枚程度のあまりにも簡単なものやインターネットからのコピペだけのものでは評価は低くなる。発表 時間によって枚数は異なるが、五分に一枚程度は用意したいものである。 また、担当学生以外の学生は発表等を聞きながら、必ず質疑に応じるよう努めなければならない。 質問を求められると、「特にありません」、「大丈夫です」と答えて回避する学生がいるが、これでは 何も聴いてませんでしたと露呈しているようなものであり、当然、教員からの評価は低くなる。質問 がないのは聴いていないだけでなく、何も勉強していないことの証になってしまうからである。自分 で勉強している事柄は質問したいことが多いはずである。最低でも感想程度を述べる必要がある。 そして、ゼミでは学生同士のつながりも大切になることから、合宿や見学等の学外学習の機会が設 けられることが多いが、中には何かと理由をつけて欠席したがる学生がいる。しかし、学生同士の交 流は日常の授業よりも、そうした学外学習の場で深められるので、その機会を逸すると他の学生との 識 常関係がうまくいかないことが少なくない。むろん教員との関係も同様である。したがって、これら学 会 社 外学習に欠席すると学生本人に不利になる可能性があるので、ゼミには学外学習が不可欠だと認識し、 の 活その機会には必ず参加するよう努めたい。そうした機会が苦手ならば、選択科目のゼミは履修しない 大方かよいだろう。 座 講
の話し合いによる解決や第三者のもとでの解決が図られる ( 裁判外の紛争処理方式【と ternative Dis ・ pute Resolutions; しかし、不調に終わった場合、この問題は「法による解決」、「法的手段に よる解決」 ( 法の実現 ) にもち込まれることになる。法の実現は、 ) しうまでもなく裁判という制度に 委ねられる。今日、われわれが裁判の当事者になれば、裁判所が法・法律を適用して下す判決に拘束 されることになる。法・法律を無視したり、それに違反した者は誰であれ、裁判所に訴えられる可能 性があり ( 「法の不知は許されない」 ) 、そうなった場合、判決に従わなければならない。刑事事件で有 罪判決を受ければ懲役刑や罰金刑に処せられることになるし、民事事件で敗訴すれば、損害賠償など が義務づけられることになる。 このように、法的解決を与えることによって法の遵守 ( 「法を守れ」 ) を強制する裁判所は、それ自 体、一つの国家機関である。したがって、「法の内実は国家による実力の行使」ということができる。 しかし、法が国家の物理的な強制力Ⅱ実力行使を根拠づけ、正当化する反面、同時にそれを制約する 働きをしていることも忘れてはならない。国家・国家機関・公務員による権力の行使 ( 裁判手続き、 犯罪の捜査・取調べ、税金の徴収や使い方などなど ) は、恣意的に行われてはならず、法が要請する内 容を厳しく守ることも、法は強制しているのである。 2 。 6
のためには、物理的に大きな声でなければならないということが了解できるであろう。 フォーメーションとコンデ第二の点 ( ポジションの確認 ) について、上司に「おはようございます イションのための一次情報と「挨拶」をすると、通例、「おはよう」という挨拶が返ってくること があるが、これとは逆に、上司から「おはようございます」と「挨拶」をされて上司に「おはよう」 と「挨拶」を返す企業人よゝよ 。しオい。なぜなら、「挨拶」という行為は、組織人としての関係を維持す るための儀式、社交的儀礼の意味を持つからである。この例では、挨拶という行為に、職場での上司 と部下との関係の確認作業が埋め込まれているということである。 そこで、当該部署やスタッフ同士で挨拶をしているところに立ち合うと、その人たちの当該部署に おける組織人としての関係が類推できるので、周辺にいる人たちは具合がよいのである。 この援用として、企業によっては、世間一般で用いられている「挨拶」用語とは異なったその会社 識 あんしよう 常独特の「挨拶、用語を用いるところもある。社訓や標語を音読したり暗誦したりすることも含めて、 会 「これらことは、当該企業にとってはそれなりに意味のあることだと理解されるのである。 の 会第三の点 ( コンディションの確認 ) について、上司は、毎日業務を開始するにあたって当日のチー 企ムのフォ 1 メーションをそれなりに思量している。当日のチーム・メンバーのコンディションに関す 2 る最初の一次情報が「挨拶」である。上司は、日々の「挨拶」のやり取りを通して、スタッフの表情 講や言葉の抑揚などを観察しながら、その日の仕事の準備状況や取組体制を思量しているのである。
