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検索対象: 東風西雅抄
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1. 東風西雅抄

解千万な思想が実際に流行したのである。とすればそのような熱病の流行した状態がその まま小説の中に現われても、さして不自然ではない。私自身の経験に照らしても、思想的 に無垢で、責任感の強い、好ましい青年ほどそのような熱病に感染する傾向があったよう に思う。だから宇佐美千鶴子が、矢代の言うことを理解できにくいままに、その人柄に惹 かれていったことは、決して選択を誤っていなかったと言える。とすれば著者の意図は大 たい成功したと見てよいのではあるまいか。小説は政治評論でもなく、政党の教科書でも ない。『旅愁』は文章の良さは言うまでもないが、女の対話が殊に美しく、しみじみとし たストーリ ーの運びは何だかモーロワの小説でも読んでいるような面白さを感じさせる。 ひょっとしたらこれは日本人放れのした、世界文芸上の大傑作なのではあるまいか。 ところがである。もし横光さんが生きていて、矢代はお前なんだよ、と言い出したら、 私は真。平御免だ、と抵抗するだろう。それは矢代青年は歴史屋でありながら、少しも歴 史屋の体臭を発散させぬからである。矢代はループル博物館へは行ったが、ギメー東洋博 物館も、ビブリオテーク・ナショナルも覗いたことがないらしい。それはまだいいとして、 河岸を通っても古本屋をびやかすでもなく、セイヌ通り、ポナバルト通りの古物屋、古本 屋を漁ったらしい形跡もない。況んや蚤の市などは全く視野に人っていなかったようだ。

2. 東風西雅抄

は概して言えば、西から東の方へ行けば行くほど良く、特にこの古川町裏の部分が最もよ 川の両側に柳並木があり、柳並木の外側に道があるという設計は京都特有である。 白川沿いの柳は三条通へ出ると其処で途絶えてしまい、それから先は岡崎公園の西側の 疏水ばたへ出るまで、何処にも見られない。疏水沿いの柳は京都公会堂西側の数株が優秀 で、これだけ長い柳条をなびかせているのは外にないようだ。 と、つなることかと 柳並木は八月の終頃になると、刈り込まれて裸同然にされてしまい、、 思っていると、心配無用、一と月もたてば再びこんもりと茂って、何事もなかったように 見える。その生命力の旺盛なことは驚くばかりである。 ここで気がついて見ると、京都大学の構内には柳の樹が見当らぬ。京都大学ばかりでな 、他の大学でも、桜の木は植えるが、柳を植えないのは何故だろうか。花明はよいが 柳暗は困ると言うのだろうか。それとも柳に雪折れなしなどという諺のように、柳とし よ一一一一口えば柔弱な女性的なイメージが浮んで、明治以来のお堅い先生方のお気に召さなかっ 陽たのだろうか。併し柳は小野道風の蛙がとびつき、また隠者の樹にもなり得ることを思 えば、広い空地に数株の大樹を育て、夏日柳蔭読書と洒落れてみるのもよいではないか し」田 5 、つ。

3. 東風西雅抄

けでは間題が片付かない。下手をすると主婦の胃袋だけがゴミ溜めになる代りに、みんな の胃袋がゴミを分担する結果になりかねない。苟も物資の節約というような、言わば国家 システム 的、社会的な大仕事をやろうというには、それだけの社会的な制度が必要なのだ。この際 に参考になるのは、やはり先進国フランスの例である。先ずフランスの食事作法で案外知 られていない面を紹介しようと思う。近頃出る西洋料理食事の作法という類の本には、こ のいちばん大事なことが脱けているようだ。 フランスの食卓では、なるべく皿を汚さないように努める習慣がある。例えば各人は。ハ ンを受ける皿を持たない。パンは籠に盛ったまま出しておくと、銘々がそれを取って直接 食卓の上におき、手でちぎって食べる。アメリカ人などは兎もすると、それを見ていかに も不潔だと言わんばかりの顔をすることがあるが、考えてみれば、手に持って食。へるもの なら、テープルクロスの上において構わぬ筈である。何となれば手とテープルクロスはい つも触れあっているものだからである。英米流だとパン受け皿の傍に、バターナイフが置 いてあって、これで。ハンにバターを塗って食。へるが、フランスでは朝食以外には、ヾ を用いない。折角おいしく焼けたパゲットパンにバターを塗るなどは野暮の骨頂、それは 日本で言えば玉露のお茶に角砂糖を投げこむようなものだ。。ハン受け皿のないのは、たと

