実践 - みる会図書館


検索対象: 仏教入門
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1. 仏教入門

なお『中論』は二種の真理をあらわす二諦説を用意する。すなわち、相対的に成立すること ばによって説き示される真理を世俗諦 ( 俗諦ともいう ) と、ことば本来の限界 ( プラ。ハンチャⅡ戯 けみようせせつ ろん 論、またプラジごアヤプティⅡ仮名、施設 ) を超えて相対性の及び得ない第一義諦 ( 勝義諦、真諦と もいう ) とをあげ、「諸仏は二諦によって衆生のために法を説く」 ( 第二十四章第八詩 ) と述べる。 こうして日常における相対的な真理を承認し、しかも、その根拠に固定して実在していると 考えられた実体をあくまで排除したうえに、自由で実り豊かな実践を導き、前者が縁起に、後 者が無自性ー空に支えられる。 くう・ ッ , 「 , 本は 「空」という語は、『中論』の詩に、羅什訳本には四十一詩に五十八回、サンスクリ 三十八詩に五十四回も登場し、古来きわめて多くの研究者がそれをさまざまに論じており、無 史実体、相対性、限界、無限の否定、自在、解放などと説かれる。 想 『中論』をいちおう離れて、別の面から説明しよう。 の くう 1 ニヤタ 1 、空である ーニヤ ( 形容詞、名詞形はシュ ノト語であるシュ 教空という語のサンスクリ、 くうしよう こと、空性 ) は、人名も時代も不明のインド人が発見したセロ ( 0 、零 ) 原語でもあり、ゼロは、 ン たんなる無でもなく、たんなる有でもなく、同時に有でも無でもあり、また有でも無でもない 二という ( たとえば、という数のなかの 0 ) 、一見矛盾に満ちた多面性を発揮する。 第 1 ではじまる正の整数は自然数と呼ばれてきわめて古いが、それに加えて、ゼロという数が ゼロ にたいせつ みの け 165

2. 仏教入門

る。つぎにこの三世について記そう。 インド仏教ではつねに過去・未来・現在とならべる。サンスクリッ ト語では、アティータ、 アナ 1 ガタ、プラテイウト。ハンナであり、この過未現 ( ないし去来現 ) の順序は一定して変わらな 中国仏教には過現未という例もあるが、漢訳仏典も過未現であり、日本の仏教者のうち道 元は、去来現 ( 『弁道話』 ) 、古来今 ( 『正法眼蔵』古鏡 ) と、インド仏教の伝統を守る。 この配列はおそらく、過去と未来とが現在に収斂されることを物語り、三世ー三時の中心は つねに現在にある。また未来のアナ 1 ガタは、否定の接頭辞のアンとア 1 ガタとの合成、その アーガタはア 1 ( こちらへ ) とガタ ( ガムⅡゆくの過去分詞 ) との合成であり、したがってア 1 ガタ キタ はイマダ来ラズとなり、未来に合致する。それはマサニ来ラントスをあらわす将来という語が、 キリスト教の終末観を含意するのとは異なり、あくまで現在に立ち現在を基盤として今後を眺 望する姿勢が反映している。 先に初期仏教の現実中心という基本的立場を記述したが、有部もまた格別この傾向が強い。 有部の出家者たちはもつばら実践修行に励み、そこにはかならず目標または目的がある。 そのさい、その目標の存在する場は未来であり、その未来もかならず実在しなければならな 同時に、かっての実践は、その行為そのものはすでに消滅しているとはいえ、その結果を 現在に及ばしていて、その過去もまた実在しなければならぬ。こうして、過去世と未来世と現 キタ 128

3. 仏教入門

く、つ ようやく無常をふくむ縁起の反省によって、やがて無実体にいたり、空をさとる。 以上のプロセスと結果とから成るそれらの自己体験を、記憶や記録に残して高くつみ重ねて も、それらすべてが、実体としては無化される死を迎える。それでもなお、あるいは人類の一 つの経験として有用であるとするならば、それを実体化して孤立させるのではなく、空にさら して、その個人の無を通過する以外ない。 そのほか空の議論は尽きないけれども、世界のすべての存在や行為その他をふくんで、人類 く、つ のいとなみ全般に、空は及び、根底を支える。 えじようろん なおナ 1 ガ ールジ = ナの上掲の著述も、空思想を主眼とするが、特記を加えれば、『廻諍論』 は二ー三世紀当時に台頭しつつあったインド論理学 ( その根本テクストの『ニャーヤ・スートラ』 が編纂途次にあった ) に触れて、それを批判的に扱い、『宝行王正論』は故国の王への書翰、また 『大智度論』は現存の百巻といら大著のなかに、諸分野に拡大する該博な知を網羅し、『十住毘 いぎようどう 婆沙論』には信を方便とする易行道 ( 容易な実践方法 ) として阿弥陀仏への帰依も説かれる。 がいはく 168