別の部署の仲良しグループで昼食時に談笑するなどは、インフォーマルなコミュニケーションの典 型例であろう。また、例えば、同じ職場で、一つのグループが平準以上のよいパフォーマンスをあげ るような場合には、こうしたインフォーマルな組織の機能が発揮された結果だとみることもできる。 このように、実際の企業力は、フォ 1 マル組織だけで完結するものではなくて、インフォーマル組 織の機能も重要と考えられているのである。社風とか、企業文化とかいわれるものも、後者と重なる ところがある。 会社におけるコミュニケーションには、フォーマルなコミュニケーショ フォーマルなコミュニケー ション「ホウ・レン・ソウ」ンとインフォ 1 マルなコミュニケーションがある。人の集団としては、 どちらも重要であり、円滑なコミュニケ 1 ションのためにはどちらをも欠かすことはできない。 企業社会には、「ホウ・レン・ソウ」という言葉がある。学生生活には馴染みのない言葉である。 識 常「報告」、「連絡」、「相談 . を略して結合させた造語であるが、大きな国語辞典の改訂版には掲載され 会 社 るなど、企業社会ではよく使われるようになってきている。この言葉が企業社会におけるフォーマル の 会なコミュニケーションを説明していて、絶妙であるからである。 業 会社とは組織行動であり、企業人とは組織に属する人であるから、組織人としては、まず、会社に 企 おけるフォーマルなコミュニケーションが体質化されていなくてはならない。 座 講 「ホウ・レン・ソウ」にいう「報告」とは、事業遂行のために任じられている業務の経過や結果を
いといってよい そこで、サークルの先輩に対しては、上下関係が厳しくなくとも、やはり敬意を表し、言動に気を つけることが大切である。サ 1 クルの先輩は、ゼミ等の先輩に比べて、一生涯の付き合いになる可能 性が高いので、利害を超えた付き合い方を心がけたい。 ゼミ等の先輩は、大学で教員とは異なる視点と方法で指導を与えてくれる存在である。ゼミの発表 の仕方、文献の探し方と読み方、レジュメの書き方などの具体的な技術を学べる関係にある。そうし た点に関して、教員に相談する前にゼミ等の先輩に教えを請うようすれば、関係が深まるはずである。 就職活動に関しては、教員以上に新しい具体的な情報をもっているので、進んで相談するようにした 顔見知りでない同窓の先輩と接する場合とは、同窓会やゼミなどのほか、就職活動のための企業訪 識 常問時などがある。そうした先輩に対しては、大学生活を話題にしながら関係を深めていくことが大切 会 社 になる。そのためには、先輩にたずねられて答えられないことがないように、自らが大学の細かな情 の 活報を把握しておかなければならない。 学 大 ( 2 ) 学生同士の常識 座 講大学の場合、友人関係は、①語学や学科などのクラス、②同じゼミや授業の履修者、③サークルな
あり」という場合の法とは区別される。この説明に入る前に、「世間」の問題に触れておく必要があ る。 日本には「世間」という言葉がある。世間と社会とは同じものか。法学のテクストでは世間という 言葉に言及されることはほとんどない。われわれは、世間という枠組みの中で生活している。誰もが、 ある年齢に達すれば世間という言葉を知り、世間を意識しながら生活するようになる ( 「世間体」、「世 間に顔向けできない」、「世間をおさわがせして申し訳ありません、などの表現を思い出してみよう ) 。それ 識 会では世間とは何か ? それは、阿部によれば、「個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はない 社 が、個人個人を強固な絆で結びつけている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけでは の 剞ない。なんとなく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。そのようなものである。それで は、世間と社会とはどのように違うのか。ョ 1 ロッパでは、社会という時、個人が前提となる ( 明治 期に s 。 cie ( y に社会という訳語がつけられ、以後、学術用語として使用される ) 。その個人が集まって社会 ス を作るとみなされている。したがって、個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、 ラその社会を作り上げている最終的な単位として個人があると理解されているのである。これに対して、 ン 世間は個人の意思によって作られ、個人の意思で世間のあり方も決まるとは考えられてはいない。世 コ 間は所与のものと捉えられているのである。 座 講われわれは、その世間から後ろ指を指されたり、相手にされなくなったり、世間に顔向けできなく 203
3 効果的な「コミュニケ 1 ション」のための視点と方向性 ( 1 ) 「コミュニケーション」の失敗例ーーなぜ、自分の意思が伝わらないのか 第 2 節では、話し言葉を中心として相手に思いを伝えるための技法を説明した。コミュニケーショ ンでは、多くの場合、自分の思いを言葉として表現することで相手に意味内容が伝達される。しかし、 本人自身は的確に言葉にしたと思っていても、必ずしも相手に伝わらないことも多い。こういったケ 1 スはなぜ、起きてしまうのであろうか ? 宮崎聡子は、コミュニケーション・ミスが起こり相手に誤解されてしまう理由として二つあげてい る。一つは発信者の発信の仕方が不適切なケ 1 スであり、もう一つは、受信者の受信の仕方が不適切 な場合である ( 宮崎三〇一〇【三四ー三五〔 ) 。発信者の問題としては、伝えたいことの整理ができて いない場合、相手が話の骨子をつかむことができず、発信者の意図は伝わらない。また、受信者の問 題もある。コミュニケ 1 ションが相互作用であり、受信者が意味づけを行う性格上、受信する側が発 信者の意図通りに意味を理解できないこともあるからだ。 さらに、コミュニケーションを難しくしている要素に非一一一一口語青報の存在がある。「ありがとう」と 感謝の気持ちを述べたとしても、ムスッとしていて表情が伴っていなかったらどうであろう。あるい 14 。
