に勇ましく戦ったかを教えるためだが、ついでに相手の敗戦国民にむかって、自分たちの 武威を誇示して、復仇を断念させる効果も考えていた。 しかし、人間の心理は、親や兄弟を殺された恨みを、簡単に忘れ去るようにはできてい ない。記憶を掻き立て掻き立てて、いっか恨みを晴らそうと誓うのが常である。日本の歴 史でみても、源平の争い、南北朝、戦国、すべて憎悪と復讐の歴史である。 たった一人の主人の乱心が、四十七人の蜂起を招き、何百年たっても美談として語り継 がれる。復讐しなければ、臆病者と言われる。日本はそういう国である。 太平洋戦争で、日本はアジアの各国へ軍隊を出した。あれは侵略だったと言う人があり、 自衛の戦争だったと言う人がある。一癖斎も永年、ほとんど前者に近い考え方をして来た が、反対の人の意見にも首肯すべき点が多く、決しかねている。ただ、戦後急ごしらえの 民主主義とやらで、何が何でも戦前の日本はまちがっていたのに、アメリカが痛い目にあ というような考え方には賛成できないだけである。 わせて、正気にもどしてくれた 原爆反対の方法も、これまでのようでいいかどうか。集会、デモ、アピール : : : 歌をうよ たい、気分を盛り上げて、効果があったとしているらしい。何人集まったかを発表し、多忘 ま ければ喜んでいる。 うしろに二つの政党があって、それぞれ党勢拡張に利用しているのだという批判も公然
あんなことで、民心の離反を防ぎ留めることができようはずがない . 」 と言いあったものである。 日露戦争で日本が勝ったことが、アメリカの警戒心を呼び起こし、日米戦争の原因とな ったという説があるが、多分その通りだろう。 第二次大戦で、日本は無謀な戦争を強行して、多数の若者の命を無駄にしたが、はじめ から負けるとわかっていたわけではなかった。戦後、開戦の責任を問う論者は、アメリカ のような強国を相手にして、勝算もないのに、なぜ戦争をする気になったかと言うが、あ のころはまだョ 1 ロッパ戦線でドイツが優勢で、スターリングラード ( 現ポルゴグラード ) が陥落するのも時間の問題だというのが、一般の情勢だった。 独、伊の枢軸と組んでいる日本としては、スターリングラードの次はモスクワの陥落に 望みをかけていたわけで、そうなればアメリカも日本だけを相手にしていられなくなるは ずで、日本海軍としては、伝統の奇襲作戦で時を稼いでいるうちに、平和へ持ち込むこと 法 る ができようという目算であったろう。 しいクスリになった。戦争放棄の憲法を作ったため、世界一の経 敗戦は日本にとって、 大 済大国になった。そこでこういうジョークができた。 東南アジアのある首長国の閣議で、首相が諮問案を出した。「わが国を大国に発展
が何度かあったが、じきさびしくなって、仲直りした。 篠原の勉強のしかたは気まぐれで、不規則だったから、ときどき常識はずれのことを言 ったが、美しいものを追う目だけはいつも冴えていて、本物とニセ物をただちに見破った。 私が篠原との交友の中で学んだ最大のものは、百人が正しいと言っても、納得できないも のは認めない、わがままいつばいの生き方だった。馬鹿も千人集まれば利口になるといっ た式の、戦後の民主主義は、私たちにとって、ただしやらくさいだけだった。 卒業後、私は中学の教師をしていたが、校長とうまくいかず、やめるしかないと思って いたとき、篠原が中央公論社へ呼んでくれた。 戦後、私がはじめて書いた小説を自分が編集している「中央公論」にのせてくれたのも 篠原だった。それに対して、私は礼を一言いったこともない。 梵 ある年、私は胃の手術のため入院していたら、留守宅から電話で、松山へ帰郷している原 篠原が倒れて、あぶないと言って来た。いそいで松山へ電話しようと思ったが赤電話に必 男 要な十円玉がたりない。私は百円玉でかけられることを知らなかった。やっとかかったら、目 え 電話ロで細君の雪枝さんがワッと泣きだしたので、だめだったと知った。 冴 篠原の葬式の日は、私の手術の日だった。午後一時か二時か、麻酔からさめた私は、ち ようど今ごろ、二、三日前に私が書いておいた弔辞を、たれかが代読しているころだと思
