116 されたオリエントの文化は次第に後退し、殊にヨーロ ッパに産業革命後の新文化が興ると、 その威力の前に屈服を余儀なくされ、次第々々に植民地化されて行く運命を免れることが できなかった。そしてその植民地化の度合は中国の場合よりも遥かに強度だったと言える。 植民国家の雄は一言うまでもなくイギリスである。イギリスは十九世紀以来、オリエント たが から東南アジアに亘って、要所々々を植民地とし、鉄の箍をはめてその住民を締め上げた のである。第一次世界大戦は、民族自決の呼び声にも拘らず、オリエントにおけるイギリ スの鉄の箍は一層強力になった。その住民に対する経済的な搾取も甚だしいものがあった。 私は一九三七年、考古学的な興味をもってこの地方を単身で旅行したことがある。その 旅行中一、二見聞した所だけで言っても、当時イラクはイギリスの委任統治から解放され たばかりであったが、解放は名目だけで実権は全くイギリスの手中にあった。殊に石油資 源がイギリスに抑えられて居り、イラクの石油を輸送パイプで地中海岸に送り、そこから タンカーでイギリスに運んでゆく。ところがその石油の価格はイギリスに運んでイギリス で売る値段を十とすれば、イラクでイラク人民に売る値段がその二倍の二十といった具合 である。
日本国宝展 日本はしばしば同じ島国のイギリスと比較される。たしかにアジアにおける日本の立場 は、ヨーロツ。ハにおけるイギリスのそれによく似ている。太古に西アジアに発祥した文化 は、西に向かってギリシア、イタリア、フランスを経てイギリスに届けばそこで終わり。 一方東に向かって中央アジア、中国、朝鮮を通って日本に達すると、そこが終点である。 しかし日本とイギリスとで、大いに違った面もある。イギリスでは大陸に最も近いロン ドンが、いつも政治、文化の中心であったが、日本では大陸から程遠い畿内の奈良、京都 が政治、文化の中心をなしていた。この違いはどこから来るのだろうか。日本の古代は、 宝従来それがあまりにも自明の理であったために見落とされた感があるが、瀬戸内海を中心 本とした内海国家とも一一一一口うべきものであった。瀬戸内海の周辺にはまず文化が栄え、それが 政治的に統一されると、大きな威力となって、関東、東北がこれに服属せざるを得なくな ロり、やがて文化的にも同化されるに至った。
12 2 このように奥地を開発しつつ、その資源、人力を利用するためには畿内に中心を置くの が便利であった。長く文化の中心であったために古文化財、特にその代表である国宝は畿 内、特に京都、奈良に圧倒的に多い。今では東京都にもあるにはあるが、それはずっと遅 くよそから持ちこんだものばかりと言ってよ、 イギリスにはアイル海という内海があるが、この内海は結合の役目を務めるどころか、 かえって隔絶の作用を果たし、対岸のアイルランドを分離独立させてしまった。 ロンドンは大陸との距離が至近であるために、大陸に起こった変動はすぐ波及する。大 陸にローマが強盛になればすぐその征服を受け、民族移動が起こればすぐそれが波及し、 ハンザ同盟が興ればすぐこれに加人してその一員となる。このあたりまではイギリスはあ たかも大陸の一部分たるかのごとき観を呈する。実際、今日、大陸からロンドンへ旅行し てみると、この都市の基本的な構造は大陸のものとほとんど変わっていない印象を受ける。 リになり、テムズ川の上にたてばそれがロンドンになった セイヌ川の上にたてばそれがパ だけの違いしかない。 イギリスが大陸離れをしだしたのは、十四世紀の国民文学成立ごろからで、十六世紀の イギリス国教会独立に至って一時期を画した。それから以後は大陸に魁てクロムエルの民
