ちゅうがんしようごんろん またシャーンタラクシタの『中観荘厳論』 ( マディヤマカ・アランカーラ ) は、中観と瑜伽行 唯識との融合をはかり、カマラシーラの『修習次第』 ( バ 1 ヴァナ 1 ・クラマ、漢訳は『広釈菩提心 ほっぱだいしん 論』 ) は、仏教に入るときの決意 ( 発菩提心という ) から最終の成仏にいたる修行の道程を示す。こ の二書をチベット仏教はとくに重視する。二人ともに元来は中観派のスヴァータントリカ派 ( 自立論証派 ) の系統に属し、チベット王のテイソンデッ = ン ( 七五四ー七九七年ごろ在位 ) に招か れて同地に赴き、チベット仏教の基礎を築き確立した。 ハリバドラ ( 師子賢、八〇〇年ごろ ) 中観派の重要な人々と著書とを並べれば、つぎのとおり。 げんかんしようごんみよう の『八千頌般若解説・現観荘厳明』、ラトナーカラシャ 1 ンティ ( 十一世紀。チベットでは唯識家 とする ) の『般若波羅蜜多論』『中観荘厳論』、アティ 1 シャ ( 九八二ー一〇五四年 ) の『菩提道燈論』 史など。アティーシャはチベット王に招かれて渡り、チベット仏教をみごとに再興した密教僧で 想 思もある。 ⑦瑜伽行派 瑜伽行派唯識はヴァスパンドウ以後三つに区分される。無相唯識派のグナマティ ( 徳慧 ) とス むしよう ーヴァ ( 無性、五〇〇年前 9 二テイラマティ ( 安慧 ) 、有相唯識派のディグナーガ ( 陳那 ) とアスヴァバ ほっしよう 1 ラ ( 護法 ) とシーラバドラ ( 戒賢、五二九ー六四五年 ) とダルマキ 1 ルティ ( 法称、 後 ) とダルマ。ハ
て、諸煩悩を分析しつっその根原をつきとめ、ヨーガ ( 禅定 ) への沈潜のうちにさとりが得られ 解脱に到達するさまを、きわめて冷静に教える。 ともあれ、唯識にはヨ 1 ガが一貫しているところから、瑜伽行派と呼ぶのがふさわしい げじんみつきよう だいじようあびだつまきよう 瑜伽行派の最初の経典に、『解深密経』と『大乗阿毘達磨経』との二つがあり、唯識の諸術語 を用いている。後者は失われたが、それからの引用が現在の論書に伝えられ、また瑜伽行派の むじゃく 最大の論師 ( のひとり ) であるアサンガ ( 無着、四〇〇」四七〇年ごろ、別説三一〇ー三九〇年ごろ ) しようだいじようろん この論には、アサンガの大乗仏 の主著『摂大乗論』は、この経の一章の註釈にほかならない。 教全般にわたる透徹したさとりと理論とが縦横に展開して、唯識説のみならず、当時の大乗仏 教説の一つのクライマックスを提示する。 もうじき 史一方、『解深密経』は、迷いの現実を直視し、そこにうごめく凡夫の心を妄識 ( 誤りの識 ) と規 想 思定し、さらに生存の根原としての心をアーラヤ識 ( 阿頼耶識 ) と名づけて、それを潜在心、心の無 教意識の領域とみなしている。この経には、そのほか唯識の種々の術語も数多く登場する。 ごしようかくべっ 同時に、この経は「五性各別」を説くことで知られる。 ン イ 仏教の基本であり伝統でもある平等思想が『法華経』や如来蔵経典には一乗説に結実してい しゅしよう 二たが、『解深密経』はそれを不完全と評する。そして、声聞と独覚と菩薩との三つの種性 ( ゴー ふじようしゅしよう 第 トラ、家族、血統をいう。種姓とも書く ) のほかに、進路未定の不定種性と、『大般涅槃経』に問わ 175
