情報のほとんどがジャンⅱ ハティスト・モエンスから得られたものだ。それを考えると、彼の語っ ている話を基本的な事実として受けいれないと何もはじまらない。モエンスという人は、だまされ やすいとか、あるいは不誠実な人間だったようには見えない それどころか研究者として、自分が 出していた専門誌「郵便切手」の内容が、最初のころしよっちゅう無断借用されることに憤慨して ひょうせつ いた。そこで剽窃者の足どりをつかもうと、架空の切手をでっちあげて「郵便切手」誌に掲載し てみた。案の定、それはライノノ言 。、レむのページを次々と飾っていったという。ディ 1 ラ 1 としてのモ エンスの行ないが疑わしいという指摘は数々あるが、もはや証明できないものもあれば、時代背景 を考えればやむなしというものもある。モエンスに関しては、やはり「疑わしきは罰せず」の原則 を貫くべきだろう。 一八九九年までのポストオフィス切手について、モエンスが記録に残した由来は明央で、重要な 点はのちの調査でも確認されている。とくに、ポストオフィス切手最大の供給源であるポシャール 夫妻の経歴は、細かい点までほかの記録と一致する。アドルフ・ポシャ 1 ルがポルドー在住で、妻 があり、一八 , ハ九年に死んだこと。一八四七 5 四八年にモ ーリシャス行きの商船の仕事にかかわっ ていて、モー リシャスからの手紙を受けとる立場にあったこと ( 切手がポストオフィスかどうかは別 疑 の ( ベルリンの郵便博物館が一枚所蔵、 にして ) 。偽造の疑いがかけられている三枚の使用ずみ一ペニ 1 あとは個人所有 ) と、大英図書館のタブリング・コレクションに入っている二ペンスは、どれもポ 万 百 。モ工 シャール夫人が見つけたものだが、 モエンスの手を経て売却されたのはそのうち二枚だけだ 2 ンスにしろ他の誰にしろ、一八六〇年代にポストオフィスを偽造した輩は、偽切手にそれらしい由 第 来をくつつけるために、ポシャール夫妻の経歴を利用し、夫人を隠れみのにしたのか ? いくら何 243
は端が欠けているとはいえ ( ポシャ 1 ル夫人か郵便局員ムートウサミ 1 が、ハサミで切りとるときに失 敗したと思われる ) 、状態の良いもので、消印もべったりついていない。 デボワ夫人はこれを三〇〇 フランでモエンスに売り、モエンスはすぐに六〇〇フランで転売した ( 本人は「いささかのためらい もなく」と書いている ) 。 消印のついていないこの二ペンス切手の新たな持ち主は、切手への執着を内に秘めた二〇代の若 者だった。のちに彼は、偉大なる郵趣家として、自身が切手の図案に描かれることになる。彼の名 はフィリップ・フォン・フェラリ 1 とはいえ , 彼かモ 1 リシャスの稀少切手をあと二枚手に入れて、 選ばれたコレクターの一員となるには、あと六年待たなくてはならない それはモエンスが未消印 と評した一ペニ 1 と二ペンスで、ペリネルが所有していたものだった。フェラリ 1 はモエンスから、 その二枚を五五〇〇フランで購入した。モエンスはその一か月前に、 ペリネルから三〇〇〇フラン 運 ンで買いとっている。この二枚は、もともとペリネルが一一年前の一八七〇年一月に、モエンスから シ九五〇フランで買ったものだ。さらにさかのばれば、デボワ夫人から送られてきた三枚のポストオ レフィスのうちの二枚で、このときモエンスは三枚で五〇〇フランの買い値をつけたのだった。これ とら三枚の発見者であるポシャ 1 ル夫人が、い くらで売却したのか記録はのこっていないたがペリ 一ネルは、一八七〇年に買ったときの三倍以上の金額を手にしたし、モエンスはわずか一か月とちょ タ ク っとのあいだに、買い値の二倍近い金額で売りぬけたことになる。フェラリ 1 が支払った五五〇〇 コフランは、一枚当たりで計算すると、一八七五年に未使用二ペンスを買ったときの金額の四倍以上 章だ。フェラリ 1 は金持ちで、稀少切手に力を入れる熱心なコレクタ 1 だった 一八八一年、フィ 第ルブリック判事がコレクションをまとめて売りに出したとき、九〇〇〇フランで買いとったのはほ
