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検索対象: 東風西雅抄
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1. 東風西雅抄

フリカから米大陸に運ばれ、其中百四十万人が残存していたという。この見積りは明かに 過少に失する。 西紀一八二〇年頃のある人の計算では、それ迄に米大陸に輸人された黒人は一億人で、 その中五百五十万人が残っているという。すると九千四百五十万人が消耗されて了ったこ とになる。実にレイナルの言葉に従えば、一つの大陸の人口を空にする迄、他の大陸へ人 口を注ぎ込んだものなのである。 米大陸に於いて、此等黒人奴隷に対する待遇の苛酷なりしはいう迄もない。南米蘭領ギ アナが殊にひどかった。嘗て黒人が謀叛を起そうとしたという嫌疑のもとに、十一人が捕 えられて、みせしめの為の刑罰が行われた。 その一人は生きながら柱から吊り下げて死ぬに任された。紐で吊られたのではない、鎖 の先端につけた鋭い鉤で横腹をつき通して、牛肉のように吊り下げられたのである。二人 は小火で焼き殺され、六人の女は八裂きにされ、二人の娘は首をちょん切られた。その外 一寸した過失でも刑罰は惜しみなく加えられ、僅かに一本の井蔗黍を盜んで噛ったという 廉で、鼻を削がれたり、歯を引き抜かれたりした。欧洲人が啜る一杯の珈琲には、黒人の

2. 東風西雅抄

284 人がくる、人が行く だってあの人形さん好きなんだもの 帰りしなに買っていこうなあ ね工おかあちゃん 人がくる、人が行く 四条通りへ出たところで 人がくる、人が行く ね工おかあちゃん 人形さん買ってえな おかあちゃんてば ああんうるさいわね いまインフレなのよ

3. 東風西雅抄

造博士をとめて以来、大の日本贔屓となり、たえず数人の日本人。ハンショネイルが巣くっ ている。下宿人一同もせつかく新渡戸博士以来培ってきた日本人の名声を落すまいと絶え ず念頭にかけている折も折、大へんな報せが人ってきた。 それはパリでも有数の寄席オランビアへ、日本の芸者が来て手踊りをして大当りをとっ ているという話。それが評判になって、宿の人たちも見物に出かけようという気になった。 芸者とは言うものの、ロシア人が長崎あたりから連れてきた八人の一座だと聞けば、どう やら一流とは言えそうもない。いずれ天草とかいう名で知られる、頬骨の高い、横に肥っ リのまん中、イギリス皇帝なども時々おいでになるというオランビアで、べコ べコ三味線など弾き出されては、一寸国辱問題だろうではないか。 それまで幽芳は始終日本女性の自慢話をして聞かせていたのだから、妙なものを見られ ては、一ペんに信用を落してしまう。個人の信用ばかりではない。延いては日本婦人全体 の栄辱問題に係わる。これは是非自分がそっと下見をして来なければなるまいと思案して、 一人こっそり宿を出た。オランビアの前へ行くと八人の芸者の引伸し写真が麗々しく懸っ ている。見ると満更でもなく、頬骨も格別に目立つほど高くはない。ほっとして中へ人る と、 いよいよ芸者が出現に及ぶ。水浅黄の羽二重のような地に華美な模様を染めた着物を

4. 東風西雅抄

104 苦カ商品化 夢のような希望を抱いて出国した中国人が一人も帰って来ぬというので、政府よりも先 に民衆が騒ぎ出した。成豊九年 ( 西紀一八五九 ) 、上海へ仏国の募集船が人港して人攫いを 始めたという風説が立ち、民衆は自警団を組織して海岸通りを警備した。丁度英人水夫一一 名が上陸したので扨こそ人攫いだという訳で民衆が寄ってたかって袋叩きにした。通り掛 りの総税務司李泰国が助けようとしてこれも殴打され、やっと馳せつけた官憲によって救 われた。 同じ頃シャム人が六名、城内湖心亭の辺を散歩している中、これも人攫いの嫌疑をかけ られ、一人は池へ投げ込まれて溺死し、他の五人は幸に官憲の手で保護された。 英米人の立てている教会堂でも騒ぎが起った。牧師が壇上で得々と正義人道を説くと、 一人の中国人が立って人攫いは正義人道かと詰問した。民衆は総立ちになって聖書を引裂 き、器物を破壊して立去った。

5. 東風西雅抄

2 8 2 今インフレよ 人がくる、人が行く 京の河原町、三条さがる 丸善のあたりから ふと目にとまった母娘づれ びたりと寄りそって前を行く 女の子は五歳ぐらい 母を見上げる度ごとに おかつばの髪がくるくると あいらしく揺れる 人がくる、人が行く ね工おかあちゃん