責任感を持つには 日米開戦のとき、日本からの宣戦布告がおくれて、ハル米国務長官がその文書を受け取 ったのは予定から一時間二十分も後だったため、真珠湾攻撃はすでにはじまっており、日ロ っ 持 本はだまし討ちの常習犯という汚名をこうむったことは、周知の事実である。 を この問題は戦後ときどき話題になったが、日本の外務省が平成六年十一月二十日、当時感 の外交文書を公開して、大使館の怠慢を認めたことで、またもや論議の種となっているら 進学指導に当たった。 一癖斎は、だから戦前のほうがよかった、などと言うつもりはない。何ごとも一利一害 である。ただ、組合運動に熱中して、政治家になることばかり考えている先生には、父兄 のほうでも安心して子供を任せられないのである。
山奥へいっても、茅ぶきの農家の間に瓦屋根の小学校の校舎がそびえているのを見て、こ の国は教育に金をかけているのがうらやましいと言ったというが、その伝統が今日まで続 いて、日本人は子弟の教育に財力と労力をかけて惜しいと思わない国民であるらしい。 しかし、その効果は表れているだろうか ? 政府の予算の中で、文教関係の額がどれく らいあるのが理想的か、一癖斎はよく知らないが、いまの政府がそんなにケチをしている とも思えない。ただ、問題は関係者の意欲にあるだろう。 教育者は聖職だといわれる。戦前まではたしかにそうだった。先生は村で数すくない知 識人の一人といわれ、その日常の言動は一般人の見習うべき手本として尊敬された。それ がそうでなくなったのは、戦後、先生たちの労働運動がはじまって以来であろう。先生た ちは自分が特別の人格者、物知り、聖者のように扱われることを嫌い、労働者の一人に過 ぎないと言い出した。一種の人間宣言である。 戦前は、上級学校受験の生徒を集めて、放課後に補修教育をやることは、珍しくもなか った。もちろん都会地では、すでに予備校のようなものができていたが、すこし辺鄙な土 地では、そんなものはなく、上級生を受け持った先生が、何人かの進学希望生の面倒を見 ることは、当然とされた。それはそのまま時間外労働となったが、戦前の先生は文句も言 わず、赤ん坊の世話をする母親に、時間外なんかあるはずがない、 というような覚悟で、
地問題とか、自衛隊とか、一連の懸案をさすのであろう。つまり、これまではこういう問 ゝとされて来たが、そのタブ 1 がはず 題は、なるべく触れないように、避けて通るのがいし されたのだと言うらしい なるほど、安保、駐留、基地、自衛隊ーーすべてタブーでした、と言ってしまえば、こ んな気のラクになることはあるまい しかし、そうすると、敗戦後五十年にわたり、その夢のようなタブーを信じて、青春を 燃焼し尽くした人たちは、どこに慰めを求めたらいいのだろうか。 の 行 ン 雑誌「日本歴史」に「国史学会の今昔」という題で、林健太郎氏と伊藤隆氏 ( 亜細亜大口 学教授 ) との対談記事が載ったことがある。「日本歴史」は地味な研究雑誌で、一般向き の文章はすくないが、この記事は、戦前に東大生として左翼の思想的洗礼を受け、戦後は 「ギロチン行き」の前に
国古典文学 ( 漢文 ) の学者で、旧制の松江高等学校の教授だった。 戦前の日本で高等学校の教授というと、地元民の尊敬を受け、経済的にも安定していた が、戦後間もなくは、そうもゆかなかったらしい。学生たちの間に「戦犯教授追放運動」 というのが起こり、引き続いて「無能教授追放運動」というのが起こったが、戦前に多少 とも右翼的と見られる「日本浪曼派」の同人だった駒田は、言いがかりをつけられないた めに、そういう事実をひた隠しにしなければならなかったという。 実際のところ、あのころ「日本浪曼派」の同人に推されたということは、本人のすぐれ た才能を物語るもので、大いに誇っていいことだったが、当時日本じゅうを吹き荒れた 「追放」の嵐の中では、そんなことを言っても通るものでなく、本人は藪の中へ逃げ込ん だ小鳥のように、息をひそめていなければならなかった。 まもなく駒田信二は雑誌「人間」に「脱出」という小説を発表した。なかなかの傑作で、 これひと みんべい 世評も高かったが、蔵原惟人、杉浦明平らのコミュニストが「ファシズムへの傾向が見え る」と悪評した。すると、学生の中に英雄気取りのファシズム的な井産党員が何人かいて、 肝腎の作品は読まずに、蔵原さんはこう言っている、杉浦さんはこう言っている、つまり アナタの小説はファシズムだ、アナタはファシストだと、入れかわり立ちかわりおどかし に来て、うるさくてならなかった : : : 駒田はこう書いている。 112