エルバンの記事が出て三か月後の一八六五年五月、ライバル誌である「郵便切手ーが、そうした 変種の存在に疑問を投げかける記事を掲載した。同誌の編集者かエルバン、「あるいはその資格と 権威を有する人物」が実物を見たというのでなければ、納得しかねると異議を唱えたのだ。そして ーリシャスのポストオフィス問題」を、「酔狂なコレクターのあまりに豊かな想像の産物で片 づけてしまった。 「郵便切手ー誌の記事は無署名だが、書いたのは同誌の発行人であるべルギー人切手ディーラー ジャン日 ハティスト・モエンスか、その義理の兄弟であるルイ・アンシオ、あるいは寄稿者のひと りである「マグナス博士」 ( ジャック・アマブル・ルグラン ) のいずれかと思われる。 ジャン日 ハティスト・フィリップ・コンスタン・モエンス ( 一八三三 5 一九〇八 ) と、彼がプリ ュッセルではじめた会社は、郵趣界では有名な存在だった。彼の死亡記事には、世界初の切手ディ 1 ラ 1 という表現が出てくる。一五歳から切手集めをはじめたモエンスは、四年後、自分の小さな 書店で切手も売るようになった。そして一八六二年、収集家のためのガイドを出版して、郵趣家の 仲間入りをする。ポストオフィス切手がはじめて発見された経緯や、その後見つかった数少ない実 物をめぐる逸話の多くは、一八九〇年代後半にモエンスの筆で紹介された。 社会奉仕の意識が強かったモエンスは、数多くの栄誉を一身に集め、経営者としてもその評判に 恥じない姿勢を貫いた モエンスと彼の事業を語った文章には、「栄誉」やそれに類する言葉がか ならず出てくる。目先のきくディーラーであり、「熱心に働き、余暇を陽気に楽しむ」モエンスは、 コレクタ 1 たちの増えつづける需要にこたえるため、ヨ 1 ロッパ各国で発行されたばかりの切手の 未使用プロックを買いつけていた。一八五〇年代から六〇年代の未使用切手がいまもたくさん残っ
ーヾティスト ・モエンスが最初に このバイオグラフィ 1 の下敷きになっているのは、ジャンー 作成したものを、その後ウィリアムズ兄弟らが引きついで出版した "Encyclopedia of Rare and Famous Stamps" (David Feldman, Geneva, VOI. 2. 】 997 ) である。ただし David Feldman の許 可を得て、筆者が編集・加筆しており、誤りも訂正している。詳細な出典は同書の脚注を参照 されたいカ、一音に一 = ル角を招きかねない記述があることもつけくわえておく。 モエンスは一八九九年に作成したバイオグラフィーのなかで、その当時知られていた一九枚 一九三〇年代と四〇年代に改 のポストオフィスに、発見順にローマ数字の通し番号を振った。 訂・更新版バイオグラフィ 1 を出版したウィリアムズ兄弟も、この方法を踏襲しているが、 "Encyclopedia" ではアラビア数字に変更した。番号の振りかたも、額面のちがい ( 一ペニ 1 、使用ずみ ) を区別するため 二ペンス、一ペニ 1 と二ペンスの同時使用 ) と状態 ( 未使用、カバ に再編されている。ただ、専門家ではなく一般読者を対象とした本書では、モエンスが用いた 最初の通し番号のほうがわかりやすいと考え、モエンス方式を復活させた。年月日が不明、あ るいは不確実なものは ( ? ) としてある。 ホストオフィス切手のハイオグラフィー 278
ペンスで、ポシャール夫人はマルティノ 1 なるコレクタ 1 と交換したとされる。デボワ夫人は、こ の切手もたった一〇〇フランでモエンスに売り、モエンスは四日後、六倍の値段でフランスの有名 なコレクタ 1 、アルトウ 1 ル・ド・ロスチャイルドに転売した。デボワ夫人は一八七四年、。、 切手ディ 1 ラー・出版業者のピエール・マエに宛てた手紙でこう書いている。「私は珍品切手の発 見者という栄誉に浴しましたが、 あれほど貴重な切手に出会うことは、おそらくもう二度とないで しよう」それでもデボワ夫人は探索を続け、すぐ翌年の一八七五年に一枚見つけている。ポルドー の収集家のコレクションを買いとったら、ポシャ 1 ル夫人が最初のころに見つけて交換したポスト オフィス切手が含まれていたのだ。夫人がこのコレクションに払った金額は五〇〇フランだが、未 使用の二ペンスポストオフィスだけ、すぐにモエンスに売っこ。 ノカ今度は三〇〇フランという賢い値 っすだった。そしてモエンスもまた、その二倍の金額で売却したのである。 これが、デボワ夫人を経由した最後のポストオフィス切手となる。だが夫人はモ ーリシャスの珍 品切手の発見者を自任し、ポルドーの郵趣家が自分の店を訪れるたびに、その話を語ってきかせた デボワ夫人の名前は、一九〇二年版の『ポルド 1 年鑑』にもまだ出ていて、職業は読書室および書 店 ( 新刊と古書 ) の経営、稀少切手売買となっている。彼女は一九一二年、九〇代で世を去った。 ポシャ 1 ル夫人もデボワ夫人も、ポストオフィス切手で大もうけできなかったが、モエンスだけ は、買ったときの二倍、四倍、ときには六倍の値段で売りぬけている。ポストオフィス切手は、そ の貴重さがすでに認められていた 世界初の切手、ペニープラックが市場に何百万枚と流通して いるのにくらべたら、ほとんどゼロに等しい数しか実在しない そのためポストオフィスは、切手 収集家、なかでも切手発行や製作の経緯に大いに関心があり、過去につくられた切手をすべて集め
