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検索対象: 岸信介 : 権勢の政治家
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1. 岸信介 : 権勢の政治家

一カ月にして、昭和史における最も重大な事件の一つに直面する。日中戦争の勃発である。た くつかの衝突、紛争が重 だ、この日中戦争は一朝にしてそのすべてが始まったのではない。い なって本格的な戦争へと発展していったのである。「宣戦布告なき戦争ーといわれるゆえんで ある。 したがって、近衛政権がこれら一連の衝突、紛争に一つびとつどう対応し決断していくかは、 まさに歴史の軌道を敷いていく重要な意味をもっていたといえる。のちに第二次 ( 昭和一五年七 月ー一六年七月 ) 、第三次 ( 昭和一六年七月ー一〇月 ) 近衛内閣が太平洋戦争への歴史的な道筋を決 定づけてしまったことを思えば、「白面の青年宰相」近衛文麿は、よくよく歴史の分岐点に居 合わせて、しかもその胆力と決断力の不足からすれば、あまりにも過酷な判断を強いられる連 命にあったといえよう。 て ろこうきよう 昭和一二年七月の盧溝橋事件で始まった日中戦争が泥沼に入っていく転機の一つは、 日中戦争 翌一三年早々に訪れる。戦闘拡大論に与する近衛が一三年一月、「爾後国民政府ヲ 制の泥沼化 対手トセスーという政府声明を出して、ついに和平への出口をみずから塞いでしま 時 戦 ったからである。近衛における自国軍事力への過信と、中国政府すなわち蒋介石政権を傀儡政 章 権に代替できるというその政治的判断の甘さが、自身の外交的退路を断ち切ってしまったので 第 ある。 かいらい

2. 岸信介 : 権勢の政治家

家による統制経済が、少なくとも思想的にはソ連共産主義と共鳴する素地をもっていたことは 重要である。岸は、彼年来の国家社会主義的統制経済論を満州国という名の処女地に植えつけ る絶好のチャンスを捌んでいたわけである。 産業開発五カ年計画が実行に移された当初、実は二つの不安が岸の脳裡に去来し ニつの不安 ていた。一つは生産過剰の不安であり、 いま一つは資金調達のそれである。前者 についていえば、同計画による生産拡充、例えば石炭や鉄鋼の増産が需要を超えてしまい、操 業短縮に追い込まれはしないかという心配である。後者については、同計画の所要総資金一一五 億円をどう確保するかという問題であった。第一の不安は、その後間もなく ( 昭和一二年七月 ) 近衛内閣のもとで始まる日中戦争によって一挙に解決する。同戦争は、当然のことながら軍需 物資の需要を急増させ、とくに満州の石炭、鉄鋼など重要物資の需要は切迫したものとなる。 験岸の不安は一朝にして消えたといえよう。 の いま一つの不安、すなわち資金調達についても日中戦争勃発の影響は大きかった。同五カ年 営 家計画にたいする内地の期待は日中戦争によって急激に高まり、所要資金は当初案の一一五億円か 国 ら実に四七億円へと膨張した。日本本土の昭和一二年度歳出額が一一七億円、同一三年度のそれ 章 4 が三二億円であったことを考えれば、同計画がいかに大規模であったかが理解できよう。日本 側からのテコ入れが強化されたとはいえ、資金確保は決して容易ではなかった。

3. 岸信介 : 権勢の政治家

さて安保改定日米交渉は、最後までもめていた新協定 ( 地位協定 ) 第一一一条 ( 調達・労 冷戦体制 務 ) にかかわる未解決部分が妥結したことによって、ようやくその幕を閉じた。三幻 への認識 五年一月六日のことである。新条約・新協定が他の七文書とともにワシントンで調 印されたのは一月一九日であるから、そのわずか二週間前に安保改定の内実がすべて日米間で 合意に達したわけである。公式会談だけで二五回、そして一四、五回に及ぶ非公式会談の果て の最終妥結であった。岸・ハーター ( 国務長官 ) をそれぞれ首席代表とする日米当事者は、安保 改定の原則的合意をみた三一一年六月の日米首脳会談以来、実に二年七カ月ぶりにホワイトハウ スの調印式に臨んだのである。 岸にとって新条約調印は、それがみずからの安保改定作業を確かに一段落させるものではあ ったが、彼を取り巻くその厳しい状況からすれば、さらなる困難を十分予想させるものであっ た。一つは、日米安保体制の再出発を画するこの新条約調印によって、中ソなど共産圏諸国の 対日政策が一段と硬化するであろうこと、 いま一つは、社会党を中心とする反安保・反岸勢力 が勢いを増し、それと連動する形で政権党内反主流勢力の岸批判がなお一層風圧を強めるだろ うということであった。 前者に関連していえば、岸が新条約調印の日にもったアイゼンハワーとの会談で、冷戦体制 への現状認識で完全に一致したことは重要である。これにより四カ月前 ( 三四年九月 ) アイゼン