うの魚屋にクジラの切り身が溢れ、どこの家でも鍋にしたり、焼いたりして、たらふく食 べる。牛肉ほど濃厚な味ではないが、さつばりして、なかなかうまかった。 そのクジラも、戦後はなかなか町へ出なくなった。世界の捕鯨業者の集まりで、種の絶 滅を避けるためという理由で、捕獲禁止の決議がされたということだが、ほんとうは日本 やノルウェーの業者が獲りすぎて、ほかの国が追随できないための嫌がらせだろうという ことだった。そんなことで経済の自由の原則が侵犯されるのはけしからんと、一癖斎は憤 慨して、日本の捕鯨業者よ、負けるな、という文章を、何度か書いたことがある。 ところでその日、久しぶりで食べたクジラは、まったくうまくなかった。赤黒く、つや し力にもうまそうだが、ネギやゴボウといっしょ つや光って、血の垂れそうなところは、ゝゝ に鍋にしても、子供のときから知っているあのクジラの匂いもしなければ、味もしない。 これはイルカ しかし、一癖斎はこの匂いと味に、まったくおばえがないわけではない。 しいから食 である。太平洋戦争の終わりころ、日本にいよいよ食糧がなくなり、なんでも ) べられる物ならと、みんなが待望していたころ、ときどきイルカが配給された。 町のレストランで食事をしようとすると、 「牛も豚もありません。イルカならば」 と言って、ソテーかカツレツにして出される。まったくうまくないだけでなく、 いやな 107 にせクジラにご用心
ざまの奇矯な言動を見せたりして、世間の注目を集めた。それは半ば本気とも見え、半ば は物好きな、人騒がせな性分から、わざとやっているという風にも見えた。いずれにしろ、 世間の無責任な野次馬をおもしろがらせるには十分であった。 もっとも、文学というものは、世間の規律や約束からはみ出したところにおもしろみが あるので、正確と冷静だけでは、何の役にも立たないものである。事実、睡眠薬を服用し て、興奮状態に陥ったとき書いたと思われる彼の文章には、独特のリズムがあって、読者 をひきずりこむ力を持っている。もっとも、そのころ彼の書いたものは、史論風のものや 社会時評風のものが多く、小説はほとんど書いていない。 彼の書いたものの中に、美食とか、美味とか、食べ物とかに関係のある記述は、ほとん ど見当たらない。彼は新潟に生まれて、東京、伊東に住み、晩年は群馬県に移るなど、各 地を転々して、海のものにも山のものにも通じているはずだが、作品の中には出て来ない。 それは彼が無関心だったからというより、そのころ、そういうことについて書く習慣が、 一般になかったからであろう。文学者が食物や美味について、いろいろと書くようになっ たのは、戦後二、三十年過ぎて、国民の生活に余裕ができて以来のことで、それまでは、 空腹を満たすための食べ物談義はあっても、趣味として美食を追い求める習慣は、あまり なかったのである。安吾も、終戦前後は銀座、浅草、新宿と、あちこち酒を飲み歩いたが、 2 ろ 6
河内伝次郎の「姓は丹下、名は左膳」というセリフは、天下に流行したが、その原作を書 いたのは、この林不忘だった。 谷譲次という作家がいた。アメリカで放浪生活をして来たということで、その経験を生 かした作品も、評判がよかった。 この三人は、同時に文壇へ現れたが、世間では別々の人物だと思っていたところ、一人 の作家がその時によって、名前を使いわけているのだということがわかって、世間はアッ と驚いた。だんだんわかったところによると、この人は長谷川海太郎といって、たしかに アメリカで放浪生活をやって来たということであった。 しかし、自分の能力以上の仕事を引き受けて、無理をしたからか、文壇生活十数年のの ち、突然なくなった。戦後文壇で一時注目された長谷川四郎は、この人の弟である。 牧逸馬のなくなる前後に、一癖斎は彼の著書を読んでいた。なんという作品だったか、 思い出せないが、その中にアメリカの浮浪人とか、ゴロッキとか、犯罪人とかいうような 連中がよく使う「サノバガン」という言葉が出て来た。もとの綴りは Son ofa gun で、自 0 直訳すれば「大砲の息子」ということになるだろう。相手をうんと罵倒するときに使うら砲 大 しいが、なぜ「大砲の息子」が罵倒になるかについては、何の説明もなかった。ただ一癖 斎は、アメリカにはヘンな罵倒語があるのだなあ、と思っていた。