二枚 - みる会図書館


検索対象: 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!
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1. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

活動していたエミ 1 ル・ラランが、ついに手ばなすことにしたものだった。この四枚を丸ごと買っ たのは、ビエ・ラト 1 ドリ 1 という人物だ。しかし「ポストオフィスは二枚あれば、自分の幸福に は充分だ」と考えた彼は、未使用の二枚をすぐスタンレ 1 ・ギポンズに売却した。六八〇ポンドで 買いとったギポンズは、史上最高額の取引だったと得意げに宣伝している。こうしてポストオフィ スの市場価値は、ふたたび上昇しはじめる。ラト 1 ドリ 1 は一八九 , ハ年、手元に置いていた二枚の 使用ずみポストオフィスも売りにだして、一六〇〇ポンドを手にする ( わずか三年間で驚くべき高騰 ぶりだ ) 。一八九七年には、ルグランもまたコレクションの大部分を売ることを決意した。そのな かには二枚のポストオフィスも含まれていたので、一八六〇ポンド ( 一説には一九二〇ポンド ) と 四万六五〇〇フランである。モエンスはその金額を聞いて目を丸くした。何 いう高値がついた しろ自分が約三〇年前、デボワ夫人からその二枚 ( 使用ずみ一ペニ 1 と未使用二ペニー ) を買ったと きは、値段は二〇〇フランだったのだ。「ロンドン・フィラテリスト」誌は、切手収集の草創期か らはじまっていた変化の最たるもの、と評している。ルグラン所有の二枚についた値段は、「コレ クション全体を揃えるのに費やした総額をはるかに上回っていたのだ ! 」このころから、ポストオ 2 , 」し」に . なる フィス切手が市場に出るたびに、価格の記録が塗りかえられてい タブリングが死に、ラランとルグランのコレクションが分割・売却されたいま、分野を限定しな い韭日ながらの総合コレクターは、フェラリーひとりとなった。彼のコレクションは無傷のまま、世 界最大級の規模を誇っていたのである。 ジャン日 ハティスト・モエンスは一九〇八年に、ビエール・マエは一九一三年に世を去る。ある 102

2. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

1 リシャスを燃やしてしまったくせに たが一ペニーポストオフィスが忘れられたり、二ペンスとのペアの価値が失われたわけではない。 「ロイズ・マガジンー一九二一年四月号に、 < ・・バレイジが書いた「知られざるストックの賭 う文章が掲載され、「切手収集」はその要約を紹介している。 それはモ 1 リシャスからの手紙が入っていた封筒だった。彳 ( 皮よ一時間後、街灯の下でそれを ーリシャスの古い切手が四枚貼ってあったことが決め手だった。赤が二枚、青が 確かめた。モ 二枚だ。 翌日フューギンは言った。「もちろんそれは、私が探しもとめていた切手です。手紙が書か 1 リシャスが最後に競売にか れた年代からわかりました。二ペンスの青いポストオフィス・モ かったときは、一五〇〇ポンドの値がっきました。二枚となると値段は想像もっきません。一 ペニーのほうも価値があります。これら四枚を合わせると、一万ポンドは下らないでしよう」 「切手収集」の編集者は、フィクションといえども事実に反することは看過できなかったようだ。 いまだ発見されていない ーリシャスが二ペア貼られた封筒なるものは、 「ポストオフィス・モ フューギンの発言を否定している。しかも切手の値段についても、ポルドーの手紙の例を引きあい に出して、あまりに時代遅れだと非難している。「各額面の切手が一枚ずつ貼られためずらしい封 、ご。、、皮がムっこ金 ・ハインド氏の所有になったのナカ 筒は、最近アメリカ郵趣界の大御所、アーサー 、フル 162

3. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

の家を訪ねたときのことを懐かしく田 5 いだしている。「彼はことあるごとに、そのカバーを取りだ していました。いちばん大切にしていた品のひとつでした」 ハインド・コレクションの競売でポストオフィス切手についた値段は、大ブ 1 ムだった一九二〇 年代にくらべると安かった。それでも大恐荒下のアメリカから見れば充分に高かったし、一度に売 りに出された枚数も異例だった。とくに注目を集めたのは、四枚のポストオフィス切手である。二 種類の額面の切手が同じ封筒に貼ってあるポルドーの手紙のほかに、 ハインドは一ペニ 1 と二ペン スの未使用ペアも所有していた。これらの切手は、ハインドの雑な扱いをまぬがれたようで、 ナ 1 ドが一八四七年に印刷したときそのままに、美しくみずみずし、卩象ごっこ。 しオナこれほど最初の 状態を保っているポストオフィスはほとんど例がなく、 ほかには未使用一ペニ 1 が一枚と、未使用 二ペンスが三枚知られているだけだ ( 二ペンスのうち二枚は王室コレクションと大英博物館に収蔵され、 もはや市場に出ることはない ) 。またハインドのポストオフィス未使用ペアは、い ままでのところ離 、 0 ヾ ればなれになったことがなし とちらもポシャ 1 ル夫人がポルドーで見つけたものだ。二ペンスは 一八六五年、最初に見つかったもののひとつで、一ペニ 1 は夫人がまさかのときに備えて残してお コ いた。まさかのときはすぐに来て、夫人は一八六九年に換金した。ボルドーのコレクター、ララン の を別として、この二枚を買った者は全員ーーーエイヴリ 1 ドユヴィ 1 ン、ハインド が、所有し ねたまま物故している。所有者と未使用ポストオフィスを分かつのは死だけのようだ。 大 しかし一九三四年のハインド・コレクションの競売で、この未使用ペアはついに別々の道を歩む 章 ことになる。スリランカのコロンポ在住のコレクタ 1 、アーネスト・デ・シルヴァが一ペニーを、 第 そしてヨーロッパのディ 1 ラーが二ペンスを落札したのだ。二枚の落札価格は、二ペンスのほうが 205

4. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

は端が欠けているとはいえ ( ポシャ 1 ル夫人か郵便局員ムートウサミ 1 が、ハサミで切りとるときに失 敗したと思われる ) 、状態の良いもので、消印もべったりついていない。 デボワ夫人はこれを三〇〇 フランでモエンスに売り、モエンスはすぐに六〇〇フランで転売した ( 本人は「いささかのためらい もなく」と書いている ) 。 消印のついていないこの二ペンス切手の新たな持ち主は、切手への執着を内に秘めた二〇代の若 者だった。のちに彼は、偉大なる郵趣家として、自身が切手の図案に描かれることになる。彼の名 はフィリップ・フォン・フェラリ 1 とはいえ , 彼かモ 1 リシャスの稀少切手をあと二枚手に入れて、 選ばれたコレクターの一員となるには、あと六年待たなくてはならない それはモエンスが未消印 と評した一ペニ 1 と二ペンスで、ペリネルが所有していたものだった。フェラリ 1 はモエンスから、 その二枚を五五〇〇フランで購入した。モエンスはその一か月前に、 ペリネルから三〇〇〇フラン 運 ンで買いとっている。この二枚は、もともとペリネルが一一年前の一八七〇年一月に、モエンスから シ九五〇フランで買ったものだ。さらにさかのばれば、デボワ夫人から送られてきた三枚のポストオ レフィスのうちの二枚で、このときモエンスは三枚で五〇〇フランの買い値をつけたのだった。これ とら三枚の発見者であるポシャ 1 ル夫人が、い くらで売却したのか記録はのこっていないたがペリ 一ネルは、一八七〇年に買ったときの三倍以上の金額を手にしたし、モエンスはわずか一か月とちょ タ ク っとのあいだに、買い値の二倍近い金額で売りぬけたことになる。フェラリ 1 が支払った五五〇〇 コフランは、一枚当たりで計算すると、一八七五年に未使用二ペンスを買ったときの金額の四倍以上 章だ。フェラリ 1 は金持ちで、稀少切手に力を入れる熱心なコレクタ 1 だった 一八八一年、フィ 第ルブリック判事がコレクションをまとめて売りに出したとき、九〇〇〇フランで買いとったのはほ

5. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

ベキットと同じくルメ 1 ルの場合も、ポストオフィス切手の買いとり値段は、外部の人間にはな かなかわからなかった。一八九七年にルメ 1 ルは、ルグランのコレクションに含まれていた消印入 り一ペニーと未使用二ペンスに三万ドルの値をつけている。だがこれは安すぎる。なぜならその六 年前には、使用ずみ一ペニ 1 と二ペンスが四万二〇〇〇フランで売れていたからだ。ルメ 1 ルがル グランの二枚のポストオフィスに安い値をつけたのは、い まさら儲ける必要がないことを印象づけ たかったのだろう。そしてルメールは、二ペンスが一枚オ ごけ貼ってあるポルドーの手紙を三万フラ ン ( およそ一二〇〇ポンド ) で、一ペニ 1 と二ペンスが貼ってあるほうは四万フラン ( 一六〇〇ポン ド ) で買いとった。後者の値段は、複数の専門誌でも紹介された。ルメ 1 ル自身は、一八七二年当 時はポストオフィスの値段は一〇〇フランだったものだと誇らしげに比較している ( これはモエン スが買って、ロスチャイルドに転売したときのことを指している ) 。二通を合計すると、男子生徒にせよ、 あるいは他の誰にせよ、直感のおもむくまま古い手紙の山を探しまわった努力の見返りとしては、 紙充分すぎる金額だった。 手 の ところでポルド 1 の手紙二通の値段は、切手一枚だけの手紙より、二枚貼ってあるほうが一・三 倍高いだけた。なぜ二倍、せめて一・五倍にならなかったのか ? 一八九九年にルメ 1 ルがアダム の封筒を買ったときの値段は、。 と へキットがデュヴィヴィエの封筒につけた値段と同じーー六〇〇ポ 生ンドだった。どちらも切手が一枚だけである。それから数年はたっているので、ディ 1 ラ 1 の立場 男からすれば、ポストオフィスが二枚貼られた封筒は一八〇〇ポンド前後の値がついてもおかしくな 章かった。このころから郵趣専門誌は、一ペニ 1 と二ペンスの枚数比に注目しはじめる。一九〇三年 第 にポルド 1 の手紙が発見される前までは、その比率は対 8 だった。また枚数だけでなく、価格に 141

6. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

なる。次に登場するのは、一八八一年一月、ペリネルのコレクションにあった二枚をモエンスが買 いとってからだ。フェラリ 1 が欲しがっているのを知っていたモエンスは、この二枚をすぐ彼に売 った。同じ年、フェラリ 1 はフィルブリック・コレクションを丸ごと買いとる。ただポストオフィ ス切手に関しては、すでに三枚所有していたから、コレクションに入っていた二枚は余分にも思わ れた。しかしこの二枚が加わったおかげで、フェラリーはポストオフィスを「完全セット」で所有 することかできた。それはいままで、エミ 1 ル・ラランしか達成したことのない偉業だっ、」。 フェラリ 1 が集めた切手の種類と数は、たいていのコレクタ 1 の能力と意欲をはるかにしのぐも のだったが、ただひとり、フェラリ 1 こ ( 匹敵する人間がいた それがトマス・キイ・タブリング だ。フェラリ 1 は、本格的な郵趣家のコレクションを丸ごと買うようになってから、手元に重複す る切手が多くなっていた。しかしそれを手ばなすのは、目当ての切手と交換できるときだけだった。 そして、フェラリ 1 がねらっていた稀少切手を ( 一説によると何種類も ) 持っていたのが、トマス・ キイ・タブリングなのである。タブリングはこうして、二ペンスのポストオフィス切手を手に入れ た。フェラリーは一八八一年以来、モ 1 リシャスのポストオフィスを五枚も所有していたが、自分 とタブリングの要求をともに満たすために、重複していた未使用二ペンス ( 一八七五年に買った最 初のポストオフィス ) を交換することにした。時は一八八〇年代なかばから後半とされる 一八五五年、イギリスのサリー 州に生まれたタブリングは、やはり少年時代から切手を集めはじ め、一六歳のときにはもうロンドン郵趣協会に入って ( カ 、こ。一八八〇年に法廷弁護士となり、仕事 にに殺されるようになったが、それに比例するように趣味の存在も大きくなり、切手への情熱はま すます高まってい く。父親の死後、その事業を引きつぎ、一八八六年には下院議員にも選出されて

7. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

たしかにそれは田 5 いこみだったのだろう。それにしても、切手、とりわけ青い二ペンス切手を持 っていると信じるだけで、幸福の絶頂に立てるとは。一九二〇年代はじめには、すでに稀少切手の 存在と価値が、大衆の意識にしつかり根づいていたということだ。いつの日か、一枚のポストオフ イスを ( あるいは二枚とも ) 発見するーーー少なくともヨーロッパでは、それは人びとのひそやかな 曲歹だったにちがいない。 リシャスーという題名で「フィラテリッ 1 の不思議な物語は、「催眠術とブル 1 リシャス切手を七枚も持っている ク・マガジン」一九二一年四月号に掲載された。めずらしいモ という話だけで興味津々だが、読者の心をつかんだのは、やはりそこに青い二ペンスが含まれてい るとい , フ占だろ , フ。ブル 1 リシャスの大衆的な人気ぶりがうかがえる。 昔からモ 1 リシャスの切手は、一度手に入ったら大切にしまいこまれる貴重なものだった。とく タ ク にポストオフィスが市場に登場することはめったになく、もしあるとすれば、有名な所有者の誰か レ コが死んだときぐらいである。 そして一九二七年には、新たに二枚の実物が永遠に市場から姿を消すことになった。ストックホ ねルムにあるスウェ 1 デン郵便博物館に寄贈されたのだ。寄贈者はハンス・ラカ 1 ロ 1 フ ( 一八八〇 大 一九五一 l) である。太っ腹なコレクタ 1 だったラガーローフは、スミソニアンをはじめとする博 o 物館に、生前からコレクションの多くを寄贈してきた。二枚のうち一ペニ 1 のほうは、ポ 1 トルイ 第 スのノワレルが古新聞のあいだから発見したもので、角型「 PAID 」印の一部がかかっている。こ 201

8. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

ポンズ社は一九六〇年代はじめに、二ペンスを一枚入手していた。それは、ギポンズが半世紀以上 前の一八九三年、ビエ・ラト 1 ドリ 1 から六八〇ポンドで買ったのと同じもので、金井がすでに持 っていた美しい未使用一ペニ 1 とペアになることが運命づけられていた二ペンスだった。というの も、ポシャ 1 ル夫人が発見したあと、デボワ、ララン、ラトードリー、キポンズ、エイヴリー キット、ドユヴィ 1 ン、ハインドとどんなに持ち主が移りかわっても、二枚はいつもいっしょだっ 4 か、ら 4 に ところが一九三四年、ハインド・コレクションの分割売却でばらばらになったのであ る。金井は一九六五年、この二ペンスポストオフィスをギポンズから購入し、未使用状態で両額面 が揃っているという貴重なペアを完成させた。三〇年間離ればなれで、数多くの持ち主を経由した 二枚の切手がようやく再会し、その価値がわかる人間の庇護のもとに入ったのである。 リクテンスタインのひとり娘、ルイーズ・ポイド・ディルの膨大なコレクションは、ディル日 クテンスタイン・コレクションの名で呼ばれている。これはルイ 1 ズが死んだあとの一九六八 5 七 一年に売却された。一ペニ 1 ポストオフィスが二枚貼られたジェロムの手紙と、二ペンスポストオ フィスが貼ってあるカウンテンの断片を手に入れる機会が、実に五〇年ぶりに訪れたことになる。 →ア , イル 日リクテンスタイン・コレクションの第一回競売は、一九六八年一〇月二一日に開かれ、ジ ェロムの手紙はロット番号一番で登場した。これは五人の競りあいとなったが、ニューオリンズの レイモンド・・ウェイル・カンパニーが、三八万ドルという注目度ばつぐんの価格で落札した。 これは郵趣品としては世界最高額である。この会社の持ち主であるウェイル兄弟は、竸りの流れを 見きわめるために、オークションルームのうしろに陣取っていた。 落札後 ( よ、「自分たちは誰かの 代理で参加したわけではない」と明言している。インタビューを受けたとき、兄弟はこう話した。 222

