1847 - みる会図書館


検索対象: 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!
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1. 世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ!

1 リシャスの医者は、患者から診察願いの手紙が来たらす さらに新聞はこうも書いている。「モ ごゞ、一丁ってみればすでに央復しているカ , ーー死んでいる」 ( これは冗談であるこ に訪ねていくのカカ彳 とを願いたい ) 。 郵便物を運ぶのは民間船頼みだったので、総督であるサ 1 ・ウィリアム・ゴムも、本国との通信 が遅れがちなことに気をもんでいた。とりわけ困ったのは、一八四〇年代半ば、砂糖関税法によっ て島が経済危機に陥ったときだった。総督の報告が、ロンドンの意思決定者に届くまでに数か月か かる。しかもあちらでは何を決めるにしても、さまざまな圧力団体の攻勢にさらされる。総督自身、 そうしたもどかしい状况に理解を示していたようで、ストリングフェロ 1 とヘンセンが発明した 「蒸気式飛行機」が一八四二年に特許を取得したと聞いたとき、こんな風に書いている。「空を飛ん で荷物を運ぶという発想はまことにすばらしいか、この技術が迅速に進歩して、我々の時代にまに ーリシャスに定期航空便が飛ぶようになる あうかどうかは疑問です」ゴムの洞察は正しかった。モ のは、それから一〇〇年後のことだ。そこで総督は、賢明にも自前で何とかする道を選び、一八四 八年、政府直営の郵便サ 1 ビスを開始する。だがその前に、彼は島内の郵便制度と都市部の配達サ ービスの改革も試みるのだ。 「郵便局の業務停滞 ポ 1 トルイスの新聞二紙は、このころ郵政長官を格好のえじきにしていた。 に関しては、プラウンリッグ氏に責任がある。我々はたえずそのことを指摘することで、改善策が 得られるものと信じている」さらに一八四七年七月の「ル・セルネ 1 ン」紙はこう明言した。「大 衆は郵便局に不満を訴え、郵便局も大衆に不満を抱いているが、どちらの側にも一理ある。つまり 郵便局側の立場からすれば、古くからの後払い方式が問題だった。知らない差出人から手紙が来て

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注と出典 1901 ( 「 here the time …」の引用元 ) * Rev. Patrick Beaton, C 0 0 イ朝 0 〃 0 怩髭 2 切 M04 , James Nisbet & Co. , London, 1859 1847 年 9 月 30 日の舞踏会に関する数少ない情報源は次のとおり。 1847 年 9 月 30 日付「ル・セルネーン』紙の一面に掲載された、乗り物の手配に関する告知。 1859 年から 72 年まで従軍したジョン・アレグザンダー・ユーアート中将が書いた The S 0 SoIdieRs ん , ・鹿“ー阨 0 〃イ Mu , V01. 1 , と Sampson Low, Marston, Searle, & ⅵ n on , London, 1881 。ナッシュの版画に関する告知は、 1847 年 10 月 29 日付『ル・モーリシャン』第 4 面にある。舞踏会当日の照明に関す る描写は、 Matou's, Gu ゆ Ma 肝な i s , Henri PIon, Paris, 1861 を筆者が翻訳し て言いかえた。この本の記述は 1858 ~ 61 年にモーリシャスで開かれた別の舞踏会 のものだが、レディ・ゴムの舞踏会室も同じであったと想像できる。ナッシュの 版画は、モーリシャスのマエプール歴史博物館と、ロンドンの切手商ハーマーズ にあるとされる。 ウィリアム・ゴム総督の時代 ( 1842 ~ 9 年 ) にポートルイスで刊行されていた モーリシャス主要三紙ーー「ル・セルネーン』「ル・モーリシャン』「モーリシャ からは、当時の社会と政治状況について多くの情報が得られ ス・タイムズ』 る。 1847 年版モーリシャス紳士録もたいへん役に立った。ちなみに当時モーリシ ャスの輸入品で筆者がおもしろいと思ったのは、サイは論外として、造花、放血 器、トランプ、それに言葉だ。 レディ・ゴムの手元にあった「モーリシャス・タイムズ』の見本刷りは、一族 の管理からはずれてしまい、キャンべラにあるオーストラリア国立図書館に保管 この発見には少なからず興奮した。ゴム夫妻のモーリシャス到着 されている は、 1842 年 11 月 22 日付「ル・セルネーン』第 3 面に記録されている。サー・ウィ リアム・ゴムの記述の主な出典は、加 0 イな F ル - Ma ん Sir Ⅳ襯襯 M Go 川川 , G. C.B. CO 襯川 0 ”ル C グ剏市の朝地わル the To 眦 / 切〃面 & 仁 &c. F 川襯 1799 Ⅳ砒催 10 の 1815 edited by Francis Culling Carr-Gomm, J0hn Murray, London, 1881 である。ロンドンに住むリチャード・カ ・カー = ゴムとその妻は、一族の話を筆者にくわしく教えてく = ゴム、トニ れた。レディ・ゴムへの高い期待は 1842 年 11 月 29 日付「ル・セルネーン』第 4 面、 レセプションの出席者が少なかったことは 1847 年 5 月 26 日付「ル・モーリシャ ン」第 4 面、ゴム総督が軍人出身であること、その他の不平については 1847 年 1 月 29 日付「ル・モーリシャン』第 4 面にそれぞれ拠った。 ダーウインがモーリシャス島に寄港したことは、「ビーグル号航海記』第 21 章 に書かれている。モーリシャスの奴隷事情とインドからの移民に関しては、 Marina Carter, S 催な , S レ 0 イ立なル市 0 剏 Ma ″〃 , 7834-1874 , 0 ord University press, De1hi, 1995 を参考にした。 327 ( 2 )

