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検索対象: 仏教入門
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1. 仏教入門

も自己矛盾的である、と表現されよう。 さらに、欲望に関しては、欲望一般ということは無意味であり、現実にはかならず具体的な、 ある一つの特定の欲望としてあり、欲望はつねに個別的という性格をもつ。そしてその特定さ れた一個の欲望が追求され、達成して満たされ、みずから消減するという自己否定・自己矛盾 を進むところに、ただちに別の一個の欲望が生まれ、しかし新たに特定されたその欲望もまた、 同一の軌跡をたどる。 それらを重ね合わせてマクロに眺めた一種の連鎖をめぐって、「欲望は無限」という俗称が語 しかばね られる。とはいえ、それは質的にかならず具体的な特定の欲望と、その一つ一つの屍の累積 とを、本来はナンセンスな量に抽象化した言辞にすぎず、欲望の具体性は、決して捨象するこ 史とができない。 想 思 もとより、欲望はつねに達成されるとはかぎらない。むしろ果たされないケ 1 スのほうが、 の 教はるかに多い。それならば、そのような果たされ得ぬ欲望を、なぜ自分は抱くのか。そのこと に明らかなとおり、果たし得ぬものをみずから欲し望み求めるということそのものが、自己否 ン 定的・自己矛盾的に通じている。 二外に求めた欲望にせよ、内に向かった欲望にせよ、そしてそれが達成されようと、あるいは 第 失敗に終わって挫折しようと、この自己否定的・自己矛盾的という欲望のありかたは

2. 仏教入門

ままに立ちあらわれ、ふるまい、語る。 そのさも 、、問いはこの現実から発せられ、答えもこの現実に即してなされ、終始この現実に 徹して、現実における解決を果たそうとする。釈尊は、総じて仏教は、つねにこの現実を直視 し凝視して、問答も説法も現実からは離れないという立場にもとづいており、それを現実中心 と表現することができよう。 ただしこの現実中心は、現実の外界が意識とは独立に存在していると考える素朴実在論その ままてはもちろんなく、いわゆる功利主義や刹那主義と結びつく現実主義でもない。 また日常 の卑俗な現実に浸りきって、その充足に溺れており、なんらの目標も抱かず、理想も忘れ去っ て、本来の志ももたない、ただ安易で気ままな現実主義でもない。 史その意味において、以上に記したような、ひたすらネガティヴにみずから傾斜し、他からも 想 思マイナスとしてのみ評価されるような現実中心ではなく、それどころか、そのようなものとは 教正反対の、はるかにポジティヴな現実中心と称することができよう。 たしかに、なんびとも、この現世に生きている一個の人間として、さまざまな苦を内に抱き、 ン ほんのう 世俗の欲望 ( 煩悩 ) に一時的に目のくらむことは避けられないであろう。それでもなお、仏教の 二説く現実中心は、その苦をそのあるがままにみつめて、その消滅を、そしてさかんに誘いかけ る欲望 ( 煩悩 ) を自覚して、その超克を、この現実の世界において実現しようとする。

3. 仏教入門

はじめに インド仏教史を、本書は初期と中期と後期との三つに区分する。これは世界各地各種の史学 に頻出する歴史の三分法にもとづく。 ほばわが国においてのみ明治後期以来用いられている原始仏教という専門用語 ( 最近はわずか ながら中国などにもみえる ) が、一般には種々の夾雑物を伴ないがちのために、それに変えて、本 書では初期仏教と呼ぶ。初期仏教は、仏教が成立してその興隆が進んだ、文字どおり初期の、 約百五十年ないし約二百年間の仏教をいう。 中期仏教は、教団の分裂によって部派仏教が生まれ、それとおおむね前後するアショーカ王 の即位 ( 紀元前二六八年ごろ ) 以降をさす。各部派は初期経典を整備しつつ自説を固め、そのあと しばらく遅れて大乗仏教がおこり、各種の初期大乗の諸経典や少数の論書がつくられた、後四 世紀はじめまでの約五百五十年間を、中期仏教と呼ぶ。 後期仏教は、紀元三二〇年を起点とする。この年に生粋のヒンドウイズムに染められたグプ タ王朝が成立すると、仏教は。ハラモン文化に圧倒されて急速に民衆の支持を失いはじめ、しか し仏教の諸伝統は部分的ではあっても強固に維持されて、ときおり仏教再興が企てられ、また きっすい

