第一一部インド仏教の思想史 サーンチーの仏塔
前田惠学編『現代スリランカの上座仏教』山喜書房仏書林、一九八六年 藤田宏達『原始浄土思想の研究』岩波書店、一九七〇年 山口瑞鳳『チベ " ノト』全二巻、東京大学出版会、一九八七年、一九八八年 原実『古典インドの苦行』春秋社、一九七九年 武内紹晃「仏陀観の変遷」 ( 『講座・大乗仏教 1 』春秋社、一九八一年 ) 同「仏陀論ー仏身論を主として」 ( 『岩波講座東洋思想 9 、インド仏教 2 』岩波書店、一九八八年 ) 川崎信定「一切智者の存在論証」 ( 『講座・大乗仏教 9 』春秋社、一九八四年 ) 桂紹隆・戸崎宏正・赤松明彦・御牧克己・長崎法潤の諸氏の論文、同右 鎌田茂雄『朝鮮仏教史』東京大学出版会、一九八五年 岩崎武雄『西洋哲学史』有斐閣、一九五三年 高崎直道・鎌田茂雄・藤井学・石井米雄「仏教」 ( 『世界大百科事典幻』平凡社、一九八八年 ) 中村元「仏教」 ( 『ブリタニカ国際大百科事典葺』ティビーエス・プリタニカ、一九七五年 ) 中村元・三枝充悳『バウッダ・佛教』小学館、一九八七年 三枝充悳『初期仏教の思想』東洋哲学研究所、一九七八年 同『龍樹・親鸞ノート』法蔵館、一九八三年 同『仏教と西洋思想比較思想論集 3 』春秋社、一九八三年 同『中論偈頌総覧』第三文明社、一九八五年 同『ダンマ。ハダ・法句経』青土社、一九八九年など 236
せゅう また部派の分裂と各々の教理の大要は、有部の世友 ( ヴァスミトラ、『大毘婆沙論』の大論師の世 ぶしゅうりんろん 友とは別人 ) の『異部宗輪論』 ( 異訳に『部執異論』、『十八部論』、チベット訳 ) に記されている。 ③大乗仏教運動 大乗仏教の成立までの諸活動を、ここでは大乗仏教運動と名づける。 大乗仏教の成立とその活躍は、仏教史を華麗に内容豊かに盛りたてただけではなく、極言す れば、仏教を一躍いわゆる世界宗教たらしめる力強い原動力となった。中国ー朝鮮半島ー日本 の、またチベ、 ノトの仏教、すなわち北伝の仏教は、初期経典や部派の論書もその一部にふくん ではいるけれども、ほぼ大乗仏教一色に塗りこめられ、とくに日本とチベットとの仏教は、そ れぞれの源流も形態も著しく異なるとはいえ、大乗仏教のみが栄えて、今日にいたる。 しかしながら以下に示すように、大乗仏教は、釈尊Ⅱゴ 1 タマ・ブッダが直接に説いた教え 史 こんく 教 ( 金口の説法 ) からは遠く隔たっている。そのうえ、これまですでにいわゆる大乗非仏説 ( 大乗は ン仏説に非ずと説く ) が、インド、中国、日本で唱えられ、それをさらにみずから否定する大乗仏教 の側の自己弁明のみが目だっ。他方、部派仏教は大乗仏教に関しては何も語らず、問題にさえ 一しなかったらしい。それでもなお、大乗仏教は「大乗諸仏の教説」にほかならないところから、 右の主張は「大乗非釈迦仏説」と訂正されなければならない。 も
ソンデッエン王 ( 七四二ー七九七年 ) は、後期大乗と密教に通暁した三人のインド人高僧、シャー ンタラクシタ ( 寂護 ) とバドマサンバヴァ ( 蓮華生 ) とカマラシ 1 ラ ( 蓮華戒 ) を、新築のサムイエー まかえん ル寺院に別個に迎えた。この寺院にカマラシ 1 ラと中国僧の摩訶衍との法論があり、前者の勝 利以後は、チベット仏教はすべてインド仏教にもとづく。こうしてサンスクリ【 ノト語仏典から チベット語への翻訳が進み、目録もっくられる。 約百年の廃仏期を経て、十一世紀前半に渡来した密教僧アティーシャは仏教を再建し、熱心 に戒律復興に努めるチベット僧たちも出て、仏教の繁栄が達成された。ときに弛緩があっても、 げん ただちに改革派が登場し、十三世紀後半には「チベット大蔵経」も成立する。その前後に元の 支配に入るが、チベット僧で学者の。ハク。ハ ( 八思巴 ) が帝師に迎えられ、モンゴルにチベット仏 教の普及を促進する。 十四世紀半ば以降に、最大の名主ツオンカ。ハ ( 宗喀巴 ) は、厳格な戒律の遵守を通じて根本的 な改革をなしとげ、現在までかれの創設したゲルク派 ( 俗に黄帽派ともいう ) がつづく。かれは顕 密の二教に明るく、とくに中観派 ( プラ 1 サンギカ派 ) の解釈をさらに徹底させた名著「ラムリ ム」 ( 菩提道次第論 ) ほかがあり、密教の純化も達成した。 その後をダライラマと呼ばれる法主が継承する。十八世紀のダライラマ五世以来は、全チベ ットの統一君主となり、宗教・政治・文化のすべてを統率して、現在の十四世にいたる。なお 232
