思 - みる会図書館


検索対象: 仏教入門
263件見つかりました。

1. 仏教入門

八支はつぎのとおり、また散文経典の説を ( ) 内に示す。 しようけん 正見正しい見解・智慧 ( 四諦の一つ一つを知る ) しようし 正思 正しい思い・意欲 ( 煩悩・怒り・傷害の否定 ) しよう′」 ざれごと 正語 正しいことば ( うそ・悪口・暴言・戯言の否定 ) しよう ) 」う せっしよう 正業正しいおこない ( 殺生・盗み・邪淫の否定 ) しようみよう 正命正しい生活 ( 法にかなった衣・食・住 ) しようしようじん 正精進正しい努力・修行 ( 善への努力 ) しようねん 正念正しい気づかい・思慮 ( 身・受・心への気づかい ) しようじよう 正定正しい精神統一・集注 ( 四種の禅 ) 史四諦八正道は、しばしば中道説とつらなる。 想 思 また四諦説は定型の成立がやや遅いとはいえ、すでに述べたように、釈尊の最初の説法に擬 の 教せられるほどきわめて重要視されて、初期経典全体に浸透して説かれる。それらを集計すると、 ーリ文の計二百六十四経に、漢訳四阿含の計二百七十三経に達する。さらにこの説は、諸部 ン 派の教説の中軸となって、つねにスロ 1 ガンとして掲げられ、そのことは大乗仏教においても 二ほば変わらない。 第 103

2. 仏教入門

ト本が発見公刊されて、研究も深められた。 は漢訳、チベット訳のほかに、最近サンスクリ 上述の諸経典を引用する一」とも多く、それらのサンスクリット文も『宝性論』から知られる。 ただしこの如来蔵思想を継承する学派は形成されず、その伝統の発展はなく、文献類もイン ドには絶える。もっとも、後代に栄える密教の中心になる即身成仏 ( この身体のまま仏となる ) 説は、この如来蔵の流れを汲むと解する余地が残されているかもしれない。 ②唯識 ゆいしきせつ 唯識説は初期仏教以来の伝統である唯心論を受け、直接的には『華厳経』の「三界は虚妄に く、つ ールジュナにいたる空の思 して但だ一心の作るところ」の説にもとづき、『般若経』からナ 1 ガ 史想と縁起説とを活用して構成された。 想 思唯識説は、オプテイミスティクな如来蔵思想とは反対に、心が迷い煩悩にとらわれ汚れてい 教るという実態を、あるがままにきわめてリアリスティク ( 現実的 ) に凝視する。そしてこの唯識 説は、あたかも現在の用語でいえば心理学的な方法によ「て、心と対象との対応に関し、いわ ば乾いた理論のみを駆使しつつ組織づけた体系、と評することができよう。 一一五世紀に完成された仏教独自のこの唯識説は、たしかに、現代のヨ「司、ツ、。 ( ・・の - 精神分析に一 第 脈通ずる個所もある。すなわち、西洋哲学の二千年以上にわたる健康で輝かしい理論体系に隠 173

3. 仏教入門

に自己をよく制御したればまこと得難き主得るなり ( 第嫺詩 ) 汝自己の洲〔依りどころ〕を作れ速やかに努めよ賢くあれ ( 第躅、第詩 ) まこと自己こそが自己の主自己こそが自己の依りどころ あきんど さればこそ自己を制すべし商人の良き馬を ( 制する ) がごと ( 第詩 ) これらに他の用例を加えて、このテクストの無我説を考察してみよう。 何よりもまず、自分がいまここにいて、その内面を、同時に多様に展開する現実への対応を ことばとして口に発し、身体がおこなう。ついでそれらの根拠に踏み 考えて、こころに思、 こんで、執着する自我・自我への執着に突き当たり、それらの脱却・超越・解放・解脱を志向 する。そしてその脱却から解脱までを実現してゆくのは、主体としての自己なのであり、しか 史もその結果としての解脱に到達するのも、やはりこの自己にほかならない。 想 思以上をまとめて記すならば、人間において、その出生からの一瞬ごとのたえざる行為の連続 教の間に、その主体であるアッタンは、日常に対し、また自分において、自己肯定と自己否定と を反復しながら自我を固めてゆく。他方、ついにはその自我を超克する無我を、その自己がな ン イ しとげて、真の主体でありあくまで平安な自己を獲得し、それを依りどころとする。おおむね 二以上が『ダンマ。ハダ』の教える無我説とされよう。 やがて初期の散文経典になると、アッタンはほぼ「自我」に類するものと考えられ、仏教特 あるじ

