りが佐藤家の家計を大きく圧迫したことは間違いない。「子供の教育に金を使って、だん / 落ちぶれて、母の晩年はみじめだった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) とは市郎の回想である。 どうもく 確かに、子供達の教育に注ぐ秀助・茂世の執念は瞠目に値する。いや、秀助・茂世のみなら ず、そもそも佐藤一族が教育にかけるその意気込みが尋常ではないのである。 佐藤一族の教育にたいする執着は、男子をして立身出世せしめ、女子をして佐藤家の家格を 保たしめることと完全に表裏をなす。とりわけ息子たちを栄達の道に送り出すための努力はす さまじい。岸信介がのちに官界の出世階段を登りつめ、政界を駆け上がっていくその行動規範 は、多分、佐藤家におけるこの教育環境を抜きにしては理解できないであろう。 岸が巣鴨で書いた前出「我が思び出の記」を読んでまず驚くのは、曾祖父佐藤信 曾祖父信寛 寛にたいする尊敬と誇りである。岸は信寛を「佐藤家の歴史に於ては最も傑出し への尊敬 た人であった」とのべている。彼は信寛をその叔父九右衛門とともに、佐藤家に 伝わる政治家的な性格を最も顕著に体現した人物として畏敬する。信寛が自分の名前から一字 をとって「信介ーと名付けてくれたことも、岸に信寛との深い因縁を感得させずにはおかなか 信寛は明治三五年、すなわち岸が六歳のとき、八十余歳の長寿を全うしてこの世を去る。岸 えびすがした は五歳の頃、田布施の国木から数キロ離れた戎ケ下の別荘に病臥の信寛を母や姉とともに見舞 っこ 0 びようが
ながぬま 察せられるように、信寛は松陰と交わっており、軍学長沼流を松陰に教授する。明治維新の志 たかよしししどたまき かおる 士たち、とりわけ伊藤博文、井上馨、木戸孝允、宍戸磯らとの間にもかなり深い交友関係が続い た。井上家には、三男の太郎 ( のちに陸軍大尉 ) を養子に出している。伊藤は明治一一三年、戎ケ下 別荘に信寛を訪ねて旧交を温めたその帰路、「訪佐藤信寛別業」なる題の詩を書き残している。 かしゅう ためが 伊藤、井上、宍戸からは、蝦洲 ( 信寛の号 ) への為書きの書が贈られており、のちに信介兄弟 三人がこれら遺墨をそれぞれ一幅ずつ分与されることになる。昭和一一九年首相を辞めていく吉 田茂に岸の実弟佐藤栄作が贈った「寒夜に亡友を憶う」という木戸孝允の書は、木戸自身が信 したた 寛のために認めたものである ( 『今日は明日の前日』 ) 。『田布施町誌』によれば、明治一一三年八月 ありすがわのみや には、「有栖川宮殿下ョリ御杯『銀盃』一個拝領セリト云フ」とあるように、信寛は官途を辞 してなお、維新体制を支えた地方の名士として、それなりに遇せられるのである。 しかし、信寛が二〇年以上の長きにわたって悠々自適の生活をするには、やはりそれ相当の 資力が必要であったと思われる。このあたりの事情に若干の示唆を与えてくれるのは、市郎の 妻の証言である。彼女は、「母 ( 茂世 ) は、佐藤家の資産はどうせ祖父の県令時代の賄賂でたま ったもの、だましとられてもともと、なんておっしやって」いた、との。へている ( 『諸君 ! 』昭 和四五年七月号 ) 。この証言は、信寛が県令を辞めるまでにかなりの蓄えを残し、そのなかに賄 賂による蓄財もあったことをうかがわせるものである。