4. 東風西雅抄

従って秦法の偶語も、市場など衆人の集まる所で俳優が二人で一組となり市民を前にし て、掛合い漫才を演ずることを指したのであろう。これを禁じたのはその内容が罪のない 軽ロであることが多いにせよ、いっ何時脱線して秦の政治に対する批判にならぬとも限ら ぬからである。事実、漢の時代に入って秦の苛法が除かれ、言論が自由になると、民間の 伝承はこのような形で民衆の間に語りつがれた。私の考えでは『史記』の著者司馬遷は各 地を旅行して、偶語を蒐集して列伝の史料にしたと思われる。逆に言えば『史記』に盛ら れた内容は、二人一組となって演出する偶語の筋書に最適なものが多いのである。 抑も演劇なるものは、二人一組の掛合い漫才から発達したものではないか。語り物にあ 0 ヒ匕こ」はシ一ア っては独演が本体であるが、所作事においては、必ず二人一組が中心になる とワキが必要であり、それが演劇にまで発展しても、生と日一、ヒーローとヒロインの一組 が不可欠である。 中国上代の都市国家は、種々の点において西方の都市国家との間に多くの類似を有する に拘わらず、ギリシア、ロ ーマにおいては現今までその台本が残るほど演劇の発達を示し たのに対し、中国では一向にその痕跡が認められないのは何故であろうか。私に言わせれ ば、中国においても、その萌芽は確かにあったのである。古代都市に行なわれた偶語は、

5. 東風西雅抄

176 追憶しつつ思ったことである。それにしても言いたいことを誰憚ることなく仰言り、何一 っ不自由なく、好む所に没頭し、家族の方に暖かく見守られ、長い一生を終えられたのは、 世にも幸福な御生涯と申さねばならぬ。 〔『東方学会報』第十八号、一九七〇年七月〕

6. 東風西雅抄

して、びらびらと車の間を縫って飛び出しても、絶対に怒鳴るようなことをしない。反っ て車の重囲の中から救い出し、いたわりながら安全に向う岸に送り届ける光景は屡一、見受 けることで・別に珍らしくもない。 いったい道路というものは、人が歩くために出来たものである。近頃の有料ドライプ ウェーなどは別物として、大ていの道路は歩行人が先ず歩いて、歩く権利を獲得している 筈である。その一部分を車に貸して車道にしたが、歩道より一段低い所を全部車道に貸し たわけではない。少くも交叉点の横断個所は決して車道ではない。ちゃんと横断歩道と書 いてある通り、鋲で区切った中は純然たる歩道なのである。歩道の上では歩行人が絶対の 権利を持っている。車が通っている時に通らないのは、危いから通らないだけの話である。 歩くことは人間の最も基本的な人権である。流石の税務署も、一年に何里歩いたか中告 しろ、などとまだ言ってこない。交通巡査は歩行人の権利を守り、車が危害を人に加えな トへ いように安全を保証してくれればそれでよい。ゴー ・ストップは車を取締るためにのみあ 陽るべきである。もし車が交通信号を無視したら罰金を取るのもよい。併し歩行人が車と同 時に歩こうとしたからと言って怒鳴る。へき理由はない。歩き直しに至っては沙汰の限りで ある。交通巡査は文部教官でもなければ体操の教師でもないんである。