講座 4 「コミュニケーション」の方法のための「社会常識」 図 4 ー 2 シュラムの円環型モデル メッセージ 読 解 号 1 = ロ 記号化 解釈者 解釈者 記号化 記号解読 メッセージ ない。「誰が、何を、どのようなチャンネルで、誰に伝えるのか ? といった情報の伝達に焦点があてられていて、受け手から送り手へ のフィードバックが考慮に入れられていないのである。そこで、受 け手からのフィードバックも含めたモデルが考えられた。それがシ ュラムの円環型モデルである ( 図 4 ー 2 ) 。このモデルでわかるよう に、コミュニケ 1 ションにおいては、情報の送り手と受け手とが入 れ替わり、円環的に情報のやりとりが双方向でなされる。つまり、 頁 コミュニケーションとは送り手からの単なる情報伝達ではなくて、 相互作用なのである。 学 この図のように、情報を伝達する送り手のみならず、受け手もま 会 社 ン た、発せられた情報を読みとり、その人なりの意味づけや解釈を行 ョ シ っている。つまり、送り手の情報が受け手に意味が損なわれること ケ = なく完全な状態で伝達されることは不可能であり、そこにズレが生 物じてしまう。そうであるとしても、人々は相手に思いをできるだけ 典正確に伝えようと試みるわけだが、こうした点からすると、コミュ 出 ニケ 1 ションとは相互作用によって新たな意味を作り出す過程とい 127
とされるが、実際には、長い時間をかけて学ぶべき学習に向かず、また、時間割決定に際して週二回 の時間確保が難しく、授業選択の自由が制約されるなどの問題点がある。そこで、週一回の授業を半 年で完結される方式が普及している。 普通、一年生の前期が第一セメスタ—' 後期が第二セメスターとなり、四年生後期が第八セメスタ 1 となる。セメスタ 1 制は、授業途中で息切れしやすい学生にとっては単位取得が容易になり、また、 授業選択機会が前期と後期の二回に増えるなどの利点がある。 大学の授業では原則として四段階、ないしは、五段階による絶対評価が採用され 授業の成績・評価 ている。四段階評価は、 << ( 優 ) ・ ( 良 ) ・ O ( 可 ) ・ ( 不可 ) とされ、 O まで は合格点だとされるが、だと不合格で、単位認定がなされない。また、最近では、この四段階の最 上位に ( 秀 ) や <<< などの評価を加えて五段階にしている大学も珍しくない。大学によっては、こ のうち、などに限って学生数の一〇 % 以内に限定するなど相対評価を部分的にとり入れているとこ ろもある。 ほとんどは絶対評価であるから、担当教員の評価基準によって大きく成績は異なることから、上位 の評価をなかなか与えない教員は「鬼」と呼ばれ、反対に上位の評価を多く与える教員が「仏」と呼 ばれたりする。 担当教員が評価を示す場合には二通りの方法がある。前記の段階に即して、 < ・・ 0 ・などの
教育を通じて「社会知ーを構築してきたのである。こうした「社会知」の標準的、かっ、規範的な知 の一つとして、「常識」が存在している。「常識」とは、「普通、一般人が持ち、また、もっているべ き知識。専門的知識でない一般的知識とともに、理解カ・判断力・思慮分別などを含む。とされる ( 新村三〇〇八二三七九〕 ) 。英語では、 'Common Sense' と訳されるように、私たち人間が社会の 、もっとも基本的な共有知、ないし、倫理規範とし 構成員として等しく共有していなければならない ての知が「常識」なのである。「常識」という共通の知や判断力をもっことによって、その社会の中 で日常生活を円滑に送ることが可能となる。周知のように、「コモン・センスーという言葉は日本で トーマス・ペインによって著された『コモン・センス』を通 は、一八世紀のアメリカの社会思想家、 じて、日本に普及してきた。まさに、この本は文字通り、イギリスという国家的権威としての常識に 対するアメリカ人の独立の正当性としての、あるいは、市民的権威としての 'CommonSense" すな わち、「常識」のあり方についてアメリカ人に問うものであった。この言葉は、私たち日本人にとっ ても、「近代社会」を支えていくための「社会知ーとはいかなるものであるべきか、について問いか ける書であったといえるだろう。 このように「常識」は社会の潤滑油であり、人間が社会的動物として生きるための倫理的なミニマ ムの要件である。したがって、社会知としての「常識」が欠如している場合には、そうしたことが他 人に不快感を与えたり、社会に迷惑をかけたりすることになる。これが「非常識」と呼ばれるもので