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足らずの穴に突進する」 M 側ル〃 , 5 November 1849 , p. 4 と、これに対する 「バヨネット」の反論ん M04 i 劭 , 16 November, 1849 , p. 4 は、 S 地川カ Co c ' / 切 No. 780 , 31 January 1925 , p. 46 に引用された。「塩漬け魚を売る小さな 店や・・・・・・」「我々は消印を頼りに ・・」翔冱例 , 24 September 1852 , p. 2 は、 S 地カ Co 〃ね ' F 切な厩り , No. 781 , 14 February 1925 , p. 66 に引用されている。 蒸気式飛行機に関するゴム総督の意見については、二次的な出典に頼らざるを 得なかった。それは %e Story of Air Mauritius', M24 〃勸 Soc ル News Bu 〃可切 , No. 18 , April 2001 , p. 28 である。 プラウンリッグ郵政長官は、「郵便局の業務停滞・・・・・・責任がある」と 1847 年 8 月 13 日付「ル・モーリシャン」紙第 4 面でたたかれた。また「誹謗中傷や醜聞が 書かれた匿名の手紙」という記事の一節は、 1847 年 7 月 26 日付「ル・モーリシャ ン』紙第 4 面からとった。「大衆は郵便局に不満を訴え・・・・・・」「宛先に書かれた人 ・・・」というくだりは、 1847 年 7 月 27 日付 を困惑させる以外に、何の目的もない・ 「ル・セルネーン』紙に出た記事を、 Cyril が 'A Study of the Early Pos ね 1 lssues of Mauritius', 切面勸財 , V01.33 , 1924 , pp. 220 - 21 で引用した。 彫刻師バーナードの生涯については、 HaroIdAdolphe and Raymond d'UnienviIIe, ' 盟 le Life and Death ofJoseph Osmond Barnard, Stowaway, Engraver, Stevedore and Planter', 切〃 do P カ〃砒 e 〃鷂 V01.33 , No. 985 , December 1974 , pp. 263 - 6 を参考にした。当時のモーリシャス切手の詳細は、 Captain E. B. Evans, 。 le Stamps of Mauritius', 勸 co 雇 VoI. 2 , No. 14 , March 1880 , p. 20 を引用 した。これはまた、「多彩な特技を持っバーナード氏も・・・・・・」の引用元でもある。 スタンレー・ギポンズの切手カタログは、世界の郵便切手を学ぶときの格好の 入門書だ。筆者の座右には、 S 地夜励 0 ' 川が S 川カ og , 1952 と S り夜励 0 〃襯イ P 化イ C 厩 og S 川 F 催〃朝 4 厩 , Part Ⅱ , 1927 がいつも置いてあった。 第 3 章 切手を集める人びと 切手収集の歴史を語るとき、よく引用されるのが e Times 1841 と加ん 1842 に掲載された話である。筆者も、イギリスで創刊されてまもないころの切手専門 誌や、参考文献で紹介されているそうした逸話をたくさん読んだ。筆者の引用元 は Fred MeIviIIe's e ス田 . C. S 川カ CO 〃 e 市 , Melville B00k Company, London, 1922 , pp. 16 -17 である。 Melville ( 1883 ~ 1940 年 ) は、 20 世紀に郵趣の世 界を熱心に、そしてわかりやすく解説した布教者のひとりだ。彼は多作の人で、 50 代前半で世を去ったとき 100 冊以上の著作を残していた。 20 世紀の切手収集を 知るのにもってこいの入門書には、 L.N. andM. Wiiliams'sThePostageStamp:Its 〃 0 0 og 〃 0 Penguin, Harmondsworth, 1956 もある。「二重の魅力があ ( 5 ) 324