7. 東風西雅抄

と言って問題にせぬ。そこで別の あとで洗って熱湯をかけるから、衛生上に間題はない、 人にこの事の可否を尋ねると、上等社会では左様なことをせぬ、との答であった。然るに その理由はと聞けば、それは絨毯を汚す虞れがあるからだ、と言ってのけられたのには驚 いた。併しそれにも拘わらず、衛生上無害であるという理由はそれなりに分る。ところで 日本人は何故そのことに深く拘泥するかと反問され、一旦大がなめた後は皿が穢れて仕舞 0 て、もはや人間が用いるには適しなくなった、といくら説明してみても、外人にはこれ は絶対に理解さすことができなかった。 河上によれば同じ西洋でも、英国とドイツでは種々の方面で著しく違「ている。英国の 文明は帰納的、歴史的、自治的である。都市には不規則な建物が不揃いに立ち列んで、煙 に燻「ているように、複雑極まる習慣や規則や制度やが、歴史の苔に蔽われている。何も 錯 かもが一目瞭然という訳には参らないから、英国通になるのは困難である。日本でも語学 交 のとして英語が輸入され、普及している割には、英国文明そのものが輸人されることが少い。 西 これに反しドイツ文明は演繹的、理論的、官治的であ。て、分り易く、すぐドイツ通に 東 なれる。ドイツには便利な本が多く、編を分ち章を分ち、項を立て目を立て、秩序整然と して、何処に何があるか、すぐ分る。到る所に脚注があり、参考書目があげられ、或いは

8. 東風西雅抄

を離れる時であった。横光利一の『旅愁』の中の船客たちは、マルセイユへ着くと、明日 はいよいよ敵陣へ乗りこむのた、という悲愴な決意を抱いて、最後の夜を過ごすのであっ た、とある。この緊張はパリへ着いてもまだ暫くは続く。そして敵の真っただ中にいるん 日。い一 ~ ロ だ、という気持が消えぬのである。それは、お前たち日本人とは何者か、という えることができぬから、周囲から絶えず不審者扱いにされて観察されているような気がし、 みんなが敵に見えてしまうのである。そこで『旅愁』の宇佐美千鶴子は、連れの男たちを、 。、リに居る日本の方、みな半気違いに見えるわ。 とたしなめる。千鶴子のほうは然る。へき男を見つけて、それに倚りかかればいいわけだが、 男のほうは倚りかかるものがない。自分自身で答を出さねばならぬから苦しむのは自然で ある。 錯 これに比。へると、明治時代の池辺義象には悩みが少ない。日本人が何であるかなどは分 交 の リへ出たのは、地球人が月の世界へ降 りきったことで、今更間う必要はない。日本人がパ 西 り立 0 たようなものであ。た。だから物理的な孤独に堪えればもうそれでよい。ただ全く 東 別の世界へ来た以上は、その性質がどういうものであるかを先ず片端から見極めなければ ならなか「た。幸いに見るもの聞くものが、凡て珍しくて面白か 0 たので、それを書き留

9. 東風西雅抄

240 赤と青 われわれが京大の学生の時分だから、大正末期のことである。四条烏丸にこわい交通巡 査がいた。その頃にはあの界隈もまだそんなに交通量が多くはなかった。それでついスト ップ信号を無視して横断する気にもなるんだが、この巡査に見つか。たが最後、出発点ま で引き戻されて、改めて横断し直しをさせられる。もし通りかかりの電車に逃げこみでも しようものなら、富小路あたりまで追いかけて来て、走っている電車から引きずり下して 捕虜にされる。 ( その頃の電車は北野行に今も残。ている小形で、自由に飛乗りができ た。 ) 京都人は妙なものに感心する癖があって、この巡査が名物男になり、この巡査に怒 鳴られたり油をしばられたりせぬと、一人前の京都市民になれぬと言われたものだ。 洛陽だより

10. 東風西雅抄

誘ったのもこの機関長楠窓子であった。とこ ろが船中で、いわゆる洋上句会を開くにも、 人数があまりに少くては寂しい。そこで枯木 も山の賑わいと、われわれを駆り出しに来た のである。困ったことにわれわれは誰も俳句 に素養がない。初めは何れも二の足を踏んだ のであったが、みんな素人の集りだからと説 得され、そんならと言うのでどやどやと押し 一等のラウンジには既に十人ほどが集って おり、われわれを加えて十五、六人。正面に は虚子が坐っており、その両側に横光利一と、 満洲事変で勇名を馳せた長谷部照伍将軍が控 えていた。洋上句会はそれから後も数回開か れたが、こんなことが機縁となり、われわれ