ゴ ) 、「死ねたらそれてもよい」 ( エリカ ) といった陳述から、その行為ては自殺未遂の 場合よりも自殺の意思が弱いとい - フことがてきる。むしろ自傷行為には、生きることを 確認する試み、さらには、生きるための試みという意味が認められることが多い この「死の願望」は、 かならすしも危険なものと見る必要はない 。それは世の中一般 に広く認められるものてある。世界各地の神話や昔話、伝統的な習俗、宗教的な修行に は、結局は再生へと通じる性質の「死」、つまり「死と再生」の普遍的テーマを読み取 ることがてきる。それらには、その文化や集団の危機に直面して、自分たちの同一性を 寉忍し、危機に立ち向かう力を強めるというプラスの作用がある。自傷行為にも、これ と類似の意味を帯びていることが少なくない。自傷者は、自傷行為をおこなうことによ って、自らの存在の意味を突き詰めて考える機会を得ることがある。私たちは、自傷行 為の持っこのようなプラスの意味を見落とすべきてない ・自己感覚や自己コントロールの回復 自傷行為は、痛み、恐怖、苦痛を発生させることによって自己感覚や自己コントロー ルの感覚を確認するためにおこなわれることかある。それは、「実際に生きているとい う感覚を取り戻すため」「自分がそれをてきるということを確かめたかったから」など と説明される場合てある。この意図は、空虚感や現実感覚の喪失に苦しむ人々によって
の依存・乱用などの著しく不健康なことをして間接的に自分を害する行為は含まれない この「意図的に自分を害する行為」と、自殺未遂および間接的に自分を害する行為との 関連を図示したのが図 1 てある。この図からわかるように、 「意図的に自分を害する行為」 は、自分の意思て直接的に自分を害する行為 ( 自殺関連行動 ) から、自殺未遂とみなされ るものを除いた部分に相当している。 米国て長年にわたって自傷行為を研究してきたウォルシュは、「自傷行為」を「意図的 に自分の身体を傷つけることてあり、それは社会的に受け入れられす、心理的な苦しみを 軽減するためにおこなわれるという性質を帯びる」ものだと定義する。これは、「意図的 に自分を害する行為」よりも狭い自傷行為の定義てある。ここては、自傷行為を特別な対 応を要する間題行動に限定するため、それが社会的文化的に許容されていないことが加え られている。文化的に許容されている自傷行為の例としては、耳たぶにピアスの穴をあけ ることがあげられる。これは確かに自らを傷つける行為てあるが、すてに社会て一般的な ファッションとして認められており、特別の対応は不要てある。 さらにこの定義の最後て、その意図を「心理的な苦しみを軽減するため」と限定してい ることは、自傷行為が別の苦しみから逃れるため、そして生き続けるためになされる行為 てあることを意味している。これは、自傷行為を自殺未遂から区別するためのポイントて
の自傷行為のみの狭い意味て捉えるウォルシュらなどの考え方との間には、 がある。しかし筆者は、この二つの考え方のどちらかを選ぶという一一者択一の態度に 成することがてきない。実際のケースの対応ては、どちらかに決めつけて考えるのてはな 両方の可能性を念頭において十分に時間をかけて自殺未遂の特徴を見きわめることが 必要だからてある。 自殺未遂の特徴 実際の対応ては、自傷者にその行為にいたる気持ちの動きやそれについての考えを尋ね ること、および周囲の人々から客観的な情報を集めることという二つの方向から自殺未遂 の特徴が吟味される。 自傷者からその行為にいたる気持ちの動きを聞き取る際には、その行為の意図や目的、 それに伴う死の願望の強さを尋ねることが重要てある。さらに、手段の危険性についての 自覚、生きることや死ぬことに対する態度、事前の熟慮の有無や、その行動がどのような 結果となると推測していたかなどが有用な情報となる。 しかし、実際には、自傷者の自己表現力の限界のために、これらの情報がスムーズに聴 きないことがしばしばある。そのような場合ても参考となるのは、客観的な情報てあ
