岸は大川周明の印象を次のように回想したことがある。「大川は物事をいい切る人 大アジア だ。そういうことが若い者に非常に印象的であった。学者は、ああでもない、 主義 でもないといろいろな学説を並べるが、とにかく大川さんという人は決断をもって 若者にこうだといい切るんだ。上杉先生と同じように、それが非常に魅力的であ。た」。続け て岸はいう。「その頃はまだ大東亜共栄圏なんていう考えは頭になかったが、こういった考え 方や私の満州行きの基礎には、大川さんの考え方があったことは否めない」 ( 岸インタビ、 つまり岸は、昭和一一年一〇月商工省から満州国へ転進する、その思想的基盤が大川の大ア ジア主義であることを率直に認めているのである。岸のなかに理論的に構築されつつあ 0 た北 一輝的国家主義、すなわち国内改造論と対外膨張論とを一体化させた国家社会主義は、同時に 大川の大アジア主義によ。てさらに肉付けされていったといえよう。なぜなら、岸が北一輝の 抱く対外膨張論の対象を「アジア」にみてと。たのは、大川の大アジア主義によるところ大で 印 あったし、その「アジア」への自意識を思想的に正当化しえたのも、やはり大川を経由したか 刻 春らである。 青 大川においては、「維新日本」ないし「革命日本」を実現してはじめて日本はアジア諸国の 章 盟主となる。昭和一一年に著した論文「日本精神研究」で彼は、「世界統一の使命を有する」日 第 本は、その「使命」の実現をまず満州に求め、「朝鮮之に次ぎ」、「進んで支那に及び、更に全 これ
世界に向って進めらるべきものである」と主張した。のちの革新官僚岸信介が、大川における こうしたアジア侵略の具体的なプランをなぞっていくその符合の鮮やかさは、、 もま一度これを かみしめておく必要がある。 このように、大学時代における岸の国家主義思想は、単に上杉慎吉の国粋主義にとどまらず、 北一輝の国家社会主義と、それに連なる大川周明の大アジア主義から種々の要素を吸収して深 められていくが、しかし、彼らが岸の国家主義形成にとってすべてであったとはもちろんいえ かのこぎかずのぶ ない。例えば、のちに一一一一口論報国会事務局長を務める哲学者鹿子木員信の国粋主義と大アジア主 義が大学時代の岸に強い影響を与えたことは、岸自身も認めている。 ところで、北一輝や大川周明の思想にマルクス的社会主義の影が陰に陽につきま マルクス主 とっているということは、これまでの記述からもおおよそ見当がつくであろう。 義の妖気 前出の通り、堺利彦、幸徳秋水、片山潜ら日本の先駆的社会主義者たちが北一輝 への接近を試みたことからもわかるように、岸が共鳴した北一輝の社会主義革命論には確かに マルクス主義の妖気が漂っている。大川周明は前出「日本精神研究」で、「かくて予は社会制 わがし 度の根本的改造を必要とし、実にマルクスを仰いで吾師とした」と吐露しているように、大川 が生涯にわたってどのような思想的遍歴を経ようと、一度はマルクスに傾倒したことは間違い
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北の社会主義論が岸の国家論に影響を及ばし、岸の国家論が北の帝国主義的社会主義論と重 なっていくサマは鮮やかである。岸がのちに商工省の革新官僚として統制経済の旗頭となり、 くみ そのあと対外膨張論に与して満州国経営に辣腕をふるい さらには満州を退いて軍部主導の東 条内閣閣僚として太平洋戦争を指導していくその足跡は、明らかにこの種の帝国主義的社会主 義の思想に貫かれている。 ただ、北一輝と岸がその思想において一部際立った違いをもっとすれば、それは国体論であ る。天皇制打倒に傾く北とは異なって、岸の「国体護持ーは不変である。しかし前述の通り、 上杉の如き「天皇主権説」ないし「天皇絶対主義」を岸もまた支持したとみるのは単純すぎる。 岸が戦前・戦中にわたって華族制度の廃止や宮内省の改革を唱え、私有財産の制限を説くの は、北とは逆に、むしろ国体を擁護せんがためである。しかも岸においては、その国体は神聖 化され観念化されてはならないのである。上杉の盲目的な「天皇専制主義ーとでもいう。へきも 印 のに、岸がいまひとつ「びったりこなかった」のは、まさにこの点であった。岸が晩年に至っ 刻 ー ) 、北一輝ほどではないにし 春てもなお「天皇を絶対とは思わない」と語るとき ( 岸インタビ、 青 ても、彼が天皇制を相対化し、「条件としての天皇」とでもいうべき認識を一貫してもってい 章 2 たことを物語っている。