4. 仏教入門

おさ ①受 ( 感受 ) 、図信、③癡 ( 無知 ) 、④無慚 ( 恥じない ) 、⑤嫉 ( ねたみ ) 、⑥悪作 ( 後悔 ) などがある。 ダルマ じしよう これら七十五法はすべて法として独立に実在しており、自性 ( 実体 ) がある、と説かれる。 ②業 ′」う おこない・行為をインド一般にカルマ ( カルマン ) といし 、業と漢訳され、インドの宗教や哲 学において最重要視されて、今日に及ぶ。カルマは、なす、つくるを意味する動詞クリを語根 りんね とし、この術語はすでに古ウ。 ( ニシャッド中に輪廻思想と関連して説かれる。仏教も業思想の 完成の一翼を担い、ほば部派において達成された。以下に有部説を中心に記す。 しんくい 業は、こころに思 口に発し、身体でおこなうの三種からなり、これを身ロ意の三業 ( それ ぞれ身業・ロ業・意業ないし思業という ) と称する。三業は緊密につながり、たとえば口に発する ことばはかならずこころに思っていて、こころにもないことを口にするということを、本来の 仏教は認めない。 行為は、その一つ一つを各刹那ごとに、未来から現在に導きだして現在化し、それがつぎの 刹那に現在から消えて過去に落ちてゆく。その一つ一つの行為はつねに結果を伴ない、行為そ のものは消えても、結果は余力・余習となって、それがつぎの行為に影響し、ときに制御する。 極端な例をあげよう。手にビストルをとる、その引きがねに指を当てる、指を引く、その指 むざん しつ 120

5. 仏教入門

りゅうじゅ ールジナ ( 龍樹、一五〇ー一一五〇 なかでも、初期大乗経典が出揃ったあとに登場するナーガ 年ごろ ) の確立した空の思想およびその論証は、仏教とくに大乗仏教の誇るべききわめて徹底し た、一種の関係主義 ( 複雑な相互関係における成立を説く。特殊な相対主義ともいえる ) の哲学的思 索のクライマックスを示す。かれにおいて初期大乗はビークに達するので、この四世紀はじめ ごろまでを中期仏教として扱う。 以上の時代を後代から眺めれば、部派ならびに初期大乗が競い合うがごとくみえ、インド仏 教の最盛期を形成する。

6. 仏教入門

された。このことを逆転していえば、仏教を倫理説とみるほどに、仏教は現実中心に徹してい たことを物語っている。 ②こころ 釈尊をふくむ初期仏教のとりあげるテーマ、またさまざまの問いに対するその答えは、その ほぼすべてが「こころ」のありかたを示し、「こころ」にもとづき負っていて、「こころ」によ って立つ。多種多様な現実に対応してゆくのに、その現実に引きずられるのではなく、現実に 対処する「こころ」を何よりも重く強く深くし「かりとみすえて、「こころ」の重さ尊さを語 ノト語も同じ ) とがあり、それぞ 1 リ語もサンスクリ " 史 「こころ」の原語には、チッタとマナス C ハ 想 思れの語根のチットもマンも、ともに「考える」などを意味して、両者の内容も用例もほとんど 教変わらず、とくにインド仏教ではほば同義とみなされる。漢訳では、チッタを心、マナスを意 と訳し分けることが五世紀ごろから目だっけれども、どちらも古い訳には「心意」とする例も ン あり、格別の区分はなされない。 二なお「こころ」の原語には、本来は心臓をあらわすハダヤ ( サンスクリット語はフリダヤ ) があ るが、この語は初期経典ではそれほど重要視されない ( 後代のたとえば『般若心経』の「心」はこ

7. 仏教入門

第一章初期仏教 ①基本的立場 ーリ五部と漢訳四阿含とにより、釈尊にはじまる初期仏教に関して、その基本的立場とみ なされるものを論じ、そのあとに、仏教諸術語の導く諸項目について記す。この基本的立場は、 それ以下の諸項目においても、また仏教の全体を通じても、そのまま一貫する。 初期経典に示される釈尊の教説は、釈尊の側からの一方的な提示という例は少なく、ほば大 史部分は、釈尊を訪ねた人々が問い、それに応じて釈尊が答えるという形をとる。人々の問いは 思多種多彩であり、釈尊はそれらに臨機応変に、しばしば比喩をまじえながら、適切に穏やかに 教答えている。そのような点から、対機説法、人をみて法を説くというありかたが、ことに初期 仏教には明確に特徴づけられる。 ン さらにその問答においては、 う人の現実の苦悩が直ちに治癒されるような直接的な処置や 二方策を、釈尊が講ずるというのではなく、その苦悩に対処してゆく現実的なありかたや態度な どをめぐって解答がなされる。それらを伝える諸資料から、釈尊ないし初期仏教には、現実中