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一一ペンス。使用ずみ。「 PDAI 」と読める角型消印と、「 PAUILLAC 2 JANVIER 1848 」と読め る丸型印がある 一八四七年ポルドーのポシャール氏宛て手紙に使用される 二ペンス。使用ずみ。平行線の消印入り。 一八四七年ポルドーのポシャール氏宛て手紙に使用される 一八六五年ポシャ 1 ル夫人が刈とともに発見。ディーラ 1 のデボワ夫人が二枚とも買いとる。 一八六六年デボワ夫人が、ポルドーを代表するコレクタ 1 、エミ 1 ル・ラランに売却。 一八九三年七月、ビエ・ラトードリーが、マルセル・プ 1 ジェを通じてララン・コレクショ ンを購入。価格は , ハ万フラン。 一八九六年自動車レースで知られる・モルがと刈を四万二〇〇〇フランで購入。 一九二〇年フランスのディーラー兼コレクター、テオドル・シャンビオンがと刈を購入。 一九 ( ? ) 年一九四〇年以前に、シャンビオンが匿名コレクターにのみ売却。 一九八八年 リのエルヴェⅡシャイエ・ロ 1 レンス・カルメルが競売にかけ、 一〇一万九四 〇五フランの値がつく。 一九九二年ロンドンのハ 1 マーズが競売にかけ、ドイツ人コレクタ 1 が一九万八〇〇〇ポン ドで落札 290

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まもそうだが、君主の肖像を図案に使っておけば、切手の発行 ペニ 1 」の文字が入っているだけだ ( い 国は一目暸然だ ) 。。 フラジルの切手 ( 一八四三年 ) は額面オ 。こけ。一八四三年から四五年にかけてスイ スのチュ 1 リヒ、ジュネーヴ、 ーゼルで次々と発行された切手の場合は、各種額面に州の名前と 紋章が入っている。アメリカ合衆国で一八四七年から発行がはじまった一般向け切手は、額面と のイニシャル、それにポストオフィスの文字が入っていた。切手のデザイン技術はまだ産声をあ げたばかりで、決まったル 1 ルもなかった。 いずれにしても、モ 1 リシャスのポストオフィス切手は、すぐに人びとの記億から消えた。ポ トルイス住民のほとんどは、島ではじめての切手はポストペイドだと信じているかもしれないナ が、ポストオフィス切手が書き物机に入っているのに、当の持ち主がそれと気づかなかった、とい うこともあるだろう。あるいはものめずらしさから、一ペニーと二ペンスの切手を未使用のまま一 枚ずっとっておいた者もいるかもしれない 。もちろん、多くは封筒や郵便書簡に貼って使われたは ポずだ。持ち主の意図はともかく、この切手は思い出の品として生きながらえてきたのである。 ア ン イ セ メ 章 第

