牛島和彦のテクニック 同じフォークポール投手ても、野茂英雄や、佐々木主浩のように、 、ハッタバッタと三振 を奪うタイプばかりがすべててはない。たとえば牛島和彦は、百四十キロそこそこのスト レし J ロ 何種類ものフォークてバッターを幻惑させ、カよりも技て二振や凡打に切って取 牛島は十四年間のプロ野球生活て五十三勝六十四敗百二十六セープの記録を残し、九三 年に引退している。 名門・浪商のエースとして、春夏通算一二度、甲子園に出場、三年生時のセンバッてはチ ームを準優勝に導いた。度胸満点のピッチングは、とても高校生のそれには見えなかった。 牛島は高校時代からフォークポールを投げていた。当時、高校生てフォークを操れるピ ッチャーは珍しく、大人びたイメージを漂わせていた。 このフォークボールについての章の最後を締めくくるにあたって、牛島から話を聞こう と田 5 ったのは他てもない。掌が大きく、指が長いことがフォークボール投手の最大の条件 といわれるなか、牛島のそれは一般男性なみのサイズだからてある。研究と工夫次第て は、ある意味てフォークポールは日本人の身体特性に最も適したポールといえるのては 14 う フォークとスライダー
ものがある。これは当時、中日のピッチング・コーチをしていた稲尾和久から、直接に聞 した一三ロてある さあ何を投げ 「若いピッチャーを集めて、状況は九回二死満塁、カウントはツースリー るかと聞いたことがある。大抵のピッチャーは〃自分の得意なボールを投げ込みます〃と 答えた。ところが牛島だけは簡単に答えない。反対に僕にこう間い返してきたんてす。〃、 ーになったんてすか ? 真っすぐのポールを中心にして ど , フいう状況てツースリ 追いこんだんてすか ? それとも変化球て追いこんだんてすか ? それをはっきりさせて もらえないと投げるポールは決まりませんみってね。何という頭のいい選手や、と田 5 った ものてす」 驚′、一し J に、 この時、牛島は入団一年目のルーキー投手だった。 感心したような口ぶりぞ稲尾は続けた。 「あんなこと聞いてきたのは、後にも先にも牛島しかいませんね」 風の下にポールを通す 話を続けよう。牛島は指先の感覚にも神経を使った。ストライクが欲しい場面ては、リ リースの瞬間、人指し指てポールを切った。すると、心持ちシュート回転がかかって、真 148
に腕を鋭く振ることて、バッターの目を欺いた 二つ目は、大きく落とすフォーク。ールを田 5 いっきり深くはさみ、スピードよりも落 差にウェイトを置いた。三振が是が非ても欲しい場面て、このポールを使用した。 三つ目は打者のタイミングをはすすフォーク。牛島の言葉を借りれば、フォークのチェ ンジアップ。ゆるめにスーツと落とすと 、バッターは慌てて手を出してきた。 フォークの速度や落差は腕の振りと指のはさみ具合て調節することがてきた。基本的に はさみ具合が浅ければスピードは増すが、落差は小さくなる。牛島は試合の状況に応じて 調子のいい時には、十八・四四メートルの空 この三種類のフォークを巧みに使い分け 間をはさんてバッターの読みが手に取るように分かった。 牛島は語る。 「試合の状况に応じてだけじゃなく、そのバッターの特性によってもフォークを投げ分け ました。たとえばバッターか速いフォークを待っている場合は、遅いチェンジアップ気味 のフォークて追い込み、決め球にストレートと間違えるような速いフォークを持ってい もちろん、この逆のパターンもあるわけてす。僕の場合、野茂や佐々木のような百五十キ ロ近いストレートがなかったのて、コンビネーションには随分と気を使いました」 そのひとつに、次のような 牛島のクレバーさを示すエピソードは枚挙にいとまがない。 147 フォークとスライダー
