補説 2 史上最強の投手はか 人類が ポールを誰よりも速く投げてみたい、それを地の涯までも遠く打ち返してみたい 本能的に持っ欲望が、ペースポールというゲームを成立させた。ならば、日本のプロ野球史上 もっとも速い球を投げたのは誰なのかこれは野球に親しむ人全員が共有する間いにちがいな あまた い。その答えを見出すべく、これから数多の豪速球伝説を探る旅に出るとしよう。 本稿も、補説ーと同様、一九九一年に発表したものである。多くの野球関係者に証言してい 故人となった方もいらっしやるが、時とともに豪球伝説が色あせるはずもなく、あ えて発表当時の形のままとしたい。 銃弾と沢村、どっちが速いか ま、一九三四年十一月ニ十日、静岡市草薙球場で行なわれた日米野球第十戦だ 最初の伝説 ( 全日本チームは十七歳の沢村栄治 ( 京都商ー巨人 ) をマウンドに送った。沢村は七回、ヤンキー スの主砲、ルー・ゲーリッグにホームランを浴び、惜しくも 0 対ーで敗れたものの、被安打わ はて 167 補説 2 史上最強の投手は誰か
基本的なルー ルについてお , フかがいいたします。コーチャーズボックスは十フィート x 一一十フィートの長方形て、ファウルラインから十五フィート離れたところに位置していま す。インプレー中は、体の一部がこのポックスの中に入っていなければいけないわけてす ね ? 伊原原則的にはそうてす 。だけど、最近はそうてもないんてす。相手チームからクレー ムがつけばルールに従って中に入る。それていいんじゃないてしようか。もっとも三メー トルも四メートルもはみ出しているような場合は論外てすけど : 日本のべースコーチのほとんどは片足だけポックスのラインの上に残していますが、 大リーグのべースコーチは、ほとんどの者がはみ出しています。中には一「三メートルも 飛び出していて、バッターにより近いところてサインをおくっている者もいる。日本の野 球を見置れているせいか、なぜ注意されないのか不思議てした。 伊原向こうはカッコつけが多いんてすよ ( 笑 ) ナオノ 。ごごレールは日本もアメリカも一緒てす から、やはりインプレー中は片足だけても入れておくべきてしよう。おそらくアメリカの 場合は相手チームがクレームをつけないんてしようね。 日本もアメリカも、サードベースコーチは小さな長方形をうまく使ってバッターやラ 211 職人たちの世界
を獲得するが、この年の全球団合わせてのホームラン数はニ百十一本。つまり、大下はひとり で全体の約九分五厘にあたるホームランを生産した計算になる。参考までにいえば、五十五本 の日本新記録を達成した時の王ですら、全体に占める比率は、わずかに約三分八厘。いかに大 下か破格の強打者であったかということが理解できよう。 大下は一九四九年八月、札幌・円山球場で日本プロ野球史上最長といわれる推定百七十メー トル級の大ホームランをかっ飛ばしている。その〃犠牲者〃となった野口正明氏 ( 飯塚商ー名古 屋ー産業ー中日ー急映ー大映ー西鉄 ) が、その時のエピソードを披露する。 「実はポンちゃんに〃真っすぐいくよ〃といってカープを投げたんです。インコースの決して 海の向こうにまで飛ん 甘いコースじゃなかった。打たれた瞬問、ポールはピンポン球になり、 で行ったように見えました。三原脩さんが〃日本最高の打者を五人あげろといわれれば川上、 大下、長嶋、中西、王だが、最高は大下である〃とよく言ってました。僕もまったく同じ意見 川上哲治 107 補説 1 史上最強の打者は誰か
