緒方副総理が草したとされる自由党声明は、こうした文脈の延長線上に生まれたものといえよ らんとう 。「時局を案ずるに政局の安定は目下爛頭の急務ーで始まる、いわゆる「爛頭声明」 ( 昭和一一九 年四月一三日 ) がそれである。 こうした自由党の新党積極論にたいして各党各派の対応は複雑であった。まず改進党におい ては、芦田、千葉三郎らの新党推進派がこれを歓迎し、松村 ( 幹事長 ) 、三木武夫、川崎秀一一ら 保守一一党論者ないし革新派はこれにきわめて否定的な姿勢を示す。一方、鳩山らが自由党に復 党したあと、分自党の残留部隊八名でつく。た日本自由党 ( 昭和一一八年一一月結成 ) が、鳩山を総 裁に押し上げるであろうこの「新党に強く傾いていたことはいうまでもない。 問題は、「吉田タナ上げ」を絶対の先決条件とする改進党革新派と、同「タナ上げ」論を抑 てえて吉田政権の延命を図る佐藤幹事長ら自由党の争いであ。た。これにたいし岸の立場は、吉 田をタナ上げにする、しないの論議を全く別の次元に置くべきこと、そして、まずは各党の解 熱党↓新党結成↓総裁公選を果たして大団円を迎えるというものであ。た。 守しかし、転機は一一九年六月に訪れる。同月一一三日、自由、改進、日自の三党正式交渉機関で あるいわゆる三党交渉委員会において、自由党幹事長佐藤が新党交渉の打ち切りを宣言したか 章 7 らである。つまり、改進党、日自党に根強くある「吉田タナ上げ」論を前提とする新党交渉に はこれ以上応じられない、 というのが自由党の立場であった。 161
るものであり、この「準備委員長ーがそのまま新党総裁就任に直結すると考えられていたから である。一一月一日、準備会は自由党首脳部の反対を押し切って、自由党三四名、改進党一四 名を含む常任委員会を開催し、すでに代表委員長に選ばれていた鳩山を予定通り準備委員長に 決する。新党の「反吉田」はここに決定的となった。 この「反吉田ー色の新党を主導しつつある岸と石橋が自由党から除名されたのは、それから 一週間後 ( 一一月八日 ) のことである。「吉田タナ上げ」をあらゆる行動の前提に掲げて岸らの新 党運動に終始抵抗してきた三木武夫ら改進党革新派も、ここに至ってその抵抗の矛を収めざる をえなくなる。 そしてついに一一月一一四日、三木武夫らのグループを含む改進党、自由党内の岸派と鳩山派、 それに日自党が合流して「日本民主党」 ( 衆院議員一一一四名、参院議員一八名 ) が生まれる。「鳩 山総裁」、「重光副総裁」、「岸幹事長」、「一一一木武吉総務会長」、「松村政調会長」をそれぞれ決定 し、さらに岸とともに新党結成の中心にいた石橋および芦田を最高委員 ( 他に改進党大麻唯男 ) に 指名して人事の骨格は固まる。綱領が「占領以来の諸制度を革正し、独立自衛の完成を期す る」としたことは、被占領体制すなわち「吉田的戦後政治」に決別しようとする岸らの思想基 盤を顕現するものであった。 164
「三十数年間、お互にお茶一ばい飲むことすらなかった」 ( 『大野伴睦回想録』 ) という大野も、三 木の強引な求めに応じて、五月一五日、ついに秘密会談をもつ。義理と人情と浪花節の政治家 といわれる大野を自由党の実力ある調整者と見込んだ三木は、その後およそ一〇回にわたって、 この大野との間で第二次合同のシナリオを密議するのである。 一方、表舞台の岸が最も力を入れたのは、民主・自由両党の幹事長・総務会長会談である。 民主党から岸 ( 幹事長 ) 、一二木武吉 ( 総務会長 ) 、自由党からは石井 ( 幹事長 ) 、大野 ( 総務会長 ) が参加 したいわゆる四者会談は、第一一次合同実現まで実に六十数回にも及んでいる。 同時に岸が難渋を極めたのは、、 もうまでもなく民主党内旧改進党系への説得、懐柔工作であ った。