合体させた国家社会主義を唱導するとともに、明治維新が「家長国家」から「公民国家ーへと 変容する一個の革命であったとする。すなわち、天皇の私物としての「家長国家ーから、国家 に主権の存する「公民国家ーへの進展によって、いまや「神聖にして侵すべからざる」専制天 皇への絶対的帰依は、「公民国家 , への紛れもない反逆となるのである。北の天皇制批判、い や、北の天皇制排撃の切っ先はこの上なく鋭いものであった。堺利彦、片山潜、幸徳秋水とい った社会主義者たちが北一輝に接近し、「共闘ーのシグナルを送っていたことは、この文脈の なかにおいてのみ理解されよう。 岸は「思ひ出の記」のなかで、北一輝との関係をこう振り返。ている。「此の北氏は大学時 しこ・つ 代に私に最も深い印象を与へた一人であった。而して北氏は後に二・二六事件の首謀者の一人 として遂に銃殺されたのであるが、辛亥革命以来一生を通じて革命家として終始した。恐らく は後に輩出した右翼の連中とは其の人物識見に於て到底同日に論ずることの出来ぬものであっ た」。 岸は自分が「夜を徹して筆写」した『国家改造案原理大綱』をとくに取り上げて、 国家論と 「『日本改造法案』は最初社会主義者であった同氏の国家社会主義的な考へを中心 国体論 として、一大革新を我が国体と結びつけたもので、当時私の考へて居た所と極めて 近く組織的に具体的に実行方策を持ったものであった」 ( 『風声』第一一号 ) とのべている。
岸は、みずからが社会主義ないしマルクス主義に共鳴を覚えたなどと認めたことはもちろん ない。彼の回想によれば、大学時代に『資本論』や、マルクス、エンゲルスの往復書簡などを 読むには読んだが、「 ( これらの著作が ) どうも根本的に初めから ( 自分と ) 相容れない」もので あったし、「ある意味からいえば理解できない点が随分多かった」。そしてマルクスの巨大な社 会主義論に「私は参らなかった」と岸はいう ( 岸インタビー ) 。「反共の闘士岸信介」の思想的 一貫性を誇一小しているようでもある。 しかし岸がマルクスに「参らなかった」にしても、何らかの形でマルクスの影響下にあった 一輝、大川周明らに彼自身「参った」ことは紛れもない事実である。北や大川がそうであっ たように、学生時代の岸における国家社会主義ないし国家統制論のなかに少なくともマルクス 的な社会主義が混在していたことだけは確かである。後年岸は、商工省および満州の革新官僚 として計画的、統制的経済政策を推し進め、戦後の政界復帰にあたっては社会主義者をも糾合 印 した新党構想に走り、さらには首相在任中、社会党の政策を先取りして、国民年金制度を含む 刻 春社会保障制度の充実に努める。これらが直ちにマルクス的社会主義に結びつくことはないにし 青 ても、少なくも岸の思想体系のどこかにこの種の社会主義に通底する部分があったのではない 章 2 かという仮説を立てることは十分可能である。
この会談 ~ こ出席するが、外相藤山でさえ、この岸発言は寝耳に水であった。岸・マッカーサー 間で数カ月前から「新聞には一切出ない密議ーを重ねた末の、この岸発言であった ( 岸インタビ 1 そもそも岸が「全く新しい条約」を決断するに至った理由は何か。彼自身、二つの点を挙げ ている。一つは、「アメリカの日本防衛義務ーを欠落させている旧条約の「本質的欠陥」を是 正することであり、 いま一つは「防衛問題に無関心な」日本国民に「全面改定Ⅱ新条約ーによ って重大な「問題提起」をすることであった ( 同前 ) 。単なる「駐軍協定」である旧条約を「占 領の残滓とみる岸にとって、「安保改定」は吉田的戦後政治すなわちサンフランシスコ体制 の清算を果たす一大モニ、メントであったといえよう。 「全面改定Ⅱ新条約」のための日米交渉を開始することで両国が合意をみたのは、同年 ( 昭 和一三年 ) 九月一一日の藤山・ダレス会談である。安保条約の「断片的調整」ではアメリカは 「無一物ーになってしまうというマッカーサーの説得を受け入れたダレスは、ここに日本側か らの「新条約」構想を了解したのである。安保改定そのものには同意したものの「部分改定ー になお固執していた軍部も、在日基地使用の「制限」に通じるであろう「新条約」構想を、結 局は承認するに至る。翌月から東京で始まる条約改定交渉のお膳立ては、こうしてようやく整 ったわけである。 ュ