4. 仏教入門

係 ( 原因と結果 ) が問われて、それは前と後という異時的なみかたによる。また「生起」を「生じ て起こっている」といし 、同時的と解すれば、論理的な関係 ( 理由と帰結 ) に帰せられる。縁起に ふくまれる生起には、これらの二種がある。 なお生起を右の前者と解して、どこまでも原因を、また結果を追究してゆくならば、結局は、 その始元と終末とを問わざるを得なくなる。しかしそれは釈尊において示されたと伝えられる ていしよく 十 ( 四 ) 難無記の第一項 ( 世界は時間的に有限か無限か ) に牴触してしまう。したがって、この方向 は阻止されており、仏教には、たとえば世界やいっさいのものに関しての、完全な意味の起原 論はなく、終末論もない。そのためであろうか、後世には「無始無終の縁起」という修飾の付 せられる例もある。 史ともあれ、縁起説はその萌芽が釈尊にみられるであろうが、釈尊をふくむ最初期仏教は、ニ 思ルヴァ 1 ナ、三法印、中道、四諦八正道などの原型に説かれるように、実践と結びつく教説に 教集注した、と推定される ( 『スッタニ。 ( 1 タ』中の唯一の「縁起」という語の用例である第圖詩は、実 践における因果すなわち業説についての第 ~ 詩という、合計六十三詩の長文の教説のなかにあり、 ン イ 業をテーマとして説かれる ) 。 二やがてそれらの実践の理論化が推進される過程で、縁起や法などの議論が台頭し、それらは 第 渾然と融合しつつ、初期経典には実に多数の縁起説が多種多彩に説かれ、しかもそれらはまこ ごう 111

5. 仏教入門

から、行為に関しては、結果論ではなくて、動機論を守る。また実践の基本に無我説があり、 欲望や執着からの離脱・解放が、ことさら反復して強調されてきた。 現実を固定して眺めることなく、主体をふくむいっさいを、たえず生減変化する無常と いうダイナミズムに漂わせる。ことばそのものをはじめ、すべてが無常であり、現実はつねに 流動してやまず、そのありのままが真実、と仏教は主張する。 無常と無我とは、実体の排除に向かう。現実のたえざる生減変化は、諸条件による関係 性によって支えられ、これを縁起と名づけて、それはほぼ仏教史を一貫する。さらにその徹底 は関係性を相互関係にまで深化しつつ、実体をことごとく破砕して、空の思想を完成する。 ごうんろくしよじゅうにいんねん 三宝、四諦、五蘊、六処、十二因縁などのように、仏教には一般に分析的傾向が強く、 ほっすう それらをまとめて数で括る。これを法数と呼ぶが、それが極度に達すると、一転して廃棄し、 直観重視の姿勢を固める例が目だっ。 げだっ 最初期以来、仏教の理想とするところは、乱されることのない平安を得て、解脱が達成 ねはん され、寂静そのものであるニルヴァーナ ( ニッパ 1 ナ、涅槃、絶対の安らぎ ) の確保に向かう。 インド仏教は、民衆に多大の支持を得た時代でも、世の諸習俗に染まることを遠ざけ、 ロ種々の民間儀礼などにほとんど加わらなかった。他方、インド外の各地に伝来した諸仏教は、 上述の寛容から、地域ごとの習俗や諸文化となじみ、変貌をまじえた。とくに往時は辺境に位 じゃくじよう さんばうしたい