知しながら、特定の変化を生じる目的て開始され実行される非致死的な結末となる行為」 てあると定義されている。この概念の特徴は、自傷行為を自殺未遂から区別することが容 易てないという実情に即して、自傷行為と自殺未遂の両方を含むものとして規定されてい る点にある ほうがん ハラ自殺や自殺関連行動の概念は、自傷行為のほとんどを包含しており、先に紹介した 「意図的に自分を害する行為」と大きく重なっている。このようにほとんど同じ種類の行 動に対して、複数の概念があり、異なる用語が使われるという事態は、混乱を起こす原因 し」た 0 るか・、しれたい これらの語が使われる際には、それがどのような意味て用いられて いるかを吟味しなければならないことがある。 しかし逆の方向から考えてみると、これらの概念・用語が引き続き用いられているのに は、利点かあることを認めなくてはならない。自殺との関連の乏しい行為には、自傷行為 の語を用いることてその対応のおおまかな方針が明らかになるし、そこにおける自殺未遂 の側面を否定てきない場合には、自殺関連行動とみなして慎重に対応することになる。こ のように、複数の用語があることは、場合によってうまく使い分けることがてきるのな ら、重宝だともいえる。
のような自傷行為には、それが欲求不満や怒りの表現だとする理解があてはまることが多 そのほか、周囲の人々に衝撃を与えたいという欲求や、他者の行動を変化させようと する試みといった意味が認められることがある。第四章て示した南条あやが自分の初期の 自傷行為を「同情」を求めるための行動てあったと記しているのは、その一例てある。ま た、流行として生じる自傷行為は、第三章て述べた社会文化的に規定されている自傷行為 のように、自傷者同士の連帯感を示すという意味や、学校や病院などの組織に対する反 抗、挑戦といった意味を帯びていることがある。 集団場面て発生する自傷行為への対応のポイントは、そのメッセージの意味を理解し、 それを皆に共有される通常のコミュニケーションの中に組みこもうとすることてある。周 囲の人々から理解されて、受け止められたと感じたなら、自傷者たちは自傷行為という病 的なメッセージの発信方法をやめるだろう。 しかし、もともとが問題をはらんだメッセージてある自傷行為を的確に受け止めること は容易てはない。 自傷行為が上の世代の人々への反抗や挑戦の意味を帯びていると捉え て、関係者が自傷を止めようとしてやっきになると、かえって自傷行為をエスカレートさ せてしまうといった事態も生じうる。そのような場合には、うわべの「反抗」や「挑戦」 のみに対応するのをやめ、まず相互の理解を進めるというように基本的な姿勢の変更が必 130
ある。 文化的現象としての自傷行為を長年にわたって研究してきた米国のファヴァッツアは、 自傷行為の概念の一つてある「習慣性自傷症候群」を提唱している。この症候群の診断に は、自らの身体を傷つけたいという観念が持続しており、その考えに抗しきれずに自傷行 あんど 為をすること、自傷行為によって緊張が解放され、安堵感が生じることといった特徴が認 められることが必要てある。この「習慣性自傷症候群」ぞも、前述のウォルシュの定義と 同様に、文化的に許容される自傷行為や自殺未遂が除外されており、自傷行為は、死ぬた めてはなく、むしろ苦しみを減らす、生きるための手段として捉えられている。 そして、それによってい このように自傷行為の定義は、まだ十分に定まっていない。 つかの間題が生じていることも指摘されなくてはならない。 その顕著な例は、処方薬や市 販薬の過量服用を広い意味の自傷行為に含めるかどうかが研究者の間て意見がわかれてい ることてある。過量服薬は、ウォルシュの定義する自傷行為やファヴァッツアの習慣性自 傷症候群に含まれないものの、「意図的に自分を害する行為」には含まれることがある。 このような状況のために、私たちは自傷行為の語が用いられたとき、それがどの概念にも とづいているのかを確認しなくてはならないことがしばしばある。 なお、本書ては、自傷行為をパテイソンとカーハンの「意図的に自分を害する行為」と 19 第一章自傷行為とはなにか ?