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ポストオフィス切手のパイオグラフィー —およびⅡ 、一一ペンス。使用ずみ。消印ーー角形「 PAID 」 一ペニー 一ペニ 1 は左上隅に欠け。同じ一通の手紙に使用されたもの。一度はばらばらになったが、一 八八一年以降はいっしょに扱われる。 一八四七年ポルド 1 のポシャ 1 ル氏宛て手紙に使用される 一八六四年ポシャール夫人が発見。アルべール・クチュ 1 ルがモンテビデオの「太陽切手ー と交換で入手。 ・モエンスがクチュ 1 ルのコレクションを買い ハティスト 一八六五年ディ 1 ラ 1 のジャンⅡ とる。二枚のポストオフィスはそれぞれ一〇〇フランの値をつけた。 一八六六年フィルブリック判事が二枚を五〇〇フランで購入。 一八八一年フィリップ・フォン・フェラリ 1 が二枚を含むフィルブリック・コレクションを 一〇万フランで購入。 、リで開かれたフェラリ 1 ・コレクションの競売で二枚 1 リス・ビュルスがノ 一九二一年モ を購入。落札額は二一七二ポンド。 ・バルテルスが、ビュルス・コレクションにあった二 一九六三年ディ 1 ラ 1 のウイルヘルム 枚を八二五〇ポンドで落札。 一九六四年ョ 1 ロッパのコレクターが購入。 一九八五年ディーラーのヴォルフガング・ヤクベクが、一九五万五〇〇〇ドイツマルクで売 却。個人所有。 279

10. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

は、このとき存在が知られていたのが一五枚だったので、かなり正確だ。さらに、その一枚が「昨 年一一月に三四〇ポンドで売れた」という説明になっている。一八九四年ないしは九五年にポスト オフィスが売られた記録はないが、おそらくこれは、ギポンズが一八九三年に六八〇ポンドで二枚 買いとったのを、割り算して一枚あたりの値段にしたものだろう。あるいは、ロンドンの美術・骨 董商ヘンリ 1 ・ドユヴィ 1 ンがのちに所有する、一ペニ 1 の「ポストペイド」四枚プロックと話が ごっちゃになったのかもしれない 一八九七年、ルグランの持っていた二枚のポストオフィスーーポシャール夫人が発見した消印入 り一ペニ 1 と未使用二ペンス に一八六〇ポンドという高値がつくと、この切手に世間の関心が 寄せられた。人びとがとくに知りたがったのは、「いま何枚あるのかーということだった。そこで 郵趣専門誌は、存在が確認できているポストオフィス切手とその持ち主を一覧にしてこぞって掲載 ( 一八九七年に存在が明らかになった、 した。このときは、少なくとも一六枚の存在が知られていた シラ 1 所有の汚れの激しい一ペニ 1 も含めて ) 。この数ならば、ほかの稀少切手にくらべて貴重という ほどではなかったが、「ロンドン・フィラテリスト」誌は「ポストオフィスはその名声ゆえに『切 話 手の王と女王』となったのであり、これからもそうだろう」と書いている。 っ 一八 , ハ〇年代からコレクタ 1 が集めはじめた切手のなかに、過去に記録されていないポストオフ き イスはないのだろうか ? モ 1 リシャスやフランスで、新しく見つかることはないのか ? で 1 リシャスと交易があったからだ。 よ〇年代にポルド 1 でポストオフィスが相次いで出てきたのは、モ 章ほかにも、島の住人が手紙を盛んにやりとりしていた地域はあるはずだが、そういうところはどう 第 なのか ? 一八四七年の九月と一〇月には、イギリスやアイルランド、スウェ 1 デン、インド、南 こ 107