2 ・スライダーの功罪 フォークポールとならんて、日本球界を席巻している変化球がスライダーてある。スト レートと同じ軌道てきて、打者の手元てグイツと横に曲がるⅡスライドすることから、こ の呼称がある。 読売ジャイアンツ・上原浩治、西武ライオンズ・松坂大輔、中日ドラゴンズ・野口茂樹、 横浜べイスターズ・斎藤隆 : : : 各球団にスライダーを武器にしているエースがいる。なか ても、近年の日本球界て、目をみはるほどの切れ味鋭いスライダーを投げたのは、ヤクル ソンドンヨル トスワローズ・伊藤智仁と、九九年限りて引退した韓国の至宝・宣銅烈 ( 元中日ドラゴンズ ) て はなかっただろうか 宣銅烈のスライダー 宣銅烈のスライダーをはじめて間近て見た時の驚きは今ても覚えている。一九八九年の ことてある。 1 5 1 フォークとスライダー
究極の投球術ーー , スホーツとはドラマではない。スホーツの真実はミリ単位の技術の中に宿り、 そこにこそ人間の英知は秘められている。 私たちが声を失うのは、ありえないと考えていたことが 生身の人間によって眼前にさらされるまさにその一瞬であり、 そこには一片の偶然も存在しない ます、江夏豊をとりあげることから始めたい。 " 江夏のニ十一球。で球史に名を残すこの左腕の、奪三振に秘められた究極の投球術に迫ってみたい。 そこからどのような世界が開けるだろうか。 一九六八年のシーズン、当時、阪神タイガースの江夏豊は 四 0 一奪三振という空前絶後の日本記録を樹立した。 それまでの日本記録は稲尾和久の持っ三五三個。参考までにいえば、 それはサンデー・コーファックスが持っ三八ニという米大リーグ記録をもしのぐものだった。ーー本書より カ・ハー・イラスト西口司郎
て、重心がプレす、ポールを長く持てるピッチャーはいなかった。だからバッターの読み やタイミングをボールを放す最後の瞬間まて計って、打たれないポールを投げることがて きたということてす。逆に、そういう芸当がてきたからこそ、ク打たれる〃と予知すること も可能だったんじゃないかな。七九年の日本シリーズてスクイズをはずしたてしよう。あ れがその象徴的な場面てすよ」 タバコに火をつけ、煙の行方を目て追いながら、最後に大宮はこうつぶやい 「あの〃二十一球みにしても、本当は江夏さんが演出したんじゃないかと思うことがある んてすよ。そういうことの平気ててきる人てしたから : 野球とは、 かくも奧の深いスポーツてある。投手、野手、それぞれの分野て、日本野球 は多彩な名選手を生み出してきた。彼らは、どのような発想や思考を持って、高度な技術 レベルに達し、さらにみがきをかけていったのか。 最高のべースポールを展開したプレーヤーたちの、これまてあまり明らかにされること のなかった思想の扉を、これから次々にノックしていきたいと思う。
手研究リポートがあったことを知る者は少ない。 無理を言って、それを見せてもらった時、大げさてなく私は驚愕した。もし私がプロ野 球のバッターてあったなら、年俸の全てと引きかえにしてても、それを買っていたことだ ろう その一部を公開しよう。一九七八年の日本シリーズは阪急プレープスとヤクルトスワロ ーズの対決となった。上田利治監督がスワローズ大杉勝男のホームランをめぐって一時間 十九分にわたる抗議を行った、例の日本シリーズてある。 スワローズには安田猛という、そのシーズン十五勝十敗四セープをあげたサウスポーが いた彼のミラクル投法は、プレープスに大きな脅威をもたらすに違いないと田 5 われてい しかし、スコアラーが撮ったビデオテープを繰り返し見ることによって、高井は安田の クセを百パーセント把握することに成功した。 〈高井メモ〉はこう記している。 〈ストレート系 ( シュート含む ) 〉 ワインドアップの時、頭上にあげたグラブが細くなり、先が立ってくる。このクセが出 る時、球種はまっすぐ系統。 196
