略年表① インド , 東南アジア , 中国 , 朝鮮 , チベット 前 1500 頃 1000 頃 463 頃 327 280 頃 268 100 頃 前後 1 側頃 後 100 頃 129 頃 150 頃 200 頃 320 370 頃 370 ー 450 頃 390 頃 400 頃 401 415 頃 500 頃 アリアン人がインド進出 『リグ・ヴェ ーダ』成立 11 ディグナーガ ( 陳那 , 480 ー 540 頃 ) ーリタ ( 仏護 , 470 ー 540 頃 ) ブッダノ ブッダゴーサ ( 仏音 ) がスリランカへ 鳩摩羅什 ( クマーラジーヴァ , 350 ー 409 頃 ) が長安到着 法顕 ( 339 ー 420 ) のインド旅行 ( 399 ー 414 ) ヴァスノヾンドゥ ( 世親 , 400 ー 480 頃 , 別説 320 ー 400 頃 ) アサンガ ( 無着 , 390 ー 470 頃 , 別説 310 ー 390 頃 ) 朝鮮半島 ( 当時は三国 ) に仏教公伝 中国に道安 ( 312 ー 385 ) , 廬山慧遠 ( 334 ー 416 ) 後期仏教 , 中期大乗へ移る グプタ王朝成立 , 六派哲学さかんになる 仏像彫刻があらわれる ナーガールジュナ ( 龍樹 , 15Q -250 頃 ) 仏典の漢訳はじまる クシャーナ王朝カニシカ王即位 ( ー 153 在位 ) アシュヴァゴーシャ ( 馬鳴 , 50 ー 150 頃 ) 中国に仏教伝来 大乗仏教おこる ストゥーノ、 。 ( 仏塔 ) 崇拝が栄える カーティャーヤニープトラ ( 迦多衍尼子 ) 部派仏教確立 スリランカへ仏教伝来 マウリヤ王朝アショーカ王即位 ( ー前 232 在位 ) 教団の分裂 ( 根本分裂 ) , 中期仏教へ移行 アレクサンドロス大王がインドに侵入 釈尊誕生 ( ー前 383 頃 . 別説前 565 ー 486 ) バラモン教とカースト制度はじまる
行 ( サンカーラ、サンスカーラ ) 潜勢的な形成力。こころの能動的なはたらき 識 ( ヴィンニャーナ、ヴィジ、ニャーナ ) 対象をそれぞれ区分して認識し判断するはたらき げんに ぜっしんい ろっこん 六入は六処・六内処ともいも 眼・耳・鼻・舌・身・意 ( こころ ) の六つをさして、六根 ( 根は しき しようこうみ ろっきよう ノーン、ドリ・ ヤ、器官 ) ともいう。それぞれが色・声・香・味・触・法という六つの対象 ( 六境、六外 処ともいう ) に対応しており、この各々が眼識・耳識・鼻識・舌識。身識・意識という認識とし てはたらく。 六入と六境とを合わせて十二処、さらに六識を加えて十八界 ( 界は要素の意 ) と称する。 五蘊は仏教独自の説で、その成立も古く、六入説はそれよりもやや遅れるとみられる。初期 仏教はもとより、部派でも大乗でもつねにこの二つの術語が用いられ、各々が「一切」をあら 哽わす。換一言すれば、この世のすべては五蘊ないし六入にほかならないと全仏教は説く。 思法には右に記したとおり、教えや聖典の意もある。三宝帰依という全仏教史と全仏教徒とに 教共通する定式があり、その三宝にふくまれる法宝は、まさに教法に相当する。また経 ( 仏典 ) を 法と呼ぶ例も非常に多い 本書の冒頭に述べたように、仏教という今日の日常的表現は明治以降で新しく、江戸時代末 二期までの千数百年間は仏法または仏道と称した。このことは現在でも一部に根強く残る。 いっさい 105