ないか。そう水を向けると、牛島は「そのとおり。指てはなく指先ぞはさむ感覚をマスタ ーすれば、僕のように指の短い人間ても投げられるんてす」と言って、私の差し出した硬 式ポールを造作もなくヒョイと指先てはさんてみせた。人指し指と中指を内側に折るよう にしてはさめば、指の短さを補うことがてきる。さらに言えば、指の第一関節てはなく第 二関節を使用すれば、比較的スムーズにポールをはさむことがてきる。 牛島の説明はこうてある 「指の間に無理やりはめ込んだり、強くはさみすぎるとポールが抜けなくなってしまう。 要は指先さえ抜ければいいんてす。自分の指の長さに応じてはさむポジションと抜くボジ ションを決めればいいんてす。あまり難しく考える必要はないと思いますね」 ノ ( かかっている中指と人指 牛島の話を補足すれば、ポールをリリースした瞬間、ーレこ ストレートを投げる場合とリリー し指は、内側に折れた状態から真っすぐに伸びてい スのかたちはそれほどかわらない。フォークボールを意識しすぎてボールをカ任せに抜こ うとすると、反対にコントロールが乱れてしまうのだという。 牛島は状况に応じて三種類のフォークを投げ分けることがてきた。 ひとつはストレートと見まかうような速いフォーク。たとえば 0 ー 3 のカウントから バッターがストレートを待っているケースて、このホールを使った。真っすぐと同じよう 146
ん中からややインコース寄りにフォークが決まった。 反寸に、バッターが打ち気まんまんの時には、中指てボールを切るようにしてボールに スライター回転を与えた。すると、アウトコース寄りにフォークは滑りながら落ちていっ どちらの指てポールを切るか。その微調整は、心持ち中指を曲げたり、 人指し指を開い たりすることて自在に行うことがてきた。その影響からか、牛島の指の関節はボールをは さむと、今てもまるて軟体動物のようにグニャッと外に向いてしまう。 現役時代、牛島はボールの選別にも気を配った。投球動作に入る前、まずグラブの中の ールに目をやる。どの位置をはさむかを確認するためだ。 牛島はバットのインパクトの形跡が残っているような表面のザラザラしたポールを嫌っ た。フォークを投げる際、その部分が指に引っかかり、抜けなくなってしまうからてある。 そういうポールを渡されると、審判にポールのチェンジを要求した。 个。カえるよ - フに、牛 . 島はこ - フも一 = ロった。 「かといって、すべすべした新球も嫌なもんなんてす。試合て使うポールは、メーカーの 人たちが手てもんて、ロウを取り除いている。ところが、何球かに一個、ロウが塗られた ままの状態て出てくる。こういう時もチェンジを要求しましたね」 149 フォークとスライダー
風にも神経をとがらせた。フォークは向かい風になればなるほどよく落ちるものたか 極端に落ちるとバッターに見送られてしまう。そこて、ここ一番の場面ては狙ったところ に落ちるような風がくるのを、辛抱強く待った。 牛島は説明する。 「たとえばばくが晩年に所属した、ロッテマリーンズの千葉マリンスタジアムの場合だと、 外野から吹いてきた風が、ノ ヾックネット裏のスタンドに当たって、ピッチャー方向にはね 返ってくる。その風の下にポールをうまく送り込むんてす。要するに戻ってきた風を利用 して、その下を通すという感覚。フォークポール・ピッチャーにとって風が読めるか読め ないかは死活問題といっていいてしよう」 牛島の感覚を正確に言葉にするのは難しいが、要するに海水にク潮目〃があるように、 空間にも〃風目〃かあるということだろう。十八・四四メートルの空間をはさんて、フォ ークポール・スペシャリストはバッターの心理を読み、自らの指先の感覚と相談し、風と も高度な会話をかわすことがてきたのてある。 150
補説ー史上最強の打者は誰か 第一一章フォークとスライダー 1 ・究極のフォーク : : : 野茂英雄 / 吉井理人 / 佐々木主浩 / 牛島和彦 2 ・スライダーの功罪 : : : 宣銅烈 / 成田文男 3 ・シュートの可能性 : : : 平松政次 補説 2 史上最強の投手は誰か 第三章職人たちの世界 1 ・〈高井メモ〉ー世界記録はかくして成った 2 ・理想のスチール 101 19 ろ