4. 仏教入門

第四章中期・後期大乗仏教 によらいぞうゆいしき 期大乗ば・四世紀ろから、 , 期大乗はほぼ・七世紀既をさす。以下の如来蔵と唯識とが中 期大乗を代表し、通常は唯識を先に、如来蔵を後に論ずることが多い。しかし、唯識説はその まま継続して、その精密な理論構成により、後期大乗の認識論や論理学が展開されるので、本 かく 書では唯識を後に述べる。したがって、ここには一時期を画してインドにはやがて消える如来 蔵説を、先に記す。 史また後期大乗には密教がおこり、後期大乗の諸論師にも大きく影響する。なお密教を大乗仏 想 思教から独立させて論ずる学説も少なくない。 仏 ①如来蔵 ( 仏性 ) ン によらいぞう ノー 如来蔵はタタ 1 ガタ・ガルバの訳であり、タタ 1 ガタは如来、ガルバは胎 ( 容れもの ) を意味 二して蔵と訳し、両者を合わせて、衆生 ( 生あるもの ) はその胎に如来を宿していることを示す。 じしようしようじようしんしんしようほんじようせつ 自性清浄心、心性本浄説。こころは本来 この説はおおよそっぎの五つを起原とする。① 169

5. 仏教入門

八支はつぎのとおり、また散文経典の説を ( ) 内に示す。 しようけん 正見正しい見解・智慧 ( 四諦の一つ一つを知る ) しようし 正思 正しい思い・意欲 ( 煩悩・怒り・傷害の否定 ) しよう′」 ざれごと 正語 正しいことば ( うそ・悪口・暴言・戯言の否定 ) しよう ) 」う せっしよう 正業正しいおこない ( 殺生・盗み・邪淫の否定 ) しようみよう 正命正しい生活 ( 法にかなった衣・食・住 ) しようしようじん 正精進正しい努力・修行 ( 善への努力 ) しようねん 正念正しい気づかい・思慮 ( 身・受・心への気づかい ) しようじよう 正定正しい精神統一・集注 ( 四種の禅 ) 史四諦八正道は、しばしば中道説とつらなる。 想 思 また四諦説は定型の成立がやや遅いとはいえ、すでに述べたように、釈尊の最初の説法に擬 の 教せられるほどきわめて重要視されて、初期経典全体に浸透して説かれる。それらを集計すると、 ーリ文の計二百六十四経に、漢訳四阿含の計二百七十三経に達する。さらにこの説は、諸部 ン 派の教説の中軸となって、つねにスロ 1 ガンとして掲げられ、そのことは大乗仏教においても 二ほば変わらない。 第 103

6. 仏教入門

調し、わたくしたちは現にそのことを強く体験している。 また「こころ」は、中国思想の核 ( の一つ ) である「気」の一部と通じ合う。 ③苦 ーリ語のドウッカに相当し、その語原は明らかでは トのドウフカ、。、 苦は、サンスクリッ ない。インドにおいては、最古のヴ = ーダ聖典と、インド思想史にしばしば登場する唯物論と を除くと、古代から中世にいたるほぼすべての宗教・哲学が、苦を重要なテ 1 マ ( の一つ ) とし てとりあげ、種々の考察を果たしており、仏教もその重要な一翼を担う。 釈尊は、、わば恵まれた境遇に生まれ育ちながら、幼少のころからひとり沈思冥想にふける ことが多く、それは人生における苦に直面し体験したが故にといわれる。そしてその出家は、 楽に満ちた現世のいっさいの放棄にほかならず、出家後の六年間の修行を経て、苦よりの離脱 じようどう かくしゃ とその超克とを達成し、いわゆる成道を獲得して : フッダすなわち覚者、ないしムニすなわち 聖者となり、釈尊の誕生をみる。成道のあと、やがてみずからのさとりの内容を人々に説きは じめて、仏教が出現し創始されたことは、すでに述べた。 この概略に明らかなとおり、苦はまさしく釈尊自身の、そしてまた仏教そのもののいわば原 点であり、あるいは仏教の成立について時間的な観点からみれば、その始元に相当するとも称

7. 仏教入門

第一一章北伝仏教 ①中国仏教 インド仏教は一一世 . 杞ごろにガンダ 1 ラカらハミー ル高原を越えて、いわゆる西域の現中国 西部に入る。それ以上の西方進出は、当時イラン ( ベルシア ) に活発なゾロアスター教に阻まれ たと解される。 中国への仏教伝来はさまざまな伝説。 こ飾られている。おそらく仏教を信奉する西域人が紀元 前後ごろに中国に流入・移住し、それが中国仏教の起原であろう。 周知のとおり、中国はこの時代までにすでにきわめて高度の文化を確立し、しかも中華の誇 りに燃え、異国の文化はかならず漢字化され漢文に翻訳された。中国仏教史は、四世紀末まで の伝道時代、五八一年の隋建国までの研究時代、八世紀半ばまでの隋ー唐 ( 盛唐 ) の独立時代、 十二世紀初期までの唐末ー五代ー北宋の実践時代、南宋以後の継承時代と、ほぼ五分される。 あんせいこうしるかせんしけんじくほうご しゅしこうどうあんえおんろざん 伝道時代には、安世高、支婁迦讖、支謙、竺法護などの外国僧、朱子行、道安、慧遠 ( 廬山と きに白蓮社の慧遠 ) ほかの中国人の学僧が知られる。 びやくれんしゃ 216