しよう ) 」んきようろん いっせんだい れた一闡提という善根欠落の無種性とをあげて、以上の五性の別を主張する。 その説は、インドのカ 1 スト制度が、そのなかの四性とカ 1 スト外 ( アウトカースト ) との五種 を堅持するのに近似し、現実のインド社会の情況をリアルに反映する。この経の漢訳を果たし げんじよう た玄奘は、この経の区別が差別に拡大する可能性を畏れ、この説の扱いに大いに悩んだという。 ほっそうしゅう また唯識説にもとづいて中国に生まれた法相宗は、この影響がうかがわれるのではないかと、 平等説にもとづく天台宗や華厳宗から、激しい批判と攻撃を受けた。 それまで羅列的に記されていた唯識説を総合して体系化したのは、アサンガとヴァス。ハンド ウ ( 世親、天親、四〇〇ー四八〇年ごろ、別説三二〇ー四〇〇年ごろ ) の兄弟であった。 また伝説。 こ、アサンガはマイトレーヤ ( 弥勒、「ナータⅡ大師、尊」をつけることもある ) の教えを 受けたといわれるために、マイトレーヤを瑜伽行派の祖とする説が古来伝わる。中国でも、チ だいじよう べ ノトでも、マイトレーヤの著作とされる五種の論書中の詩が知られる。そのなかで、『大乗 ちゅうへんふんべつろん 荘厳経論』と『中辺分別論』との二つに説かれる詩が、中国とチベットとの伝承において共 ゆがしじろん 通する。また玄奘訳の『瑜伽師地論』 ( 『瑜伽論』と略 ) 百巻がマイトレ 1 ャ著として中国で重要視 されたものの、この大著の全体がひとりの著者によるとは、現在は承認されていない。なおこ のなかの一部のサンスクリノ ト本が最近発見・公刊されている。 ともあれマイトレーヤに関して記す文章には伝説的な要素が多く、神秘性もまじり、実在を みろく 176
い認識に堕してしまう、と説き、そのような完全な認識だけが記憶される、と主張する。 ぎじよう 紀元六七一ー六九五年に南海を経てインドに渡りナーランダ寺に学んだ義浄は、その旅行記 なんかいききないほうでん う。「小乗」は大衆部 『南海寄帰内法伝』に当時のインド仏教の情況を伝えて、つぎのようにい と上座部と有部 ( 根本説一切有部 ) と正量部の四部派、大乗は中観と瑜伽の二派、大乗と小乗との 区分は不定、戒律は同じ、ともに四諦を修行し、とくに菩薩を礼拝し大乗経を読むのが大乗で あり、小乗はそれをしない。 すでに瑜伽行中観派について記述したとおり、シャ 1 ンタラクシタ以降は中観と唯識との融 合がはかられており、さらにそれらに密教が加わって仏教減亡までインドに学ばれ、それらの 大部分がチベットに伝えられて今日に及ぶ。 思⑧仏教論理学と認識論 インドでは仏教誕生以前から対論や論争が実にさかんであり、それが論理学の形成を促した。 このことは古代ギリシアと類似し、いわゆる論理学が組織的に研究されてその体系を確立した のは、人類史上ギリシアとインドに限られるといってよい。その論理学を、仏教では「因 ( 理由 しようり いんみよう ートウヴィドャ 1 、因明 ) と、インド哲学ではニャーヤ ( 正理 ) と呼ぶ。 二命題 ) にもとづく学」 ( へ 仏教論理学の歴史も古い。二世紀ごろの成立と推定される医学書の『チャラカ本集』、漢訳の 201
しよさ ぎよう 分類にしたがって、①所作 ( クリャー ) 、行 ( チャリャー ) 、③瑜伽 ( ヨーガ ) 、④無上瑜伽 ( アヌッタ ラ・ヨーガ ) の各タントラの四種に分ける。 このうち、①はいわゆる雜密、図の代表が『大日経』、③の代表が『金剛頂経』で、『理趣経』 もこのなかに入る、④の代表に『秘密集会』のタントラがある。④には後期の諸テクストがあ 密教ではこれを最高とする。この④では、種々の特質のうちヒンドウ教から採用したシャ みようひ セックス クティ ( 性のカ ) が明妃として活躍し、いわゆる左道密教を開拓する。それの進展したものは、 チベットに伝来するが、中国には伝わらず、したがって日本の密教ともつながらない。 りゅうみよう 密教の開拓者とされるナーガールジナ ( 龍猛、七世紀前半 ) は、その実在がきわめて疑わし しかし後期密教の祖であるインドラプフ 1 ティ ( 八世紀 ) は多くの尊崇を集める。 史密教の全体を通ずる諸特徴をつぎの三つに概括して示そう。 想 思第一に、大日如来の本尊および多数の諸仏諸尊を祀り、従来の仏教には登場しない多くの明 教王 ( 代表は不動明王 ) 、仏教外の諸神 ( Ⅱ諸天 ) 、鬼神、神将、諸聖者まで取りいれて、それらを大 ′」んげ 日如来のあらわれ ( アヴァターラ、権化と訳 ) とし、または外護者として扱う。密教はこれらの全 員が勢揃いした一大。ハンテオンを築きあげて、これがマンダラに表現される。いわばマクロ 二 ( 極大 ) とミクロ ( 極小 ) とを一つにしたような宇宙を構想して、それを直観によってとらえ、ま たそれが具現する秘儀にみずから参加しようとする。 げ ) 」しゃ ゆが 195