じよじようふ 実母の茂世は、気位の高い勝気な女丈夫であったといわれる。幼時から両親にはもちろんの のぶひろ しようあい こと祖父信寛 ( 信介の曾祖父 ) からもいたく鍾愛され、「茂世は佐藤家に残す」という了解がいっ ようせつ の間にか一族のなかに成り立っていた。茂世は、父信彦 ( 信介の祖父 ) が比較的早く夭折したの まっすけかんぞう で、若いときからその才知と男まさりの器量で弟妺 ( 松介、寛造、さわ、作一一 l) の面倒をみながら、 なおかつ一〇人のわが子の養育に専心した。 いちろう 子供たちにたいする茂世のス。ハルタ教育は徹底していた。信介の実兄佐藤市郎は、「父はお となしかったが、そのかわり母は非常に厳格で、子供の頃はいたずらをすると、お尻をつねら れたり、土蔵にほうり込まれたり、とても怖かった」 ( 『文藝春秋』昭和三〇年一月号 ) と回想して いる。岸自身も、母親から尻をびねられ、物差しで叩かれ、線香で焼かれたりして、風呂に入 ると、いつも尻が真黒になっていたことを思い出すという。茂世は学校教育なるものをほとん ど受けていないが、成人した信介らをつかまえると、お前たちはカネと時間を使って理屈を覚 えたろうが、私は道理では負けないよ、といって胸を張っていた ( 同誌 ) 。 父秀助は、市郎がいうように、確かにおとなしい寡黙の人であった。温厚でなおかっ勉強好 きであった。学問で身を立てようとしたが、名門の地主とはいえ岸家の資力がこれを許さず、 佐藤家に婿入りすれば希望が叶えられると思ったらしい。漢学者であった、茂世の父信彦も秀 助の向学心を大いに買っていた。しかし秀助の期待は見事に裏切られる。結婚して一〇人の子 さくぞう
ったこと、そのとき布団にもたれた信寛に手ずから菓子をもらったことを、淡い追憶として生 涯大切に温めていた。 もっとも、これはあくまでも岸のおばろげな記憶でしかない。『田布施町誌』によれば、佐 藤信寛は「明治一二三年一一月一五日病ヲ以テ死去セリ」とある。仮にこれが正しいとすれば、岸 四歳のとき曾祖父は没したことになる。岸の信寛にたいするこの追憶は、ある種幻想のなかに 漂っていたといえるのかもしれない。 かんさく 信寛 ( 幼名は寛作 ) は佐藤家の三代目である。初代は佐藤市郎右衛門、一一代目は源左衛門。と ごないようがかりかきととのえやく むきゅうどおり もに毛利家の無給通 ( 給領地をもたない武士 ) であった。信寛は毛利家御内用掛書調役 ( 藩の記 録係に類するもの ) として出発するが、山崎一雄「小川家の人々」 ( 島根新聞、昭和四四年二月一日 ごんちじ 付 ) によれば、明治三年浜田県権知事 ( 現在の副知事に相当 ) となる。そして浜田・島根・鳥取の 三県合併を果たした明治九年、彼はこの合併県の長すなわち島根県令 ( 現在の知事に相当 ) に累進 火 する。翌一〇年同県令を辞して隠居生活に入るが、以後没するまでの一一十数年間、詩文と囲碁 新を楽しむ悠々閑々たる生活を送った。 こおりぶぎようひっしややく 維 郡奉行筆者役になった嘉永四年から明治維新にかけて信寛が書いた「佐藤寛作手控ーなる民 章 政典例の筆録は、長州藩の治績を知るうえの貴重な資料としていまに残っている。 第 「吉田松陰先生より曾祖父宛の書信を見たこともある」 ( 『風声』第一一号 ) という岸の追想からも てびかえ
いずれにしても、岸にとって曾祖父信寛の存在は限りなく大きい。後述するよう 志士たちの に、叔父松介が岸の人生にいわば直接的、可視的な影響を与えた最も重要な人物 維新的体臭 であるとするなら、曾祖父信寛への憧憬は岸にとっては幻の如く、しかしそれだ けに心のびだに染みわたっているかのようである。岸にしてみれば、吉田松陰、伊藤博文、井 上馨、木戸孝允ら明治維新の烈々たる個性は、信寛という身近な血縁を介してみずから追体験 できるものであった。岸がこれら維新の志士たちに明日の自分を投影したとしても不思議では ない。しかも、これら指導者の列伝にいま一人みずからの肉親をつなげることのできるその特 権を、彼は大いに自覚したに違いない。 岸は生前、自身の家系についてしばしば語っているが、漢学者の祖父信彦や父秀助について の彼の言及は、なぜか素っ気ない。ところが、叔父松介と並んでこの曾祖父のことになると、 こうふん 俄然、岸のロ吻は熱を帯びる。曾祖父信寛は岸の精神形成における最初の、しかも強烈な刻印 火 残を残したといえよう。 新岸は信寛死して十数年後すなわち中学校卒業の頃、それまで抱いていた軍人志望を変えて政 維 治家になる気持ちを固めるが、この曾祖父への憧憬が岸の政治家志望に少なからず結びついて 章 いたこと、そして曾祖父に連なる志士たちの維新的体臭が岸の思想形成に何らかの形で影を落 第 としていたことは否定す。へくもない。 つら
