り日米安保体制を合理的に改めなければならない。その前提としての日本自身の防衛という立 場を強化するとともに、日米安保条約を対等のものにすべきだという感じをそのとき私はも。 た」 ( 岸インタビ、ー ) 。岸が政権をとるや否や、まずは「安保改定」に照準を定め、そのための 「訪米ーを推進してい。た背景には、実はこうした経緯があ。たのである。 岸は、首相就任から四カ月後の六月、ワシントンでアイゼン ( ワー大統領および 駐日大使と ダレス国務長官との間で日米首脳会談をもつが、ここに至るまでの準備は確かに の予備会談 精力的かっ周到であ。た。岸が展開した訪米準備作業のなかでとくに重要なのは、 彼みずからが駐日大使マッカーサーとの間で予備会談を重ねたことである。 アメリカの外交文書によれば、岸はマッカーサー大使との予備会談を四月一〇日を皮切りに 少なくとも七回も。ている。これら一連の予備会談を貫く最も著しい特徴の一つは、日米安保 っ 竝体制に関する日本国民の意識を岸がきわめて包括的、体系的に分析してみせたということであ る。岸は「 ' カーサー大使に向か。て、日本国民の対米批判が次の四つの側面から強ま。てい カることを警告する。第一はアメリカの対日軍事政策 ~ の反発、第二に日米安保条約における日 権 本の従属的地位への怒り、第三に領土問題 ( アメリカが半永久的に沖縄・小笠原諸島をその支配下に 章 置いていること ) への反感、第四はアメリカ国内における日本製品への差別的な扱いと、アメリ 第 力による日中通商禁止にたいする不満 ( From 】 T0kY0. TO 】 Secretary 0f State. No: 2256. Apr. 187
かかわったサンフランシスコ体制の諸問題をアメリカとの間で「合理化」すること、すなわち、 占領体制から生まれた講和・安保両条約の諸矛盾を是正することであった。占領体制の清算と 「独立の完成」を戦後一貫して追いかけてきた岸が、したがってこの日米首脳会談で沖縄・ 笠原問題とともに安保改定問題を真正面からアメリカ側に突きつけたことは当然の成り行きで あった。 結論的にいえば、まず「沖縄返還」についての岸の要求は、アメリカ側の厚い壁に阻まれた。 沖縄にたいする日本の「潜在主権」をアメリカ側に「再確認」させるにとどまったということ である。一方、岸の「安保改定ー提案にたいして、アメリカ側の回答は「条約の再検討に応ず る」というものであった。つまり、アメリカは重光・ダレス会談のときとは打って変わって、 今度は「安保改定ーを原則的に了解したのである。しかし、条約改定にたいするアメリカ国内 の態勢、とりわけ軍部との協議が整っていないことを理由に、ダレスが条約改定交渉について は一切これに応じようとしなかったのは事実である ( 『日米関係の構図』 ) 。 それにしても、アメリカが岸の「安保改定ー提案を原則的とはいえ受け人れたの 岸への信頼 はなぜか。まず考えられるのは、アメリカが米ソ冷戦のなかで日米安保体制を是 が非でも守るという同国の至上命題に安保条約を適応させようということである。アメリカ政 府首脳は、「日本中立化」 ( あるいは「日本共産化」 ) へのマッカーサー大使の警告をいまや全面的 192
