経と律の確定につづいて、自説の構築のために、経の註釈が創られる。この一部は。ハー丿」 部の内部にあり ( たとえば『義釈』と訳される『ニッデーサ』は『スッタニ。ハータ』の第四章、第五 ろんぞう 章、第一章の一部の註釈など ) 、のちには、これが発展して「論蔵」と呼ばれる。 これらが可能となったのは、、 もくつかの有力な部派教団が、王族貴族たちゃ富裕な商人など の信徒から篤い後援を得、なかには荘園の寄准を受けて、学説の研鑽に専念できたことによる といわれる。なお、部派をサンスクリ、 ソト語でニカ 1 ヤと呼んだ形跡が、義浄の旅行記やチベ リ語文献にほない。 ノト語などにみられる。ただし。ハー ②アビダルマ あびどんびどん 部派において創作された文献類の大半をアビダルマ ( アビダンマ、阿毘達磨・阿毘曇。毘曇と略 ビタカ し、論と訳す ) という。それらの蒐集は「アビダルマ蔵」と呼ばれ、論蔵と訳し、初期仏教から 史 教伝えられた経蔵および律蔵と合わせて、ここにはじめて「三蔵」が成立する。三蔵は仏教聖典 ーリ仏教の内部では、その全体を広義の仏説とみなす。中国ではまた、三蔵を をあらわし、。ハ ン いっさいきようだいぞうきよう 一切経や大蔵経とも呼ぶ。 アビは「対して、ついて」を意味し、また、ダルマは仏説をあらわす経とほば同一視されて、 第 法と訳されるのは、仏説に示される真理・真実をさすとの解釈による。アビダルマは「法の研 ぎしやく あびだつま
インドに部派仏教が栄えるなかで、しばらくして大乗仏教が紀元前後以降に登場し、多種多 彩の新しい大乗の諸仏と諸菩薩が出現して、以後は部派と大乗との並列がつづく。七世紀には 密教がさかんになり、以上の三つが一部まじわりながら継承されるものの、すでに四世紀以降 は次第に衰運に傾き、十三世紀はじめにイスラ 1 ムの破壊により消減した。 一方、北インドから西域を経て、紀元後まもなく中国に到達したいわゆる北伝 ( または北方 ) 仏教は、ほぼ大乗仏教を主流とし、のちに密教を加える。それは四世紀に朝鮮半島へ、六世紀 に日本へ、また六世紀末と八世紀半ば以降にインドから直接チベッ トへ伝えられた。 各地に伝来した仏教は、インド仏教の種々相の一部を踏まえながら、それにさまざまのヴァ リエイションを施し、種々の変遷や展開をとげて、それぞれの地域と時代と民族性とに相応す る仏教として機能した。しかしそれらの教義や伝承形態を眺めわたすと、インド仏教の枠外に 出ることはなかったと評されよう。現在全世界の仏教徒総数は約五億人という。 ③仏教の前史 一世界の著名な先史文明の一つであるインダス文明が終息に向かうころ、紀元前十三世紀末に、 ロインド北西部からアリアン人 ( アーリア人ともいう ) が。ハンジャープ ( 五河 ) 地方に数回にわたって 侵入し、やがて定着する。かれらはその神話を讚歌集『リグ・ヴェーダ』にうたい、つづいて
はしがき は , レが去」 仏教とは何か、というテーマに、本書は終始する。 仏教は、釈尊 ( ゴ 1 タマ・。フッダ ) 以来約二千五百年にわたる歴史と、人口稠密な東アジアに ひろがる多種多様な諸民族とに、きわめて重大な刻印を記しつつ、現在に及ぶ。そのなかで、 ハイマート 本書は、その故郷であるインド仏教を主題とする。それは、インドに仏教として生まれ、育 しゅし ち、熟した諸年代の諸果実があり、それらの種子の一つ一つが、アジア各地の仏教として、さ らに開花し結実し、ときにやや変種もまじる、との理由による。 仏教は、あらためていうまでもなく、いわゆる宗教として、あまたの人々を教え、安らぎに 導きつづけている。さらには思想 ( 哲学 ) を築きあげ、また実践の支えとなり、すぐれた諸文化 の形成・深化・展開などに大きく貢献し、一部には習俗化した跡も少なくない。 他方に、二世紀近くも世界的に拡大する仏教学が、高くそびえる。その成果は多数の諸資料 を解明して確定し、ただ一語にも、鋭利な知能と莫大なエネルギイが注がれてきた。 本書は、何をどのように仏教は説いたか、そして現に説くのか、をめぐって展開する。その ちゅうみつ