4. 岸信介 : 権勢の政治家

る。保守系右派の拠点の一つ、すなわち自主憲法制定会議の結成 ( 昭和四四年五月 ) と同時にそ の会長に就いた岸が、以後つねに改憲政治勢力の精神的支柱であり続けたことは、全く自然の 成り行きであった。 こうした岸からすれば、政権を離れたあとの政治気候が「憲法改正ーに決して有利 政権復帰 であったとはいえない。苛立ちと焦燥が募る。岸はとくに池田、佐藤両内閣が意識 の道 的に「憲法改正ーを遠ざけていることにきわめて強い不満をもつようになる。注目 すべきは、ここで岸が、「非常に後退した」改憲機連を再び盛り上げるために密かに政権復帰 の道を模索したことである。岸はこういう。「もう一遍私が総理になってだ、憲法改正を政府 としてやるんだという方針を打ち出したいと考えた」 ( 岸インタビー ) 。彼によれば、みずから が再び政権をうかがったのは、昭和四七年に終息した佐藤政権の「次ーである。「割合 ( 首相 を ) 辞めたのが早かった」し、「まだ年齢も七〇いくつで元気だった」から、「密かに政権復帰 を思ったことは随分あった」というわけである ( 同前 ) 。 それにしても、岸における権力執着の炎は、七〇歳をはるかに超えてなおその火力をもって 一いたということか。とくに彼における権力追求の欲望がびとたび大義と結びつくや、体内から ビ湧き出る躍動は抑え難くなる。岸は晩年、「権力とは政治家の意志力がその基礎にある」とし 5 工 たうえで、こうのべている。「本来、権力というものは、ある理想を実現するために必要だ。

5. 岸信介 : 権勢の政治家

法をもって戦争犯罪を問うことは法理論上誤っていると主張するが ( 『秘録東京裁判』 ) 、岸もま たこれを全面的に支持したことはいうまでもない。昭和一一〇年までの国際法では戦争の開始、 遂行を犯罪としたものは一つもなかったということ、国際法上の「戦争犯罪」はあくまでも 「戦争の法規乂は慣例の違反」 ( 「俘虜の虐待」など通例の戦争犯罪 ) に限られるというのが弁護側 の主張であ「た ( 同書 ) 。インドのパール博士が裁判官中ただ一人被告全員の無罪を裁定した最 大の理由はここにあった。 いずれにしても、東京裁判にたいする岸のこの挑戦的な姿勢は、同裁判が国際法に 「暴虐ー よって戦争犯罪を裁くのではなく政治的報復の目的をもって裁いているとする彼自 身の反発を含むものであった。これはとりもなおさず、アメリカの対日占領政策そのものへの 抗議でもある。しかもこうした対米批判が、獄中の自分たちにたいする「一一一〔語道断の待遇ーへ の憤激によって一層強固になっていったという事実は無視できない。日記には、米人看守の粗 々 暴な振舞いや傍若無人の「命令」に戸惑い、怒り、痛憤するその感情が生々しく記されている。 日 囚例えば「昭和二一年一一月二二日」の項をみてみよう。アメリカ将校が数名の看守を従えて 各監房内の持物を検査するため「各人は裸体とさせられ」、突如指定した持物以外はすべて室 章 外に放り出される。岸は、「特に書籍類の制限、文房具の制限は全く言語道断のもの也と怒 第 りをあらわにする。彼はいう。 「何故に急に斯く圧迫的となりしか了解に苦しむ処なるが、表