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うに「 PAID ( 料金支払済み ) ーの角型消印が押されていて、これが切手の共通の出自を物語る永遠 の証拠となる ( 郵趣用語で「タイ・オン . と一一一一口う ) 。だがポシャ 1 ル夫人が見つけた実物は、これだ けではなかった。彼女は一八六〇年なかばから六九年までのあいだに、 現存するポストオフィスの 半分を発見している。そのほとんどは、やはりポルド 1 在住のデボワ夫人が引きとった。書店経営 のかたわら、切手ディ 1 ラーもやっていた彼女は、のちにポルドー郵趣の母と呼ばれるようになる。 この本にはあまり女性は登場しないが、彼女たちの貢献はとても大きい。モエンスも、ポストオ こ一目置いていたようだ。モエンスが公 フィス切手の出自に関しては、デボワ夫人の卓越した知識 ( 表した彼女からの手紙では、こんな推理が披露されている。「ポシャ 1 ルの会社は、一八四七年か ーリシャスにかなりの数の取引先がありました。そのため、たった一度の配 ら四八年にかけて、モ 達でも、モ 1 リシャスで発行されたポストオフィス切手が相当数含まれていたにちがいありませ ん」ポストオフィス切手はあっというまに売りきれたと言われており、流通期間はとても短かった。 だからデボワ夫人の推理はおそらく正しいだろう。 当時モ 1 リシャス島からフランスまでは、船で二か月から三か月かかっていた。だから、一八四 七年九月下旬にモ 1 リシャスを出航した船がポルド 1 こ ( 着くのは、おそらく一二月下旬だっただろ う ( その船が運ぶ郵便物には、モ 1 リシャスがはじめて発行した切手が貼られていたはずだ ) 。地元紙 「メモリアル・ポルドレー」に掲載されている到着船舶リストを見ても、アドルフ・ポシャ 1 ルの 名前は出てこない。だが、、ボシャールかモ 1 リシャスからかなりの数の手紙を受けとっていたこと シェ 1 ン・グリー を裏づける明白な証拠がある。一八四八年一月末に、イギリスの三本マスト船、。 ン号がモ ーリシャスに向けてポルド 1 を出発する予定になっていたが、積荷にかなり余裕がある

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きになった。また港を出るイギリス船は、二四時間前までに出航日と目的地を郵政長官に知らせる 義務があった。この情報は公示されるので、それに合わせて郵便物が用意された。郵便物の紛失は 重大な過失とされていて、郵政長官は植民長官に報告しなければならなかった。一八四七年五月に は、ラトルスネイク号への郵便物の積みこみが大幅に遅れ、シドニ 1 宛ての一部の郵便物が 紛失する事件が起きている。 そして、一八四三年からモ ーリシャス郵政長官を務めていたのが、ジェームズ・スチュワート・ フラウンリックだ。彳 ( 皮よ、イギリス領モ ーリシャスではじめて公職に任命されたアイルランド人 でもある。本人がのちに回想しているが、長官に就任したとき、郵便局は名ばかりの存在だった。 プラウンリッグは「熱帯の人間にはない根気と情熱ーで、郵便局を「公益に資する組織ーに育てあ そして一八四七年、モ 1 リシャス島初の郵便切手が発行される。モ ーリシャス郵便制度改革の転 ポ換点となった記念すべき年だ。ブラウンリッグ長官のもと、島の各地に副長官も派遣され、六名の ア事務員、郵便集配人とコンヴィクト・クーリエ、それに数名のメッセンジャ 1 という組織がつくら ンれた。彼らのほとんどは、この年の六月に任命されたばかりだった。郵便配達は、重労働に向かな コンヴィクト い受刑者にうってつけの仕事と見なされ、インド系受刑者が業務の大半を引きうけることになった。 セインド系移民が大量に入ってくるようになったのは一八三〇年代以降だが、それ以前の一八世紀半 メ ばから、数は少ないが流罪人、召使、肉体労働者として連れてこられた者はいた。足を使う仕事は 章もつばら彼らにまかせ、事務方を受けもつのはモ 1 リシャス生まれのフランス系か、イギリス系の 第 人間だった。ただし局員のうち二名はインドのマドラス生まれだったし、忠実なるメッセンジャ 2