の観音菩薩の化身とされ、首都ラサにそびえるボタラ宮はポータラカに由来する。 観音菩薩を描く図像や彫像も多数あり、しかも名品が多い。インドのエローラの窟院ほか、 せんぶつどう 敦煌の千仏洞など、中国、朝鮮半島、日本の各地はもとより、なかには長老部に属する東南ア ジアの一部にも、少数ながら観音菩薩像が知られる。日本では一体ずつの観音を祀る三十三寺 ちちぶ からなる霊域が設けられて、その三十三所巡礼が西国 ( 関西 ) 、坂東 ( 関東 ) 、秩父 ( 同 ) などに起こ 古くから今日まで、なお隆盛をつづける。 なお、観音菩薩はおそらくヒンドウの神格にもとづき、仏教内部で生まれたのではないとい う説が、最近は一部にかなり強い。 観音菩薩のほか、特定の名称をもっ菩薩を列挙しよう。 みようとくみようきちじよう 、曼殊師利とも音写し、妙徳、妙吉祥などと訳す ) の略 史文殊菩薩は、文殊師利 ( マンジシリー すぐ 田 ( で、『般若経』に頻繁に登場し、大乗の教えを説く。とくに智慧に勝れる。 ふげん へんきち 教普賢菩薩は、サマンタバドラ ( あまねく祝福されたものの意、遍吉と訳 ) の訳で、『華厳経』にお ノいて重大な役割を果たす。実行と意志とを特徴とし、白象に乗った像がよく知られる。この文 殊と普賢とは純粋に仏教内部から誕生した。 一一以下に述べる諸菩薩は、ヒンドウ文化の影響を受けた。 勢至菩薩はスターマ・プラープタ ( 勢力を得たの意 ) の訳で、マハー ( 大 ) を冠することが多い。 けしん ばんどう 143
調し、わたくしたちは現にそのことを強く体験している。 また「こころ」は、中国思想の核 ( の一つ ) である「気」の一部と通じ合う。 ③苦 ーリ語のドウッカに相当し、その語原は明らかでは トのドウフカ、。、 苦は、サンスクリッ ない。インドにおいては、最古のヴ = ーダ聖典と、インド思想史にしばしば登場する唯物論と を除くと、古代から中世にいたるほぼすべての宗教・哲学が、苦を重要なテ 1 マ ( の一つ ) とし てとりあげ、種々の考察を果たしており、仏教もその重要な一翼を担う。 釈尊は、、わば恵まれた境遇に生まれ育ちながら、幼少のころからひとり沈思冥想にふける ことが多く、それは人生における苦に直面し体験したが故にといわれる。そしてその出家は、 楽に満ちた現世のいっさいの放棄にほかならず、出家後の六年間の修行を経て、苦よりの離脱 じようどう かくしゃ とその超克とを達成し、いわゆる成道を獲得して : フッダすなわち覚者、ないしムニすなわち 聖者となり、釈尊の誕生をみる。成道のあと、やがてみずからのさとりの内容を人々に説きは じめて、仏教が出現し創始されたことは、すでに述べた。 この概略に明らかなとおり、苦はまさしく釈尊自身の、そしてまた仏教そのもののいわば原 点であり、あるいは仏教の成立について時間的な観点からみれば、その始元に相当するとも称
の記載とのあいだでかならずしも一致しない。後世にまで重要な部派は、上座部、その分派の せついっさいうぶ とくしぶ けじぶ きようりようぶしようりようぶ うぶ 説一切有部 ( たんに有部と略す ) 、法蔵部、犢子部、化地部、経量部、正量部など、そして大衆 部がある。上座部系は主としてインドの西と北方またスリランカに、大衆部系は中部と南方に 栄えた。 根本分裂の年代がアショ 1 カ王以前であることはほば確実視され、サーンチー、サールナ 1 ト、コ 1 サンビ 1 などの石柱小詔勅には、王が教団の分裂を憂い戒しめる文がみえる。 諸部派には多少の栄枯盛衰はあるが、教団としてはつねに優位を保ち、のち紀元前後ごろ以 降に大乗仏教が興り繁栄を迎えても、インドから西域一帯の仏教の主流は部派が占めた。 だいじよう しようじよう 大乗仏教徒から部派の一部 ( ほば有部に限定される ) が小乗と呼ばれることがあっても、部派 は大乗仏教そのものを無視しつづけた。小乗の原語のヒーナャーナのヒーナには小のほか「卑 へんしよう しい、劣った」の意があり、この貶称の原語の使用は、大乗 ( マ、 ーヤーナ ) の語よりかなり遅 史 教れ、またそれほど頻繁ではない。ただ中国やチベットなどの北伝仏教は大乗仏教に占められた ンために、そこでは大乗ー小乗の呼称が一般化した。その小乗には初期仏教までふくまれること イ・ が多く、適切を欠くので、本書では避ける。 一部派仏教の動静はインドの域内では記録されず、中国から渡天 ( 天竺Ⅱインドにわたる ) の旅を ほっけん げんじよう 果たしたうえに旅行記を残した三人の求法僧、すなわち法顕 ( 旅は三九九ー四一四年 ) 、玄奘 ( 六 ほうぞうぶ ぐはうそう ノ