6. 岸信介 : 権勢の政治家

ら肯定的評価をもって迎えられた。以後太平洋戦争終了まで続く、軍部と岸の密接な関係の起 点は、ここにあったといえよう。国家改造を担う革新官僚として注目されたのも、実はこの頃 からである。 産業合理化運動を徹底させるための諸立法のなかで、最も重要な法律の一つは、昭 重要産業 統制法和六年四月公布のいわゆる重要産業統制法 ( 「重要産業ノ統制 = 関スル法律」 ) である。 吉野からす。へてを任されていた岸が、この法文起案にあたるとともに、その実施に 精力を傾注したのはいうまでもない。 同法は大企業間のカルテル推進を主たる目的とするものだが、昭和一一年五月、すなわち岸 が商工省を辞して満州に渡る数カ月前には、トラスト促進のための改正が行なわれた。同法で 指定された「重要産業ーは、銑鉄製造業をはじめ一九種 ( のちに七種追加 ) に及び、国家による 大資本と財閥の育成は加速していく。 同法の適用に関連して岸がとくに際立った役割を演じたのは、セメント業界にカルテルを結 成させたことである。セメント連合会が分裂した昭和九年以降、セメント産業は生産過剰に苦 しむが、岸は臨時産業合理局の商工書記官 ( のちに第一部長 ) として同業界にカルテル結成を実 現させている。 また自動車産業については、昭和一一年五月、自動車製造事業法を制定して自動車の国産体

7. 岸信介 : 権勢の政治家

4PM ) である。とくに岸がマッカーサーに強く訴えたことは、日本防衛力の増強、可能な限り の米軍撤退などとともに安保条約の「大幅改定」を実現すべきこと、 いま一つは、一〇年後に は沖縄・小笠原諸島を返還して欲しいというものであった。 これにたいしてマッカーサー大使は、直接、岸に応答はしていない。しかし彼は国務長官 ~ の報生〕電報 ( F 「 om 】 Tokyo, To 】 Sec 「 eta 「 y of state, No 【 00 06. Ap 「 . 一 3. 5PM) のなかで、驚く ほど率直にアメリカ側の対応策を提案している。同電報で大使が指摘した次の三点は、とくに 注目されよう。①安保条約を「修正」するか、新しい「相互防衛条約」にするかはともかく、 何らかの条約変更は両国の利益にかなうこと、②日本から最大限米軍撤退を推進すべきこと、 そして、③一〇年後には沖縄・小笠原諸島に関するアメリカの権利と利益を放棄し、軍事的に 重要でない諸島はできるだけ急いで「完全復帰ーを認めるべきだ、というものである。 それにしても、なぜマッカーサー大使がダレスにたいしてこれほどまでに対日政策 「中立化 のドラスティックな変更を迫。たのだろうか。「日本国民の対米感情」に関する岸 への恐れ の広範な分析に動かされて、彼がある種重大な危機感をもつに至。たことはいうま でもない。 も。とも、マッカーサーのみならず日本を熟知するアメリカの鋭敏な政策決定者な ら、占領時代を含めて戦後一〇年余続いたアメリカの対日軍事既得権がいまや完全に曲がり角 にきていることを悟「ていた。例えばマッカーサーの前任者アリソン大使もその一人であ「た。 188

8. 岸信介 : 権勢の政治家

じようし しかし、松本烝治国務相が中心となって草したいわゆる松本案は、いかにも旧態依然であった。 松本案を「旧明治憲法の字句をかえた程度のもの」 ( 『マッカーサー回想記』 ) と断じたマッカーサ ー元帥は、急遽、新憲法の起草をみずからの主導権で行なうことにする。マッカーサーの「新 憲法」が、戦前からの保守勢力に自由主義のタガをはめ、しかもそれが、社会党右派などを含 む「穏健な民主主義」勢力を育てていったことは否定できない。 もちろん岸は、新憲法の骨格ともいうべき平和主義や民主主義の諸原則を認めないわけでは ない。しかしそれでも彼においては、国家の基本法が他国から「押しつけられた」こと自体が 問題なのであり、それこそが民族の自立を阻害するというのである。岸が巣鴨刑務所から自由 を得て戦後政治に登場したその原点、すなわち「独立の完成」のための「憲法改正ーは、首相 退陣後の岸を依然として衝き動かしていたわけである。 首相引退から五年後の昭和四〇年、すなわち佐藤内閣のとき岸がアメリカの雑誌 ( F ミ ゝデ ,0ct. 一 965 ) に寄せたその論文は、彼の「憲法改正」論が依然執念であり続けていたこと を示している。彼はこの論文で、保守党内の派閥抗争に重大な危惧をもっていること、それゆ えこれら諸派閥を一つに束ねるための政治課題こそ「憲法改正ーであり、わけても「戦力」保 持を阻む条項 ( 第九条 ) の改正が必要であることを説く。しかも、日本敗戦とアメリカ対日占領 の後遺症を根絶する方途は、この「憲法改正」を措いてほかにない、 というのが彼の主張であ

