登場だったといっていいだろう。 しかし、小林が当時未就職卒業生の一人だったことを忘れるわけにはゆかない。幸いに どこかの名門大学の教授にでも就職していたら、その後の文業はあったかどうか ?
い詰めていたのである。 鈴木先生も、びつくりされたらしいが、自分のあとについて来ようという若者が出てく るということは、悪い気もしないものらしく、快く上へあげると、いろいろと話し相手に なってくださった。奥様も、行儀作法もなんにも知らない田舎中学生の私を、弟のように 可愛がってくださった。 その後私は大学へ入り、父も能登へ移って、金沢には住まなくなったが、休暇で帰省す るため金沢で支線に乗り換えるとき、鈴木先生のお宅を訪ね、そのまま泊まりこんでしま うことか伊になった。 私が大学へ入ったとき、松岡先生は東京に住んでおられたが、鈴木先生は、 「松岡先生のところへ手紙を出しておくから遊びにゆけよ」 と言ってくださったので、私はそのまま松岡先生の孫弟子でなく直弟子になった。 部 私が鈴木先生のところを時々お訪ねしたころ、ほかに誰もゆく者はなく、私が先生を独支 占した形だった。私は冗談に先生を「漱石山房金沢支部長」というあだ名で呼んでいた。房 山 石 私より一年か二年あとの学年から、ポッポッ先生のお宅へゆく者ができたらしい 漱 = ロ
は何十万、何百万の大学卒業者がいるか知らないが、彼等が毎週何時間かずつ教わった外 国語で、それがすこしでも身についていると自信をもって言える者が、何人いるだろう か ? 百人に一人もいればいいほうだろう。 そういう著者も、学生のころ、一生の目的として、英文学者になろうと思ったことがあ り、数年間人なみに勉強したつもりだが、大学の専攻学科を選ぶとき、急に気が変わって、 方針を変更した。 その間、フランス語もちょっとかじってみたが、まったく役に立っていない。数年前 クウェートのホテルに泊まったとき、食堂で朝飯を食っていたら、ポーイ長がうやうやし く私の顔をのぞきこんで、何か言った。なんと言ってるのか、まったくわからないが、フ ランス語らしかったから、もう一度言ってくれと言ったら、 「なんとか、なんとか、なんとか : : : テ」 と言った。テはフランス語で茶、英語の「ティー」である。食後にコーヒーかいいか 紅茶がいいかと聞かれているのだと思って「テ」と言ったらちゃんと紅茶を持って来た。 海外旅行で私のフランス語が役に立ったのは、この時だけである。 リ滞在中、外出からホテルへ帰ろうとしてタクシーの運転手に町の名を言っても、ま ったく通じない。発音がまるで違うらしい。しようがないから、外出のときは名刺大の紙 166
謡曲に 月にやるせぬわが思い : という一節がある。「やるせない」の「ない」が否定の助動詞だから、同じ否定の「ぬ」 でもしいだろうというつもりか、改訂も取り消しもないままに、「やるせぬ」で通るよう になってしまった。ついせんだっても、どこかの局で古賀政男をしのぶタベというような 催しがあったが、やはり「やるせぬ」で通していた。 そうなるとまた新手が出るもので、どこかの局の新作のドラマでは、敗軍の武将が おぼっか 「先は覚束ぬことじゃ」 などと言っていた。いやはや。 一割減俸案 昭和初年、一癖斎が大学を出たころは、大変な就職難の時代だった。三月末、卒業式に 125 一割減俸案
・ : なあんだ」 と言ったけれど、実はおでんというものを知らなかったのである。金沢におでん屋とい うものがなかったと言えば、そんなことはないと言う人もあるだろう。 いくら田舎でも、 城下町で、県庁のあるくらいの都市では、盛り場や遊廓の周辺には、おでん屋とか、すし、 焼き鳥などの屋台が一軒や二軒、あったにちがいないのだが、ただ「まじめ」な中学生の 私が知らなかっただけなのだろう。しかし、そのとき、おでん屋というものを知らない自 分を、いかにも田舎っぺえだと思わないわけにはゆかなかった。 下宿の飯 私が大学を出たのは、昭和九年だった。そのころ日本は不景気の絶頂ーーーというより、 ドン底といったほうがいいかもしれない。事実、そのころ新劇でゴーリキーの「どん底」 という芝居が大当たりだったーーで、卒業したものの、就職のあてのない者が、そこいら 212
インテリ失業者と文業 一癖斎は先般、戦後の日本文壇に「文芸復興」と呼ばれる一時期があったと書いたが、 書きたりなかったような気がするので、もう少し付け足したい。 時期は昭和八、九年ごろだった。昭和九年春、一癖斎は大学卒業のロ述試験で、久松潜 一先生に 「近ごろ日本の文壇で、文芸復興ということが話題になっているようですが、君はどう思文 者 いますか ? ・」 業 と聞かれたことを覚えている。先生は問題をいくつも用意しておられて、学生によって失 題を変えられたらしい。あとでクラスの連中に聞いたら、そんな質問をされたのは一癖斎テ イ だけだった。先生は、この学生はちっとも教室へ出ないから、むずかしいことを聞いても 答えられまい、文壇の話題ならなんとかパスさせてやれるだろうと、お情けのつもりだっ
奥野さんの生き方 去年のいまごろは、テレビをつけても、新聞をあけても、神戸の震災で持ちきりだった。 そのたびに、淡路島のことも話題になった。 淡路と聞くごとに、一癖斎は奥野信太郎先生のことを思い出す。奥野さんは淡路のご出 身だった。 一癖斎は終戦の年、駒込で空襲にあい、旅行カバン一つさげて世田谷へ逃げて来たとこ 方 ろ、近所に奥野先生が住んでおられ、お話がおもしろいので、ときどきお訪ねした。先生 生 はそのころ慶応大学で中国文学を講義しておられたが、むかしの漢学の先生とか、道学者の さ とかいう面影は微塵もなく、ややエロ趣味の軟派の随筆で有名だった。 野 あるとき、奥野さんが言われた。 「僕の先祖は赤穂浪士に関係があるんです。殿様が切腹のあと、残された家来たちが集ま