6. 仏教入門

体系に専念していたのを、厳しく批判したのが、般若経の説く空にほかならない。 般若 ( プラジュニャー、。、 ノンニャー ) の語は、初期仏教以来説かれ、智慧をあらわし、それは直観 的・総合的な特徴にあふれて、分析的・理論的な知 ( 知識 ) とは根本的に異なる。なにものにも 、いっさいを直覚し洞察すべきことを、般若経 とらわれない空を本旨とする般若の智によって くうやくぶくう は説き、さらにその空にも決してとらわれてはならない ( 空亦復空という ) と念を押す。 そしてそれを身に体してこそ大乗の菩薩なのであり、それは通常の仏弟子 ( 声聞 ) や孤独の どくかく 聖者 ( 独覚。縁覚ともいう ) とは大いに異なって、つねに他者と結び、他者への配慮がゆきとどい て、他者のために尽くす実践 ( 利他という ) が力説される。 はらみつ それを端的に示す語が波羅蜜であり、経名も般若波羅蜜経と名のる。 おそらくこの般若波羅蜜経の成立以前に、早く失われて経名のみが伝わる『六波羅蜜経』が にんにく 田 ( あって、布施・持戒・忍辱 ( 忍耐 ) ・精進・禅定・般若の六波羅蜜の実践を説いたと推定される。 教そしてこの六つは、初期仏教の八正道・五根五カ ( 信・精進・念・禅定・智慧 ) と、それを簡略化 した戒・定・慧の三学とを基本とし、部派の説く実践論をも参照しながら、次第に熟し結実し たと考えられる。すなわち、自己ひとりにかかわる実践の徳目として、持戒と精進と禅定と般 にんにく 二若の四つを継承し、他者との関係にある布施と忍辱とを新たに加えて、右の六つが成り、その 各々に波羅蜜を伴なって六波羅蜜は構成されている。 ′」こん′」りき しようもん 149

7. 仏教入門

末尾に、「犀の角のごとくただ独り歩め」というリフレ 1 ン ( くりかえしの句 ) をつける。 いずれにしても、アッタンは、自分と自我と自己というさまざまなありかたをふくんで、ま ことにアンビヴァレント ( 相反が同時両立 ) なありかたを呈する。すなわち、同一のアッタンに おいて、日常的な自分が自我へ、あるいは自己へと転化し、もしくは自我が自己へ昇華し、ま たは自己は自我へ顯落するというカオス ( 混沌 ) を内蔵している。 無我という教えは、自分ー自我ー自己という、日常性から宗教性にいたるあらゆる局面にお いて、つねにその中核の役割を果たすものを考察しつつ、さらに一歩進めて、みずからいかに あり、 い・刀一」田 5 し・カ。にロ いかにおこなうかという、みずからの行為・実践に直結する。 その意味で、無我説はいろ濃く実践的という性格を担う点において、苦および無常の教説とは 史やや様相を異にする。 想 思 の 教⑥三法日 苦と無常と無我とは、。、 1 リ五部・漢訳四阿含にそれぞれ別々に説かれ、一項ずつ独立して ン いたが、とりわけ右の散文経典においてはやがて一括されて、無常ー苦ー無我の教えの確立を 二みる。先に述べたとおり、苦が教説の時間的な始元ではあっても、無常が論理的な始元とされ るところから、無常ー苦となり、それへの洞察を孕みつつ実践へとつらなる局面において無我 つの

8. 仏教入門

その翻訳は信じがたいほどの質と量に及ぶ。とくにアビダルマ・唯識・論理学 ( 因明 ) などは最 も貴重であり、さらに『大般若経』六百巻やインド哲学の論書もある。唯識説はかれとその弟 ほっそうしゅう 子の慈恩大師基 ( 窺基ともいう ) によって、法相宗に結実する。 ほ、つぞ、つ それに対して、賢首大師法蔵は『華厳経』の翻訳に参加し、杜順、智儼の法燈を継承して、 華厳宗を確固不動たらしめた。それは、事と理、一と一切をふくんで、すべてがたがいに相即 相入するという重重無尽の縁起説を基本とする。 ばだいだるま また隋以前に菩提達摩 ( 達磨とも書く、ボーデイダルマ、南インド出身 ) の伝えた禅は、その系譜 えのう じんしゅう の第六代の慧能と、同門の神秀が出て、禅宗としてスタ 1 トする。 ぜんむい この時代の末に、密教を擁して、善無畏 ( シ = プ ( ーカラシンハ ) ・金剛智 ( ヴァジラボーデ ふくう イ ) ・不空 ( アモーガヴァジラ ) がインドから渡来し、密教初期 ( 『大日経』・『金剛頂経』をふくむ ) から中期にわたる諸経典・タントラ類を漢訳するとともに、陀羅尼・マンダラなどによる加持 しゅほう 教祈禧ほかの独自の修法を伝え実践した。斬新なこの真言密教は徐々に多大の成果をあげてい「 えしよう 地たが、会唱の破仏 ( 八四五年 ) に会い宗派の形成には達し得なか。た。 実践時代に移るころは、すでにインドで仏教が衰退に向かい、中国への新しい導入もなく、 三中国仏教者の活力も減退して、新風はほとんどみられない。宋 ( 北宋 ) は華麗で雄大な唐文化の 定着に懸命であり、仏教の諸宗も実践に励む。 とじゅんちごん 219