8. 仏教入門

仏教思想史について 本書の第一部に記した時代区分にもとづいて、インド仏教の思想史を以下に述べる。そのさ 、初期仏教はそのまま扱い、中期仏教をさらに部派仏教と初期大乗仏教とに二分し、そのあ とに中期・後期大乗と一括して、合わせて四つに分割したうえで記してゆく。 格別に強調するまでもなく、四章に区分するとはいえ、それらの全体は仏教思想として統括 され、仏教思想史として一貫している。 たとえば初期仏教にとりあげる諸項目、こころ、苦、無常、無我、中道、四諦その他が、初 期仏教のみに問われるというようなことは決してあり得ず、それらは全仏教においてたえず根 本となり最重要視された。あるいはまた、部派仏教の個所に記す業 ( カルマ ) や、初期大乗仏教 に論ずる空などについても、まったく変わらない。 ゆいしき によらいぞうぶっしよう さらには中期大乗の如来蔵 ( 仏性 ) や唯識のような、それまでの術語にはなく、内容も新機軸 であるかにみえる説も、本書のその個所に詳述するとおり、初期仏教、部派、初期大乗の諸思 想を継承して、それの展開のうえに、斬新な術語などによりつつ理論化されたことは明白とい ってよ、 ′」う

9. 仏教入門

このような用例の特徴から明らかなように、無常は、人間存在 ( 実存 ) の最も赤裸々な事実・ 現実をそのあるがままに直接に感性が受けとめ、受けいれ、それに触発されて生じ、またとり わけ深い関心と共感とを伴ないつつ湧き出た、ある種の詠嘆としか表現しようがない。 このような詠嘆は、人間存在 ( 実存 ) の最奥の感嘆詞なのであり、したがって、それが無常の 語に凝縮されても、これは仏教の特殊な術語なのではない。それどころか、無常は、そのよう な術語的発想とはなんのかかわりももたずに、ただ底知れぬ詠嘆にもとづいて、最初期の韻文 経典が人間存在 ( 実存 ) の現実を詠じているなかに、ふとあらわれる。さらに散文経典において も、いわば裸かの無常がそのまま登場している、と評されよう。 史もちろん、このような現実に直結している無常という詠嘆は、おそらく釈尊自身が実際に体 思験し、内省し、自覚したのであろう。同時にまた、釈尊に訴えかけた数多くの悲嘆に釈尊が共 教感しつつ、人間存在 ( 実存 ) をありのまま直視・凝視し、認識し、体得して、その奥底から、そ れは発せられたのであろう。 ン こ、つして無常とい、つに結晶することにより 、いっさいは無常であるとの自覚と共感とにも 二とづく体験が、先の「苦」の項の④にあげた「無常にもとづく苦」に結びつく。しかも右に記 したように、無常は他からの要因によるのではなくて、みずからがみずからに招いており、し

10. 仏教入門

も自己矛盾的である、と表現されよう。 さらに、欲望に関しては、欲望一般ということは無意味であり、現実にはかならず具体的な、 ある一つの特定の欲望としてあり、欲望はつねに個別的という性格をもつ。そしてその特定さ れた一個の欲望が追求され、達成して満たされ、みずから消減するという自己否定・自己矛盾 を進むところに、ただちに別の一個の欲望が生まれ、しかし新たに特定されたその欲望もまた、 同一の軌跡をたどる。 それらを重ね合わせてマクロに眺めた一種の連鎖をめぐって、「欲望は無限」という俗称が語 しかばね られる。とはいえ、それは質的にかならず具体的な特定の欲望と、その一つ一つの屍の累積 とを、本来はナンセンスな量に抽象化した言辞にすぎず、欲望の具体性は、決して捨象するこ 史とができない。 想 思 もとより、欲望はつねに達成されるとはかぎらない。むしろ果たされないケ 1 スのほうが、 の 教はるかに多い。それならば、そのような果たされ得ぬ欲望を、なぜ自分は抱くのか。そのこと に明らかなとおり、果たし得ぬものをみずから欲し望み求めるということそのものが、自己否 ン 定的・自己矛盾的に通じている。 二外に求めた欲望にせよ、内に向かった欲望にせよ、そしてそれが達成されようと、あるいは 第 失敗に終わって挫折しようと、この自己否定的・自己矛盾的という欲望のありかたは