ぼだいさった ボーディ・サットヴァを菩提薩垣と四文字で音写する例もあるが、その数は少ない。その四 文字の短縮が菩薩ともいわれ、また先にブッダ↓プトのケースと同様、ポ 1 ディ↓ポ 1 ト↓ ボ 1 、またサットヴァ↓サ ット↓サと語尾が脱落し、その二つを合わせてポーサとなって、 それの音写とも説明される。なおインドにおいて菩薩という語は、仏教のみが用いる。 菩薩の語義は種々に説かれるが、おおむね「菩薩は智も徳もすべてに傑出し、現在はまだ仏 ではないが、かならず仏になる ( 成仏、作仏という ) ことが確定している候補者」とされる。そ の初期には「未来に成仏確定」が重要視されたが、やがてはたんに「成仏の候補者」として扱 われる。この間の経緯を中しに、以下に述べよう。 菩薩という語は初期仏典にも登場し、たとえば『スッタニ。ハータ』第詩に一例がある。有 史部系の『中阿含経』と『雑阿含経』 ( 後代に挿入された「阿育王伝」の個所を除く ) には、菩薩という 想 ーリ四部と漢訳の他の二つの阿含経にもまた律蔵にも、しばしばみえる。 思語は登場しないが、。ハ 教諸資料を厳密に検討した現在の文献学は、つぎのように説明する。初期仏教の最初期から前 半までは、菩薩という語は存在せず、右の初期仏典にみえるのは後代の編集時の挿入であろう。 ン ノー やがて釈迦仏の本生譚 ( ジャータカ ) の類や仏伝などの諸文献が創作された過程においてはじめ 二て、菩薩という語が生まれ、それは碑の銘文に立証される。すなわち、サ 1 ンチーその他の最 つら 第 ノ ) を仏教彫刻が飾り、それらのいくつかには簡略な仏伝が連なるほか、当 古の仏塔 ( ストウ 1 。、 じようぶっさぶつ 137
プロログ フロロ 1 グ ①「仏教」という語 現在わが国で常用されている「仏教」という語は、明治時代にはじまり、それ以前の千余年 間は仏法や仏道などと呼ばれた。 けごんしゅう びどんしゅう 中国「は〈 0 は多く仏家と称し、やがそ 0 な〈」天台や華厳宗など ( 古く」毘曇宗 ~ 地 論宗など、隋代以前 ) の諸宗が創られて、その各々の教えをそれそれ「宗教」と名づけ、この呼称 は日本にも広く流布した。すなわち、仏家や仏法に多くの宗教が属していて、その歴史も千年 以上に及ぶ。中国にはまた、仏教の内実にもとづいて、古くは道教と訳した例もある。現代日 本における「仏教」の語の浸透とともに、十九世紀末からは、漢字文化圏一般にこの語が普遍 化し、同時に、英語のレリジ = ン ( この語にも変転の歴史がある ) の訳語として「宗教」の語が転用 一されると、逆にそのなかに仏教がふくまれるようにな「て、現在にいたる。 インドでは古くから今日まで、創始者であるブッダにちなんで、、、 ( ウッダの語が慣例となり、 それはブッダの形容詞形であり、「ブッダに属する」「ブッダの信奉者」をあらわす。いわゆる ぶつか
によぜご でよく知られ、『ウダーナ』 ( 自説または感興偈 ) 、『イティヴッタカ』 ( 本事または如是語 ) 、『テーラ ほんじよう ガータ 1 』 ( 長老偈 ) 、『テー丿 ーガ 1 タ 1 』 ( 長老尼偈 ) 、『ジャ 1 タカ』 ( 本生物語 ) もみのがしがた 小部を除く。ハ ーリ四部と漢訳四阿含とは、右の表の各々ごとに大綱はほば共通するものの、 細部には異同がかなり多く、まったく一致するものは皆無といってよい。両者の各経の比較研 究において、双方に共通するものは、その原型がおおむね部派分裂以前の成立とみなされよう。 また漢訳仏典は、①年代がほぼ明確、しかも古い、書写がその当時におおよそ固定などの利 点があり、このことは後述の大乗仏典にも通ずる。 マウリヤ王朝滅亡のあと、西北インドにギリシア人があいついで国を建て、そのひとりメナ ンドロス王 ( 前一六〇年ごろ ) は現在のアフガニスタンからインド中部までを支配した。この王 なせんび は公式にはギリシアの神を信奉していたが、仏教への関心も強く、仏教僧ナ 1 ガセーナ ( 那先比 史 教丘 ) と二日間対話をおこない、三日目に仏教徒にな「た、と仏教側の資料は伝える。 1 リ語の『 ミリンタ王の この対論集は。ハ ン ミリンタ。ハンハ』 ( 尸い ) 、漢訳の『那先比丘経』として 現存し、そのなかで両者の合致する個所は古い。このテクストでは、。 キリシア対インドの対決 一が、きわめて興味深い なおアショーカ王の時代に仏教教団が派遣した伝道師のなかにギリシア人の比丘がふくまれ、 かんきようげ