8. 仏教入門

国の滅亡とともに一度は消減する。その後十一世紀までは混沌として、大乗や密教にヒンドウ 色が濃くまじり、それらと土着のアニミズムとが結合する。十一世紀半ば、北ビルマの。 ( ガン幻 を中心に国家統一をなしとげたアノウラータ王 ( 一〇四四ー一〇七七年在位 ) は、攻略した南ビル マに伝わる上座部系仏教を歓迎し、さらにこのころ弾圧を受けていたスリランカから大寺派仏 げん 教を輸入する。この一つは早ルには融合せず、十三世紀末の元の攻撃やタイ族の一派による侵 入があっても、なお二派・の・分裂、は、つづぐが、それは却「て仏教の浸透に資したともいう。 十五世紀にあらためてスリランカの大寺派を導入し、教団も整備されて、以後はこの仏教が 栄えつつ、現在にいたる。これらの栄枯盛衰の間に、逆にスリランカにビルマ仏教を伝えた歴 史も、再三にわたり記録される。 ③タイ タイには古くは大乗仏教が伝わり、たとえば観音像などもっくられているが、不明な点が多 。十三世紀のなかごろ、諸地方を統一した、タイ民族の最初のスコタイ王朝は、文字の作成 ほかの文化事業をおこし、スリランカの上座部仏教をとりいれる。十四世紀から十八世紀にか うた けてはアユティャ ( アユタヤともいう ) 王朝が支配し、仏教の繁栄が謳われ、一七五〇年にはスリ ランカに仏教使節を送った。

9. 仏教入門

それぞれの仏教徒の全人口に対する割合は、おおよそ、スリランカが間 % 、ビルマが % 、 タイカ 9 0 カンボジアが囲 % 、ラオスが % 、また大乗仏教のヴィ = トナムは % とう また南伝仏教の最大の行事に、五月 ( 正確にはヴ = ーサーカ月 ) の満月の日のヴ = 1 サカ祭があ り、ブッダの生誕と成道と入減とを同時に記念する。そのほか、各地に新年祭などが催されて、 僧俗ともに大いににぎわい楽しむ。 以下、国別に仏教史の大要と現状を記す。 ①スリランカ ( セイロン ) インド全土を統治して仏教に帰依したアショ ーカ王 ( アソーカ王、阿育王、紀元前二六 二年在位 ) は、その子 ( 弟ともいう ) のマヒンダを伝道師としてスリランカ ( セイロン ) に派遣し、こ こにはじめて、保守派の上座部 ( 長老部ともいう ) 系の分別部 ( ヴィバッジャ・ヴァーダ ) 仏教が伝 えられた。この使節は、当時のデーヴァーナンビヤ・ティッサ王 ( 前二五〇ー二一〇年ごろ在位 ) の庇護と後援を受けて、首都アヌラーダブラに寺が建設され、これがやがて大寺 ( マハーヴィハ ーラ ) として発展し、正統な大寺派の根拠地となる。民衆の帰依もあいつぎ、比丘と比丘尼との 教団や寺院なども増え、繁栄を迎えた。 前一世紀 ( 前二九年という ) に無畏山寺 ( ア、、ハヤギリ・ヴィハ ーラ ) が出現すると、政争もからん 0 210

10. 仏教入門

ト本が発見公刊されて、研究も深められた。 は漢訳、チベット訳のほかに、最近サンスクリ 上述の諸経典を引用する一」とも多く、それらのサンスクリット文も『宝性論』から知られる。 ただしこの如来蔵思想を継承する学派は形成されず、その伝統の発展はなく、文献類もイン ドには絶える。もっとも、後代に栄える密教の中心になる即身成仏 ( この身体のまま仏となる ) 説は、この如来蔵の流れを汲むと解する余地が残されているかもしれない。 ②唯識 ゆいしきせつ 唯識説は初期仏教以来の伝統である唯心論を受け、直接的には『華厳経』の「三界は虚妄に く、つ ールジュナにいたる空の思 して但だ一心の作るところ」の説にもとづき、『般若経』からナ 1 ガ 史想と縁起説とを活用して構成された。 想 思唯識説は、オプテイミスティクな如来蔵思想とは反対に、心が迷い煩悩にとらわれ汚れてい 教るという実態を、あるがままにきわめてリアリスティク ( 現実的 ) に凝視する。そしてこの唯識 説は、あたかも現在の用語でいえば心理学的な方法によ「て、心と対象との対応に関し、いわ ば乾いた理論のみを駆使しつつ組織づけた体系、と評することができよう。 一一五世紀に完成された仏教独自のこの唯識説は、たしかに、現代のヨ「司、ツ、。 ( ・・の - 精神分析に一 第 脈通ずる個所もある。すなわち、西洋哲学の二千年以上にわたる健康で輝かしい理論体系に隠 173