はモノ ( 法 ) に依存すると主張して、独立の存在すら認めず、いわば経験の形式的所産とみなす。 このように、少なくとも時間に関しては、二つの思想の懸隔が著しい なおハイデガ 1 『存在と時間』は、右の仏教説に類似し共通する個所も少なくないが、それ でもかれは存在に、仏教は時間 ( 無常 ) に傾斜する。 ところで、時をあらわすサンスクリ ノトには、カーラとサマヤとアドウフヴァンがある。 カ 1 ラはカル ( 数える ) を語根とし、カ 1 ラⅡ時は、数えられるものをいう。それは一見アリス トテレスの時の定義 ( 「より先」「より後」とい「た観点からみられている運動の数ー『フィジカ』 ) と 共通する。このカ 1 ラという語が最も一般的に用いられる。 サマヤはサムとアヤとの合成語で、サムは「ともに」をあらわす接頭辞、アヤはイ ( ゆく ) とい 史う動詞から派生した名詞であり、サマヤは「ともにゆく」意、すなわち二つないし二つ以上が 甲出会い重なり合「て進行することを示し、それから時の観念が生ずる。また上述の意から、『倶 教舎論』にはサマヤに「縁」の訳もある。この語は、仏典の冒頭の「一時」 ( エーカスミンサマエ エーカムサマヤム ) などに用いられる。 ン アドウフヴァンは語原も意味も漠然としており、仏教とジャイナ教のみの用例に、時の意が 二みえる。それは時と扱うよりも、世と訳され、いってみれば時 ( 時間的存在 ) の進む道 ( 過程ない さんぜ 第 し場所 ) を示す。仏典に頻出する「過去世・未来世・現在世の三世」には、この語が用いられ 127
フロローグ ①「仏教」という語②仏教史の概略③仏 教の前史④仏教の特質 第一部インド仏教史・ はじめに 第一章初期仏教 : ①仏教の成立②初期の教団③アショ 1 カ 王④初期仏教の資料 第一一章中期仏教 : ①部派仏教②アビダルマ③大乗仏教運動 ④大乗仏教の登場 第三章後期仏教 : ①大乗仏教の中期と後期②密教 は 1 ) がさ 14 12 Ⅳ
派仏教の文献の一部に経典読誦者として記録されるにすぎなかった。 すなわち、初期大乗に入ると、ダルマ。ハーナカ ( 法師 ) というまったく新しい名称のもとに、 大乗独自の説法者として出現し、在家信者のリーダーから転じて、大乗仏教の指導的地位につ く。かれらが大乗経典の作者であったか否かはなお疑問としても、少なくとも経の編集者であ り推進者であったことは確実といえる。 またかれらが出家者か在家者かは断定できないが、信者にさかんに経の受持・読誦・解説を おこない、その経そのものの崇拝を強調している。またかれらの大多数は、それまでの仏塔崇 拝に批判的であり、多くは反対して、新たに成立した各種の経に花や香を捧げて経の礼拝供養 ーニカーという女性名詞もあ を奨めるなど、それぞれの経の絶対化を促進した。なおダルマバ って、女性の法師の存在と活動とを裏づける。 ともあれ、大要このようにして、初期大乗経典の出現をみる。経の成立までの順序を概括す れば、①経の核が生まれる、図原初形が成立する、③その伝承の間に、 増広・補修・挿入・追 加など、ときに削除・縮小・抄出などがある、④現在の経として完成する、となる。 このプロセスは初期経典にも大乗経典にも変わらず、右の④のほとんどが、初期経典は部派 、初期大乗経典は中期大乗に委ねられた。 146