「当時、中日にいた牛島和彦は牽制にくる時、たいていアゴが下がるんてす。逆にアゴが 上がっている時にはだいたいホームへ向けて投げる。しかし、向こうもさすがにプロ。ク セに気がついたな、とわかると逆にそのクセを利用してくる。アゴをわざと上げて牽制し てみたりする。こうなるともうだまし合いの世界てすよ。こっちが次から次へとクセを発 / 、↓も A フ . 見すると、向こうは次から次へとクセを克服してい 毎日が戦いてした」 しかし、それても田 5 うように成功率は上がらない。なせかと考えているうちに、青木は 自らの走塁に欠陥があることに気がついた 「スタートするてしよう。そのとき最初の一歩が上に向かって体が伸びるようになるんて す。体が硬かったせいもあるし、呼吸のせいかもしれないとか、あれこれ悩みましたよ。 それて盜塁する一歩目から呼吸を止めて、べースに着くまて呼吸をしない走り方にかえた んてす。以来、グーンと成功率が高くなってきました。長い間のクセというのは、なかな か自分ては見つけられないものなんてす」 塁間わずか二十七・四三二メートル。歩幅にして十一二歩足らず。時間にすると〇・〇一 秒速いか遅いかて盗塁の成否が決定する。塁審の肉眼てははかり切れないケースもしばし ばある。 青木は言う。 202
「若松さんの調子のいい時はペンチで″よしレフト線へニ塁打打ってくるぞ々と言って、その とおりサードの頭の上を抜いたりしてました」 ( 尾花高夫氏、 *-a 学園ー新日鉄堺ーヤクルト ) 「一番嫌だったのが山本浩ニさん。インコースは打っし、アウトコースも右中問に持っていく。 クセも球種もすべて見抜かれていたような気がした」 ( 牛島和彦氏、浪商ー中日ーロッテ ) 「売り出し中の頃の掛布は本当にすごかった。岡山でインローとインハイをニ本続けて場外ホ ームランされたことがあったが、体の切れとバットの回転が一致してないと打てないポール。 ヘッドスビードと体の軸の回転で引きつけながら巻き込むように打っバッティングは迫力があ った」 ( 鈴木孝政氏、成東ー中日 ) かって江川卓 ( 法大ー巨人 ) は現役時代を振り返って「自分のベストピッチを完璧に打ち返し たのは山本浩ニさん、落合さん、掛布の三人。とりわけ、外角ストレートをバットにかぶせな がらレフトスタンドに叩き込んだ掛布の一発はショックだった」と語ったことがある 先述したように掛布はポールを「潰す」コツをつかんだことによって、驚異的に飛距離を伸 ばしたバッターである。三十度の角度でポールの下半分を潰し、インバクトの瞬間、小さくし ばっていた体を一気に爆発させる。この〃掛布理論〃は好打者がホームラン打者に変身するた めのテキストとでも呼べるものだった。しかし、体への負担は大きく、結果的に掛布の選手寿 命を縮める原因ともなった。掛布にとってホームランは禁断の果実だったのである。 現役最強論に移ろう ( 九一一年当時 ) 。このプロックのテーマは、すなわち落合博満 ( 東洋大ー東芝 119 補説 1 史上最強の打者は誰か
「重戦車のような体でフルスイングすると、十本のうち四本は広い甲子園のスタンドに飛び込 んでいました。普通の打者なら一本間違って入れば、、 ししところ。中島さんや藤村富美男さん ( 呉 港中ー阪神 ) には悪いけど比べものになりませんよ」 ニ度目の出征で戦死したこともあり、景浦の球歴は伝説の色に染められている。練習嫌いで、 やる気のない時には外野フライを追わなかったこと、チームから賞金の支給される阪神ー阪急 の定期戦になると大活躍したこと、学生時代、遠征に出れば必ず球場初のスタンドインを記録 したこと等々。球界における無頼派のはしりだったことがしのばれる。 少年時代からの顔なじみで、ともに松山商 ( 途中て天王寺商に転校 ) 、立大を経てプロ入りした 坪内道則氏 ( 大東京ーライオンー朝日ー金星ー中日 ) は景浦の思い出をこう語る 「僕たちの学生時代は三十四インチのバットしかなかったのに、彼だけは特注の三十六インチ のバットを振り回していた。しかし彼が振るとまるでわりばしのように見えた。練習では彼の 打球にえて、皆逃げていましたよ。よく山下と比べられますが″ペープ山下〃も確かに大き なホームランを打ってはいたが、高々と舞い上がるため落下点に行くのが楽だった。中島は悪 球打ちの巧さはあっても、飛距離はそうでもなかった。むしろ、怖さだけなら中島より別当薫 ( 慶大ーオール大阪ー阪神ー毎日 ) や藤村のほうが上かな 当時のポールはコルクの芯にスフを巻いた粗末なもの。今のポールと比べたら最低でも飛距 離は三分の一はおちる。それを景浦はポンポンとスタンドに放り込んでいたなにしろ彼の打 10 ろ補説 1 史上最強の打者は誰か