⑧自己のこころの追究 ⑨方便すなわち手段の重視 ⑩ある種の神秘化、それには古来の伝統や当時の諸情況また土着文化の影響など 以上のいずれか一つないし複数を掲げて、まず初期大乗経典がつぎつぎと登場する。その 各々は本書の第二部に経名をあげて論述するが、興味深いことに、各種の諸経典は出現当時ほ ばそれぞれが独立しており、 一部の例外を除いて相互の関連は少なく、各々にユニ 1 クな特質 をそなえる。 なお比較的最近まで、部派のなかで進歩派の大衆部が大乗仏教へ発展したと説明されていた が、たとえば大乗仏教の成立し繁栄した後代にもなお大衆部の存続した事実が実証されて、こ の説は今日は承認されない。 初期大乗経典が生まれ、そこには部派 ( とくに有部 ) へ強烈な批判・非難があっても、部派 史 教からの反論は皆無であり、大乗仏教側がひとり自説の優越を強調し、それが反復され続した 点が注目されよう。すでに述べたように、インドにおいては、部派が仏教の正統を継承して不 ン 動であり、それに対して、大乗仏教は、初期、中期、後期と、右の① ~ 砌の後半によりつつ種々 一の新思想・新学説を生んで、仏教の内容を豊かにし、ひいては世界思想に大いに貢献している、 と評される。 ほうべん だいしゅぶ
またサ 1 ンチ 1 の碑文にギリシア人の寄進銘があるなど、インドに入ったギリシア人の仏教帰 依の諸資料も知られる。 以上の諸資料のほかに、いわゆるシルクロード の各地などで発見・発掘される諸文献があり、 仏教梵語によるものが多い。また一部にはチベッ ト語訳その他がある。 初期経典は、①韻文すなわち詩のみ、図韻文と散文、③散文のみの三種に分かれ、現在の学 説ではおおむね韻文が古く、散文はあとで付加されたのであろう、と推定されている。 出家者の集団である教団には律蔵があり、比丘・比丘尼の守るべき規則を集めたものを波羅 だいもくしゃ かいきようかいほん 提木叉 ( 。ハ 1 ティモッカ、プラ 1 ティモ 1 クシャ、戒経・戒本 ) と称し、・この条文集は比較的早くま とめられた。のちにその規定の解釈をめぐって諸部派に分裂し、各部派ごとに律蔵を整備した。 しぶんりっせついっさいうぶじゅうじゅりつけじぶ すなわち上座部の。ハ 1 リ律、漢訳には、法蔵部の四分律、説一切有部の十誦律、化地部の五分 りつだいしゅぶ まかそうぎりつ こんぼんせついっさいうぶりつ 律、大衆部の摩訶僧祗律、根本説一切有部律 ( チベット訳もある ) の五種が伝わる。 いんねんだん 律の条項に付随して、その規定の所以が記録され、これを因縁譚と称して、経蔵のなかの釈 ほんじようたん 尊の回顧談とともに、やがて本生譚 ( 『ジャ 1 タカ』など ) や仏伝また教団史などの資料となった。 仏伝すなわち釈尊の伝記は、当初はそれほどの関心を呼ばなかったが、仏教の普及とともに その数も増加し、華麗に飾られて、広く流布した。これらはむしろ文学作品として、中期仏教 にかけて栄える。 ごぶん
第一一部インド仏教の思想史 サーンチーの仏塔
ールジ = ナの著を名のる羅什訳『大智度論』は、非常に多数の経を引用 つぎに論ずるナーガ し、経名だけでも百十二経に達する。そのうち百余経を仏典が占めており、そこに引用される 経名の有無が初期大乗経典成立史の一つの標準とされる。それによれば、これまで記してきた 経典の数種は、当時はまだ現存するような形には達しておらず、その一部が単独に成立してい た情況にあったことが知られる。すなわち、ちょうど阿含経などの初期経典が部派においてよ うやく現形に固定されたと同じく、種々の初期大乗経典も、これ以後の中期大乗に編集され確 うかが 定したことが、明白に窺われる。 ④ナーガールジュナ 史初期大乗経典 ( ないしはその原形 ) が出揃った紀元一五〇ー二五〇年ごろ、世界思想からみて 想 1 ルジュナ ( 龍樹 ) が登場して、とくに空の思想をみご 思も傑出した宗教哲学者と称されるナーガ 1 ルジ = ナは初期大乗仏教に確固たる基盤を構築して、以後の大乗仏 教とに理論化した。ナ 1 ガ 教がすべてかれの影響下にあるところから、八宗 ( すべての宗 ) の祖と尊崇される。 ン イ かれは南インドのバラモンの家に生まれ、当時のあらゆる学問に精通したのち、仏教に転じ 二て初期と部派との諸説を習得し、やがて東北インドに移って大乗仏教を学ぶ。 ほうぎようおうしようろん えじようろん ろくじゅうじゅによりろん 主著の『中論』のほか、『廻諍論』『六十頌如理論』『宝行王正論』 ( 『ラトナ 1 ヴァリー か ん 161