⑩十ニ因縁 ( 縁起説 ) 釈尊当時の自由思想家たちは、現実の苦楽や善悪などの生起について、それが①ある絶対者 による、一種の宿命論、③無因すなわち偶然論、という三種のいずれかによっていた。そう したなかで最初期の仏教は、原因と諸条件とをふくむ多くの縁 ( もしくは因縁 ) にもとづく生起、 すなわち関係を通じての成立を説き、それが縁起説の原型となった。 初期仏教の考えによれば、「もの・ことがある」とは「もの・ことが成立している」にほゝな しようじゅう らず、それは生・集・起と称される。しかもそれは原因と諸条件とを必須とするところから、 ーダ、プラティート それらを合わせて「縁って起こる」となり、「縁起」 C ハティッチャ・サムウッ。ハ ヤ・サムウト。ハ 1 ダ ) という術語がつくられた。 初期仏典を。ハ 1 リ文に即して検討すると、因をあらわす語はかならず生起を、また生起をあ らわす語はかならず因をふくんでいる点が、この術語の成立を促したともみられる。たたし最 初期の仏教は、ヴェ 1 ダ聖典中に原因の意味で使われたニダーナという語を多く用い、また右 の術語中のプラティ 1 ト ャ C ハティッチャ ) と同類のプラトウャヤ C ハッチャヤ ) は、インド一般。 は「信、確定、概念」などをあらわして、「縁」の意に解して使うのは仏教のみに限定される。 おそらく釈尊は縁起説の原型をすでに説いていたと推察される。それは、現実化している果 についてその因をさかのばり、因と果とのなんらかの緊密なつながりー関係性を、したがって 106
はじめに インド仏教史を、本書は初期と中期と後期との三つに区分する。これは世界各地各種の史学 に頻出する歴史の三分法にもとづく。 ほばわが国においてのみ明治後期以来用いられている原始仏教という専門用語 ( 最近はわずか ながら中国などにもみえる ) が、一般には種々の夾雑物を伴ないがちのために、それに変えて、本 書では初期仏教と呼ぶ。初期仏教は、仏教が成立してその興隆が進んだ、文字どおり初期の、 約百五十年ないし約二百年間の仏教をいう。 中期仏教は、教団の分裂によって部派仏教が生まれ、それとおおむね前後するアショーカ王 の即位 ( 紀元前二六八年ごろ ) 以降をさす。各部派は初期経典を整備しつつ自説を固め、そのあと しばらく遅れて大乗仏教がおこり、各種の初期大乗の諸経典や少数の論書がつくられた、後四 世紀はじめまでの約五百五十年間を、中期仏教と呼ぶ。 後期仏教は、紀元三二〇年を起点とする。この年に生粋のヒンドウイズムに染められたグプ タ王朝が成立すると、仏教は。ハラモン文化に圧倒されて急速に民衆の支持を失いはじめ、しか し仏教の諸伝統は部分的ではあっても強固に維持されて、ときおり仏教再興が企てられ、また きっすい
総合は『法華経』の一乗思想につらなり、中国天台とは異なる日本仏教の一特徴を示す。しか とくいっ し天台一乗説は南都仏教と衝突し、法相宗の徳一との論争は激しい さんげがくしようしき 最澄は新たに大乗戒壇を山上に設立し、「山家学生式」を制定した。これも南都の戒壇から攻 撃される。大乗戒壇は最澄没後七日目に公認を受け、以後いわゆる円頓戒にもとづく出家があ いついで、仏教僧のほばすべては叡山に修学し、鎌倉新仏教をはじめ長く日本仏教 ( とくに本覚 じようぎようざんまいぜんじよう 思想・常行三昧・禅定・諸儀礼など ) の母胎となる。なお叡山は円仁ほかの後継者により全面的 に密教色が強化され、いわゆる台密の本拠ともなった。 ふくう けいか 空海は、最澄とともに私的に入唐したあと長安に長くとどまり、不空の弟子の恵果について 折柄中国に展開をはじめた真言密教を学んだのち、多数の経巻や仏具などを携えて帰国する。 こん′」うぶじ やがて嵯峨天皇に重用されて、高野山に金剛峯寺、京都に東寺を建て、真言宗 ( 東密 ) を開き、ま た鎮護国家の根本道場とした。空海が新しく伝えた加持祈疇は人々に迎えられ、また南都仏教 とくに華厳宗とも協調する。 さん′」うしいき じゅうじゅうしんろん 空海は若年で『三教指帰』を書いて儒仏道の三教を比較し、帰国後に、『十住心論』ほかの 名著を著わして、即身成仏の教義を確立した。また諸国を巡って民衆の教化や多くの社会事業 しゅげいしゅちいん を果たしたほか、書や文芸などの広義の芸術に秀でて多彩な文化活動に従事し、綜芸種智院を 創立して一般の子弟を教育するなど、その活躍はまことに広い 226