第こ百万ドルの疑問 1 リシャスを注意ぶかく調 ジャン Ⅱバティスト・モエンスは一八九九年に、ポストオフィス・モ べあげたバイオグラフィーを出版する。これをもって、モエンスとポストオフィスの長年におよぶ 関係は終わりを告げ、モエンスはまもなく現役を退くことになる。彼のバイオグラフィーは、その 後も更新されており、一九三〇年代にまずその役目を引きうけたのはロンドンのウィリアムズ兄弟 1 リス ( 一九〇五 5 七六 ) 、弟ノ 1 マン ( 一九一四 5 九九 ) はともに ごっこ。ジャ 1 ナリストの兄モ 熱意あふれる郵趣家で、め 0 たにない重要な発見例を受けて、引きつづき切手に固有の番号を振「 ていった。ノ 1 マンの最後の更新は一九九七年で、兄弟がポストオフィスの調査を開始してから約 六〇年た「ていた。ノーマン・ウィリアムズ最後の著作『稀少・有名切手事典』には、二六枚の それに関しては何の疑いもない、 疑いの影の可能性すらない、 とにかく疑、つことなど考えられない 「スタンレ 1 ・ギポンズ・マンスリーマガジン」に引用された 1 ト & サリヴァン作「ゴンドラ船頭」 ( 一八九〇 ) より ギルバ 237
Gouverneur et qui avalt 6t6 conservée comme un souvenir de 」 eunesse" この・文章は、「舞踏ムムの 招待状が入っていた封筒のように大切に残しておいたーと、「舞踏会の招待状が入っていた封筒を 大切に残しておいた」のどちらにも解釈できる。だが、モエンス自身としては一般論のつもりだっ たろう。思い出の品として封筒を残しておく理由のひとっとして、舞踏会を引きあいに出したのだ 実際、レディ・ゴムが発送した招待状の封筒も現存しているが、どれも中身は残っていない それでは、レディ・ゴムとの関連はどこから出てきたのか ? セル坏の説明に、総督夫人のこと は出てこない。セルネの逸話が公表されてから二年後の一八九九年、モエンスは舞踏会は総督が主 催したと書いている。その後モエンスには、招待状の趣旨について疑問の声が寄せられたにちがい ない。数か月後に発表した文章は、それに答える形になっている。またデュヴィヴィエ夫人の甥 ( アイメのことだろう ) もモエンスに宛てて手紙を出し、「封筒に入っていた招待状は、総督夫人で あるレディ・ゴムが主催の舞踏会でしたーと書かれていた。おそらくこれで、レディ・ゴムー舞踏 会ーポストオフィス切手ー封筒の結びつきが完成したと思われる。アイメはそのことを、この舞踏 会に出席したと思われるおばから直接聞いたというから、情報の確度はかなり高い 話 っ デュヴィヴィエの封筒は、まずスタンレ 1 ・ギポンズに持ちこまれた。このときの言い値はかな でりの金額 ( 一五〇〇ポンドと伝えられる ) だったが、結局はロンドンの別のディ 1 ラ 1 、・・ペ よキットが「一〇〇〇ドル以上ーで買った。この取引もマスコミの注目を集め、「一枚の切手として 章は史上最高額ーと騒がれた。記事には、一八八〇年代にタブリングがマ 1 カイの封筒を手に入れた 第 ときの金額が、比較として引用されていた それは六五 5 八五ポンドである。 117
二ペンス。未使用。修復されており、下部の文字の一部が雑に加筆されている。 一八四七年ポルドーのポシャール氏宛て手紙に使用される。 一八六五年ポシャ 1 ル夫人が発見。のちに ( 日付は不明 ) ポルドーのコレクターに売った。 交換した。 一八七五年ポルド 1 のコレクタ 1 は、自分のコレクションを五〇〇フランでデボワ夫人に売 ー。、ティスト ・モエンスが 却。八月、そのなかからポストオフィスだけ、ジャンー 三〇〇フランで購入。モエンスはそれをすぐフィリップ・フォン・フェラリ 1 ランで購入。モエンスは四日後、アルトウール・ド・ロスチャイルドこ、 ( 亠 / 〇〇フ ランで売却。 一八九三年フィリップ・フォン・フェラリーがロスチャイルド・コレクションを一四万フラ ンで購入。 一九二三年パリで開かれたフェラリー ・コレクション第六回競売で、モーリス・ブリュスが 四万九三五〇フランで落札。 一九六三年ブリュス・コレクションの競売で、スタンレー・ギポンズ・リミテッドが三三〇 〇ポンドで購入。 一九七二年ベルジカ肥国際切手展で、スタンレー・ギポンズ・リミテッドが展示。その後バ ミュ 1 ダのコレクタ 1 が二万二〇〇〇ポンドで購入。 292