6. 東風西雅抄

245 い 日 本 で い渡 は ぞ到 ど 最小 っ カゝ の到 る ヾ番 と 超 満 員 の 乗 物 の紙 腕 枚カ ず を綴 れ名 く で 割 掌カ り み 持し、 ま 乗 、数 れ 、序 る の 何 待ー 故 乗 て番 せ ぬ 洛陽だより 当 の 主 主 義 と い っ も の だ る よ っ な と は 滅 多 に な 乗 : 客 の 方 で も 従 順 に 車 掌 の っ と 従 て い る れ 本 必 ず 若 干 の 余 ネ谷 を 残 し て お く そ れ は 次 の 停 。留 場 で 若 し 降 り る か客 が な く て も 人 は す 通 素 を 場 留 停 て け を 札 員 満 ら カゝ だ る あ で ら か い 遣 心、 の と っ よ る き で 容 収 ず 必 と ろ で の 際 の 乗 車 人 数 で あ る が 車 が は ち き れ る ほ ど 満 員 す る と は 決 し て く た 理 な か ら 無 効 さ れ る っ し て 車 掌 が 旦 し た 数 よ り 以 上 に は 絶 対 乗 せ な に を し て : 乗 り む も し あ ま り に 飛 び は な て 若 い 番 万 が あ れ そ れ 留 守 し て い す 待 て い た 人 は 自 分 0 ) : 番 1 万 札 に よ つ て 乗 り を あ げ な が ら の 若 順 ら ず そ、 ろ ろ 人 り む イ并 し ノ、 ス が 混 ん で い る 時 車 が 人 ロ に M. て 収 谷 人 か数問 を ス が 着 し た 時 ス 尢 い て お り 待 つ 人 の 数 少 な け れ ば な ど は 題 彳麦 か ら 来 た 人 ほ ど そ 歹 の 数 が 多 く な る わ け で あ る っ て あ り 初 に 着 し た 人 が そ ひ き ち ぎ て ち な ス を の あ た り さ な 日 め く り の よ な じ ・つ け ら れ て る れ は

7. 東風西雅抄

さっきのお人形さん 赤い帽子かぶってたなあ ね工おかあちゃん ふふん、と此方 は気のない返事 人がくる、人が行く ね工おかあちゃん さっきの人形さん 赤い靴はいてたなあ ム ラ人がくる、人が行く コ 曜ね工おかあちゃん あの人形さん買ってえな ね工おかあちゃん - 」ちら

8. 東風西雅抄

職務熱心かは知らぬが、これは行過ぎというものである。これはたとえば「日雇いの勤 勉さ」である。諸君は失業対策で雇ったらしい日雇いさんが街路を掃除している前を通り かかることがあるだろう。人が通る時ぐらいは手をやめてもよさそうに思えるが、寸分の 暇も惜しいと言わんばかりに、勢いよく塵を掃きつけられた経験が誰しもあるに違いない。 そのくせ見ていると休憩時間はたつぶりあるらしく、何もそんなに職務熱心にしなくても いと思われるのだが。 大凡そ物事には目的があってから規則があるものだ。交通規則は大たい歩行人を車から 護るためにある。歩行人が車とぶつかれば例外なく歩行人が轢かれる。車が人に轢かれた なんて話はまだ聞いたことがない。だから歩行人が轢かれないために、車にこそ交通規則 が必要なのだが、何と勘違いしたか、歩行人までが取締まられるようになってしまった。 このやり方はどうも日本がドイツの悪い所を真似て出来たものらしい。 よ ドイツの話と言っても、ベルリンにオリンピック大会のあった昭和十一年、ナチスの勢 陽カ華やかなりし頃のことだから今は変。ているかも知れない。私は始めてベルリンへ行っ てその交通取締りの八釜しいのに驚いた。ストップ信号の時、一歩でも歩道から踏み出し て立っていると、交通巡査が近寄ってきて、ビッテ ( どうぞ ) とくる。どうぞ歩道の上へ上

9. 東風西雅抄

インド洋航路の発見は大成功で、ポルトガルは之によって、一航海に六十倍の純益を挙 ハへ運ぶと、少くも三、四十倍には売 げたとさえいわれた。東洋の豊富な香料はヨーロッ れたのである。 所がアメリカ大陸は、最初の中、発見者スペインに殆ど何物をも与えなかった。そこに は銅色のアメリカインディアンが煙草をふかして遊んでいるだけで、金目のものは何も見 つからなかった。所が段々奥地へ人ってみると、矢張相当開けた文明の社会があって、イ ンカ帝国などの存在していることが知られた。 特にスペイン人を喜ばしたのは、そこに金銀が豊富に使用されている事実であった。此 に於いて彼のコルテスやピサロの血腥い征服の歴史が始まるのである。侵人者は原住民か らの金銀掠奪が一段落つくと、今度は嘗て原住民が金銀を掘り出した鉱山を探して、そこ 易 貿から同様に金銀を採掘しようということになった。すると急に労働力の不足を感じ出して、 奴 アフリカの黒人を輸人して奴隷として使役し始めた。 の 洋 平 太 アフリカから米大陸への黒人奴隷輸人は、西暦十六世紀の初頭から始まり、以後三百年 間引続いて行われた。ある人の計算によれば西紀一七七〇年頃迄に、九百万人の黒人がア

10. 東風西雅抄

久しきに亘り、血の純潔を維持して今日に至。たのである。日本が二千五百年来、万世一 系の皇室を奉戴しているということは、決して吾々の意味なき虚栄ではない。河上法学士 はこのよ、つに断一一一一口する。 河上は更に続けて言う。日本人の国家観念と西洋人のそれとは大いに相違している。こ の国情の差違を弁えずして、妄りに西洋思想の輸人を事とするのは、吾等の切に慎まねば ならぬ所である。いな、花は移し植えても、匂いが失せる。この国土に、西洋そのままの 思想の育つべき筈がない。吾々は驚く。へき発達を遂げたる日本式の文明を持っていること を忘れてはならない。 河上が憤慨に堪えぬのは、在外同胞が動もすれば極端なる西洋崇拝熱に冒され、たとい 左程までならずとも、概して自ら居るに劣等人種を以てする風のあることであった。特に 錯 ドイツに長く住み慣れた人には、往々にして恐ろしいドイツ心酔者があり、びどい連中に 交 となると、今度の戦争では敵ながらドイツに勝たせて見たい、など言「ている人がいる。 西 河上も日本に居る時は、西洋人くらい正直な者はないように言い聞かされたが、それは 東 自分らのように下等の飯屋に人「たり、電車に乗「たりしたことのない、上等の日本紳士 の経験談であったろう。西洋人は悧巧だから、いわゆる商業道徳はよく守るであろうが、 やや