佐藤一族のなかで岸の人生に格別の意味をもついま一人の人物といえば、叔父松 叔父松介の 介を措いてほかにない。い まの。へたように、曾祖父信寛の存在が半ば幻想のなか 支援と教育 で増幅されていったのにたいし、松介は少年時代における岸の経済的支援者であ ると同時に、彼の精神的教育者であった。松介は茂世の実弟、すなわち岸の祖父信彦夫妻の長 男として佐藤本家を継いだ人物である。松介の妻は、のちの外相松岡洋右の実妺藤枝である。 松介・藤枝の長女寛子が佐藤本家を継承するため、岸の実弟栄作を入婿として迎えるのである。 松介は東京大学で医学を学び、卒業後同大学の助手を務めたのち、岡山医専に移り、産婦人 科学の教授となる。東大の助手時代には実弟の寛造 ( 医者 ) 、作三 ( 医者 ) のほかに、岸の姉タケ や兄市郎を田布施から呼び寄せてそれぞれ東京の学校に通わせている。松介が岡山に居を定め てからは、信介の姉たち ( 駒子、音世 ) を地元の高等女学校に入れて生活の面倒をみ、最晩年の 二年間は岸を田布施から引き取って物心両面、実の親にも劣らぬ熱意で岸の教育にあたってい すべ る。「叔父の全収入は私共の教育費に総てつぎ込まれたのであって、其の急逝した後に一銭の 蓄へも残さなかったのはその為であった」とは岸の述懐である ( 『風声』第四号 ) 。 岸が松介を頼って岡山に移ったのは、小学校六年のときだが、それ以前から松介は、夏休み になると岸を岡山に呼んで何くれとなく世話をしている。他の兄姉にたいしてと同様、岸の学 業成績にたいする松介の関心は並々ならぬものであった。岸は田布施の国木にある尋常小学校 ようすけ
なり鮮明に映し出しているということである。「極刑」と「釈放との狭間にあって焦慮し苛 立つ一人の人間の姿をこの日記から読みとることができる。 本来政治家は、みずからの言動の効果を計算しつっそれを自己管理するものである。 金網の向 岸においてはとりわけそうである。ときには、、いを許しているはずの身内にたいし こ一つ側 てさえ、みずからの振舞いを抑制する。長男信和の妻仲子が岸亡きあとに語った懐 旧談は、この岸の抑制的な性格を知るうえで興味深い 信和夫妻は昭和一一三年五月に結婚式を挙げるが、それから一一カ月後、仲子は初めて岸と対面 する。もちろん網越しの対面である。金網の向こうにみえる義父が「丸坊主で、痩せていて、 歯が出ていた」ことはよく覚えている。しかし仲子は、金網に邪魔されて人間岸信介の輪郭を あまりはっきり認めることができなかったという。仲子はいう。「何かいまから振り返ると、 最後まで義父には網がかかっていたような気がします。最初の出会いから、亡くなるべッ 上でさえもつねに " 網越し″の義父でした」 ( 岸仲子インタビ = ー 囚しかしこの岸にして、獄中日記は、その生涯において唯一みずからの人格と感情を最も豊か にさらけ出したものといってよ、 。まずは東京裁判 ( 極東国際軍事裁判 ) とのかかわりでこの獄中 6 日記をみてみよう。 1 17
