リランカ伝 ( 南伝 ) は仏滅より二一八年後、五代の仏弟子の経過を記し、北伝は約一〇〇年 ( 一説 では一一六年 ) 、仏弟子は四代という。南北両伝に多くの論拠があり、世界のインド学者の論争 が継続するなかで、現在有力視されている北伝によれば、上述のとおり、仏滅は前三八三年、 釈尊の生涯は前四六三 ー三八三年となる。 1 カ王はやがて仏教に帰依し、とりわけ東海岸のカリンガ地方攻略のときにみられた 戦闘の悲惨を深く恥じて、仏教尊崇に燃える。ただし同時にバラモン教やジャイナ教その他の 諸宗教も保護し後援した。このような伝統は、以後のインドに受けつがれる。 王は無用な殺生を禁止し、国内に道路を引き、樹木を植え、井泉を掘り、休憩所、病院、施 しの家を建て、薬草を栽培して、いわゆる福祉に努めた。また王は仏蹟を巡拝し、王子 ( 弟とも いう ) のマヒンダをスリランカに派遣して、仏教の普及拡大に尽くした。さらに普遍的な法 ( ダ ルマ ) を政治理念に掲げてみずから誓うほかに、その信念を吐露した詔勅を石柱と岩石面とに 史 教刻み、民衆の協力を呼びかけ、また使臣を通じて西方諸国 ( シリア、エジプト、 マケドニアなど ) に ンまで伝えた。 イ 十九世紀以降に発見された各地の石柱詔勅は二十六あまり、当時の国境付近の岩石詔勅は十 一ほど、ともにほぼ十四章ないしほぼ七章の文章は、現在すべて解読されている。サールナ 1 ほかの石柱詔勅は、当時目だちはじめた教団の分裂を危惧し戒しめる。またバイラートで発見
国の滅亡とともに一度は消減する。その後十一世紀までは混沌として、大乗や密教にヒンドウ 色が濃くまじり、それらと土着のアニミズムとが結合する。十一世紀半ば、北ビルマの。 ( ガン幻 を中心に国家統一をなしとげたアノウラータ王 ( 一〇四四ー一〇七七年在位 ) は、攻略した南ビル マに伝わる上座部系仏教を歓迎し、さらにこのころ弾圧を受けていたスリランカから大寺派仏 げん 教を輸入する。この一つは早ルには融合せず、十三世紀末の元の攻撃やタイ族の一派による侵 入があっても、なお二派・の・分裂、は、つづぐが、それは却「て仏教の浸透に資したともいう。 十五世紀にあらためてスリランカの大寺派を導入し、教団も整備されて、以後はこの仏教が 栄えつつ、現在にいたる。これらの栄枯盛衰の間に、逆にスリランカにビルマ仏教を伝えた歴 史も、再三にわたり記録される。 ③タイ タイには古くは大乗仏教が伝わり、たとえば観音像などもっくられているが、不明な点が多 。十三世紀のなかごろ、諸地方を統一した、タイ民族の最初のスコタイ王朝は、文字の作成 ほかの文化事業をおこし、スリランカの上座部仏教をとりいれる。十四世紀から十八世紀にか うた けてはアユティャ ( アユタヤともいう ) 王朝が支配し、仏教の繁栄が謳われ、一七五〇年にはスリ ランカに仏教使節を送った。
それぞれの仏教徒の全人口に対する割合は、おおよそ、スリランカが間 % 、ビルマが % 、 タイカ 9 0 カンボジアが囲 % 、ラオスが % 、また大乗仏教のヴィ = トナムは % とう また南伝仏教の最大の行事に、五月 ( 正確にはヴ = ーサーカ月 ) の満月の日のヴ = 1 サカ祭があ り、ブッダの生誕と成道と入減とを同時に記念する。そのほか、各地に新年祭などが催されて、 僧俗ともに大いににぎわい楽しむ。 以下、国別に仏教史の大要と現状を記す。 ①スリランカ ( セイロン ) インド全土を統治して仏教に帰依したアショ ーカ王 ( アソーカ王、阿育王、紀元前二六 二年在位 ) は、その子 ( 弟ともいう ) のマヒンダを伝道師としてスリランカ ( セイロン ) に派遣し、こ こにはじめて、保守派の上座部 ( 長老部ともいう ) 系の分別部 ( ヴィバッジャ・ヴァーダ ) 仏教が伝 えられた。この使節は、当時のデーヴァーナンビヤ・ティッサ王 ( 前二五〇ー二一〇年ごろ在位 ) の庇護と後援を受けて、首都アヌラーダブラに寺が建設され、これがやがて大寺 ( マハーヴィハ ーラ ) として発展し、正統な大寺派の根拠地となる。民衆の帰依もあいつぎ、比丘と比丘尼との 教団や寺院なども増え、繁栄を迎えた。 前一世紀 ( 前二九年という ) に無畏山寺 ( ア、、ハヤギリ・ヴィハ ーラ ) が出現すると、政争もからん 0 210
第一章南伝仏教 1 リ仏教とも呼ばれる。それはスリラン 南伝仏教はまた南方仏教とも、またその用語から。ハ カ ( セイロン ) を始点として、東南アジアの全域一帯に拡大普及したあと、イスラームの進出に よって一部が消滅し、現在はスリランカ、ビルマ ( ミャンマー ) 、タイ、カンポジア、ラオスなど に栄える。国や民族・人種ごとにそれぞれ固有の言語 ( と文字 ) を用いるが、仏教に関しては、 ほぼすべてがハ ー評冫統一され、それはカトリック教会のラテン語使用の情況とおおむね等 しい ( あるいはそれよりも徹底している ) 。 南伝仏教は、かってインド仏教の保守派に属する上座部 ( スタヴィラ・ヴァ 1 ダ、または長老部 1 リ聖典に忠実であり、往時 Ⅱテーラ・ヴァーダ ) の伝統を継承して、教団のありかたなども。ハ に似るとみなされる。 出家僧は、毎朝の托鉢による食事を午前中にとり ( ただし第二次世界大戦後のスリランカでは、 信者が交代で食事を届け、僧の托鉢行はほとんど消減した。布施も寺の建設から日常の必需品まで寺 に持参され、経済的自立の寺も少なくない ) 、午後は修行と勉学に専念して、 リ聖典を読誦し 208
標準語のサンスクリッ ト語に対し、俗語ないし方言をプラ 1 クリッ ト語 ( 自然の風俗を原意と するプラクリタにもとづく ) と それにはマガダ語や。 ハーリ語その他がある。またサンスク ソト語から派生した別系のア。ハブランシャ語より、現在のヒンディー語やべンガリー語など が生まれた。インドにはこれらのほかに、先住民の言語としてのドラヴィダ語系などがあり、 さらに外来のセム語系も用いられて、地域ごとに異なる。 釈尊の活動範囲から推定して、釈尊と信奉者たちはマガダ語 ( もしくは半マガダ語 ) によったと 類推されるが、マガダ語のみの文献は現存しない。北インド東部のマガダ語に対し、。、 は中部以西の俗語と考えられ、言語学上はビシャーチャ語の一種で、 、ーリは聖典を意味する。 それはサンスクリ ノト語に近く、俗語の崩れは比較的少ない。 けつじゅう おそらく仏滅直後の最初の結集 ( 教団の集合会議 ) にはマガダ語が用いられ、それ以後に仏弟 子の西方への布教によって。、 ノーリ語に移され、また別に、マガダ語からサンスクリット語に変 史 教えられたとみなされる。 1 リ語文献はアショ 1 カ王の時代にスリランカに伝えられ、のち東南アジア全域にひろま ン り、以後二千数百年間も多少の変遷を受けながらもそのまま通用して、現在はいっそう栄えて 部 いる。ただしそのなかの一部にマガダ語がまじり、却って聖典を印象づける。南伝仏教圏では、 第 それぞれの言語が、スリランカのシン、 丿ーズ語はインド系、ビルマ ( ミャンマー ) はチベット . し、し かえ アルダ
