も自己矛盾的である、と表現されよう。 さらに、欲望に関しては、欲望一般ということは無意味であり、現実にはかならず具体的な、 ある一つの特定の欲望としてあり、欲望はつねに個別的という性格をもつ。そしてその特定さ れた一個の欲望が追求され、達成して満たされ、みずから消減するという自己否定・自己矛盾 を進むところに、ただちに別の一個の欲望が生まれ、しかし新たに特定されたその欲望もまた、 同一の軌跡をたどる。 それらを重ね合わせてマクロに眺めた一種の連鎖をめぐって、「欲望は無限」という俗称が語 しかばね られる。とはいえ、それは質的にかならず具体的な特定の欲望と、その一つ一つの屍の累積 とを、本来はナンセンスな量に抽象化した言辞にすぎず、欲望の具体性は、決して捨象するこ 史とができない。 想 思 もとより、欲望はつねに達成されるとはかぎらない。むしろ果たされないケ 1 スのほうが、 の 教はるかに多い。それならば、そのような果たされ得ぬ欲望を、なぜ自分は抱くのか。そのこと に明らかなとおり、果たし得ぬものをみずから欲し望み求めるということそのものが、自己否 ン 定的・自己矛盾的に通じている。 二外に求めた欲望にせよ、内に向かった欲望にせよ、そしてそれが達成されようと、あるいは 第 失敗に終わって挫折しようと、この自己否定的・自己矛盾的という欲望のありかたは
く苦、④無常にもとづく苦、となる。以下はそれぞれについて論ずる。 ①欲望とその変形は、貪欲、愛欲、情欲、愛着、愛執、執着、煩悩などが、諸資料にみえる。 生あるものは、すべてなんらかの欲望をもっており、むしろ欲望に動かされて、そのものは 生きている。そして欲望は本来その充足をめざす。本能的であれ、それ以外またはそれ以上の 欲望であれ、またどれほど小さかろうと、大きかろうと、かならずその達成を求め、求めつづ ナる。 こうして、あるゴールに向かって進んできたその欲望は、そのゴ 1 ルに到達した瞬間、すな わちその欲望が満たされたそのときに、同時にその欲望は消減してしまう。これを図式的にい えば、追求ー完成 ( 満足 ) ー消減となる。どれほど強く、激しく、深く、求めてやまなかった欲 望であっても、それが達成されたその場において、みずから消え生せ、すでにその欲望は存在 していない。 このような欲望のありかたをさらに検討してみよう。 みずからに発して追い求めてきたその欲望は、それがようやく満たされたその地点・時点に おいて、みずから無と化してしまう。さらには、この欲望の無化は、決して他によるのではな く、その欲望そのものに生じ、みずからを否定し去っていることが判然とする。したがって、 欲望そのものは、まさしく否定的であり、しかも自己否定的である、また矛盾的であり、しか
く変わらない。欲望のあるかぎり、それはつねについてまわり、つづいていて、こうして、「自 己の思うとおりにならないこと」である苦は絶えることがない。 ただし一言っけ加えると、右の記述に示されたとおり、欲望が個別的であるのと同じように、 この場合の苦もかならず個別的であって、その一つ一つの苦を、みずから生み、また担う。 なお、この苦に導く欲望を、仏教の術語では煩悩 ( クレーシャ、キレ 1 サほか ) といし これは 日常語としても使われる。そしてあまたの煩悩が列挙されて「百八煩悩」と称するが、実は、 よりいっそう個別的で具体的な煩悩が、凡夫に時々刻々に生じている。 したいせつ この「欲望にもとづく苦」の教えは、後述する四諦説に、そのままとりいれられる。 むみようおろ 図無知とその変形は、諸資料に、無明、愚か、癡、迷妄などとして説かれる。 無知は知の欠落にほかならないが、ここでいう無知は、なんらかのこと・ものを知らないと いう世にいう知識の欠如をさすのではなく、生あるもの、とくに知を特性 ( の一つ ) としている 人間において、その本来的な無知をいう。 知はその性格上どこまでも知ろうとしてはたらき、知のはたらきは通常やむことがない。そ の結果、人間はこれまでに厖大な知のストックを誇り、その知の山はさらにいっそう膨脹拡大 しよ、つとする。 しかしながら、知というはたらきについて考察するならば、それはそのスタートにおいて、 ばんぶ ほんのう