岸は「松村謙三、三木武夫君ら旧改進系の一派の保守合同に対する妨害は、あらゆる手 段を尽くして執拗をきわめた」と述懐するが ( 『岸信介回顧録』 ) 、旧改進党系の一部に一貫して 流れる「保守一一党ー論の思想と、岸、三木武吉、河野一郎ら保守合同推進派への感情的反発は 確かに根強いものであった。岸がのちのち首相として安保改定に取り組むとき、最後まで反主 流派として岸に抵抗したのもこの三木・松村のグループであった。 ともあれ六月に入るや、一つの転機が訪れる。民主・自由両党党首 ( 鳩山・緒方 ) 会 両党党首 談が六月四日にもたれたからである。五月一一三日「保守結集ーで正式に合意をみた 会談 四者会談の結論を受けて、この両党党首会談は「政局安定のための保守結集」を初 172
( 二五一票 ) にわずか七票差で勝利する。鳩山後継総裁すなわち戦後七人目の首相の椅子は、岸 ではなく結局石橋に与えられたのである。 石橋は、旧緒方派を継承した石井派、旧吉田派の一部を引き連れる池田派、旧改進党系の三 木・松村派、そして大野派と結ぶことによって、旧吉田派の分流である佐藤派、旧日自党系・ 旧改進党系からなる河野派、旧改進党系の大麻派などを主勢力とする岸に、全くの僅差で勝っ た。しかし、石橋が党人事および組閣に難航してこれに一〇日間もの時間を費やさなければな らなかったのは、まさにこの総裁公選での権力闘争がそのままこの人事工作にもち込まれたか らである。敗北したとはいえ、同選挙で党内の約半数の支持を得た岸が、その力を背景に石橋 の人事工作に猛然と反発していくのである。 岸の協力を要請する石橋に岸自身がとった立場は、石橋が総裁選挙の論功行賞によって石井 っ 竝との「密約」すなわち「石井副総理」に固執するなら自分は人閣しないこと、しかし挙党一致 というものであった ( 同前 ) 。 庇態勢をとるなら入閣にやぶさかではない、 カ結局、石橋は「石井副総理ーを棄てて岸の「入閣ーを採る。岸の外相就任である。岸がそれ 権 からわずか二カ月後、病臥引退の石橋に代わって首相になったまさにそのポイントは、ここに 章 8 ある。岸が「石井副総理ーを潰してみずから副総理格で入閣したそのことこそ、彼をまたたく 間に首相臨時代理 ( 三二年一月三一日 ) 、そして首相の地位にまで押し上げてしまったのである。
岸が社会党系を含む保守新党をつくろうとしたのも、あるいはみずから社会党に入党を申し 入れたのも、実はこの文脈からすれば何ら突飛ではないことが理解されよう。因みに、岸が主 導して昭和一一九年一一月に結成した日本民主党は、改進党を主勢力の一つとしてその翼下に収 めたが、その改進党の源流である日本協同党 ( 昭和一一〇年一二月一八日結成 ) には、船田中、赤城 宗徳、中谷武世ら少なくとも八名の旧護国同志会議員が参画している ( 『昭和期の政治』 ) 。社会 党にせよ、この日本協同党にせよ、さらにはこれら諸政党に接近しあるいはその一部を吸収し ゅうずうむげ ていった自由党にせよ、日本政治における思想ないしイデオロギーの融通無碍はとくに驚くほ どのことはない。巣鴨を出てきた戦犯容疑者岸信介が、むしろ一部から歓迎さえされて政界復 帰を果たしえたことは、こうした日本独特の政治風土からすれば、これまた驚くにあたらない てのである。 岸が国民運動による「強力な指導態勢ー構築という迂回戦略を断念して、既成政 向 自由党入党 党への入党↓議席確保によるいわば「中央突破」に向かったのは、二八年三月のい 集 守わゆる「バカヤロー解散」に続く総選挙においてである。彼がドイツを視察していた最中の解 保 散であったが、留守を預っていた三好と、当時幹事長になったばかりの佐藤が岸の自由党入党 章 手続きを済ませ、彼はドイツから急遽呼び戻されて選挙戦に臨むことになる。岸は当時を回想 第 する。「私はそれまで、立候補するとしても自由党からとは決めていなかったが、帰ってみると 153