仏教は、ヾウッダ・ダルマまたは。ハウッダ・ダルシャナと呼ばれ、ダルマは法 ( 宗教・倫理・法 律・真理などをふくむ ) 、ダルシャナは思想 ( 広義の哲学 ) を意味する。スリランカなどでは、ブッ ダ・ダンマまたはブッダ・サーサナの名称が親しまれ、ダンマはダルマと同じ、サーサナは教 えをさす。英語のブッディズムは文字どおりプッダに由来し、十九世紀になってはじめて呼称 として確定した。ョ 1 ロ " ハの各語もこれに準ずる。 ②仏教史の概略 シッダッタ ( ガウタマ・ ールタ ) がさとりを達成 仏教は、紀元前五世紀ごろ、ゴ 1 タマ・ かくしゃ してブッダ ( 覚者 ) となり、その教えを人々のまえに説いた時点にはじまる。その教えにし服し た人々が仏弟子または在家信者となり、当初の比較的ゆるやかなサ 1 クルは、やがて教団に発 展した。ブッダの滅後に教団の整備が進められ、同時に、すぐれた仏弟子たちの何人かがイン ト各地にブッダの教えを説いて、仏教はインドの諸地方に普及する。 じようざぶ 仏減後百余年 ( 別説二百余年 ) ごろ、拡大した教団は、伝統保守の上座部と進歩的な大衆部との 二つに分かれ、その後さらに細分裂が二百年あまり継続して、約二十の部派が成立した。これ らのうち、上座部の一派は前三世紀半ばにスリランカに伝えられ、いわゆる南伝 ( または南方 ) 仏教が形成される。それはのちに東南アジア一帯に拡大して、今日に及ぶ。 だいしゅぶ
第三部各地の仏教・ 第一章南伝仏教 : ①スリランカ ( セイロン ) ②ビルマ ( ミャン マー ) ③タイ④カンボジアとラオス⑤ その他 第一一章北伝仏教 ①中国仏教②朝鮮仏教③日本仏教④チ べット仏教 最後 主要参照文献 ( 抄 ) 略年表① 2 索引 ( 写真提供Ⅱインド政府観光局 ) 208 2 ろ 4 207
ーリ文献ではアビを「優れた、過ぎた」を意味すると 究」をあらわして、対法と訳される。 して、アビダンマを「優れた法」と解する。 ーリ上座部には、紀元前二五〇 ~ 前五〇年ごろの約二百年間に、『カターヴァットウ』 ( 論 ノ 事 ) をふくむ七つの論が成立し、この七論が論蔵 ( アビダンマ・ビタカ ) とされ、その他の註釈書 や研究書などは、すべて蔵外と扱われる。 ろんじよ ほっちろん 有部 ( 説一切有部の略 ) でも、『発智論』のほか六種の足論と呼ばれる論書がつくられ、一般に はちけん 「六足発智」と称する。これらは前一世紀ごろまでに成立した。なかでも『発智論』 ( 異訳『八腱 かたえんにし ろんじ どろん 度論』 ) は、大論師カ 1 ティャ 1 ャニープトラ ( 迦多衍尼子 ) の著で、その広汎な内容が有部の教学 しんろん の基本を示すところから、身論と称する。これらの七論は漢訳が揃う。それらのサンスクリノ ト語のわずかな断片が中央アジアから発見され、ドイツに校訂出版がある。 以上のほか、論蔵には加えられない註釈書や解釈書、また論書も多数つくられた。 ーリ文献では、二世紀のウ。ハティッサのあと、五世紀に南インドからスリランカに渡来し ぶっとん 長期間滞在したブッダゴ 1 サ ( 仏音 ) が、三蔵のほば全部に詳細で厖大な註釈書をつくり、また しようじようどうろん 独自に名著『ヴィスッディマッガ』 ( 清浄道論 ) を著わした。かれの解釈が上座部教理の標準と して、現在もたえず引用される。 ハーリ語には、スリランカ史を伝える『ディー。ハヴァンサ』 ( 島史 ) と『マハ 1 ヴァンサ』 ( 大史 ) うぶ 0 、 ノ ノ そくろん