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らせた頭が、まるでメドウ 1 サーだった。いちばん新しい移住者であるべンガル人は、着古しの軍 用外套をはおり、腰のところを布でしばっている。 イギリスがモ ーリシャスを手に入れた一八一〇年、この島の住民構成はヨ 1 ロッパ系が約七〇〇 〇人、「有色自由民ーが八〇〇〇人、奴隷が六万三〇〇〇人だった。奴隷制は一八三五年に廃止さ れ、代わりに徒弟制度が導入された。だが元奴隷たちは仕事熱心ではない。 そこで労働力を補うた めにインド人が連れてこられたが、これも形を変えた奴隷ではないかという懸念があって、インド からの移民は一八三九年に停止こよっこ。 ( オカ労働力をどうするかは、、、 コム総督が就任早々とりくまね ばならない緊急課題のひとつだった。輸出に頼る島の経済に労働力は不可欠だったし、サトウキビ のプランテ 1 ションを経営するフランス系農園主たちは絶大な力を持っていたからだ。。 コム総督は インドからの移民を復活させた。すぐに大量の労働者が流入し、一八四三年だけで三万三〇〇〇人 以上が入ってきた。一八四七年には、年季奉公の労働者の数が、徒弟として働く元奴隷たちを上回 ったが、農園主は移民をもっと増やすようになおも圧力をかけつづけた。しかしゴムは、その背後 に賃金を低く抑えたい思惑があることを鋭く見抜き、農園主たちの激しい反感を買うことになる。 ゴム総督とモ 1 リシャスにとっては、苦難の日々だった。労働力問題と過剰貿易が、島の経済に 打撃を与えた とりわけ輸入超過は目に余るものがあり、一八四七年には ( おそらく何の役にも 立たないと思われる ) サイまで輸入している。一部の人びとのあいだでは、総督は評判が悪かった。 軍人あがりの総督では、商人と農園主に支えられているモ 1 リシャスの実情を理解し、ためになる 統治などできないと思われていたのだ。着任翌年の五月、ゴム夫妻はヴィクトリア女王の誕生日を 祝うレセプションを開催したが、 地元新聞「ル・モ 1 リシャンによると、例年のように出席者は

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も、たいていの人は受けとりを拒否する。そんな手紙に料金を払うのは「金を捨てるようなもの」 だからだ。郵便局には、そんな「価値のない手紙、「宛先に書かれた人を困惑させる以外に、何 1 リシャン の目的もないー手紙がうずたかく積まれ、保管能力も限界に近づいていた。「ル・モ 紙も同年七月、「誹謗中傷や醜聞が書かれた匿名の手紙」が洪水のようにあふれかえり、「手紙の宛 先にまったく注意が払われていない」現状を訴える記事を載せている。そこでは実際の例も紹介さ れており、たとえば一八四六年一二月にポ 1 トルイスで投函され、一八四七年二月の消印が押され いた。農園主は ている手紙は、その年の七月、名宛人であるポ 1 トルイス郊外の農園主のもとに届 郵便料金として八ペンスも払わされた。そのうち二ペンスは島内配達料金で、六ペンスは船便料金 だから、明らかにこの手紙はイギリスを経由して、大変な遠回りで運ばれたことになる。この後払 い方式にはさらに問題があった。郵便局に行って料金を払いさえすれば、名宛人でない人間が手紙 レを横どりできるのだ。そのため私的な情報も、すぐに町じゅうに広まってしまった。こうした問題 ボの解決策として期待が集まったのが、前払い方式への切りかえだった。 ア こうして一八四六年末、郵便物の輸送と料金に関する政府公告が出され、ポートルイス市内なら ンば一ペニ 1 、それ以外の島内配達は二ペンスとする料金体系が定められた。さらに「手紙には切手 を貼付すること : : 政府発行の切手が貼付されていれば : : : あとから料金が徴収されることはな セ と説明されていた。これは、イギリスで行なわれていた均一郵便料金制度「ペニ 1 ポスト」を そのままとりいれたものだ。こうしてイギリス植民地で初の切手が誕生することになる。 章 リシャスの切手づくりをまかされたのは、時計製造、宝石細工、彫版、印刷、細密画ができ 2 第 るという触れこみのジョゼフ・オズモンド・ 1 ナ 1 ドという男だった。イギリス、ポ 1 ツマスに ひばう