ままに立ちあらわれ、ふるまい、語る。 そのさも 、、問いはこの現実から発せられ、答えもこの現実に即してなされ、終始この現実に 徹して、現実における解決を果たそうとする。釈尊は、総じて仏教は、つねにこの現実を直視 し凝視して、問答も説法も現実からは離れないという立場にもとづいており、それを現実中心 と表現することができよう。 ただしこの現実中心は、現実の外界が意識とは独立に存在していると考える素朴実在論その ままてはもちろんなく、いわゆる功利主義や刹那主義と結びつく現実主義でもない。 また日常 の卑俗な現実に浸りきって、その充足に溺れており、なんらの目標も抱かず、理想も忘れ去っ て、本来の志ももたない、ただ安易で気ままな現実主義でもない。 史その意味において、以上に記したような、ひたすらネガティヴにみずから傾斜し、他からも 想 思マイナスとしてのみ評価されるような現実中心ではなく、それどころか、そのようなものとは 教正反対の、はるかにポジティヴな現実中心と称することができよう。 たしかに、なんびとも、この現世に生きている一個の人間として、さまざまな苦を内に抱き、 ン ほんのう 世俗の欲望 ( 煩悩 ) に一時的に目のくらむことは避けられないであろう。それでもなお、仏教の 二説く現実中心は、その苦をそのあるがままにみつめて、その消滅を、そしてさかんに誘いかけ る欲望 ( 煩悩 ) を自覚して、その超克を、この現実の世界において実現しようとする。
関係的成立という現実のありかたを明らかにしたことに由来するといってよい。そしてたとえ ば苦についてそれが適用されれば、苦諦は集諦に進む。その進行に、先に「無常」の項に記し た「生の法は滅の法」というテ 1 ゼをもちこめば、集諦は減諦に通ずる。こうしてその論理は、 四諦説の成立を促し、さらに一歩踏みこめば、縁起説を迎えることになる。 ところで、「苦は何に縁って生ずるか、苦は老死に縁って生ずる」という句を「苦↑老死」 と略すと、苦↑行、苦↑識、苦↑欲望 ( 渇愛 ) 、苦↑貪りなどの句は、すべてすでに『スッタ ニ。ハータ』中にあり、これに「生の法は減の法」「減するに因を待たず」を導入すれば、右にあ げたそれぞれの減から苦の滅へのルートはスム 1 ズに帰結する。 さらには、これら二支 ( 支はアンガの訳、項と同じ ) 間の縁起は、その一支が他の支と連なる場 史合に、 たとえば「苦↑老死」と「老死↑生」とがあれば、それはただちに「苦↑老死↑生」 想 思というふうに、三支に進展し、さらに三支以上にも伸びてゆく。 教それらの諸支とその連結とが次第に整備されて、一つは、欲望 ( 渇愛 ) から諸支を経て、老死 ↓苦へ、他の一つは、無明 ( 本来的無知 ) から諸支を経て、老死↓苦へという、これら二種の理 ン イ 論づけが果たされ、その二種が合体して、 みようしき 部 無明↓諸行 ( 行は複数 ) ↓識↓名色↓六入↓触↓受↓愛↓取↓有↓生↓老死 第 ( ↓苦愁憂悩悲 ) そく しゅ しよう 107
のニルヴァ 1 ナの往と還とは、こうして二重否定としてはたらき、さらにこの両者の連続は、 えん らせん 循環する円ではなくて、主体的な螺旋を描いて進行し、たえざる上昇ないし深化が示されてい る、と解される。 ニルヴァーナに、ことに。ハリニルヴァーナに、釈尊の死という意味が付与されたのは、元来 「消滅」を意味したことが、煩悩や苦の滅だけではなくて、存在全体の減へと拡大したためで あろ、つ。 このようなニルヴァ 1 ナの内容の拡大ないし転換に伴ない、 ニルヴァ 1 ナを二分して、残余 うよえねはん むよえねはん のあるニルヴァーナ ( 有余〔依〕涅槃 ) と、残余のないニルヴァ 1 ナ ( 無余〔依〕涅槃 ) とが説かれるよ うになる。それは初期仏教の末期から部派にかけての時代にはじまったのであろうが、この残 余とは、すでに解脱している生命体に残る身心作用であり、たとえば釈尊が病いに陥り疲労を 覚えるなど、生理的に苦しむはたらきをさす。 ⑩慈悲 実践をめぐる諸テーマのうち、戒と律、徹底した平等などはすでに論じた。以下には、とく にわが国で主張されることの多い慈悲について記す。 愛という語を欲望の同義語として扱う仏教においては、愛を斥けて、慈悲の語を掲げる。た 114
底深く根をおろしていすわりつづけ、たじろぐことがない。それ故にこそ、執着し、とらわれ、 こだわるのであって、この種の、ある混沌にほかならぬ執着から、個々の具体的な欲望がつぎ つぎと生みだされる。そのようななんとも無気味としかいい ようのない執着のなかで、最も強 烈で頑固であるのが、まさに我執であり、それは、執着のさらに根底を自我が固めていること に・も」づ / 、 0 このような執着ー我執ー自我というルーツを、『スッタニ。ハータ』は明確に指摘したうえで、 それの制御・否定・捨離・超越を説く。以上がこのテクストの無我説ということができる。 このことを日常のごく平明なことばで表現するならば、『スッタニ。ハータ』の教える無我と は、「執着、とくに我執を捨てる」「こだわらない」「とらわれない」と総括されよう。 それよりやや後代に成立し、しかし最も広く知られる韻文経典の『ダンマ。ハダ』においては、 ーリ語 ) のアッタンに、 これまで「自我」と訳してきた原語 C ハ しささか変容が加わる。 すなわち、そのアッタンは、これまでの「自我」のほかに、ときに「自分」が、そして「自 己」と訳すのがふさわしい用例が、ひときわ目だっ。 「最初期仏教の金言的説法の詩集」とも称されるこの『ダンマ。ハダ』に、アッタンが「主体 的な自己」を説く詩は、分散して約二十あまりあり、その例を三つ引用する。 あるじ たれ 自己こそが自己の主他の誰が ( 自己の ) 主ならむ