回転のスピンがかかっているストレートなら、至近距離ても縫い目を確認することはてき その瞬間、バッターはストレートの軌道をイメージしてバットを始動する。 反対にフォークの場合、回転がかかっていないから、ホームペースを通過する直前、は つきりと縫い目を確認することがてきる。よって、ここからミクロのタイミングてフォー クの軌道を頭の中てトレースしてバッティングに移ることがてきる。しかし、フォークに 回転がかかっていたら 、バッターは縫い目という情報からフォークを予測することが不可 0 能になる 野茂が指摘するように、切れのいいストレートがなければ、フォークは効力を発揮し得 ない。ストレートを待っている時にフォークが来る。フォークを待っている時にストレ 。ヾッターはどうにも手の打ちょ , フがない。 これがフォークを操る投手からすれ トが来る ま、最高のピッチング・ハターンということになる。打者に二者択一を迫り、その読みを 空振りさせれば、黙っていても奪三振数が増えるという寸法だ 野茂に、「アメリカに行ってからのほうが、日本よりもよくフォークが落ちているように ただ 見えるが ? 」と質したことがある。返ってきたセリフは、これまた考えもっかないものだ 「大リーグの使用球は日本よりもひと回り ( 約一ミリ ) 大きいてしよう。これが幸いしたん 1 ろ 5 フォークとスライダー
竹田から、そう言われて、何だか得した気分になったことを覚えている。 「ズライダーは毎日のように見ていますけど、本当のスライダーを見るのは初めてかもし れませんね。こんなに見 ) にくいものだとは知りませんてしたよ」 そう答えると、解説者のような口調になって竹田は続けた。 「そのスライダーも、宣は真横に曲がるのと、フォークのように真下に落ちるのと、二つ 持っているんてす。凡打やゲッツーに仕留めたい場合は横へのスライダーを、三振に切っ てとりたい場合は真下へのそれを使うんてす。しかもストレートが百五十キロをこえてい る。コントロールも抜群てフォアポールも期待てきない。攻略しようがないんてすよ」 宣は九六年に中日ドラゴンズに入団。一年目こそ真価を発揮てきなかったが、九七年に は三十八セープを記録。九九年にもドラゴンズのリーグ優勝に貢献した。日本に来てから も、名クローサーてあったことは間違いない。 しかし、ストレートの威力は百五十キロ台 をコンスタントに出していた全盛時と比べると見る影もなかったのが、惜しまれる。 ところて、二十六年間にわたってマスクを被り、おそらく日本て最も多くのピッチャー のポールを受けたてあろう野村克也によれば、スライダーはストレート系とカ 1 ブ系の二 つに大亠 9 るこし」カ′し、さるし J い - フ。 真っすぐだと思っていたポールがそのままのスピードて横に滑る。私が韓国の球場て目 フォークとスライダー
スポーツとはドラマてはない。 スポーツの真実はミリ単位の技術の中に宿り、そこにこ そ人間の英知は秘められている。 私たちが声を失うのは、ありえないと考えていたことが生身の人間によって眼前にさら されるまさにその一瞬てあり、そこには一片の偶然も存在しない。スポーツを書くという 作業の本質は、断定と検証の連続そのものてあり、その過程て不純物を濾過していない限 り、追い求めていた真実の像は浮かび上がってこない。 まず、江夏豊をとりあげることから始めたい。〃 江夏の二十一球みて球史に名を残すこの そこからどのような世界が開 左腕の、奪三振に秘められた究極の投球術に迫ってみたい。 る 4 」わ - フか 一九六八年のシーズン、当時、阪神タイガースの江夏豊は四〇一奪三振という空前絶後 の日本記録を樹立した。それまての日本記録は稲尾和久 ( 西鉄ライオンズ、六一年、一・四〇試合 制 ) の持っ三五三個。参考まてにいえば、それはサンデー・コーファックスが持っ三八二と いう米大リーグ記録をもしのぐものだった。 江夏豊は十八年間のプロ野球生活て、合計一一九八七個の三振を奪っているが、後にも先 にもこれほどのハイベース ( 奪三振率一〇・九七 ) て三振の山を築き上げたシーズンはない。