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第 4 章 マダムのラリエはもういつばい ポルドー市公文書館とポルドー市立図書館のスタッフはとても協力的だった。 ポルドーからの出航が天候に左右されていた とは、 M 襯 0 B 催な , 1 October 1847 の補足に書かれている。筆者は 2003 年 9 月の時期にポルドーを訪れ て数日滞在したが、このときの印象を補ってくれたのが、以下の著作である。 * CharIes Higounet, ed. , 〃房お 0 , Univers de la France et des pays Francophones, TouIouse, 1980 * Henry Gradis, 〃ⅳ房 B 虎 0 , Calmann Lévy, Paris, 1888 * AIbert Réche, Dix Siicles Vie Q 〃市劭å召 0 , Seghers, Paris, 1983 * Albert Charles, . 0 7848 S 0 虎ゆ励 I : ス B 0 可 ル D ゆ 0 e 召厩 G レ , Editions DeImas, Bordeaux, 1945 * Paul Perrein, / 襯 ag ス力な Bo G レ 0 , Pierre Fanlac, Périgueux, 1984 * John Murray, 〃 0 イ - Bo / T 怩切 France, lnndon, 1844 and 1864 editions このほかに、 M 0 Bordelais (July, September-December 1847 ) と、 1847 年 版のポルドー川“んとスⅧも情報源として貴重だった ( 職業までくわし く載っていたのと、郵便制度の手続きに関する情報があったので、主要人物の存 在と所在地が確認するのに役立った ) 。 「男女、子ども合わせて 300 ~ 400 名」の出典は、 Georges Brunel, Q ″ ' を 2 ″ カル例 1867,Yvert& Cie,Amiens, 1930 , p. 8 である。ポストオフィス切手に 関する最初の本格的な記事は、ジャン = バティスト・モェンスが書いた・ Encore les Post-Office de Maurice' だが、 れはわ甲 bs 衂 No. 438 , June 1899 , pp. 87-93 に掲載されている。 Justin LaIIier の Postage-Stamp スル〃川砒渤 Ma. かは、パリの A. Lenégre, 35 R. Bon 叩 arte が 1862 年にはじめて出版している。 「家庭用聖書の次に大切にされていた」というラリエの説明は、 Fred Melville に よる。 クチュールとポシャールのくわしい住所は、スⅧレ e for Bordeaux, 1864 and 1869 に拠った。ポシャール夫妻の個人的な情報は、 1866 年度ポルドー人口調査か ら得た。ポシャール、セリジェ、ラフィットに関係する船荷の詳細は、 M 0 B 確な , 14 July 1847 and 28 December 1847 から。 1847 年版 Mau ⅱⅱ us Blue Book 、および 1847 年 7 月、 9 ~ 12 月の C 催例紙の船舶情報と広告から も情報を得ることができた。ラランに関しては、 Revue な襯 0 , 1909 , pp. 520 -21 に掲載された死亡記事・ LaIanne, EmiIe ( 1831-1909 ) ' , http://www. archivesmonetaires.org/dossiers/biogr叩hies/notices/lalanne.html ( 2004 年 10 月 25 日アクセス ) を参昭 James Strachan, lhe 0 怩 2 〃イ召 - 襯 0 4 c Ⅳås や催 , Albany Press, ( 7 ) 322