略年表① インド , 東南アジア , 中国 , 朝鮮 , チベット 前 1500 頃 1000 頃 463 頃 327 280 頃 268 100 頃 前後 1 側頃 後 100 頃 129 頃 150 頃 200 頃 320 370 頃 370 ー 450 頃 390 頃 400 頃 401 415 頃 500 頃 アリアン人がインド進出 『リグ・ヴェ ーダ』成立 11 ディグナーガ ( 陳那 , 480 ー 540 頃 ) ーリタ ( 仏護 , 470 ー 540 頃 ) ブッダノ ブッダゴーサ ( 仏音 ) がスリランカへ 鳩摩羅什 ( クマーラジーヴァ , 350 ー 409 頃 ) が長安到着 法顕 ( 339 ー 420 ) のインド旅行 ( 399 ー 414 ) ヴァスノヾンドゥ ( 世親 , 400 ー 480 頃 , 別説 320 ー 400 頃 ) アサンガ ( 無着 , 390 ー 470 頃 , 別説 310 ー 390 頃 ) 朝鮮半島 ( 当時は三国 ) に仏教公伝 中国に道安 ( 312 ー 385 ) , 廬山慧遠 ( 334 ー 416 ) 後期仏教 , 中期大乗へ移る グプタ王朝成立 , 六派哲学さかんになる 仏像彫刻があらわれる ナーガールジュナ ( 龍樹 , 15Q -250 頃 ) 仏典の漢訳はじまる クシャーナ王朝カニシカ王即位 ( ー 153 在位 ) アシュヴァゴーシャ ( 馬鳴 , 50 ー 150 頃 ) 中国に仏教伝来 大乗仏教おこる ストゥーノ、 。 ( 仏塔 ) 崇拝が栄える カーティャーヤニープトラ ( 迦多衍尼子 ) 部派仏教確立 スリランカへ仏教伝来 マウリヤ王朝アショーカ王即位 ( ー前 232 在位 ) 教団の分裂 ( 根本分裂 ) , 中期仏教へ移行 アレクサンドロス大王がインドに侵入 釈尊誕生 ( ー前 383 頃 . 別説前 565 ー 486 ) バラモン教とカースト制度はじまる
⑨法 1 リ語のダンマ、サンスクリ 法は。ハ ノト語のダルマの訳語であり、その語根のドウフルは加 いしず 「担う、保つ」を意味するから、ダルマ ( ダンマ ) は、支え、礎え、きまり、かた、規範、慣例、 義務、秩序、宇宙の原理、善、徳、普遍的真理、法律、倫理、宗教、教え一般などのきわめて 広範囲の意味と用例がインドでは知られ、その使用はインド全体に遍満する。やや後代には仏 教独自の用法として「もの」を指示する例もある。 ぶっとん 五世紀にスリランカで。ハ ーリ仏典の解釈に大活躍したブッダゴ 1 サ ( 仏音 ) は、ダンマを、 属性、教法 ( あるいは因 ) 、③聖典、④もの、という四種に分けており、この大綱は現在の緻密 化した仏教学にもほば継承される。 ごうんせつろくにゆうせつ 法に関しては、つぎの五蘊説と六入説とが中心となる。 五蘊の蘊 ( カンダ、スカンダ ) は集まりをいい、陰の音写もある。五蘊はつぎの五つの集まりを さし、またその各々も各構成要素の集合として扱われる。 色 ( ルーヾ 「いろ・かたち」。「いろ・かたち」をもつもの。感覚的・物質的なるもの。対 象とされる存在、身体もふくむ 受 ( ヴェ 1 ダナー ) 感じて印象を受けいれるはたらき。感受作用 想 ( サンニャー、サンジュニャー ) イメージを構成するはたらき。表象作用 にな おん