行動 ( 新条約第五条ーーーすなわち条約区域 ~ の武力攻撃にたいする行動ーーの場合を除く ) のための在日 基地使用をそれぞれ事前協議の「主題」とする旨の付属文書を交換することで日米はすでに合 意していたが、しかし、この「事前協議」で日本の「拒否権」を認めるかどうかという問題に ついては、それまで一切議論されていない。岸はこの三度目の調印延期を機に、国内的に異論 の絶えないこの問題をアメリカ側と折衝するよう外務省に命ずるのである。 しかも、日本の「拒否権を「いかなる事情においても認めない」としていたアメリカが、 これまた日本側の要求を受け入れて、曲がりなりにもこれを認めたことの意味は重要である。 なぜなら、この「事前協議ーの「拒否権ーは日本の主権に直結する問題だったからである。新 条約調印時の岸・アイゼンハワー共同声明 ( 三五年一月一九日 ) で、「日本国政府の意思に反して 行動する意図 [ はないという一札をアメリカからとったことは、日本側の立場を少なからず強 っ 立化するものではあ 0 た。 しかし、「核持ち込み」一つと。てみても問題は残された。「核積載艦船の寄港・通過 , が 力「核持ち込み」に該当するか否かという問題については、この日米交渉で何ら合意されていな 権 いにもかかわらず、新条約調印後の国会で野党の追及に直面した防衛庁長官 ( 赤城宗徳 ) が、独 章 8 自の解釈 ( 「核装備の第七艦隊は事前協議の対象になる」という趣旨の国会答弁ーー昭和三五年四月 ) を示 してアメリカ側を当惑させたことは、この問題の複雑さを物語っている。 211
林茂・辻清明編『日本内閣史録』 ( 2 , 3 , 4 ) 第一法規 , 昭和 56 年 東郷文彦『日米外交三十年』世界の動き社 , 昭和 57 年 伊藤隆『昭和期の政治』山川出版社 , 昭和 58 年 岸信介『岸信介回顧録ーー保守合同と安保改定』廣済堂 , 昭和 58 年 角田順編『石原莞爾資料ーー国防論策篇 [ 増補版 ] 』原書房 , 昭 和 59 年 赤松貞雄『東条秘書官機密日誌』文藝春秋 , 昭和 60 年 高木惣吉『高木惣吉日記』毎日新聞社 , 昭和 60 年 読売新聞政治部編『権力の中枢が語る自民党の三十年』読売新 聞社 , 昭和 60 年 渡辺京二『北一輝』朝日新聞社 , 昭和 60 年 石田博英『私の政界昭和史』東洋経済新報社 , 昭和 61 年 『国史大辞典』 ( 第 8 巻 ) 吉川弘文館 , 昭和 62 年 武藤富男『私と満州国』文藝春秋 , 昭和 63 年 原彬久『戦後日本と国際政治一一安保改定の政治力学』中央公 論社 , 昭和 63 年 岸信介伝記編纂委員会編『人間岸信介波瀾の九十年』岸信介 遺徳顕彰会 , 平成元年 木下道雄『側近日誌』文藝春秋 , 平成 2 年 寺崎英成『昭和天皇独白録ーー寺崎英成・御用掛日記』文藝春 秋 , 平成 3 年 原彬久『日米関係の構図』 NHK ブックス , 平成 3 年 大江志乃夫『御前会議』中公新書 , 平成 3 年 安倍洋子『わたしの安倍晋太郎 - ーー岸信介の娘として』ネス コ・文藝春秋 , 平成 4 年 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検察局 ( IPS ) 尋問調書』 ( 第 14 巻 ) 日本図書センター , 平成 5 年 岩見隆夫『新版・昭和の妖怪岸信介』朝日ソノラマ , 平成 6 年 3
かった。これ ( 日本民主党 ) は自由党と一緒になって保守合同をする一つのケルンだと考えてい た」 ( 岸インタビー ) という岸の証言は、こうした文脈からいえば、全く自然なことであった。 岸とともにこの第一一次保守合同に心血を注いだ三木武吉は、日本民主党結成の翌一一一月、す なわち第一次鳩山内閣成立の翌日 ( 昭和一一九年一二月一一日 ) 、旧日自党「八人の侍」が集まった とき、早くも次の「保守合同ーをこう語っている。「国民の世論はこんな鳩山内閣などに満足 しておりやせん。本当に国民の望んでいるのは、保守の大結集による安定政権をつくり、日本 さえぎ 再建の政策を何ものにも遮られず、力強く推進することだ。民主党も鳩山内閣もそのための一 里塚に過ぎん。そのためには明日といわず今日からでも鳩山内閣を倒す方向に動くかも知れん。 うめくさ この内閣も民主党も、その大目的のための埋草に使うだけだよ。鳩山にそういっておいた」 て ( 『三木武吉』 ) 。三木と岸の以上のような言辞を重ねてみれば、第二次合同が第一次合同と不可 分の一体であることがより明確になる。 向 のろし まず「第一一次合同ーの狼煙をあげたのは、その三木武吉である。岸と三木が事前 結三木車中談 に練り上げた、四月一二日のいわゆる「三木車中談」がそれである。三月の衆議 守 保 院議長選挙に敗れてそのまま総務会長に留任した三木武吉は、大阪へ向かう列車内で次の一一点 7 を強調する。第一は政局安定のために自由党の「表玄関ーから「保守結集」の話をも。ていく こと、第二に必要なら鳩山内閣は総辞職すべきであり、新首班は衆望の集まるところで決める、