進歩党系民主クラブを吸収して民主自由党となり、この民主自由党が一一五年三月、同じく進歩 党 ( 昭和一一〇年一一月一六日結成 ) をその前身とする民主党の一部 ( 犬養派 ) を吸引する形で自由党が 生まれる、という流れである。吉田が一貫して指導してきたいわゆる「保守本流」である。 いま一つは、進歩党が民主党となり ( 昭和一一一一年三月 ) 、他方協同党が協同民主党 ( 昭和一一一年五 月結成 ) を経て国民協同党 ( 昭和一三年三月結成 ) となったのち、両者すなわち民主党の一部 ( 芦田 派 ) と国協党が主勢力となって国民民主党が結成され ( 昭和二五年四月 ) 、これが二七年一一月、改 。「保守傍流」といわれるものである。 進党の結成を導いてい 「バカヤロー解散ーによる総選挙に初当選した岸がいよいよ取り組むことになる「政界再 編」とは、戦後絶え間なく続いた以上のような保守政党同士の離合集散に終止符を打って自由 て党・改進党を主勢力とする保守新党をつくり、その保守新党が、やがて統合されるであろう社 会党中心の新党と拮抗するシステム、すなわち一一大政党制の実現を意味するものであ。た。 向 岸が二大政党制を主張する理由は、およそ次のようなところにある。すなわち共 集 結ニ大政党と 産主義に対抗しうる「強力な安定政権ーの確立である。しかもその政権は「総裁 守小選挙区制 中心」ではなく、あくまで「政策中心」の政党を基礎に樹立されなければならな 章 い ( 『風声』創刊号 ) 。一一つの大政党がそれぞれ理念と政策の選択肢を国民に示し、議会政治の枠 第 のなかで国民がこれを選びとる、政権交代の政治システムが重要なのである。したがって彼が、 155
党撤退とともにいよいよ鮮明にあぶり出されていったということだ。つまり岸は、自由党内に あって吉田からの政権移譲をいまだに期待する鳩山を明確に「反吉田」へと転じさせたのであ る。岸は、「鳩山新党党首」が、元来親鳩山の日自党はもちろんのこと、反吉田の改進党をも 納得させる最大公約数と踏んでいたからである。 しかもこの「鳩山党首ーの流れを決定的にしたのが九月一九日の「新党首脳六者会談ーであ る。自由党から鳩山・岸・石橋、改進党から重光総裁・松村幹事長、日自党から三木武吉最高 顧問の六者が集まり、「共同申合せ」を発表したからである。「新指導者、新組織、新政策ーに よる「新党結成」が、この「共同申合せ」の核心であった ( 朝日新聞、昭和一一九年九月一一〇日付 ) 。 「新指導者」は、もちろん「鳩山総裁」を想定してのものであった。 て 協議会がみずからの組織を新党結成準備会に切り換えることを決めたのは、「共 日本民主党 同申合せ」の二日後、すなわち九月二一日である。一カ月後 ( 一〇月一一〇日 ) 自由 向 党主流派をも含む全保守党議員に招待状を発して開かれた新党結成準備会拡大大会は、岸提案 守の代表委員 ( 鳩山、岸、石橋、芦田、金子庸夫 ) を自由党主流派からの怒号と罵声のうちに採択し 保 章 代表委員が決定されたことは、一つの大きな節目を画するものであった。なぜなら、これら 3 第 代表委員の互選で指名される「代表委員長」こそ、「新党結成準備委員長ーの椅子を約東され ) 0
とである ( 『風声』第五、七号 ) 。これがすなわち「独立の完成」である。 岸において「独立の完成は、もちろん共産主義への防壁を完成することである。しかし政 治の現状をみるに、「政策上は殆ど差異なきに拘らず、感情や行き懸りや過去の因縁情実から、 徒らに小党分立して対立抗争したり、其の間に於ける不明朗なる掛引や腹の捜り合びをやって、 政治力を薄弱ならしめ、政局を不安ならしめ」ているというのが、岸の率直な印象であった ( 同誌第五号 ) 。 さて、保守結集に向かう岸の行動には、大きく分けて二つのステージがある。