1 18 り上ってくるまでには時間がかかり、日本はそれを待たずに壊滅してしまった。併し日本 が数百年に亘るイギリスの東方支配を顛覆した意義は計り知るべからざるものがある。恐 らく口シア革命の意義と比べて劣らない重要性をもつものと思う。 こんな大きな仕事をやっておきながら日本の外交関係というものは誠に奇妙な境遇にお かれている。一番申訳ないことをした中国からは、北京からも台湾からも賠償は一文も要 らぬという。それが戦時中の同盟国だった東南アジア諸国との間ではまだ賠償問題でもた ついているのである。日本の外務大臣がそのことに触れると、日本の議員が失言だと言っ て騒ぎ、日本の新聞までが同調する有様である。 もっともこうなったのには理由がある。日本の明治以来の国策は、外交官も実業家も学 者さえもヨーロッパ追随を第一とした。決してアジア民衆の友という態度は示していない。 殊にイギリスに対して卑屈な態度でおこぼれ頂戴を望んでいた。それが急に日本の都合で イギリスに叛旗を翻して東南アジアのイギリス支配を打破っても、現地の住民に我々の好 意があまり有難く受取られなかったとしても不思議ではない。その上に日本が敗けて、ア メリカの承認の下での独立ということになると、戦時中の対日協力者の立場が悪くなり、
ば分るまい 日本商品排斥はずい分細かい隅々まで徹底的に行なわれた。たとえば委任統治となった 西アジア諸国においてまで、手をかえ品をかえて実施されたが、もちろん、それは本当に 安い商品を欲する大衆の利益などは問題とされず、もつはら本国資本家と現地支配階級と の間の取引きによって決定された。植民地ならなおさらのことである。そして日本と同じ ドイツ、イタリアであった。このような新興の精力的な民族に 境遇の下におかれたのが、 対して、仮借ない封じこめ政策を行なうことが甚だ危険なことは、識者の等しく憂慮する ところであった。はたしてそれが第二次世界大戦となって爆発したのだ。しかも実力の差 違は如何ともす。へからず、日独伊枢軸側のみじめな敗退に終わった。しかし日本が蓄積し た破壊力は恐るべきものがあった。そして戦後の世界はもはや戦前の世界ではなかった。 代ことに哀れをとどめたのは植民帝国イギリスの崩壊である。 同本国が僅かに二十五万平方キロで、三千万平方キロの植民地をもつ。そのうえに委任統 説治領を抱えこみ、まだそのうえに実際に政治的、経済的に裏面から操っている国が数知れ ず。こんな不合理なことが長続きする筈はない。それが今度の大戦で一朝にして瓦解した のは極めて当然の成りゆきだが、イギリス人にはそうは思えない。悪いのは日本のせいだ
行された四六判、二百十二頁の冊子に『蛮島王』と称する海洋冒険小説がある。記述者が 堀内新泉 ( 文麿 ) とあるだけで、原著者の名も、原書名も分らない。併し話の内容を読むと、 太平洋上で散々、島民を強制拉致しては奴隷として売ったイギリス船員が、後に失敗して 悔悟し、太平洋上の島の酋長の娘と結婚して住みつき蛮島王になっている所へ、程経て同 国人の船員が漂着し、この老人から身上話を聞いて、それを綴ったのがこの本だという所 を見ると、著者はイギリス人に相違ない。併し全く架空の話ではなく、相当確かな材料を 握った上での著述であるらしいことは、話の細部に現われる生々しい現実的な描写によっ て推察することができる。 募集船が太平洋の島々へ来て労働者の募集 ( 実際は奴隷狩 ) を行う方法には色々ある。 さな島ならば包囲して有無をいわさず住民を全部ひっ捕えて了うのは最も簡単な方法であ 住民の多い所だと井言を以て住民を船上に誘致する。商品を廉売するからといって船上 で見本市を開くか、或は反対に島民の生産物を高価に交換するからとかいって、成る可く 多くの人民を呼び集める。船長が船室で待っているからと誑いて住民を船艙に誘いこみ、 いきなり戸を閉めて捕虜にする。甲板にいるのは棍棒で殴り倒して手錠をはめる。なお抵
186 国 中 海 青 . ラダク ム 西蔵自治区 昌都地区四川 , ! 省 ( 旧川辺特別区域 ) ! ( 旧西康省 ) 。ラタ ン パキスタン 南 ビノレ - マ しだした。ちょうどそこへ起こったのが日露 戦争で、英国はロシアが戦っているすきにつ けこんで、ヤングハズバンド大佐を隊長とす る遠征軍を送りチベットに侵人して都のラサ を占領した。驚いたダライ・ラマは清朝に逃 亡して保護を求めたが、清朝にはそんな実力 はない。チベット政府は英国のいうなりに、 ラサ条約を締結して、イギリス人以外の第三 で活動させないことを約束し 国人をチベット たのであった。 この条約を契機として、チベットをめぐる 清朝と英国との地位がすっかり逆転してしま う。というのは、清朝はチベットが次第に英 国の勢力範囲に組み人れられそうなのに不安 を抱き、万一の場合に、一番損害を少なくす