④仏身論 釈尊の成道と説法に源をもっ仏教は、当初は釈尊と仏法 ( 仏の教え ) とを、やがてはサンガ ( 仏 教教団 ) を加えてそのよりどころとし、この三つを宝 ( ラトナ、ラタナ ) と呼び、仏宝と法宝と僧宝 との三宝が仏教の中心になる。その後二千五百年あまりの歴史を刻んで、現在は多様に分かれ た仏教徒が世界中に散在しても、三宝帰依は全仏教に共通して動かない。 仏宝は三宝中の第一を占めるが、仏は本来の仏教にあっては釈尊ひとり ( 釈迦仏のみ ) であり、 当然のことながら釈尊入滅後には仏の現存在そのものが疑われることになる。 そこで初期から部派にかけて、仏身 9 ツダ・カーヤ ) が問われ、それには、肉体を有する色身 ほっしん しようじん ・カーヤ、肉身、生身ともいう ) と、全体が法からなる法身 ( ダルマ・カーヤ、理身ともいう ) 史 ( ルー。ハ 思との二種を説く二身説が生まれて、この説が初期大乗まで継続する。なお、カーヤという語に 教は、身体のほかに、本体や集合などの意がある。 大乗仏教の登場は大乗諸仏により進められ、そのなかで大乗経典を創作した無名の諸仏を除 ン くあまたの諸仏は、いわば法身仏の出現と解してよく、とくに『華厳経』ではその中心の毘盧 二舎那仏を法身と呼んでいる。 第 そのほか、あるいは成立の古い過去七仏をはじめ、未来仏の弥勒仏、また薬師如来や阿閾仏 しきしん 185
活躍する法師 ( ダルマバ 1 ナカ ) に結びつけることは不可能であり、いわばュニークな一種の前 衛的な運動を推進したというにとどまる。後述するように、初期大乗経典では仏塔供養を離れ て経典中心へと移行している。 ③仏教の拡大普及とともに、あまたの信者に訴えるべく、種々の文学活動がさかんになる。 それらはいちおう讚仏文学と仏伝文学とに分けられるが、またしばしば混同される。 小部に、計五百四十七話から成る『ジャータカ』や、三十五 讚仏文学には、たとえば。ハ 話をふくむ『チャリヤ 1 ビタカ』がある。 ぜんしようほんじよう これらは、釈尊 ( ときに仏弟子 ) の前生 ( 本生ともいう、いわゆる前世 ) を主題とし、おそらく当時 の民衆に広く知られていた寓話や伝承などにヒントを得た物語から成る。そして、その前生に 献身ないし捨身といった、おそらく仏教思想史上はじめて他者救済を掲げたさまざまな善業を ー丿ーの主 なしとげ、その報いとして、今世に釈尊 ( ときに仏弟子 ) に生まれたと説く。このスト 史 やしゃ 教人公には、王や仙人をふくむ人、鹿や象や牛や猿その他の獣類や種々の鳥類、神や夜叉 ( ヤクシ たぐ ヤ、特殊な半神 ) などが当てられ、民衆に親しまれた。なおジャ 1 タカの類いの作品はその後も ン 続々と生まれ、大乗仏教の初期・中期に及ぶ。 一仏伝文学は、釈尊の誕生から入減までを文学作品として描く。 初期仏教当時には仏伝への関心はほとんどなく、諸経典に釈尊のさりげない自伝的な回想や はっし
時の碑銘が刻まれている。 なお仏教彫刻の初期においては、ブッダの像は未だみられず、空白か、または数種のシンポ ル ( 仏足石、菩提樹、法輪など ) で表現される。いわゆる仏像の出現は、北西部のガンダ 1 ラと中 インドのマトウラ 1 のいずれにしても ( どちらが古いかの決定は現在も困難 ) 、紀元後一世紀末な いし二世紀以降とされる。 たとえばアショ 1 カ王が釈尊誕生地のルンビニ 1 園に建設した仏塔に、またバ 1 ルフト仏塔 らんじゅん ~ 前二世紀時代の仏伝が彫刻されており、その碑銘には、入胎や誕 の塔門と欄楯などに、前三 生の場面に「世尊」 ( バガヴァン ) という語が用いられていて、決して菩薩とは記さない。 