一 第一次保守 つは、追放解除後間もなく「政界再編ーに動き出してから、一一九年一一月、岸派、 合同への道 鳩山派、改進党などを糾合して日本民主党を結成するまでの時期である。いま一 てつは、日本民主党結成時から、翌三〇年一一月の保守合同、すなわち民主党と自由党の一大結 集としての自由民主党を結党するまでの時期である。前者を第一次保守合同への道、後者を第 向 二次保守合同への道とい。てもよい 守まず第一次保守合同に岸がどうかかわったか、再建連盟挫折以後をみてみよう。「バカヤロ 保 ー解散」による総選挙で吉田自由党が過半数を大きく割り込んだことは前にの、へたが、他の保 章 守党すなわち改進党は、投票前の八八議席から七六議席 ~ と転落し、また同解散に前後して自療 第 こうぜん 由党を離脱した鳩山派・広川 ( 弘禅 ) 派の合併勢力、すなわち分党派自由党 ( 分自党 ) は投票前の
というものである。 この三木車中談はそれが「爆弾発一一一一口」と騒がれただけあって、各方面にセンセーシ「ナルな 衝撃を与えた。まず保守合同のパ ートナーに目された自由党は、幹事長石井光次郎が当初これ を「三木放一一 = 〔」として一蹴したことからもわかるように、最初は半信半疑の受けとめ方しかで きなか。た。しかし同車中談が民主党幹部の単なる思いっきではないことを知るにつれて、石 井をはじめ自由党幹部が本格的な対応を始めたということは重要である。 つまり、「保守結集ーの主旨はこれを支持するが、この構想が鳩山内閣の延命を前提とする 限りこれには応じられない、 というのが自由党側の基本的なスタンスであった。第一次合同プ ロセスで、吉田政権延命策としての「保守結集」を改進党など反吉田勢力が終始警戒したこと の裏返しがここにある。誰が新党総裁になるかという人事問題に矮小化される予兆がすでにみ え隠れしている。 一方、与党民主党内では、第一次合同に一貫して消極的ないし反対の立場に立。た、旧改進 党における松村ら主流派および三木武夫ら革新派は、三木車中談 ~ こ始まる「第一一次合同にた いしても、さっそく抵抗の構えをみせる。そして微妙な立場に置かれたのは、鳩山である。 「必要なら総辞職もーと腹心三木武吉から引導を渡されている鳩山は、皮肉なことに第一次合 同劇でみずからの政権保持に汲々とした吉田と全く同じ立場に立たされたのである。「私は三
三九議席から三五議席へと伸び悩む。同選挙における保守勢力全体の退潮は明らかであった。 第五次吉田内閣が単独少数党政権として成立したのは、この総選挙から一カ月後の一一八年五 月一一一日である。「吉田下野」論が強まるなか、ようやく成立した内閣である。衆議院首班指 名選挙 ( 五月一九日 ) における第一回投票で過半数を得られなかった吉田は、改進党総裁重光と の決戦投票では、両派社会党の棄権に助けられて辛くも首班指名を獲得することになる。政局 不安は早くも深刻であった。 少数与党の第五次内閣を発足させたあと、吉田が多数派工作の標的にしたのは、まずは分自 党である。とりわけ同党党首鳩山への復党工作は、鳩山の姻戚石橋正一一郎 9 リヂストンタイヤ 社長 ) や親鳩山の安藤正純 ( 国務相 ) らが中心になって激しさを加えていく。そして、ついに一 月一七日の吉田・鳩山会談ー こよって「鳩山復党ーはほぼ決定的なものとなる。吉田からの政権 譲渡を期待する鳩山と、この鳩山の胸中を見透かしながらこれへの「了解」をちらっかせる吉 田との危うい接点の上に「鳩山復党ーが成立したのである。鳩山を含む一一三名の分自党議員が ぶきち 三木武吉ら八名を残して自由党に帰るのは、それから一二日後の一一月二九日であった。 こうした経緯のなか、岸がかなり頻繁に接触したのは、副総理緒方竹虎である。少 ″岸派″の 数党政権の行く末に強い危機感を抱いていた緒方は、この当面の課題すなわち「分 母体 自党復党ー問題もさることながら「保守再編」を射程に置くという点では、立場の 158