戦争時代の岸、敗戦直後における巣鴨プリズン時代の岸、そして戦後政治家としての岸でさえ、 アメリカへの対立イメージはその濃淡に差はあれ、決して消えることはなかった。 これについては追い追い明らかにされようが、少なくとも大正一五年の訪米時にお ワシント ける岸のこうした対米観は、それなりに当時の政治気流を反映していたともいえる。 ン体制 もちろん岸が当時のアメリカに、ある種の憧憬をもっていたことは確かである。し かしアメリカにたいする岸の対立イメージは、一九二〇年代におけるアジア・太平洋協調シス テムとしての、いわゆるワシントン体制に潜む「日米対立」の要素を色濃く映し出していたと いってもよ 同体制を生み出したワシントン会議は、大正一〇年 ( 一九二一年 ) 一一月から翌年一一月まで開 かれたが、その主な議題は、海軍軍縮とアジア・太平洋問題であった。海軍軍縮については、 米英日仏伊五カ国間で「海軍軍備制限に関する五国条約」が調印された。同条約の核心は、い うまでもなく米英日の主力艦総トン数比率を五対五対一二とした部分である ( これにたいし、仏伊 の比率は両国とも一・六七であった ) 。 これは、アメリカの提案を日本側がやむをえず受け人れた結果である。日本全権の加藤友三 しではらきじゅうろう 郎 ( 海相 ) や幣原喜重郎 ( 駐米大使 ) らが、「対米協調」優先の立場から海軍内部の「対米七割」論 を抑えて、「対米六割」を甘受したということである。したがってワシントン体制は、軍部か 4
という予期しないことのためだ。両方が健在であったら、果たして政権が私にきたかどうかわ からん。たとえ私に政権がきたとしてもだ、七、八年後だな」 ( 岸インタビ、ー ) 。辣腕家岸の不 可思議なめぐり合わせである。 石橋内閣の全閣僚に再任を求めて出発した岸政権の最初にして最大の課題は、日米 安保改定 関係であった。石橋内閣が「日中国交正常化ーを第一の政策課題としていた ( 『私の の構想 政界昭和史』 ) のとは打って変わって、岸が目指したのは「日米関係の合理化すな わち日米安保体制の見直し、もっと広くいえば、吉田が築いたサンフランシスコ体制の再検討 であった。アリソンの後任として着任したばかりのアメリカ駐日大使マッカーサー ( マッカーサ ー元帥の甥 ) との間で岸がまず最初に取り決めたのがみずからの「訪米」であったことは、日米 安保体制の再構築を狙う岸の並々ならぬ意欲をあらわしていた。さらに踏み込んでいえば、日 っ 竝米安保体制の中核である安保条約の改定こそが、岸の政策課題群における最優先の位置を占め ていたということである。 カそもそも岸が「安保改定」構想を抱きはじめたのは、これより一年半前のことであ。た。三 権 〇年八月、岸も出席した前述、重光・ダレス会談が、「安保改定ーへの岸の問題意識を掻き立 章 てる重大な転機となるのである。 第 こ臨んだ目的は外交問題に関する限り、折からの日ソ国交交渉にたいするア 重光がこの会談。 185
そもそも思想的に合うはずがなかった。それが典型的にあらわれるのは、昭和一五年一二月に 閣議決定した「経済新体制確立要綱」をめぐってである。第一次近衛内閣のときに起こった前 出「近衛新党」運動は、第二次内閣誕生とともに新体制運動として再興し、諸政党の解党によ る大政翼賛会の結成 ( 昭和一五年一〇月 ) や、労働者を「国策の本義」に束ねていくための大日本 産業報国会の成立などを導く。こうした文脈のなかで、企画院は高度国防国家体制に向けて 「経済新体制確立要綱」を立案することになる。 資本と経営の分離、私益追求の否定、企業への政府監督権の強化等々、「国防国家」施策を 盛り込んだ同「要綱」案の作成に、商工省側から岸が関与したことはいうまでもない。しかし この作業中、大臣の小林がたまたま蘭印 ( インドネシア ) に出張していたため、岸は独断で事を 進める。帰国してその「要綱」案のことを報告された小林は、「自分を無視した」岸にたいし て て激怒したばかりでなく、「要綱」案そのものを「アカの思想」として公然と批判することに 率 を なるのである。 制 体 こうした経過の延長線上に起こったのが企画院事件である。小林にとって同事件は 時 戦「岸解任」 「岸解任」を実現する格好の機会と映った。両者間で「辞めろ」、「辞めない」の応 と後日譚 章 酬が続くが、岸の抵抗は徹底していた。大臣が、風邪で欠勤中の岸邸に押しかけ辞 第 表提出を迫り、一方、岸が面会を拒否して寝室から筆談で「辞職」をはねつけるという図は滑