でにプログラムされている点において、まさしく自己否定的・自己矛盾的であり、それらにも とづく苦を、生あるもの、とくに人間は生まれるときから負っている。 なお仏教でいう「生」は、つねに「生ずる」と「生まれる」であって、「生きる」ではない。 この人間存在 ( 実存 ) にもとづく苦は、先の無知にもとづく苦とともに、きわめて人間的な苦 ともいえよう。またこれらと③との二種の苦は、①の欲望にもとづく苦が具体的・個別的・ 一過的であるのにくらべると、あるいはあまりにも本来的で不可避であり、苦の意識が少ない かもしれない。しかしながら、これらの二苦は、忘れ去るのが困難であって、ほばつねに各人 に付随しており、実はより深く、より強く、「自己の思うとおりにならないこと」という苦の本 質を暴露させる。 ④無常にもとづく苦は、次項に無常を論ずる個所に記す。 以上の苦の論述に明らかなように、苦は生あるもの ( サッタ、サットヴァ、衆生または有情と訳 す ) 、とくに人間に、不可避の必然的なありかたであり、しかも苦における最大の問題は、結局 は、自己に帰する。すなわち、自己が自己に背き、否定し、矛盾して、それを自己がいっそう ふしめ 促進する。それ故にこそ、それぞれの節目において、自己はさらに模索し探究し努力し精励す る。そのようないとなみの総体がまさに生きるということなのであり、そのプロセスを経過し てはじめて、より大きな充実が得られよう。そして、その活動と過程と結果とがさらに拡充し
つきりと使用を区分している。 さらに無常という語に明白なとおり、仏教はその最初期から、自己と世界とをふくむ現実の すべてを、静止の状態ではなくて、かならず運動の相のもとに置いていた、ということができ る。すなわち、仏教には一貫してスタティックな態度は微塵もうかがえず、たえずダイナミッ ゆだ いっさいを生減変化する流動のままに委ねた、と評してもよい クなありかたに終始し、 ⑤無我 無我はまた非我とも訳される。端的にいえば、無我は「我なし」、非我は「我に非ず」であ り、「自我がない」と「自我ではない」とをあらわす。 1 リ語のアッタン、サンスクリット語のア 1 トマンに、 哽無我の原語は、我・自我を意味する。ハ アンまたはニルという否定を示す接頭辞が冠せられる。 教 この教説はすでに『スッタニ。 ( 1 タ』に詳述され、その合計一一四九詩の半分以上の詩が、 仏 直接・間接に無我説と関連する。 ン イ ーダ 1 ナ それらの諸資料に特徴的な点は、執着ないしそれと同義語 ( ア 1 ラヤ、ウ。ハディ、ウ。 ( 二ほか ) の否定を強調する。ここにいう執着は、右に述べた欲望とは異なり、むしろ特定の個別で 第 はなくて、漠として抽象的でありアノニム ( 無名 ) のままに、人間存在 ( 実存 ) の根幹に隠れ棲み、 あら
し得る。 苦の語は、すでに『スッタニ。ハ 1 タ』に頻繁に登場し、ドウッカとその複合語とはこのテク ストに数十回も用いられる。そして『ダンマ。ハダ』をはじめとする諸種の韻文経典に、また散 文経典においても、苦をめぐる例文はおびただしい数に達する。 苦は、このように初期経典中にくりかえし説かれる。そのなかには、日常のいわゆる感覚的 ないし生理的な苦痛 ( 英語のペイン ) もあるとはいえ、むしろ心理的な苦悩 ( 英語のサファリング ) しやば を多く力説している。そして、およそこの世 ( サ ( ーローカ〔ダ 1 トウ〕、娑婆世〔界〕 ) に生きると っ現実が、苦に満ちていることを明白にする。 しかしながら、それら多数の用例を集めたうえで、あらためて考察すると、そこには「苦と といってよい。そこでその全資料にも 史は何か」という設問も解答もまったくなされていない、 想 思とづいて、きわめて簡潔に現代の語彙に要約するならば、「苦とは自己の思うとおりにならない 教こと」といういちおうの定義が得られる。そこでこれを「苦の本質」として掲げ、さらに考察 を進めてゆこう。 ン 数多くの資料を、苦は何にもとづいて生ずるかという視点のもとに整理区分して、そのよう 二ないわば苦の根拠を概括するならば、おおよそっぎの四種になる。すなわち、①欲望とその変 第 形とにもとづく苦、に無知とその変形にもとづく苦、③人間存在そのものないし実存にもとづ