次 第二部インド仏教の思想史・ : 仏教思想史について 第一章初期仏教 : ①基本的立場②こころ③苦④無常⑤ 無我⑥三法印⑦中道⑧四諦八正道⑨ 法⑩十二因縁 ( 縁起説 ) ⑩ニルヴァーナ ⑩慈悲 第一一章部派仏教 ①法②業③時間論 第三章初期大乗仏教 ①大乗の諸仏②大乗の諸菩薩③初期大乗 ールジュナ 経典④ナ 1 ガ 第四章中期・後期大乗仏教・ ①如来蔵 ( 仏性 ) ②唯識③如来蔵思想と唯 識説との統合④仏身論⑤密教⑥中観派 ⑦瑜伽行派⑧仏教論理学と認識論 169 65 58 131
には公開せず、一般の介入を認めないところに、秘密仏教の名の起原がある。 それらはおそらく四、五世紀ごろから大乗仏教に混入してゆくが、かならずしも主流とはな四 げんじよう ぎじよう らず、寺院も採用せず、七世紀前半にインドに旅した玄奘も、同後半の義浄も格別記録してい 密教は正確には純正密教 ( 略して純密 ) と称し、その成立は七世紀半ばの『大日経』の出現に ぞうみつ よるとされ、それまでの密教的な諸種を雑密と呼んで区別する。 だいびるしゃなぶつ 『大日経』は、釈迦仏ではなくて大毘盧遮那仏すなわち大日如来の説法であり、その聴衆も 場所も特殊に限定されて、他の大乗経典 ( いわんや初期経典 ) とは、形式がま「たく異なる。しか しその教えの内容は、大乗仏教の教理とくに『華厳経』や空を説いた中観や唯識などの諸思想 を継承して、基本的には変わらない。 ちゅうがんはゆがぎようは おそらく後期大乗仏教の二大潮流である中観派と瑜伽行派との人々のあいだで、密教的な行 事がひそかにおこなわれ、次第にそれが数を増して、前述の特定のエクスタシイという神秘体 験をもっグループが生まれ、栄えて、密教はある意味で独立し進展したと推定される。 ぜんむ 『大日経』は、中インドから長安に渡来した善無畏 ( シ = ブ ( ーカラシン ( 、、 六三七ー七三五年 ) が七二四年に漢訳した。サンスクリッ ト原典は未発見ながら、一部が他の経や論に引用され、 チベット訳が完備する。この経は大日如来の成仏・神変 ( 神通 ) ・加持 ( 支配する力、、神秘的な呪 じゅんみつ
ここにいう無分別は、現在の日常的な用例とは正反対であり、無分別智こそが最も崇高な知 しんによ にほかならず、真如 ( タタター、ありのまま ) とも呼ばれる。その智は、それまでの知がまったく てんえ 別の状態に転化すること ( ア 1 シごフヤ・。ハラーヴリッティ、転依と訳 ) によってのみ可能であり ( この理論は初期仏教の十二因縁説における無明から明へのひるがえりを精密化している ) 、別名を転 じきとくち 識得智ともいう。この智はすべての汚れを離れ、思惟を超越し、善であり、永続し、歓喜に満 ち、解脱していて、偉大な聖者 ( ムニ、ブッダと同じ ) の法と呼ばれる、としてこの書は終わる。 しかも以上は瑜伽行すなわちョ 1 ガの実践において、はじめて到達されるとして、この派の 人々は、唯識説を磨きつつ実践に専念し精励した。 いずれにせよ、外界 ( 対象 ) の存在を認めず、すべてを識の表象にとりこむことは、その識が 個別的である以上、その識に映ずる外界も個別的となり、他者との共通性はすべて失われて、 いわんや普遍妥当性は形式にのみきわめて熱心であり、しかしその内容にはまったく関心がな 、、いわば数学と通じ合うということになろう。 この考えは、たとえばライプニツツの説くモナッド ( 単子 ) に類似するが、かれはいわゆる予 定調和を立てて、単独を全体 ( 普遍 ) に調整している。唯識説をもしも極論すれば、すべてを個 人が負うことになって、それはキルケゴールのいう「主体性が真理」よりもさらに厳しい。あ そう るいは、躁と鬱とのいずれかで自己も世界も一変する心身症を治療して平常に戻そうとする精 うつ てん 182