9. 仏教入門

本人にも親しい なお般若経典群はその多くが、いずれも般若波羅蜜経 ( それに摩訶を冠するものも多い ) を名の り、それらの混同を避けるために、その第一章の名称や大小などの別称で呼ぶ。 どうぎようはんにやきよう どうぎようばん 大乗という語の初出は、支婁迦讖訳の『道行般若経』の「道行品」第一にあり、「摩訶衍」 というマ ーヤ 1 ナの音写語として登場する。この第一章は、この経のなかでも最も古い成立 しようほん とされている。ただしここには小乗 ( ヒーナャーナ ) という語はなく、右の経の発展した『小品 こうさん じくは、つ′」 般若経』 ( 羅什訳、四〇四年完成 ) と、別系統の『光讚般若経』 ( 竺法護訳、三八六年 ) になってはじめ て、「小乗」という語があらわれる。 サンスクリット本 ( 八千頌、二万五千頌、二千五百頌、七百頌など、頌とは詩 ) とチベット訳 ( 右の くう それぞれの訳 ) と漢訳との計約七十五種が現存する般若経は、そのすべてが空の思想を説く。空 の理論化はナ 1 ガ ールジュナによって完成されるまで、般若経はかならずしも完全とは評しが とはいえ、固定を排し、実体的な考えも許さないという空の見解がどの般若経にも徹底 しており、そのような空の反復は煩雑を極めるまでに、般若経の隅々にまで浸透する。 その空の実践的なありかたとして、「こころにとどめながら、とらわれない」「執着しない」 ことが強調され、それは初期仏教の無我説に通ずる。実は、部派のうち最大最強の有部の理論 にん が、本来の無我説を縮小して、その適用を人のみに限定し、法については実有を主張し、法の じゅ すみ じつう まかえん 148

10. 仏教入門

と宇治に約十年、越前 ( 福井 ) の永平寺に約十年住し、厳しい実践を休むことなく、行住坐臥の しかんたざ すべてが座禅につらなる只管打坐を教え、和文で『正法眼蔵』の名著を書いた。道元禅は曹洞 えじよ、つ しようぼうげんぞうずいもんき けいざんじようきん 宗と呼ばれて、高弟の懐奘による『正法眼蔵随聞記』は広く読まれる。のちに瑩山紹瑾は『伝 光録』を著わしたほか、総持寺ほか多くの寺を開き、民衆に普及してゆく。 げん なお鎌倉期には宋が元に追われて南方に移ったために、中国禅の高僧の渡来があいつぎ、禅 寺はもとより、一般の日常生活様式にも大きな影響を及ばした。 と、つび 鎌倉新仏教の掉尾を、日蓮の法華宗 ( 日蓮宗 ) が飾る。 そとばう 日蓮は、上述の諸宗祖とは異なり関東 ( 千葉の外房 ) の出身で、はじめ真言密教を、つぎに叡山 かんしゅ に天台を学ぶうちに、末法を看取しつつ『法華経』ただ一つを選んで、故郷に還り立宗を宣一一一一口 し、ただちにその布教に入る。既成仏教のも右の新しい諸宗の広まるなか、日蓮はそれらを げんこう 激しく攻撃し、また著書の『立正安国論』は元寇を予期していわゆる民族主義的な政治色を帯 教びる。その主張も実践も尖鋭なために、伊豆に、また佐渡に流罪という法難を受けるが、晩年 みのぶ 地は温容に転じて甲斐 ( 山梨 ) 身延山の草庵に籠り、江戸池上に没した。 各 日蓮の示した実践は , 岸ではなく現世における救済を、南無妙法蓮華経」の唱題に託すと 部 いう、まったく独自な簡潔性などにより、民衆に迎えられ、関東一円から、やがて京都に普及 第 いくつかの分派を生じて、現在に し、町衆を鼓舞する。なお宗内にはしばしば論争が激しく、 まちしゅう いけがみ 229