9. 岸信介 : 権勢の政治家

前記三点から割り出されるいま一つ重要なポイントは、長期的にはこの改憲構想の問題と関 連するが、ともかくも政局安定を図るための更なる保守合同がますます焦眉の急になってきた、 ということである。しかもこの選挙の結果、民主党がその勢力分布において自由党に逆転して 優位に立ち、その後の保守合同プロセスで民主党が主導権をとりうる立場に立ったということ である。その意味で、岸からすれば、この選挙は「大成功だった」 ( 同前 ) のである。 さて、日本民主党結成までの第一次保守合同に主要な役割を果たした岸は、その 第ニ次保守 後「自由民主党」の誕生を導く第一一次保守合同にどうかかわっていくのだろうか。 合同への道 第一一次合同を推進しなければならない理由を、岸はまず次のようにの。へている。 第一に、「昨今に於ける左翼勢力の進出については、真剣に之に対決する方法を講じなければ ならない」こと、第二に、「その為には政策に於て、組織に於て、全く新なる角度から検討し て構想を立て、今日の難局打破に当らなければならない」こと、したが。て第三に、「私の一 いわゆる 貫した考え」として、日本再建のための「歴史的な課題を解決する為には、所謂保守勢力が大 きく結集されなければならぬ」のである ( 『風声』第一〇号 ) 。 こうみてくると、岸においては、そもそも第一一次合同の出発点が第一次合同のなかにすでに 懐胎していたことがわかる。なぜなら日本民主党の結成は、単に保守第一一党を若干拡大したに すぎず、いわば未完の保守合同だったからである。「日本民主党には大して期待をもっていな 168

10. 岸信介 : 権勢の政治家

きしのぶすけ 岸信介は、昭和六二年 ( 一九八七年 ) 八月七日、九〇年の生涯にその幕を閉じた。遺 たぶせ ニつの墓 骨は分けられて、二つの墓に眠っている。一つは郷土山口県の田布施町に、いま一 つは静岡県御殿場市にある。 たたず 田布施の墓は岸家の裏山にびっそりと佇んでいる。徳山駅から山陽本線でおよそ三〇分、人 口一万七〇〇〇人 ( 平成六年現在 ) ののんびりした片田舎、それが田布施である。墓は、岸が生 ばか 前、岸家累代の「寄せ墓」として建立したものである。この寄せ墓に「魂を抜かれた」岸家各 代の墓石が歴史の風雪に傾いて摩滅したまま、あたりに雑然と置かれている。戦前・戦中・戦 後を通して政官界の頂点を極めた人物の墳墓にしては意外なほど質素である。一〇〇〇年はも すさいし っといわれる須佐石が寄せ墓に使われているところだけが、わずかに、「権勢の人 [ 岸信介の きようこく 片鱗をみせているにすぎない。岸信介は、岸家一族の骨とともに、文字通り、草むす郷国の土 となり果てたのである。 けんべい 一方、御殿場の墓は、死してなお権柄を示威する政治家岸信介の姿を十一一分にあらわしてい る。富士山の裾野に延びる七〇万坪の広大な富士霊園にびときわ威容を誇る墓地がそれである。 ここから車でわずか一五分ほどのところには、一五〇〇坪の庭に立っ岸の豪邸が、 、まその主 を失ったまま、これまた往時の権力をしのばせる。 岸が眠るこの富士霊園は、三菱地所 ( 株 ) 系列の財団によって経営されている。昭和四一一年、