協力者」として日本を遇することはできないと主張したのである。 しかも、この「自助および相互援助」の力とは軍事力そのものであって、それ以外の何物で というのがアメリカの立場であった。旧条約の交渉当事者西村熊雄 ( 外務省条約局長 ) によれば、日本の労働力、経済力など非軍事的要素をもってアメリカに「有用な協力 . をなし うるのだという日本側の見解は、アメリカ側から全く問題にされなかった ( 『安全保障条約論』 ) 。 「自助および相互援助」の力をもたない日本がアメリカと対等の相互防衛条約を結ぶことは、 ありえないというわけである。アメリカが日本との間で調印した旧安保条約が「アメリカの日 本防衛義務ーを欠落させるという「本質的欠陥 , を残したまま、単なる駐軍協定となった理由 はここにある。 加えて、アメリカの駐軍目的が「日本の安全に寄与する」ためのみならず、「極東ー 吉田と岸 の安全のためでもあるとしたことは、この条約の特異性を一層際立たせるものであ った。吉田のサンフランシスコ体制は、こうして占領と被占領の関係を見事に刻みつつ出発し たのである。 グ これまでの叙述から明らかなように、岸の安保改定は、吉田の旧条約に内蔵されているこう ビした被占領的体質を「是正」するためにもくろまれたものである。「安保改定」に定めた岸の 狙いは、第一に「対等の協力者」の証しとして「アメリカの日本防衛義務ーを条文化すること 227
第 5 章戦時体制を率いて 使に手渡したこの対日提案は、中国および仏印からの日本軍全面撤退や、三国同盟の死文化な どの条件を含むものであり、日本としては到底呑めないものであった。数日後の一二月一日に おける御前会議は、ついに対米 ( 英蘭 ) 開戦を決定するに至る。天皇が「その時は反対しても無 駄だと思ったから、一言も一ムはなかった」 ( 『昭和天皇独白録』 ) と回想するこの御前会議は、無責 任体制を相変らず引きずったまま歴史の新しいページをめくってしまったのである。 さて、岸信介が一二月一日のこの御前会議に出席したのかどうか、というきわめて 人事刷新侖争的な問題は後述するとして、彼が昭和一六年一〇月、東条内閣の商工相にな。 のあとに一言ロ た時点に話を戻そう。大臣になるなり、岸がまず手をつけたのが省内人事の大改造 こうだすすむ である。側近の椎名悦三郎を次官に抜擢したのを手始めに、神田暹を総務局長に、豊田雅孝を 振興部長に、菱沼勇を貿易局長官に、美濃部洋次を総務課長にという具合に、岸の息のかかっ た人材をもって幹部ポストを固めてしまう。 つまり岸は、四五歳の若さで大臣になったことをむしろ逆手にとったのである。先輩、同輩 には「遠慮が出てしまう」として次官と局長級のクビを切るとともに、「後輩だけで、遠慮な く命令できる体制をつくりたい」という名目で ( 『岸信介の回想』 ) 、椎名ら股肱の革新官僚を配 下に収めて一気に岸体制を整えたわけである。 こうして省内人事の刷新を断行した岸は、さて商工大臣として何をなそうとし、そして何を