そも自傷行為ては、その意図と、それによって発せられるメッセージの受け止められ方 が大きく食い違うのが通例てある。このような矛盾をはらんだメッセージは、周囲の 人々や自傷者本人を一層混乱させる。そしてその結果、同様の自傷行為が繰り返される こし」にた 6 る この自傷行為のメッセージとしての性質は従来から重視されてきた。自傷行為には、 周囲の人々に強い影響を与える、周囲の注目を集めるといった作用があることが指摘さ れている。しかしこれらの自傷行為のメッセージとしての意味は、自傷者によって自覚 されないことのほうが多い。むしろ彼らは、自傷行為が他者に影響を与えるための行動 とみなされることを不本意もしくは不快なことと捉えている。このような自傷者の感 じ方は、自傷行為への対応においてよく理解しておく必要がある。 ーソナリティ特性 ーソナリティとは、個人の感情、認知、行動の持続的パターンを指す語てある。その 特性のいくつかは、自傷行為の重要な発生要因となる。ここては、自傷行為に関わると考 - んられる、 ーソナリティ特性を、自分を否定的に捉える傾向、衝動的な行動パターン、身 体感覚や身体認知の異常としてまとめることにしよう。
語られることが多い。このような自傷行為の意図はモデル症例の中てエリカにもっとも 顕著に認められていた 自傷行為は、このような自己感覚の障害を克服しようとする行動てもある。しかし自 傷行為にはごく一時的な効果しか望むことがてきないのて、自己感覚にまつわる苦痛が 続けば、それが繰り返されることになりかねない ・身体において苦しみを表現すること 人間は、しばしばその身体を使って自らの感情を表現する。なかても皮膚は、もっと も簡単に傷をつけられると同時に、その傷が人々の目にもっとも留まりやすいために、 効果的にメッセージを発することのてきる身体部位てある。たとえば、症例シンゴのよ うに、自分の苦しい体験の記憶を自分の身体に刻み込み、それを周囲の人々に見せつけ るために自傷行為がおこなわれるケースは少なくない それはさらに、痛みをいとわず自傷行為をやってのけるという勇敢さや忍耐力を誇示 する意味がある。また、症例マサミて見られたように、それは、罪悪感を感じさせ、態 度の変更を迫るというように周囲の人々に強い影響を及ばすメッセージとなることが ある。 しかしそれは、周囲の人々にとってけっしてわかりやすいメッセージてはない。 93 第五章三つのモデル症例
の説明によっていっそう明確になるだろう 「自分の意思にこだわる」とは、理性や感情に支配されており、「賢い心」から遠ざか っている状態てある。これは、「自分を変えようとしない」、「自分をあきらめる」、「状 況を固定する」、「その瞬間に耐えることをやめる」のと同じ意味てあり、そのようなあ りさまては、新しい気づきの体験などとうてい実現てきないのてある。 そのほかの「困難に耐える」ための方法として、弁証法的行動療法ては、リクリエー ション活動やイメージの操作、呼吸法などのリラクゼーション技法が推奨されている。 ここにはまた、ほほえみの表情をしてみることて、心の状態を変えようとする「ほほえ み訓練」とい「た創意に 4 れた訓練が含まれている。 実際の弁証法的行動療法ては、週二回の集団生活技能訓練と週一回の個人精神療法が 約一年間続けられるのが一般的てある。 弁証法的行動療法ては、このようにすべての認識、行為に対する気づきを深めて、よ く意識化された明晰な思考や判断を実現することが目指されている。このような発想 は、従来の認知療法における認知プロセスの単純な理解を拡張して、哲学的、宗教的な 認識論や行為論、さらに生き方まてを視野に入れようとしたものということがてきる。 また、弁証法的行動療法ては、矛盾や曖昧さを許容する態度が含まれており、患者が 16 8
どの厄災の折に、聖職者に先導されて街の住民が列を作り、自らを鞭て打ちながら行進し たことか言命に残されている。この多くの人々の参加する自傷行為には、自らの罪を罰す るという宗教的な意味に加えて、災害や疫病を避けるために、それを生じる神の怒りを和 らげようという意図があったと考えられている。 今一つの世界宗教てある仏教ては、宗教的な理由て自傷がおこなわれることがまれてあ しようろうびようし るとファヴァッツアはいう。なせなら仏教ては、生老病死という人生の要素すべてが苦 しみてあり、人間は、すてに苦しんているという基本的な考え方があるからてある。ま 釈尊は、べナレスにおける最初の説教において極端な苦行をおこなうことを否定して いる。ファヴァッツアは、このような事情から仏教国ては自傷行為の発生が少ないのだろ うと述べている。本章の表 3 を見ると、 たしかに仏教圏てある台湾、韓国ては、他の地域 より少ない傾向があるようだ。 指詰めと根性焼き 特定の集団において文化的意味合いの強い自傷行為がおこなわれてきたことは、わが国 も例外てはない。 ここては、わが国て置習的におこなわれてきた自傷行為てある「指詰め ( 断指 ) 」と「根焼き」について、小原圭司の報告を元に述べることにしたい。