と信じている。戦後ヨーロ、 ハで、いつまでも排日感情の残っているのはイギリスである らしいが、それは単に身内の者の戦死などのことばかりではない。 こういった経済的な恨 みが深くこもっているのである。逆にいえば、日本はこの点で比類なき世界史的な役割り をはたしたことになる。それはロシア革命などよりも、ずっと大きな意味をもっともいえ 日本は戦争には敗けながらも、戦争の目的の一部分をはたした。それは今までは列強の 植民地になっていて、一指も染めることのできなかった地域が解放されて独立国になり、 自由にそれらの国との商取引きが可能になったからである。どうもこれまでの歴史家は、 こういう点をほとんど考慮に人れていないように思われてならない。 同時代史は自分が経験した雰囲気をそのまま伝えるとともに、それがはたして正しく理 由のあるものであったかどうかについて、たえず反省を加えねばならぬことは言うまでも ない。たとえば日露戦争後の講和談判の条件を不満として、焼打ち騒動が起こったときな どは後世から見て、それがどうももっともな理由のある雰囲気だったとは考えにく、 れと同じことは外国でも起こっているに違いない。 アメリカにおけるいわれなき排日運動 などは、正にその例だ。単に大ぜいが騒ぎさえすれば、それは正しい民衆の怒りだ、など
142 んで戦争に突人したのでないことは確かである。戦前の日本はあらゆる方面で窒息しそう な、締めつけられた姿勢にあったことをどこまで皆が知っているだろうか。 日本は資源が少ない割合に人口が多い。 いきおいなんらかの形で労働を売って、人間を 養わねばならぬ。その最も原始的な形態は移民である。ところが日本移民は、まずアメリ カから締め出された。南アメリカは遠くて渡航費が高くつきすぎる。そこでつぎには商品 の形にかえての労働輸出が始まった。外国から原料を輸人し、これを加工して輸出するた めには人一倍よく働いてコストを下げねばならない。たちまちにして安価な日本商品の名 声が世界に鳴りひびいた。正に世界に対する日本の文字通りの出血サービスである。しか し当時の列強植民国家はそうは受取らなかった。争って日本商品の排斥、締め出しに狂奔 しだしたのである。そこで当時の世界がどのように強国の間に分割されていたかを知る必 要がある。世界の面積一億五千万平方キロのうち、イギリス約五分の一、ソビエト約七分 の一、フランス約十分の一、アメリカ約十五分の一を占め、残るところも独立国の名はあ っても、多くは強国の政治的、経済的影響下におかれている。数個の強国が話あいをつけ れば、世界至るところで日本を締め出すことはいと容易な状態であった。こんなことは誰 でも知っている事実かも知れないが、そこから生ずる圧迫感は実際に経験した人でなけれ
主革命が起こり、政治的には大陸に干渉して威圧し、ついには七つの海に覇を制するに至 日本の大陸離れは年代的にイギリスよりも早い。万葉仮名、片仮名、平仮名の使用から 始まり、十二世紀の武士の勃興、鎌倉幕府の創立で一時期を画する。それまでの日本はだ いたい大陸文化の延長線上にあり、これを日本化し、独特の絵巻物や漆器の制作に創意を 示したものの、内海国家の範囲を出ることができなかった。平城京や平安京は大陸の都城 の引き写しに過ぎなかった。 しかし政治の中心が鎌倉に移り、武士が実権を握ると、日本はもう内海国家ではなくな 、大陸から離脱した島国国家となったのである。この変動は社会各方面に大きな影響を 及ばした。武士が支配階層となったので、必然的に武器、武具の制作が進歩した。甲胄や 刀剣が実用品の域を超えて、鑑賞の対象になった。こういうものが美術品と同じ扱いを受 展 げてもの 、も 宝ける国は他にあまりない。 ヨーロツ。ハならばたいてい下手物扱いされるのを免れない。 ちりば 本し刀剣が鑑賞されるにしても、それは黄金や宝石を鏤めた外装の故であって刀身ではない。 日本が大陸離れしたからと言って、交通が途絶えたわけではない。日本は依然として大 陸から文化の提供を受けることを欲した。ただしここにも大きな変化が起こり、大陸へ出 つ、、 0