一一月一五日、社会党統一 ( 一〇月一三日 ) に遅れること一カ月にして戦後最大の保 自由民主 守党「自由民主党ーが誕生する。米ソ冷戦の代理戦争ともいうべき「保革対立」の 党の誕生 幕開けである。統一社会党が衆院一五五、参院 , ハ九の議席をそれぞれもつのにたい し、自民党は衆院一一九八議席、参院一一五議席の圧倒的な勢力分布を擁することになる。自民 党「 1 」の勢力にたいする社会党「 1 一 2 」の勢力、すなわち「 1 - 2 体制」の始まりである。西 暦でいえば一九五五年、ほぼ時を同じくして生まれた自民、社会両党対立のシステム、すなわ ち「五五年体制ーの始動でもある。 もりひろ どのような呼称が使われようと、以後平成五年 ( 一九九三年 ) の細川護熙非自民政権の誕生に ひっ 至るまで三八年間続いた保守安定政権が、岸、鳩山らかって吉田的戦後政治 ( 被占領体制 ) に逼 て塞していた政治勢力によってその起点を画されたことだけは確かである。保守合同と五五年体 制構築の中心人物岸信介の面目や如何に、である。 集 結 守 保 章 第 そく 177
の軍事体制ではなく、準軍事体制のような状況だから、まだ抜身を突きつけるのは早過ぎる」 ( 同書 ) 。 岸はあたかも当時の「準軍事体制」では、みずからの活躍舞台としていささか物足りないと 考えていたかのようである。彼の国家統制論ないし高度国防国家論からすれば、日本はなおい こうして岸は、近衛が指名した財界出身 っそう戦時化されねばならなかったのかもしれない。 の小林一三商工大臣のもとで引き続き次官に甘んずることになるのである。 ところが、小林・岸関係の破綻は意外なほど早く訪れる。同内閣が発足して間も 企画院事件 なく小林と岸との間に険悪な空気が生まれ、翌一六年一月、岸が次官を辞めると いう事件がもちあがるのである。岸辞職の直接の引き金は、いわゆる企画院事件であった。岸 が同事件に関係しているとして小林から引責を迫られたからである。企画院事件とは、昭和一 ひでぞう 六年一月から春にかけて企画院調査官の佐多忠隆、稲葉秀三、農林省農政局農政課長の和田博 雄 ( 元企画院産業部 ) らが共産主義活動に関与したとして治安維持法違反で逮捕された事件であ る。かねてより岸との確執を深めていた小林は、革新官僚の拠点企画院における同事件の元凶 が岸その人であると主張して、直接、岸に辞職を求めたのである。 二人の関係がこうまで悪化するには、それなりの理由があったといえよう。私鉄、興業界で 成功し、根っからの自由主義経済人である小林一三と、片や名うての国家統制論者岸とでは、
その後日本軍は、徐州占領 ( 昭和一三年五月 ) 、武漢三鎮への侵攻 ( 同年一〇月 ) など戦果を挙げ たにもかかわらず、中国政権を屈服させることはできなかった。万策尽きた近衛が総辞職した のは、翌一四年一月である。 近衛の強力な推薦もあって成立した平沼内閣のとき、かねてより日本の中国侵略に不満をあ らわにしていたアメリカが、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告する。日本の経済・貿易の 生命線であるアメリカがこの措置に出たことは、日中戦争そのものの遂行に決定的な打撃を与 えただけでなく、国民経済の根底を揺るがすものとなった。 きちさぶろう 平沼内閣退陣後、これまた近衛の画策もあって阿部内閣が成立するや、野村吉一一一郎外相は一 四年一一月、つまり岸信介が満州から帰国して商工次官に就いたその翌月から、日米関係修復 のためにグルー駐日大使との会談を何回ももっことになる。しかし同外相の工作は、結局アメ リカの厳しい態度にはね返されてしまう。翌一五年一月をもって日米は、文字通り無条約状態 に入るのである。日米開戦すなわち太平洋戦争の勃発は、すぐそこにみえていたといっても過 言ではない。 さて、第一次近衛内閣にあって日中戦争が泥沼化していくという対外面の苦境は、 国家総動 国内的には、国家総動員体制ともいうべき政治・経済の強権化、集権化の勢いを加 員体制 速させていく。総動員体制とは、国家権力が国民一人びとりの生活を、政治、経済、