本来、釈尊を世尊と呼ぶのはさとり、成道を得たのちであり、入胎や誕生などの成道以前は、 1 ルタ ) でな 世尊でも釈尊でもなくて、たんにゴ 1 タマ ( ・シッダッタ ) またはガウタマ ( ・シッダ ければならぬ。それにもかかわらず、右の銘文に「世尊」と刻んだのは、すでに仏伝は各種知 られてはいても、「菩薩」という語の未成立を物語る。 また伝統保守の有部系の『中阿含経』には、釈尊が往時を述懐して「私がもとまだ無上の正 しようしんどうじ ほんみとくかく しい道をさとることができなかったとき」 ( 「我本未得覚無上正真道時」 ) と説く。 これらの資料に対して、それらにそれぞれ相当する現存の。ハーリ文、漢訳、サンスクリット 語文献 ( 四部と二つの阿含経など ) には、すべて「菩薩入胎」「菩薩誕生」「私がまだ正しいさとり 138
仏教思想史について 本書の第一部に記した時代区分にもとづいて、インド仏教の思想史を以下に述べる。そのさ 、初期仏教はそのまま扱い、中期仏教をさらに部派仏教と初期大乗仏教とに二分し、そのあ とに中期・後期大乗と一括して、合わせて四つに分割したうえで記してゆく。 格別に強調するまでもなく、四章に区分するとはいえ、それらの全体は仏教思想として統括 され、仏教思想史として一貫している。 たとえば初期仏教にとりあげる諸項目、こころ、苦、無常、無我、中道、四諦その他が、初 期仏教のみに問われるというようなことは決してあり得ず、それらは全仏教においてたえず根 本となり最重要視された。あるいはまた、部派仏教の個所に記す業 ( カルマ ) や、初期大乗仏教 に論ずる空などについても、まったく変わらない。 ゆいしき によらいぞうぶっしよう さらには中期大乗の如来蔵 ( 仏性 ) や唯識のような、それまでの術語にはなく、内容も新機軸 であるかにみえる説も、本書のその個所に詳述するとおり、初期仏教、部派、初期大乗の諸思 想を継承して、それの展開のうえに、斬新な術語などによりつつ理論化されたことは明白とい ってよ、 ′」う
こんじき 旋状の髪 ( らほ 3 、金色の身体、指のあいだの水かきその他が考案される。また仏のみの十八 ふぐうぶつばう 不共仏法 ( 不共は共通の否定で、仏だけの意 ) は十力や大悲をふくむ。 以上のあれこれは、想像力豊かで斬新な文学者たちの仏教への参加によって、文学的効果を 第一義としてかなり自由に構想され、創作されたと推定される。それらがかならずしも仏教の アマチュア 教義に制約されず、むしろ教義をひろげてゆこうとするところは、、わば素人に近いことによ かえ って却って成功をみた。しかし同時に、 いったんこれらの型と枠とが決められると、ほとんど それに固定して、同類のモティーフの同種の物語や作品の反復が目だつようになる。 みぢか ともあれ、讚仏と仏伝との文学により、釈尊への関心がインド人一般に身近になり拡大して、 仏教徒の急速な増加を促したことは、疑う余地がない。 おそらく釈尊Ⅱ釈迦仏の前生譚から一歩踏み出して、別の名称をもった仏がたてられる。ま かしようぶつ ず一代まえの迦葉仏が生まれ、さらにその前生へと遡って、究極は、最古の毘婆尸仏にいたる 史 教「過去七仏」が説かれる。この「七」の数は『リグ・ヴ = ーダ』の説く「七人の仙人」の影響 ー丿のイシ・サッタ ンがあるともいわれ、あるいはまた第七仏 ( すなわち釈迦仏 ) をあらわす。ハ かしようぶつ イ マが「仙人の上首」 ( イシ・サト・タマ ) と解釈される可能性も考慮されよう。なお迦葉仏より一 くなごん 一代まえ、また毘婆尸仏からは第五仏に当たるコ 1 ナ 1 ガマナ ( 拘那含 ) 仏の名称が、アショーカ 王碑文に刻まれており、過去仏信仰の古さを傍証する。 びばしぶつ じゅうはち