あとがき もちろん、戦前・戦中・戦後の回想、さらには他の政治家への評価など多岐にわた。た。岸氏 の残した数々の証言が政治学研究にと 0 てきわめて有用であることはいうまでもない。本書に その証言を引用させて頂いたことに深謝する。その他インタビ = ーに応じて頂いた方々、獄中 日記をはじめ他の貴重な未公開資料を提供して下さった岸信和氏 ( 岸信介氏ご子息 ) 、並びに、 執筆過程でご協力頂いた関係各位に厚くお礼申し上げたい。 これらの方々が私の執筆にいかな る条件も課さなかったことは、それが当然のこととはいえ、特記されてよ、 また、本書に収 められている岸氏関連の写真等を提供して頂いた関係者及び関係諸機関に感謝したい。原稿の 整理等については熊坂雅彦氏を煩わした。お礼申し上げる。 なお、この「あとがき」を含めて本書の人名は、敬称を省略させて頂いた。引用文の旧字体 漢字はこれを新字体に変えたこと、年号は、本書のテーマからして原則的に元号を用いたこと についても、ここでお断りしておきたい。 最後に、岩波書店編集部の坂巻克巳、佐藤司両氏に謝意を表したい。執筆開始から比較的短 期間のうちに脱稿しえたのは、ひとえに両氏の叱咤激励の賜物である。 平成六年一〇月一一〇日研究室にて 原彬久 243
受けているということである。「至誠 [ をもって革命の先覚者となる松陰の国家思想が、中学 時代の岸に鋭く刻み込まれたことは重要である。 幕藩体制崩壊の渦中にあって、アヘン戦争に示されるが如き西欧列強のアジア支配を凝視し ていた松陰は、みずから「君臣一体」の皇国思想を説くが、そうした姿が岸における国家思想 の素朴な原像を形づくったといってよい。「 ( 松陰の思想は ) 私の一生を貫いて今日まで残って 以下の「インタビ、ー」はすべて筆者によるもの ) と岸はのちに いる」 ( 筆者による岸インタビュー 述懐している。岸が中学時代「政治家志望ーを固めていくその道筋は、曾祖父信寛とそれにつ ながる長州の志士たちへの格別な想いがいまや叔父祥朔を介して、素朴ではあるが、しかし一 個の具体的な思想となって岸のなかに根づく過程でもあった。 多くの人がそうであるように、岸の人格形成において中学卒業までの期間は決定的でさえあ る。しかもこの人格形成は、主として佐藤一族という血縁共同体と、それを取り巻く長州の維 クライメット 新的気候のなかで鋳造されたものである。毛利家の元家臣としての家格にこだわり、その家 ふさわ 格に相応しい立身栄達の道へ子弟を押し上げていく教育への執着、そしてこの教育への執着を 一族の結束をもって実現していくその烈しい意志は、岸の人格形成を紛れもなく貫いている。 岸における立志の野心は、佐藤一族が放っ教育への熱気と、一族に伝わる長州の維新的、革新 的思潮とによって確実に発酵されていくのである。
かという疑問は、例えば—o-;cn ( 国際検察局 ) 尋問調書などによ。てある程度明らかにされよう。 岸が獄中で書いたものには、家族・友人たちへの手紙類、前出「思ひ出の記」、「断 獄中日記 想録」 ( 『岸信介の回想』に収録 ) 、そしてこの日記がある。手紙類は妻良子、長男信和、 長女洋子それぞれに宛てたものが少々残。ている。「思ひ出の記」は、自分の生まれたときか ら大学を卒業して社会への第一歩を印す頃までの回想録であるが、四〇〇字詰原稿用紙にすれ ばざ。と二四〇枚にもなろうか。日記によれば、これを昭和一一一一年六月下旬から書き始め、わ ずか一〇日か二週間のうちに一気に書き上げている。「断想録」は、黄色い罫の原稿用紙およ そ一〇〇ページに三万七〇〇〇字がぎ。しり埋められており、そのときどきの心境や、みずか らの思想、そして来し方の回顧等々を書き記している。そのほか「歌日記」や「獄中詩」など の綴りがある。 しかし、岸の膨大な獄中記録のなかでもとくに注目す。へきは日記である。この獄中日記は、 彼が巣鴨プリズンに拘置されて三カ月目の昭和二一年三月一日から、待ちに待。た出獄の前日 すなわち昭和一一三年一二月二三日までの千余日にわたる記録である ( 最後の九二日分は同書に収 録 ) 。あるときは紙質の優れないノートに、あるときは粗悪な便箋の表裏に岸独特の几帳面な ちゅうみつ 字が稠密に書き込まれている ( 昭和二一年一〇月一日以降は、それまでの片仮名表記から平仮名に変わ 。ている ) 。この獄中日記を通読して最も強く印象づけられるのは、同日記が岸の心の内奥をか 1 16