チャリャーヴァターラ、邦訳『悟りへの道』 ) 『大乗集菩薩学論』 ( シクシャーサムッチャヤ ) の著があ り、ともに六波羅蜜の修行を解説し奨励し、また他者への奉仕をとくに強調する。 他方、スヴァータントリカ派は、スヴァタントラの語が自立や自起と訳されるように、自力 で活動する意であり、みずからの空の立場を充分にねりあげた論式により主張する。ここには じん 他者と共通する認識論や論理学への配慮があって、これは後述する同時代のディグナーガ ( 陳 にたい 那、四八〇ー五四〇年ごろ ) の仏教論理学に通ずる。ただしバヴィヤは『中論』の重視する二諦 三つの真理 ) に関して、第一義諦にはことばが達し得ず、論式を世俗諦のみに限定する。かれ ちゅうがんしちゃくえん には右の『中論』の註のほか、『中観心論頌』とその自註の『中観思択焔』 ( タルカジヴァ 1 ラ だいじようしようちんろん ー ) 、また『大乗掌珍論』などがある。 右の二派の論争は暫時つづくが、やがて消え、中観派そのものが、部分的ながら唯識の思想 を受けいれ、一般に瑜伽行中観派と呼ばれる派があらわれる。これを果たしたのが、 タラクシタ ( 寂護、七二〇ー七九〇年ごろ ) とその弟子のカマラシーラ ( 蓮華戒、七五四ー七九七年ご ろ ) であり、前者が三六四〇余の詩を、後者がその註釈を書いた『真理綱要』 ( タットヴァサングラ ハ ) という大著がある。この書は、サンスクリット本二十六章 ( チベット訳は三十一章 ) にわたっ て、当時繁栄したインド正統哲学の諸学派の批判、論理学をふくむ仏教諸学説を綿密に考察し、 最後に一切智者 ( サルヴァジュニヤ ) を論証する。 な じゃく′」 198
げじんみつきよう ごしようかくべっ 先導した『解深密経』には五姓各別 ( 強固な差別思想 ) の教義があり、仏教の目ざす平等に達する く、つ ためには、空の思想による逆転を必須とした。 なお、極言すると、ともすれば、如来蔵説は理想を追って普遍性に、唯識説は現実に迫って あらた 個別性に傾く ( ただし両者ともさとりに向かうことは更めていうまでもない ) とも、また中国の古代 思想ふうにごくおおまかに表現すれば、如来蔵は性善説に、唯識は性悪説に配置されよう。 唯識の分析理論は学問としても精緻を極め、その教学上には「やがて認識論、同時にはそれ を必要かっ充分に表現し伝達する論理学が、優れた学者たちにより構築され進展する。しかも はなばな それは、四世紀以降に華々しく展開したインド正統哲学 ( これには六種の学派があり、六派哲学と 称する ) の諸賢人との論争も不可避であり、むしろそれを経過して双方とも一大飛躍をとげる。 仏身 9 ツダカーヤ、仏の身体 ) 論は、釈尊の入減直後よりおこり、初期仏教から中期仏教にか 。 ) ほづしん けては、釈迦仏のみに着目して二身説 ( 色身ともいわれる肉身と、法そのものを体としている法身と 史 教の二つ ) に終始していたが、多数の大乗諸仏が登場し活躍する場面を迎えて、後述する三身の展 開が説かれ、とくに瑜伽行派において理論化された。 ン これら三つの思想の詳細は、第二部に説明しよう。 一七世紀以降の後期大乗は、一部に密教からのたとえば方便重視を受けいれながら、かってナ くうがん ちゅうがんは 1 ルジュナの説いた空観の再興があって、中観派と呼ばれる。中観と唯識とは、おりから しきしん