最初は二枚同時に発見されたが、これはモエンスが一八 , ハ五年一〇月に手に入れた。次に出てき た二ペンス切手一枚は、ポシャ 1 ル夫人がデボワ夫人に一八六六年に売りわたした。売却金額は不 明。それから三年たった一八六九年、デボワ夫人はモエンスに二ペンスのポストオフィス切手を送 っている。これはポシャール夫人が、以前夫の手紙を探していて見つけたもので、「ほとんど未使 用」という触れこみだった ( MAU ミ TIUS の <> の文字に青色の消印がうっすらかかっている ) 。裕福 なコレクタ 1 をたくさん知っているモエンスは、このポストオフィスを一〇〇フランで買いとった あと、すぐに二五〇フランで転売した。翌一八七〇年のはじめには、デボワ夫人からさらに三枚の ポストオフィス切手が届いた 一ペニ 1 の使用ずみが一枚に、未使用の一ペニ 1 と二ペンスが一枚 ずった。このときデボワ夫人は、この三枚に五〇〇フランの値をつけた。ポストオフィス切手の価 値は、ゆっくりとだが確実に上昇していた。 ーリシャス モ ポシャール夫人が発見したポストオフィス切手は、どれも何らかの損傷があった。 からフランスの郵便システムを通り、多くの場合イギリスも経由して届けられたせいだろう。それ に切手収集がはじまったばかりのこの時代、幼い子どもを抱えていたポシャ 1 ル夫人に、後世のコ レクターと同じぐらい廩重に切手を切りとれと言うのも無理がある。それなのにモエンスは、ポシ ャ 1 ル夫人は「もともと不注意な性格だったらしく、夫の手紙から切りとった一三枚のうち、角が 欠けているものが四枚もある」と意味もなく厳しいことを書いたたか、それはほんとうに夫人の 過失なのか ? ポストオフィス・モ ーリシャスには、目打が入っていない。だから郵便局職員が売 るときに、切りそこなった可能性もあるだろう。一八四七年当時のポ 1 トルイスの郵便局は狭くて 風通しが悪かったから、暑さでつい手元がおろそかになったかもしれない
郵趣誌に載った切手の図版は、ほとんどが発行人の所有していた実物をもとにしていた。フィラ テリック・ファクトは、現存する実物を見て集めるのが大原則である。ときには、郵趣誌の発行も しているディーラ 1 のコレクションに偽造品がまぎれこみ、真正品として雑誌に図版が載ることも あった。ただ、これはすぐに発覚することが多い。同じ切手を所有する読者がおかしいと気づいて 連絡するからだ。真贋問題はすぐに決着がついて、めでたしめでたしとなる。 だが郵趣誌のこうしたやりかたは、、 しささか問題のある副産物を生じることにもなる。それは複 製の原版だ ( 原版とは金属その他の素材に切手の図案を彫ったもので、ここから何枚も版下をつくって切 手シートを印刷する ) 。雑誌の図版にする目的でつくられた原版だが、そこから切手を印刷すること ももちろん可能なのだ。「郵便切手。誌の発行人だったモエンスも原版を数多く保有していて、そ れらは一九〇〇年に彼が引退したとき、手持ちの切手とともに売却された。その原版をもとにした リプリントも知られているが、誰がそれをつくったかは不明だ。 モエンスの複製原版のなかには、ポストオフィス切手一ペニーおよび二ペンスも含まれていたに ちがいない。「郵便切手」一八七〇年一月号に、他誌に先がけてポストオフィスの図版が掲載され ているからだ。モエンスが扱ったほんものーー最初に発見された二枚 に 2 、、らべるし J 、こちゞらの 複製のほうがよほどポストオフィスらしいが、文字の体裁 ( とくに co ) と女王の横顔が明らかにち かう。これは、ポストオフィス切手偽造のための最初の原版と呼べるかもしれない。 ジェ 1 ムズ・ポナ 1 が、子ども時代のコレクションから美しいブル 1 1 リシャスを再発見し たのは、一九〇三年のことだった。それ以降、ポストオフィス切手が発見され、ほんものと認定さ 216