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検索対象: 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!
97件見つかりました。

1. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

挙げている ( ただし兄弟とフィリップスで意見が異なる部分もある ) 。ところが、セフィ・ペンバート ン・アンド・カンパニ 1 は、一九二二年に自分たちがコレクションの多くを買いとったと主張して いる。どうやら、ド・ラルジェンティエルが一九二一年に死んだあと、まずリクテンスタインがコ レクションを手に入れ、欲しいものだけ抜きとった残りを、セフィ・ペンバ 1 トン・アンド・カン ーに亠ノったようだ。ワージントン・コレクションのときと同じゃりかたである。セフィとペン ートンは、コレクションの大部分を引きうけたものの、ポルドーの手紙は、切手の一枚に「わず かな損傷」があることを理由に買いとりを見送った。この事実は重要だ。なぜなら一九二二年、 クテンスタインがアーサ 1 ハインドにポルド 1 の手紙を売るという、個人的で不思議な取引が説 明できるからである。リクテンスタインが一九一七年にポルドーの手紙を買ったとしたら、わずか 五年で手ばなしたりするだろうか ? ジェロムの手紙を五〇年以上も自分と家族の手元に置いてい た人物が ? ポルドーの手紙が偽造ではないかと疑っていたのなら話は別だがしかし、もし入手 したのがド・ラルジェンティエルの死後、すなわち一九二一年ないしは二二年であれば、リクテン スタインは自分なりにポルドーの手紙の価値を判断し、状態の良いポストオフィスが三枚もあれば 充分と考えて、手紙は売ることにしたのだろう。 理由は何であれ、リクテンスタインはポルドーの手紙を手ばなした。あとでセフィはチャンスを 逃がしたことを海やみ、ハインドはそれをネタにディーラ 1 をからかった。アーサー ハイ・ンい「に とっては、自分のコレクションが「最高の」状態でありつづけることが重要だった。彼がポルド 1 1 リシャスを の手紙を入手してから一年後の一九二三年、ジョージ五世に色あざやかなブルー 披露されたとき、 ハインドは小学生のよ , フに得意げに一一一一口いかえしたという。 「こちらにはペアがあ 194

2. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

そこで彼は、プランドンに盗みだしてほしいと依 持ち主である切手コレクタ 1 は応じてくれない 頼してきた。探偵はそれを断り、物語は終了 : : : するはずがない 、フランドンはパーティで切手コレクターに接触し、「ブル ーリシャス」について探りを入 れる。そこでこの切手のくわしい話を聞かされるのだ。切手はあ、る船長が手に入れたものの、世紀 の変わり目ごろに行方がわからなくなった。その後インド、中国、オ 1 ストラリア、メキシコ、チ いまはダグラス・クレイグと べットで見かけたという噂が流れたが、ついにふたたび姿を現わし、 フランドンはクレイグに警土ロしようと彼の部屋 いう男が所有している。謎の訪問者に気をつけろ。。 を訪ねたが、時すでに遅かりし。クレイグは殺されていた。部屋は物色された形跡がなく、切手も フランドンはそ - フ 金庫に入ったままだった。だがこれは、犯人がすりかえたにせものではないか。、、 田 5 ったが、自分だけの秘密にしておいた プランドンは犯人をあぶりだすために、新聞に広告を出す。そして犯人に、盗まれた切手はにせ 中 ものであり、ほんものは自分が持っていて、それを証明する書類もあると呼びかけるのだ。話はさ 夢 いく。そしてプランドンは抜け目なく切手をすりかえ、 判らに進み、パズルのビースか次々とはまって 1 リシャスをいただいてしまう のほんもののブルー ス ャ シ オレだって、遊び半分でこんな騒ぎに首をつつこんだわけじゃないさ。シカゴに戻れば、好 モ きな金額を書きこめる白紙の小切手が待っているとしても、備えあれば憂いなしってやつでね。 章 まるでそんなことはいたしませんって顔をしといて。 第 1 刀 つまりいたごくわすご。 2 引

3. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

活動していたエミ 1 ル・ラランが、ついに手ばなすことにしたものだった。この四枚を丸ごと買っ たのは、ビエ・ラト 1 ドリ 1 という人物だ。しかし「ポストオフィスは二枚あれば、自分の幸福に は充分だ」と考えた彼は、未使用の二枚をすぐスタンレ 1 ・ギポンズに売却した。六八〇ポンドで 買いとったギポンズは、史上最高額の取引だったと得意げに宣伝している。こうしてポストオフィ スの市場価値は、ふたたび上昇しはじめる。ラト 1 ドリ 1 は一八九 , ハ年、手元に置いていた二枚の 使用ずみポストオフィスも売りにだして、一六〇〇ポンドを手にする ( わずか三年間で驚くべき高騰 ぶりだ ) 。一八九七年には、ルグランもまたコレクションの大部分を売ることを決意した。そのな かには二枚のポストオフィスも含まれていたので、一八六〇ポンド ( 一説には一九二〇ポンド ) と 四万六五〇〇フランである。モエンスはその金額を聞いて目を丸くした。何 いう高値がついた しろ自分が約三〇年前、デボワ夫人からその二枚 ( 使用ずみ一ペニ 1 と未使用二ペニー ) を買ったと きは、値段は二〇〇フランだったのだ。「ロンドン・フィラテリスト」誌は、切手収集の草創期か らはじまっていた変化の最たるもの、と評している。ルグラン所有の二枚についた値段は、「コレ クション全体を揃えるのに費やした総額をはるかに上回っていたのだ ! 」このころから、ポストオ 2 , 」し」に . なる フィス切手が市場に出るたびに、価格の記録が塗りかえられてい タブリングが死に、ラランとルグランのコレクションが分割・売却されたいま、分野を限定しな い韭日ながらの総合コレクターは、フェラリーひとりとなった。彼のコレクションは無傷のまま、世 界最大級の規模を誇っていたのである。 ジャン日 ハティスト・モエンスは一九〇八年に、ビエール・マエは一九一三年に世を去る。ある 102

4. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

何としても一ペニ 1 と二ペンスのペアを完成させたい。 そう考えた博物館のキュレ 1 ター、ヘン ネッケは、一九〇三年一二月、ルメ 1 ルに接触する。ポルド 1 の二通目の手紙を買おうとしたのだが、 五万フラン ( 約二〇〇〇ポンド ) という言い値にまたしても難色を示した。切手は明らかに左側が 切れているのに、レ ノメ 1 ルが「良好な状態」と評価したことが納得いかなかったのだ。それに「郵 便切手相場」一九〇三年一月号で、ルメ 1 ルがこの手紙について発表しなかったこともひっかかる。 ルメ 1 ルから送られてきたのは、手紙正面の写真だけだったので、ヘンネッケは疑、い暗鬼だった。 この手紙には消印が入っていないのではないか。表側に書かれている「・ミスチフィングラン ド経由も、レ ノメ 1 ルか誰かが適当にでっちあげたのではないか。そんな疑問さえ胸をよぎり、ヘ ンネッケは切手がほんものだと確認できれば買うことに決めた。ただし、出すのは四万フランま でだ。 ルメ 1 ルはヘンネッケの疑問にすぐ返答した。「良好な状態」というのは、切手の印刷品質と、 色味の深さのことを指している その二点に関しては、ポルド 1 のもう一通に貼られた二枚より 上なのだ。さらに、ポルド 1 のポシャ 1 ル夫人が見つけたポストオフィス切手も、投函地であるモ 1 リシャスの消印はないか、かすかな痕跡しか確認できないと指摘した。そしてミスチフ号に関し ては、この船がイギリスに向けてモ 1 リシャスを出航したとき、自分はまだ生まれていなかった。 だから船がでっちあげかどうかについて、自分がどうこう言える立場ではないと反論した ( だが心 ミスチフ号はたしかに実在した ) 。二通目の手紙について発表を遅らせたのは、自分 の手元に置いておくつもりだったからだと説明した。へ たに公表すると、モ 1 リシャス切手の熱心 なコレクタ 1 を失望させることになると ( もっともほんとうのところは、「スタンプコレクターズ・フ 144

5. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

たという。ここにフェラリ 1 を訪ねたイキリス人ディ 1 ラ 1 、チャ 1 ルズ・・フィリップスは、 四頭立ての馬車二〇台がゆうゆうと走れるほどの中庭だと評している。フェラリーの居室に通じる い」・フ・も・フ 玄関は「数頭の獰猛な大型大ーが守りを固めており、大たちは中庭で放し飼いにされていた。フェ ラリーの切手コレクションには、一階の三部屋があてられていた フィリップスは、フェラリ 1 の一大切手コレクションを見ることのできた幸運なひとりである。 フェラリ 1 は、自分の深い造詣を外に出したがらなかった。フィルブリックやロスチャイルド、タ プリングのように論文を寄稿するわけでもなければ、郵趣協会の会員たちがよくやっていたように、 コレクションの一部を展示に出すこともしなかった。そんなフェラリーの姿勢は自分本位の極致と 非難されたが、フィリップスはそうではないと説明している。手持ちのコレクションを公開すると、 やから そこに入っていない「珍品」を法外な値段で売りつける輩が出てくるので、それを防ぐためだった というのだ。筋金入りの「切手狂ーであるフェラリ 1 が、そうした売りこみを断れないことは周知 の事実だった。相続した財産を切手につぎこむことを心配した親族が、フェラリーを訴えようとし 4 んこし」も亠のるし」い , フ 外野の声に悩まされたフェラリ 1 が法律の勉強をはじめたのは、自分の頭が いかれていないことを証明するためだったのかもしれない たしかにフェラリ 1 は、ちょっと変わり者ではあった。イギリス皇太子が切手を見せてほしいと 言ってきたときも、ヴァレンヌ通りの屋敷から切手を持ちださないのが母親との約束だ、という理 由で断った。郵趣ジャーナリストのフレッド・メルヴィルはこう書いている。「私がフェラリ 1 を 見たのは一度きりだが、その印象は強烈だった。身なりはきちんとしているというよりむしろ野暮 ったく、 愛用していたヨット帽以外は、外見にはおかまいなしといった感じだった。人の、いをとら 0 100

6. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

かならぬこのフェラリ 1 である。 フェラリ 1 は、ガリエラ公爵ラッファ工 1 レ・デ・フェラ 1 リと、夫人のマリア・ブリニョ レ・サ 1 レを両親に持つ。生まれたのは一八五〇年パリとされている。フェラリ 1 についてはいろ いろ書かれているが、細部にくいちかいがあったりして、どこまで信用できるか蚤しい。本人も私 生活を明かしたがらず、自称する生年月日も何度か変わり、死んだ日も墓石が立ってはじめて明ら ) こごけはがまんならなかった。一八七六年 ( かになったほどた。たご皮は、意に染まない呼ばれカナカ 父親が死んだあと、郵趣専門誌でガリエラ公爵と書かれるたびに、彼は抗議の手紙を送った。その 一通が残っていて、「自分は現在のみならず将来にわたっても、公爵という称号にともなうあらゆ る権利を放棄ーしていると書いている。だから父の財産も相続しなかったのだが、母親もけたはず 皮自身が好んだのは、ドイツ風のフィリップ・フ れに裕福だったので、大した問題ではなかった。彳 オン・フェラリ 1 という名前だった。なぜなら、「残念ながらドイツに生まれることはかなわなか ったが、私の心はかの地では ぐくまれ、幼少期にドイツへの愛情を確立した」からだという。フェ ラリ 1 は父親の称号や財産とあわせて、自分のなかに受けつがれているイタリア的な要素も捨てさ った。また彼は、生涯の大半をパリで過ごしたにもかかわらず、フランスも好きではなかった。そ して一八八六年、三六歳にして、オーストリア軍人、エマヌエル・ラ・レノティエレ・フォン・ク リ 1 グスフェルトの養子になった彼は、フィリップ・ラ・レノティエレに改名する。現存する彼の 写真のなかには、フィリップ・ラ・レノティエレ・フォン・フェラリ 1 という妙な合体名で署名さ これは自分 れたものもある。そして彼の墓に刻まれた名前は、フィリップ・アルノルトだった のファ 1 ストネ 1 ムに、「兄弟ーと慕っていた人物の名前をくつつけたものだ。このように名前を

7. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

なぜなら、彼にたずねた者が誰もいないからだ。郵政省の記録まで参照し、厳密かっ価値ある調査 を遂行したエヴァンズだが、三〇年前の様子を知る人間から直接話を聞くまたとない機会を逃がし 4 に一」し」に + なる ポストオフィス切手の存在を疑問視していたトンプソン郵政長官だが、エヴァンズの調査には好 意的で、自分の管轄する情報は借しみなく提供した。もっとも、それは大した内容ではなかったよ 、フだ。エヴァンズは、「その , フえ、どこへ行けばもっと情報が得られるかも、彼にはわからなかっ 九 ~ た」と書いている。エヴァンズにしてみれば、公文書保管の概念を持ちあわせない郵政長官が最大 七の障害だったが、 それでも彼はくじけずに調査を続行した。エヴァンズは、在任中の自由時間のほ ←とんどを植民長官の関連部局で過ごし、幸い協力も得ることができた。長官は「管轄部署に保管さ れている公文書をすべて閲覧できるよう、便宜を図ってくれた。必要な文書の写しをつくったり、 赴 R メモをとったりする許可を与えただけでなく、全文が欲しいと思っていた手紙類のすべての写しを シ作成しようと申し出てくれたーさらに長官はランゲアに対し、エヴァンズに全面的に協力するよう 一命じている。エヴァンズに言わせると、自分と植民長官は、保管されている公文書への責任という ものをはっきり認識していたという。こうしてエヴァンズは、必要と田 5 われる情報を熱、いに書きう 佐 っしていった。 ン ア だがエヴァンズは、重要な鍵を握るひとつの文書だけは、ほんものを本国イギリスに持ちかえっ 工ているーーージョゼフ・ 1 ナ 1 ドがポストオフィス切手の製作に際してつくった、手書きの見積書 である ( 見積書では、切手は手紙用印紙と表現されている ) 。当然のことながら見積書は政府の記録な 第 ので、エヴァンズは公文書のなかからそれを見つけたにちがいない。何でも自分で所有したがるイ

8. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

つまり最初の発見者は男子生徒ではなく、金額は不明だが、彼も誰かから買ったのではないかと示 唆しているのだ。 この男子生徒かどうかはともかく、ポルドーの手紙の発見者は、一九〇三年一月一七日に二通の 手紙をテオフィル・ルメ 1 ルのところに持ちこんだ。ルメ 1 ルは手紙を買いとり、二週間後、自分 が出している新しい郵趣誌「郵便切手相場」にポストオフィス発見を公表した ただし、二種類 の切手が貼られたほうたけである。ル メ 1 ルはつい二号前の同誌で、。、 ホストオフィスをはじめ稀少 切手を良好な状態で持っているコレクタ 1 は、自分のところに持ってくれば高額買い取りすると呼 ひかけたばかりたった。そのインクもまだ乾かぬうちに、とルメ 1 ルは続けている。ひとりのコレ クターが、古い手紙類のなかからこのポルド 1 の手紙を見つけて持ってきた。その人物について、 ルメ 1 ルは「アマチュア」という表現をしている。おそらく本格的な郵趣家というより、もっと気 楽な切手コレクタ 1 という意味だろう。郵趣誌はサブタイトルが「フィラテリストのジャ 1 ナル となっていて、ルメールはそのなかでこの一言葉をよく使っている。切手を愛する人、という程度の のこし J か ~ もしれ . ない いずれにしても、男子生徒に関する記述はどこにもない それでも もしかするとルメ 1 ルは、発見にまつわるくわしい話を知らなかったのかもしれない 有能なディ 1 ラ 1 として、できるかぎり情報収集に努めたはずだ。舞踏会の封筒を売ったアンリ・ と もっともアダムの場合は、すぐに身元 アダムと同様、発見者は匿名を条件で売ったのだろうか 男かわかってしまったが。 モエンスは、一八九九年にアダムの封筒発見を報告する文章のなかで、受 章取人は自分の名前を消すように要望したが、写真を見ればすぐに読みとれるとして、アダムの名前 第 を何のためらいもなく出した。その後ルメ ールも「発見者はアダムだと正式に認めた。 135

9. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

自分の趣味に対する掛け値なしの愛情と傾倒を吐露している。こうして郵趣に没頭していたロスチ ャイルドだが ( 同時にステ 1 ショナリーと呼ばれる額面印刷ずみの封筒や、ネクタイ、葉巻、リポンもコ レクションしていた ) 、やがて健康を害し、医師の指導で、一八九二年の冬を南仏で過ごすことにな った。そしてモンテカルロのカジノに通いつめ、自動車レースに熱中するうちに、切手に魅力を感 じなくなったようだ。一八九三年三月、ついにロスチャイルドは秘書にこう命じた。「もうアルバ ムを見たくもない。四八時間以内に処分してくれたまえ」だがロスチャイルドのコレクションが、 フィルブリックのものと並んで、当時世界最大級だということはすでに知られていた。それなのに、 彼がコレクションをほんとうに売ったかどうか定かではない。モエンスは一八九九年になっても、 ポストオフィス二枚はまだロスチャイルドが持っているとにらんでいた エヴァンズ少佐が熱帯の島から戻ってきた一八七九年の時点で、ポストオフィス切手の実物は一 四枚確認されていた。 一ペニ 1 と二ペンスが七枚ずつオ ご。エヴァンズ所有のもの以外はすべて、少 イキリスではフィルブ なくとも一度はディーラ 1 を経由して、名高いコレクションに加わった リック、フランスのロスチャイルドとルグラン、それにペリネルという人物のコレクションである 一ペニ 1 と二ペンス ペリネルに関しては、名前以外の詳細は不明だ。それぞれのコレクションに、 のものが一枚ずつ含まれていた。それに加えてポルド 1 のエミ 1 ル・ラランが四枚所有していたし、 エヴァンズ少佐も、オリジナルの封筒に貼られたカバ 1 の状態で一枚持っていた。封筒の宛名はア ルシド・マーカイ氏だ。残る一枚は、発見された順序としては最後から二番目で、一八七五年、。、 リの見本市に出展したいポルド 1 のコレクタ 1 からデボワ夫人が買いとった二ペンスだ。この切手

10. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

リクテンスタインはポストオフィスが三枚あることに満足していたし、シャンビオンも二枚あれ 1 リシ ば充分だと思っているようだった。そのためヨーロッパ各地のオ 1 クションルームは、 ( モ ハインドとモ 1 リス・ビュルスの一騎打ちの ャスにかぎらず ) 稀少切手の頂点をめざすア 1 サ 1 場になっていた。フェラリ 1 のような網羅的なコレクタ 1 は過去の話で、これからはリクテンスタ ノインドとビュルスによって裏切ら イン的な専門家が主流になるーーー郵趣家たちのそんな予測は、、 れる。彼らはフェラリ 1 が残した切手を買いまくった。とくにビュルスは、一連の競売で最大の落 札者になることに情熱を燃やしていた。最終的には、フェラリ 1 のコレクションの二五パ 1 セント 以上がビュルスのものとなり、スイスはロ 1 ザンヌにある彼の自宅に移されたそこは皮肉なこと に、コレクションの大部分を残したまま国を出たフェラリ 1 が、人生最後の日々を過ごした町で ある。 ア 1 サ 1 ハインドが切手集めに熱中しはじめたのは、一八九〇年にイギリスのブラッドフォ 1 ドを出てアメリカに移住してからだ。ハインドは、ニューヨーク州ュ 1 ティカでフラシ天の布地工 場を開設し、模造アザラシ毛皮、アルバカフラシ天のコート地、それに自動車メ 1 カ 1 におろす布 地で大当たりする。事業の成功で時間に余裕ができたハインドは、切手に興味を持ちはじめた。故 郷を飛びだして一旗あげようという性格は、新しい趣味への貪欲さにそのまま現われていた。未使 用切手に注目していた彼は、コレクションを丸ごと買っては、良いものだけを選びだした。また、 「たくさん流通していた」切手よりも「ふつうでない」切手が好みだった。要するに、自分を目立 ・コレクションを買いまくったことで、そ たせてくれるものなら何でもよかったのだ。フェラリ 1 「がっしりした体格の温和な の目的は果たされ、新聞雑誌は彼の情報を得ようとやっきになった。 190